『荊州散策・臥龍編』

 夕刻の学問所は、相変わらず人の姿が少ない。大抵、この時間帯に学舎にいる人物は限られていて、神流と年上の塾生二人、そして門下生数人。門下生は日によって顔は違うが、必ず徐庶の姿がある。夕刻に顔を出す神流を待つように──。
 いつものように仕事を終えた足で塾に寄った神流は、学舎の前で一人佇むその男の姿を見た。珍しく友人の姿もなく、不思議がって眺めていると、男がこちらに気付いた。顔を見るなり微笑んだと思うと、神流の元に駆け寄って来た。嬉しそうに駆け寄る徐庶の姿は、とても年上の門下生とは思えないほど無邪気なものだった。

 「やぁ、神流。君が来るのを待っていたよ」
 「どうかしましたか?」
 「今度の休みなんだけど…空けておいてくれないかな。その日は、俺と付き合って欲しいんだ」

 唐突に大胆な事を言い出したので、神流は思わず「はい?」と聞き返してしまった。すると、徐庶は慌てて言葉を付け足した。

 「ええと…ほら、こないだ約束したじゃないか、今度孔明を紹介するって。散策ついでにどうかと思ったんだけど…」

 と、徐庶は眉を下げて顔色を伺った。自ら話を持ち掛けても、必ず最後には自信がなくなる。半年以上の付き合いになっても未だにこの調子だから、これも彼の癖なのだろう。
 男の不安をよそに、話の意味を理解した神流は、途端に弾けんばかりの笑顔を見せた。約束と言っても口約束。しかも、それほど日も経っていない内に誘いが来たので、驚きも隠せない。

 「いえ、全然大丈夫ですよ! でも、本当に連れて行ってくれるんですね。まだ当分先の話かと思っていたのに」
 「約束だからね。それに君も楽しみにしていたようだから、早い方が良いと思ったんだ。丁度、孔明も結婚した事だし、彼の奥さんも紹介するよ」

 それを聞いて神流はその場で歓喜した。『伏龍』を紹介されるだけでも貴重だというのに、その婚姻相手とも顔を合わせるなど、普通では考えられない。それに加え、荊州の散策も入っているとなると喜びも一入である。

 ──本当に良い人≠ネんだから。

 神流は徐庶の両手を握り締め、真正面から顔を見つめた。

 「ありがとうございます! また今度、お礼をさせて下さいね」
 「そ、そんなのいいよ。もう十分だから」

 男の柔和な笑みが戸惑いに変わった。視線を伏せる徐庶を尻目に、神流はさらに喜々として掴んだ両手を左右に揺らすと、「やめてくれ」と声を上げたが、少女の手を振り切ろうとはしなかった。


 前日は落ち着かなかった。日帰りだというのに、羽織りと書物、さらには土産として反物まで用意し、風呂敷に纏めた。床に就いても神流は一人、布団の中で期待を募らせた。

 ──諸葛亮殿は、一体どんな人なのだろう。

 噂では、神仙の趣があり、隆中という村で晴耕雨読の日々を過ごしていると聞く。そんな謎多き男の元に嫁いだ女性の事も気に掛かる。また、襄陽と故郷である新野以外の場所へ行く事も、期待で胸が一杯だった。

 あらゆる想像を膨らませている内に、気付けば夜が明けていた。
 徐庶とは、屋敷の前で待ち合わせをしている。彼の話では、隆中へ向かう前に周辺を散策するらしく、早朝から馬で出掛けると言っていた。神流は同僚から借りた白粉で軽く化粧を施して身支度を整え、宿舎を後にした。
 早朝という事もあり肌寒かったが、幸い天候も良く、絶好の散策日和である。さらに、大河の周辺には靄が掛かり、静かな河のせせらぎと朝靄が幻想的な光景を生み出している。

 ──良い旅になりそう。

 神流の足取りは期待でさらに浮き足立った。
 屋敷に到着すると、門前に二つの影が立っていた。近付いてみると、馬の手前で長身の男が後ろ向きで立っている。屋敷の前にいるのだから、徐庶であるには違いないのだが、雰囲気が違った。腰には剣を携え、丈の長い上着を纏い、頭巾を被っている。その上着は、どこかで見覚えがあった。

