この日、楽進と会う約束をしていたのだが、刻限になっても一向に姿を現さず、紫恋は気を揉んでいた。あの真面目な人が約束に遅れるなど、何かよほど大変な事があったに違いない。
屋敷に向かうべきか、友人の李典にでも尋ねるべきかと考えていると、小路を馬並の速さで走って来る人影が見えた。その驚異的な脚力に、それが楽進だと一目でわかった。
楽進は紫恋の前に立つとなり、即座に頭を下げた。
「申し訳ありません! 何でも言う事聞きますから許して下さい!」
謝罪はともかく、開口一番にそんな事を言われても困る。
「いいえ、私そんなに怒ってないですから。心配はしましたけど。来る途中で何かあったんですか?」
汗だくで息を切らす楽進に手拭いを差し出して尋ねると、「恐縮です」と低姿勢で受け取り答えた。
「今日は紫恋殿と過ごす大切な日ですから、これから向かう先に何かあってはいけないと、下調べをしていた次第です。しかし、待たせてしまっては意味がありませんね…とんだ失態です」
楽進は肩を落として項垂れたが、遅れた理由を聞いて思わず笑ってしまった。
「楽進様らしいですね。それなら、ここまで馬で来た方が良かったのでは?」
「いえ、馬とて何をするかわかりません。馬も人を見ますからね。特に私などは馬にまで目下に見られがちなので、紫恋殿の前で暴れでもしたら大変です」
あまりに真剣な顔をして言うものだから、紫恋は声を出して笑った。すると、ぎこちなかった楽進の表情が和らいだ。ようやく緊張が解れたところで、紫恋は提案を持ち出した。
「今日は二人きりで過ごす訳ですし、この際敬語はやめませんか?私の事も呼び捨てで構いません」
「は、はい。いや、しかし呼び捨てにする訳には…」
「だって私達、恋仲ではないのですか?」
「も、もちろんですとも! こ、恋仲…そうですよね。こ、恋仲で敬語は妙ですよね」
“恋仲”という言葉に楽進は赤面しながら復唱すると、小さく咳払いをして態度を改めた。
「では、街まで少し距離があるので、私が紫恋を背負って行きましょ…いや、行こう」
そう言って楽進は有無も言わさず紫恋の身体を抱き抱えた。突然の事に紫恋は頬を染めて言葉を返した。
「楽進様って、時々大胆ですね」
「も、申し訳ありません!別に変な意味はありません!いや、変な意味はない!」
楽進は慌てて紫恋を降ろし、必死に弁解した。無理に言葉を訂正するその様がとても滑稽で、紫恋は声を上げて笑うと、楽進の手を握った。
「やっぱりいつも通りでいいです。いつもの楽進様が一番好き」
「…ありがとうございます。わ、私も、紫恋殿が一番…す、好きです」
一際大きな手が、紫恋の小さな手を優しく握り締めた。
緊張のせいなのか、走って来たせいなのかはわからないが、楽進の手は思いの他熱を帯びていた。その熱と手の平の感触に、紫恋も釣られるように全身を火照らせたのだった。
楽進の場合──了
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