室内に豪快なくしゃみが響いた。
昨日までは何の異常もなかったのに、朝起きた途端に身体が言う事を利かない。くしゃみ、鼻水、鼻づまり──医者が診断するまでもない。風邪だ。
昨夜、遅くまで外で晩酌していたのが祟ったらしい。その晩酌の相手は郭嘉だが、当人は全く問題なく仕事に出ていた。だが、風邪を引いたのが自分だけで幸いだった。もし彼に何かあったら責任を感じてしまう。
紫恋は鼻を啜りながら医者からもらった薬を手にした。異様な色をした粉薬だ。
──苦そう。飲みたくない。
薬を前に躊躇っていると、扉を叩く音がした。扉を開けると、視界一杯に白い花が飛び込んで来た。
「やぁ、紫恋。体調の方はどうかな?」
花の中から声がすると、合間から郭嘉が顔を出した。
「何ですかこれ、どうしたんですか?」
「何って、もちろんお見舞いだよ。これはほんの挨拶代わりさ」
郭嘉は微笑みを浮かべて、花束を差し出した。相変わらず気障な対応に紫恋は苦笑いをした。
「気持ちは嬉しいですけど、郭嘉様にまで風邪が移ったら大変ですから」
「門前払いとはつれないな。私は責任を感じているんだよ。君を晩酌に誘ったのは私だからね。せめて君のために何かさせてくれないかな?」
郭嘉は脇をすり抜けて半ば強引に部屋に入った。そして、真っ先に机にあった薬に目を向けた。
「おや、まだ薬を飲んでいないのか。いけないな、治るものも治らないよ」
「いいですよ、郭嘉様。もし郭嘉様に風邪を移して、何かあったら私…」
言葉を詰まらせ俯くと、郭嘉は途端に声を上げて笑った。
「まさか病気になっている紫恋に心配されるとは思わなかったな。平気だよ、それに私は紫恋といた方が調子が良いんだよ。だから、君には元気でいてもらわないと困るんだ。わかったかな?」
この日、郭嘉の顔色は少し赤みが差していて、調子が良さそうだった。そして、とても楽しそうだ。なのに、自分が気落ちしていては駄目だ。
「はい、郭嘉様」
紫恋が満面の笑みで返事をすると、郭嘉は満足そうに頷いた。
「それでこの薬、飲まないのかい?」
「だって、苦そうだから」
「ははは、紫恋は子供だな。それじゃあ、私が良い方法を教えてあげようか?」
細く微笑んだので、紫恋は警戒した。彼が考えそうな事はだいたい予想が付く。だが、警戒する紫恋をよそに郭嘉は近くにあった水蜜を取り、小皿の上で細かく刻んで磨り潰すと、そこに薬を混ぜた。
「ほら、こうすれば苦味も抑えられるし、熱で渇いた喉も癒えるだろう?」
食べてごらん、と口元に差し出した。恐る恐る一口入れると、水蜜の甘味だけが広がった。
「本当、全然苦くない」
「それは良かった。きちんと残さず食べるんだよ」
紫恋に小皿を渡して、子供に言い聞かせるように言った。薬が飲めなかった事が原因だと思うが、子供扱いされても不思議と嫌ではなかった。普段の享楽的な立ち振舞いより、この方がいいと思った。
水蜜を食べる姿を眺めて、郭嘉は楽しそうに微笑んでいた。視線が気になって背を向けたが、すぐに前屈みに顔を覗き込んで来る。その熱っぽい視線に胸が高鳴り、堪らず声を上げた。
「もう、一体何ですか? 気になって食べれないじゃないですか!」
「紫恋は何をしても美しい絵になると思ってね。その鼻声も可愛いよ。もう一度、私の名を呼んでもらえないかな?今しか聞けないからね」
──やっぱりいつもの郭嘉様だ。
紫恋は呆れたが、お見舞いに感謝する意味で応じた。
「郭嘉様、風邪が治ったらまた晩酌に誘って下さいね」
「あぁ、もちろんだよ。また君に元気を分けてもらわないといけないからね」
郭嘉が「もう一度」と指を立てたので、紫恋は鼻声で何度も郭嘉の名を呼んだ。そのやり取りはしばらく続き、紫恋はゆっくり休むどころではなかった。
郭嘉の場合──了
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