 「…元直殿?」

 恐る恐る呼び掛けると、男は弾かれたように顔を上げ、振り向いた。頭巾から覗いた顔は、やはり徐庶で、「やぁ」と言ったその顔は、例のふにゃりとした人懐っこい笑みだった。
 上着は先日、呉服屋で新調したあの軍袍だった。すぐ気付けなかったのは、身に付けている装飾品と、軍袍姿を初めて見たためだろう。軍袍を纏った徐庶の姿は別人のようで、いつも寝癖の付いた穏和な男ではなく、聡明で逞しい男へと変貌していた。着物一つで、これほど人は変わるものなのかと絶句した。
 凝視していると、徐庶はふと自分の軍袍に視線を落し、はにかんだ。

 「ええと…せっかく新調した事だし、遠出する時くらいは着ようと思ったんだ。前の着物はもう古かったし、あまり下手な格好で君と行動するのも悪いと思って」

 と、当人は必死に弁解していたが、神流は無言で男を見つめた。着てくれたのは嬉しいが、変貌振りに動揺が隠せない。すると、徐庶は眉を下げて表情を曇らせた。

 「…どうかしたのかい? やっぱり似合わないかな」
 「いえ、そうじゃないんですけど…いつもの元直殿と違うから」
 「そうかな…あぁもしかして、これのせいかな」

 徐庶は被っていた頭巾を取って見せた。外した傍から寝癖が飛び起き、神流が指を差して笑うと、男も笑みを取り戻した。身形は変わっても、首から上は寝癖に無精髭と普段と変わっておらず、ほっとした。
 改めて眺めると、革帯や肩当は以前と同じ物だったが、軍袍に違和感なく馴染んでいる。あれほど想像出来なかった撃剣を持つ姿も思いの外、勇ましかった。

 ──本当に格好良い。

 お世辞ではなく、本心からそう思った。

 「よく似合ってますよ、凄く格好良いです。本物の軍師みたい」
 「ありがとう、神流のおかげだよ。実はその…俺も結構気に入っているんだ。だから、君や孔明にも見て欲しくて…」

 軍袍を自慢する目的だったと知り、神流はくすりと笑った。

 「石韜殿には見せたんですか?」
 「見せろとしつこいから見せたよ。広元も君の事を褒めていたよ、才能があるって」
 「元直殿の事は?」
 「…俺にはもったいない軍袍だと言っていたよ」

 そう言って徐庶は急に不機嫌な顔をした。先日のやり取りを見ていれば、二人の会話も容易に想像出来る。

 「それより、神流も少し雰囲気が違う気がするんだけど…何かしたのかい?」
 「少し化粧してみたんです。初めての遠出だし、知人を紹介して貰うのに変な格好は出来ないでしょう。おかしいですか?」
 「あぁいや、とても良く似合っているよ。何だかその…とても綺麗だよ」

 熱っぽい眼差しで全身を眺めて来たので、神流は咄嗟に手に持っていた荷物を前に抱えた。途端に徐庶は視線を逸らし、わざとらしく咳払いをして誤魔化した。

 「ええと、そろそろ行こうか。隆中には、昼前に到着するように向かうよ」

 徐庶は軽々と馬に跨り、神流に向かって手を差し出した。手を掴んでぎこちなく鐙に足を掛けると、途端に身体が持ち上がり、男の後ろに腰を降ろした。馬上は意外と高く、神流は男の革帯を掴んだ。

 「私、馬に乗るの初めてなんです」
 「俺に掴まっていれば心配ないよ」

 徐庶に言われて、「こうですか?」と神流は男の腰に腕を回した。後ろから見ると背中は広く逞しく、やはり男性特有のものだ。背中にぴたりと寄り添って頬を寄せると、徐庶は再び頭巾を深く被り、馬を走らせた。

