この日の公務は思いの外忙しかった。気付けばとうに日は暮れ、同じく公務に勤めていた女官の姿も一人、また一人といなくなり、書庫に残るのは紫恋一人となっていた。
自分の仕事はまだ残っている。全て終わらせるには徹夜を覚悟しなければならないが、未だ食事すら済ませていない。手元の書物を整頓し、しばし休憩を取る事にした。大きく背伸びをしたところで扉が開き、紫恋は慌てて姿勢を正した。
「まだ人がいたのか」
書庫に顔を出したのは魏の将・賈充だった。驚いた口調ではあったが、表情に目立った変化はない。
一方、紫恋は思いがけない相手と鉢合わせした事で身体が硬直した。賈充は周囲から冷酷無情な男と噂され、女官の間でも手厳しい男だと言われている。そんな人物に夜分遅くまで仕事に手間取る姿を見られるのは、さすがに都合が悪い。
「賈充様、夜分遅くまでお勤めご苦労様でございます」
と、紫恋は一礼したが相手の反応はなく、賈充の視線は案の定、机上の書物の山に向いた。
「まだ終わらぬのか」
「は、はい…申し訳ありません」
予想通りの指摘をされ、紫恋は深く俯いた。叱責される事を覚悟したが、賈充の取った行動は実に意外であった。近くの椅子を持って紫恋の隣に座ると、竹簡と筆に手を伸ばした。
「あの…賈充様、そのような事は」
「お前一人でできるとは思えん。ただ、それなりの代償は払ってもらうがな」
思わぬ展開に戸惑ったが、賈充の意外な一面に紫恋の緊張は次第に解けていった。有能な政治家の手に掛かれば、女官の仕事など戯事に過ぎないのだろう。賈充の助力により、仕事は難なく片付いた。
独特の近寄り難い雰囲気に加え、周囲の評判から賈充をどこか嫌煙していた紫恋だったが、軽々と仕事をこなしていく姿につい見惚れてしまった。他人の噂など存外当てにならないと思った。
書庫の片付けを終えると、紫恋は深々と頭を下げた。
「本当にありがとうございました。私などのためにお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「この程度の公務もこなせぬとは使えんな。いつも誰かがお前に助力すると思うな。己の不始末は己で片付けるのが筋というものだ」
吐き捨てるような鋭い言葉を浴びせられ、紫恋はしばらく頭を上げる事ができなかった。あの親切な計らいは一体何だったのか──いや、単なる彼の気紛れに違いない。一瞬でも心を許してしまった自分が愚かに思えた。
賈充は椅子から重々しく腰を上げると、俯いたままの紫恋に尋ねた。
「お前の名は」
「…紫恋でございます」
「紫恋、俺の手を煩わせた代償、早速払ってもらうぞ」
賈充は紫恋の頬を掴み、強引に顔を押し上げた。互いの視線が合った刹那、紫恋の視界に何かが覆い被さり、口を塞がれた。
何が起こったのか理解できなかった。眼前で男が夢中で己の唇を貪っていると知り、紫恋はようやく状況を把握した。
「やめて下さい!」
紫恋は全力で相手の身体を押し退けた。身体は大きく仰け反り、両者は一定の距離を置いた。
「一体どういうおつもりですか」
震えた声で問い詰めると、賈充はゆっくりと体勢を立て直し、忍び笑いを溢した。
「最初に言ったはずだ、それなりの代償は払ってもらうとな」
低音で呟きながら顔を上げた賈充の表情に紫恋は凍り付いた。黒く縁取られた瞳が上目遣いに紫恋を睨め付けているが、口元は薄らと笑みを浮かべている。唇を伝う唾液を手の甲で拭う姿が、とてもおぞましく見えた。
「代償とは…私の身体ですか?」
「それ以外に何かあるのか? 公務で返すにも、仕事もろくにできんだろう」
「では…身体で返せと仰るのですか」
屈辱に紫恋は唇を噛み締めた。悔しさから涙が零れる。涙しながら俯く紫恋に、賈充は静かに返した。
「案ずるな、悪いようにはしない。ただ一夜だけ俺の相手をすればいい」
白い手が頬に触れた。紫恋は咄嗟に賈充を睨み付けたが、すでに邪悪な影は消え、その瞳はまっすぐ紫恋を捉えていた。
蝋のように白い肌と端整な顔立ちを前にすると、改めてこの男が美麗であると実感する。憂いを帯びた熱い視線で見据えられ、湧き上がっていた憎悪が嘘のように消え去っていった。鼓動は速まり、自然と身体が熱くなる。まるで眼前の男に恋慕の情が芽生えたような感覚だった。
黒尽くめで鴉の如き男。その内面も、噂に違わぬ冷徹無情な男だというのに──。
