紫恋は一人夜道を歩いていた。向かう先は賈充の屋敷だ。
まだ付き合い始めて日も浅く、仕事の都合で会う機会も少なかったが、この日初めて賈充の方から二人で過ごす時間を作ってくれたのである。当初、この話を聞いた紫恋は耳を疑ったが、すぐに狂喜乱舞した。
ただ、初めての約束が夜で、待ち合わせ場所が賈充の屋敷という事に少し戸惑ったが、期待と喜びの方が勝っていた。
──賈充様はどんな所に連れて行ってくれるのかな。
などと心躍らせながら屋敷を訪問すると、賈充が直々に顔を出した。
「紫恋、よく来たな。入れ」
こちらの期待などよそに賈充は素っ気なく言うと、屋敷奥の部屋へと案内した。だだっ広い屋敷にも関わらず、なぜか使用人の姿がない。
──何か嫌な予感がする。
室内を見渡し、紫恋は恐る恐る尋ねた。
「あのー、賈充様? 今日はどこか行くのでは?」
「こんな夜更けでは行く先も限られるだろう。それに世俗的な事は好かぬ質でな」
そう言いながら賈充は目の前に立ちはだかり急に顔を近付けたので、紫恋は慌てて顔を逸らした。
「ちょ、ちょっと、何するつもりですか?」
「この状況でする事と言えば一つしかないだろう」
賈充は不敵な笑みを浮かべ、悪びれる様子もなく返した。
──あぁ、やっぱり。
嫌な予感が的中し、紫恋は溜め息を吐いた。こんな事になるのなら、世俗的な事の方がいい。その間にも目と鼻の先に顔が接近したので、咄嗟に両手で賈充の口を塞いだ。
「もう、待って下さい。二人きりになった途端にこれですか?」
「関係を深める良い機会だろう。そのために使用人も出払っているのだ」
「最初からそっち目的じゃないですか!私はまだそんなつもりはありません。無理矢理やったら本気で嫌いになりますよ!」
声を荒立て背を向けると、その背後から賈充が抱き付いた。
「そう向きになるな、軽い冗談だ。紫恋と二人きりになりたかっただけだ」
──冗談なんて嘘。本気だったくせに。
と、内心呆れたが、腕の温もりに次第に怒りは消えて行き、胸が熱くなる。
「お前が嫌がる事をするつもりはない。何もしなくていい、ただ俺の傍にいるだけでいい」
今まで聞いた事もない優しく甘い声色に、紫恋は頬を赤らめた。恥ずかしくて振り向く事もできない。
「賈充様がそう言うのなら…でも、本当に何もしませんか?」
「しない。して欲しかったら遠慮せず言え、俺はいつでも大歓迎だ」
「変態みたいな事言わないで下さい!私は絶対に許可しませんからね!」
紫恋が必死に否定すると、耳元で含み笑いが溢れた。言葉とは裏腹に、紫恋は抱き締める賈充の腕にそっと手を添えた。
賈充の場合──了
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