 襄陽城市から離れたのは、約二年振りになる。故郷の新野から襄陽へ出て来た際は、簡単な手荷物を片手に、不安と緊張の中、行商の荷台に揺られて来たから、景色を堪能する余裕などなかった。
 そのため、襄陽外の景色は全て新鮮に映った。周辺には襄江や景山、荊山という広大な山河があり、城も数多くある。機会がなかったとは言え、何も見て来なかった自分が愚かに思えるほど美しい。神流は背中にしがみ付いたまま目を輝かせ、目に映るものを次々と指差したが、徐庶は少女の細かい質問にも丁寧に答えてくれた。

 一頻り駆け回った後、町外れの茶屋で馬を止めた。徐庶は「待っててよ」と店先で神流に言い、一人店へと入って行った。
 辺りを見渡しても知っている景色はなく、自分がどこに来ているのかもわからない。徐庶は迷う事なく手綱を操っていたが、彼の頭の中にはすでに地図が出来上がっているのだろう。馬にも乗れず、地図も頭にない自分にはとても真似出来ない。散策中の徐庶は、普段の穏やかな男と違って逞しく頼りがいがあり、神流が抱いていた印象をがらりと一変させた。
 馬の鬣を撫でつつ待っていると、小包を手に徐庶が戻って来た。

 「隆中までは、まだ少し掛かるから休憩しようか。これ、食べていいよ」

 と、小さい一つを神流に渡し、もう一つは鐙に下げた皮袋に入れた。包みは温かく、何かと思って開けて見ると、中には饅頭が入っていた。はしゃいだおかげで空腹だった神流は、早々と礼を言って饅頭に齧り付いた。 

 「これ、凄く美味しい!」
 「気に入って貰えて良かったよ。ここは遠出する時に必ず寄る店なんだ。土産にもよく買って行くんだよ」
 「実は私も、お土産を持って来たんです。反物だけど、気に入ってくれるかどうか」
 「それはいいね、孔明も喜ぶよ」

 嬉しそうに饅頭を頬張る神流を横目に、徐庶は水筒の水を飲み、残りを馬に与えた。

 「ところで、元直殿は食べないんですか?」
 「俺はいいよ、まだ走るから。それを食べると、腹が膨れて動きにくくなるんだ」

 と、徐庶は馬を愛でながら笑い返した。しかし、朝から馬を走らせている彼の方が、ずっと疲れているはず──。神流は饅頭を手で千切り、横から男の口元に差し出した。突然、目の前に差し出された饅頭を見て、徐庶は驚いて顎を引いた。

 「少しならどうですか? 大丈夫、ここはまだ口を付けてないから」
 「い、いいよ。神流に買ってあげたんだ、君が全部食べなよ」
 「遠慮しないで下さいよ。ほら、食べないと身体が持たないでしょう」

 妙に恥らう男の口元に、さらに饅頭を押し付ける。徐庶は周囲に視線を泳がせて、狼狽の色を見せながらも饅頭をぱくりと口にした。あまりにも滑稽な様子に、神流は笑いながら尋ねた。

 「美味しいですか?」
 「…あまり大人をからかうものじゃないよ」

 険しい表情を見せたが、その顔面は赤く耳にまで及んでいる。せっかく勇敢な姿を見せても、少女に翻弄され赤面するほど羞恥しては意味がない。笑い続ける神流に、徐庶は素っ気なく言った。

 「もう行くよ。昼に間に合わなくなる」
 「そんなに怒らないで下さいよ、軽い冗談なのに」

 二人が慌しく馬に跨ると、茶屋の店先から店員の女性が顔を出し、声を上げた。

 「単福様、またご贔屓に。若奥様もまたどうぞ」

 途端に二人は饅頭を喉に詰まらせ、噎せ返った。

 *

 しばらく馬を進めて行くと、丘陵に囲まれた集落が見えた。

 「あれが隆中ですか?」

 神流が尋ねると、「そうだよ」と素っ気ない返事が返って来た。店で悪ふざけをした事を未だに根に持っているのだ。ましてや妻と間違われたとなれば、なおさら不満だろう。慣れない化粧などするものではない。気まずい雰囲気に耐え兼ねて、神流は振り向きもしない男に尋ねた。

