公務が一番多忙な時期に、紫恋は風邪を引いて寝込んでしまった。おかげで数日仕事を休む事になったのだが、紫恋は喜ぶより落胆していた。
「はぁ…」
と、口から出るのは溜め息ばかり。熱のせいではない。風邪を引いた事よりも、仕事が気掛かりで呑気に寝てもいられなかった。
その原因は恋人の賈充。この時期に体調を崩したなど、後でどんな嫌味を言われるかわからない。相手が恋人だろうと友人だろうと、仕事に厳しいのが賈充という男なのだ。
扉を叩く音に気だるい返事を返した。顔を出したのは噂の男・賈充で、紫恋は慌てて姿勢を正した。
「賈充様、ど、どうしたんですか急に」
「お前が風邪で寝込んでいると聞いてな。俺が見舞いに来たら何か問題でもあるのか?」
「そういう訳ではないんですけど…」
見舞いに来た事も驚いたが、仕事を休んだ事で怒られるのではないかと気が気ではなかった。恋仲とは言っても上司には変わりない。
寝台に正座して俯く紫恋を見て、賈充はくつくつと笑った。
「なるほど、実はずる休みだったという訳か」
「ち、違います、本当に風邪です!」
急に力んだため、紫恋は目眩を起こしてふらふらと寝台に伏した。その様子に賈充は呆れて溜め息を漏らした。
「無理をするな。病人なら病人らしく寝ていろ」
賈充は紫恋の身体を支えて寝台に寝かせると、上から布団を掛けた。意外な行動に困惑したが、優しい姿につい見惚れてしまった。じっと顔を眺めていると、賈充は怪訝な顔をした。
「どうかしたのか」
「いつもの賈充様と違うから…てっきり仕事を休んだ事で何か言われると思っていたから」
「病人を労われぬほど無神経な男ではない。仕事などいい、お前は身体を治す事だけ考えていろ。無理が祟ったのだ」
優しい言葉に紫恋を頬を赤らめた。
──病気になると、こんなに優しくなるんだ。
冷淡な賈充が優しい一面を見せる機会は滅多にない。今では何を言っても聞いてくれるのではないか──。なぜかそんな気がして、無性に甘えてみたくなった。
「あ、あの…賈充様。お願いがあるんですが、聞いてもらえますか?」
「何だ、言ってみろ」
「そ、そこの水蜜が…た、食べたいんですが…いいですか?」
紫恋は頬を一層赤らめて、机にあった水蜜を指差した。水蜜に視線を向けた賈充は含み笑いを溢した。
「ほう、俺に食わせろという事か? 風邪を理由に随分と図々しい注文をする」
「すみません、やっぱりいいです!」
本当に図々しい──。紫恋は恥ずかしくなり、頭から布団を被った。
──きっと、怒って帰ってしまう。
布団の中で縮こまっていると、突然布団を剥ぎ取られた。賈充の無表情な顔が紫恋を覗き込んでいる。固唾を呑んで見ていると、目の前に小切りにされた水蜜が差し出された。
「紫恋、切ってやったぞ。食べろ」
予想外の展開に目を丸くしていると、賈充は口角を吊り上げて笑った。
「どうした、これではまだ大きいか。ならば口移しにするか?」
「えっ!? いや…それは…」
「くく、まんざらでもないようだが冗談だ。この時期に俺まで風邪で寝込む訳にはいかぬのでな」
早く食えと言わんばかりに口元に水蜜を押し当てられ、紫恋は躊躇いながら口を開けた。賈充の指先から果実が口の中に滑り込む。甘いはずの水蜜も、羞恥と熱のせいで味がよくわからなかった。
「これで満足か? まだ仕事の途中でな、そろそろ戻らせてもらうぞ」
布巾で手を拭いて賈充が席を立った。至福のひと時に陶酔していた紫恋ははっと我に返り、慌てて呼び止めた。
「あの、ありがとうございます、お見舞いに来て下さって。それに、わがまままで聞いてくれて…」
「お前と俺の仲だ、礼などいい。それより早く身体を治せ。お前がいないと仕事もつまらぬ」
賈充は手の甲で紫恋の頬を撫でると、微笑みを浮かべて部屋を後にした。
──ずっと風邪引いたままでいようかな。
そんな事を考えながら、紫恋はしばらく布団の中で甘い余韻に浸っていた。
賈充の場合──了
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