「紫恋、俺の部屋に来い」
低音が囁いた。紫恋は抵抗する事も忘れ、導かれるまま賈充の部屋に赴いた。
*
部屋に入った途端、背後から抱き寄せられ、賈充は紫恋の首筋に顔を埋めて接吻した。白く大きな手は着物の中を這い回り、その息遣いは荒い。滅多に感情を見せない冷淡な賈充の姿はそこになく、豹変した姿と手荒い愛撫に紫恋は戸惑いながらもそれに応じた。
這っていた手は次第に内腿に滑り込み秘部に向かった。堪らず声を漏らすと、賈充は喘ぐような声で囁いた。
「紫恋…俺が欲しいか」
問い掛けに言葉を返そうにもうまく声が出ず、紫恋は必死に頷いて見せた。すると、賈充は愛撫をしたまま紫恋を寝台に押し付け、はだけた着物を剥ぎ取った。
露になった紅潮した肌と汗に濡れた女体を前にして、賈充も己の着物を脱ぎ捨てた。黒い衣に隠されたその身体は見事に鍛えられた筋肉で造形され、酷く妖艶であった。
上に覆い被さり接吻される一方で、下部では脚を押し上げられて一層激しい愛撫を受け、紫恋は耐え切れずに声を上げた。欲しているのに焦らされ、紫恋の身体は限界に近付いていた。
身体の変化に気付いた賈充はおもむろに体勢を変えると、濡れた秘部に一物を押し当て、滴る蜜を絡めるように滑らせた。わざとらしく水音を立てられ、羞恥に顔を背ける紫恋の姿に賈充はほくそ笑んだ。
「逸らすな、その目でよく見るといい」
賈充は紫恋の顔を掴んで強引に正面を向かせた。頑なに目を瞑って抵抗したが、頬を掴んでいた指が次第に食い込み、已む無く目を開いた。
視界に映ったのは濡れた互いの身体と、間から覗く蜜に濡れていきり立った一物──。紫恋は再び目を固く閉じた。この後に何が待ち受けているのか、考えるまでもない。
「これが欲しいのなら、今お前にくれてやる」
口元から笑みが消えた刹那、それは紫恋の胎内に深く押し込まれた。十分に濡れていたため痛みは感じなかったが、ずるりと異物が浸入して来る感覚に紫恋は短い悲鳴を上げた。
意思とは別に口から漏れる喘ぎ声と、胎内で激しく動き回る蛇の如きそれを強く締め上げる己の身体に、紫恋は羞恥から咄嗟に脱ぎ捨てられた着物で顔を隠したが、すぐに賈充に剥ぎ取られ、腕で頭を抱き抱えられた。
動きが激しくなり、締め付ける力が強くなるほどに、賈充の悩ましげな吐息が紫恋の耳元で漏れた。彼の熱い吐息は目と鼻の先で感じるが、まともに顔を見る事ができない。恥じらいもあったが、何より彼の吐息が異様に切なく、姿を見る事を躊躇った。手荒かった愛撫も、いつしか柔らかく慈しむようなものへと変わっていた。情事の最中も賈充の腕は紫恋を決して放そうとせず、縋り付いてくる様は孤独を払拭しようと足掻いているようにも見えた。
朦朧とした意識の中、耳元で必死に紫恋の名を呼ぶ声が聞こえる。全身、汗と蜜に濡れた身体がぶつかり合う度に意識が遠退く。恍惚感に蕩けてしまいそうだった。
「……紫恋…いくぞ」
賈充が一層荒い喘ぎ声を漏らすと、ぐらりと意識が揺らいだ。途端に全身の力が抜け、目の前が真っ白になった。
どれほど時が経っただろうか──。
紫恋が目を開けると、すぐ近くに賈充の寝顔があった。二人の上には黒い布が被せられ、紫恋は背後から抱き抱えられるような形で横たわっていた。
「ようやく気が付いたか」
目を瞑ったまま賈充が口を開いた。頭の中に靄が掛かったように意識は混濁し、何も答えられずにいると、低い含み笑いが溢れた。
「何も案ずる事はない。お前が寝ている間に処置は済ませておいた。孕ませるつもりはないのでな」
未だに返答に困っていると、賈充はさらに続けた。
「このような手段に至った事はすまぬと思っている。泣かせるつもりもなかった。昨夜は色々と思うところがあってな…話し相手を探していたのだが、お前を見ている内に理性を失った。まさかこの俺が畜生と化すとは…全く笑えんな」
己の醜態を嘲笑う賈充に、紫恋は首を振った。
「…賈充様の腕に抱かれている際に感じました。私などで貴方の心が紛れるのであれば、どうぞお好きにお使い下さい」
「ならば、その言葉に甘えさせてもらおう。お前とは肌が合うようだ」
賈充は紫恋の耳に唇を寄せた。その腕は紫恋の身体を強く抱き締め、決して離す事はなかった。
了
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