 「そういえば、さっきの『単福』って何ですか?」
 「俺の偽名だよ。昔の事があってから、しばらく名を偽っていたんだ。今は旅先で名乗っているだけだよ」

 昔の事とは、仇討ちの件だろう。以前は剣を持つ姿すら想像出来なかったが、現在の軍袍姿を見ると不思議と納得出来る。場の空気を和ませるために聞いた質問が、返って古傷に触れる事になってしまった。
 しばらく沈黙した後、徐庶がぽつりと口を開いた。

 「…さっきは悪かったよ。嫌な思いしただろう?」
 「どうして元直殿が謝るんですか? 私が悪ふざけしただけなのに」

 聞き取り難い声で謝罪をしたが、後ろを振り向こうとしない。顔を覗こうと前のめりになったが、頭巾の影から徐庶の口元だけが見えた。その口が小さく動く。

 「だって、俺とその…そういう関係だと誤解されたんだよ。ただ一緒にいただけなのに…」
 「私は気にしてませんよ。それより、元直殿の方が迷惑でしょう? こんな品のない子供が『若奥様』だなんて、あの人も見る目ないですよね」

 そう冗談交じりに返したが、徐庶からの反応はなく、笑い声だけが虚しく響いた。すると、男は再び小さく呟いた。

 「そんな事ないよ、君はとても良い子だし…それに俺は…嫌じゃなかったよ」

 そう言った男の口元は笑っていなかった。この男が慕情を覗かせる発言をしたのは、一体何度目だろうか。表情がはっきりと見えないため、抑揚のない低音が怖く感じる。動揺を隠すように、慌てて話題を逸らした。

 「お、奥様と言えば、諸葛亮殿の婚儀に出席したんですよね? お相手の女性はどんな人でしたか?」
 「ええと、そうだな…とても綺麗で知的な女性だったよ。人の噂なんて出鱈目だと思ったよ」

 案外すんなりと話に乗ってくれたので、神流はほっとした。

 「噂って何ですか?」
 「彼女は名士の娘なんだけど、醜女だから『孔明は嫁選びに失敗した』と周囲は噂していたんだ。でも孔明の話では、彼女は才知に長けた女性だから、わざと虚言を流して人目を遠ざけていたそうだよ」
 「凄いですね、皆を騙すなんて。元直殿も、その噂に惑わされたんでしょう?」
 「…まぁ、そうだね」

 と、徐庶は苦笑した。

 着いた先は、小さな屋敷の前だった。徐庶が土産の品を手に屋敷を訪ねたので、ここが諸葛亮の屋敷だと知った。随分と質素な屋敷で、裏手には畑と草庵が見える。
 神流も続いて徐庶の後ろに立つと、屋敷ではなく、後ろの畑から男が顔を出した。土で汚れた着物を着て、冴えない顔立ちの男である。

 ──この人が諸葛亮殿?

 首を傾げたが、疑問はすぐに解けた。その男は徐庶をまじまじと見つめると、急に忙しなく頭を下げて言った。

 「これは徐庶殿でしたか。兄上ならば草庵にいますよ」
 「またかい? せっかく屋敷を建てたのに、物好きだな」
 「それが兄上ですから」

 男は笑顔を作り、屋敷の奥へと案内した。草庵に向かう途中、徐庶は「彼は孔明の弟だよ」と神流に耳打ちした。

 「兄上、徐庶殿がいらっしゃいました」

 弟が草庵の前で叫ぶと、引戸が静かに開いた。
 現れたのは、白い着物に羽扇を持った男だった。切れ長の目元に、品のある整った髭を蓄え、冷静さと才知を兼ね備えた端整な顔立ち──。一目見て、『伏龍』と呼ばれる理由がわかった。明らかに他の隠士や門下生とは雰囲気が違う。ただ、思いの外若い男で驚いた。

