この日は朝から体調が優れず、無理を押して仕事先に向かったものの、途中で具合が悪くなり、早退する事になった。医者から風邪と診断され、紫恋は自室で布団に包まって寝ていた。
──きっと心配してるだろうな。
急に休む事になったので、恋人の徐庶にも言っていない。職場の同僚から事情は聞いていると思うが、彼の事が気掛かりだった。
廊下で慌しい足音が響いたかと思うと、部屋の扉が勢いよく開いた。布団から顔を覗かせると、そこに立っていたのは徐庶だった。
「紫恋! 倒れたって聞いたけど、一体どうしたんだ?」
息を切らし、血相を変えて徐庶は紫恋の傍に駆け寄った。すかさず頬に手を当て、紫恋の額に己の額を付ける。途端に元々下がっていた眉尻がさらに下がった。
「大変だ、熱がある。一体何の病気だい? 医者には見せたのかい?」
急に部屋に入って来たかと思えば質問攻めにされ、紫恋は困惑した。寝間着姿を見られただけでも恥ずかしいのに、急に額を押し付けられ、熱で赤い顔が一層赤らんだ。
「だ、大丈夫です、ただの風邪ですから。休んでいれば、すぐ良くなるってお医者さんも」
「でも、顔が赤いよ」
「本当に大丈夫ですから!」
それは徐庶様のせいです──とは言えず、布団で顔を隠した。
「それより徐庶様、お仕事はどうしたんですか? まだ公務中ですよね?」
「そうだけど、紫恋の事が心配で仕事なんて手に付かないよ。でも、ただの風邪で良かった。元気そうで安心したよ」
ようやく徐庶は微笑むと、近くの椅子に腰掛けた。間近に迫っていた顔が離れてほっとしたような、がっかりしたような、複雑な気分だった。
「俺のせいで布巾が落ちてしまったね。冷やして来るから待ってて」
徐庶は温くなった布巾を拾い、部屋の隅にある水桶に向かった。
普段はぼんやりのんびりした彼が、あんなに取り乱した姿を見たのは初めてだった。あまりに必死な姿に驚いたが、そこまで自分の事を心配してくれたのだろう。水桶の前に屈む徐庶の背中を見て、紫恋はこっそり笑った。
徐庶はぎこちない手付きで濡らした布巾を紫恋の額に乗せた。
「はい、これでいいかな?」
「ありがとうございます、徐庶様」
紫恋が微笑み返すと、徐庶も恥ずかしそうに笑った。だが、すぐに表情を曇らせた。
「あぁごめん、急いでいたから何も持って来なかったよ。これじゃあ見舞いに来た意味がないな…気の利かない男ですまない」
「いいえ、徐庶様が来てくれただけで十分嬉しいです」
「そうかな…そう言ってくれると助かるよ。じゃあ、紫恋が眠るまで傍にいるよ」
徐庶は布団の中から紫恋の手を取り出し、両手で優しく握った。穏やかな表情でまっすぐ見つめられ、紫恋は再び赤面した。
「い、いいですよ、徐庶様。風邪が移りますよ?」
「大丈夫だよ。それに、俺は紫恋の役に立ちたいんだ。これぐらいさせてくれ」
純粋な瞳、穏やかな声色、温かく大きな手──。全てを優しく包み込んでくれる徐庶の温もりに、紫恋は静かに目を瞑った。彼は自分に自信を持てないようだけど、この優しさは誰にも負けない。
ふと、握っていた手が大きく揺れた。目を開けると、徐庶は手を握り締めたまま舟を漕いでいた。
──先に寝ちゃったのね。
視線に気付いたのか、徐庶ははっと目を覚ました。
「…すまない、俺が眠ったら意味がないよな」
「いいですよ、疲れているんでしょう? 部屋に戻って休んだ方がいいですよ」
「いや、今日は紫恋の傍にいるよ。心配だからね」
そう言って、徐庶はしばらく眠い目を擦りながら起きていたが、再びうとうとし始めると、ついに眠り込んでしまった。
──無理するんだから。
寝台に伏せて眠る徐庶の顔は子供のようにあどけなくて、見ているだけで心が和む。風邪を引いている事さえ忘れてしまう。
紫恋は膝掛けを徐庶の肩に掛けてあげると、その無垢な寝顔にそっと顔を寄せた。
徐庶の場合──了
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