 「元直、よく来てくれましたね。均、戻っていいですよ」

 見た目に相応しい物静かで穏やかな口調で言うと、弟の諸葛均は頭を下げて畑に戻って行った。改めて徐庶に視線を移し、諸葛亮は目を細めて笑った。

 「元直、今日は随分と勇ましい姿ですね。見違えましたよ」

 友人に指摘され、徐庶は伏し目がちに答えた。

 「ええと…軍袍を新調したんだ。こないだ話したと思うけど…」
 「そうでしたね。では、そちらの女性が神流殿ですね?」

 諸葛亮の視線がすっと滑り、神流を捉えた。『伏龍』と目が合い、名を呼ばれ、神流は金縛りに遭ったように硬直したが、諸葛亮は薄く微笑んで拱手した。

 「失礼致しました。私は諸葛亮、字は孔明と申します。貴女の事は元直から聞いています。貴女のような熱心な塾生がいるとなれば、先生もさぞ喜んでおられるでしょう。同じ門下の者としても、嬉しい限りです。お会い出来て光栄です」
 「い、いえ、こちらこそ光栄です!」

 会う人物のほとんどから、『話は聞いている』と言われている気がする。門下生から幕僚の耳にまで届いていたから、徐庶が吹聴して回っているのだろう。一体、何を話をしたのか──、赤面しながらじろりと横目で徐庶を見ると、ばつが悪そうに目を逸らした。

 「立ち話も何ですから、どうぞ上がって下さい」
 「あぁ孔明、これ、君と奥さんへの土産だよ。いつもの饅頭だけど」
 「心遣いに感謝します。後で皆で頂きましょう」

 徐庶は躊躇いもなく縁側から上がり、手招きをして神流を誘った。草庵の中には八畳ほどの部屋があり、机と小さな本棚があるだけの簡素なもので、隠れ住む≠ノは相応しい佇まいである。家主は人数分の御座を出して床に敷き、二人に勧めた。

 「少々お待ち下さい。今、月英を呼んで来ます」

 諸葛亮は土産を手に書斎を後にした。神流はすかさず徐庶に耳打ちをする。

 「月英って、奥様のお名前ですか?」
 「そうだよ。彼女の父親は名士の黄承彦殿で、その奥方は蔡瑁殿の長姉なんだ。そして次姉は劉表殿の奥方だから、月英殿を娶った孔明からすれば二人は遠い親戚なんだ。それに、孔明の姉さんはホウ徳公殿の長子の奥方だし、妹は士元の兄弟の奥さんだから、皆親戚みたいなものだね」

 説明を聞いて気が遠くなったが、要するに諸葛亮は、荊州刺史・劉表や豪族・蔡瑁と言った面々と近い名士から娘を紹介され、嫁に迎えたという事だ。荊州の名士達と縁があるのは、さすが名家と言ったところか。だが、あえて小さな村で草庵などに住んでいるところを見ると、家柄には拘りがないように思える。
 しばらくすると廊下から複数の足音が響き、諸葛亮と、少し遅れて女性が書斎に入った。女性は持っていた盆を床に置き、両手を付いて丁寧に礼をした。

 「月英と申します。この度は遠方からお越し頂き、誠に感謝致します」

 月英と名乗った女性は、目が覚めるような美女だった。髪は綺麗な赤茶色で、色白な肌に、端整で凛とした顔立ち。落ち着いた物腰と声色は、才色兼備≠ニいう言葉がよく似合う。そして、諸葛亮に相応しい女性でもあった。この完璧な夫婦を前にしては、とても自分の土産を差し出す勇気はない。
 月英は手際良く茶を入れ、土産の饅頭を乗せた皿を手前に差し出した。彼女のしなやかな手付きに見惚れていると、ふと目が合い、「どうぞ」と言って月英は微笑んだ。女性相手に赤面したのは初めてだった。ちらりと徐庶を見ると、彼も恐縮している。そんな徐庶を見た月英が口を開いた。

 「今日の徐庶殿のお召し物は、とても秀麗で気品がありますね。どこで購入されたのですか?」
 「はぁ、ええと…これは彼女が手掛けてくれた軍袍なんです」

 と、徐庶がうろたえながら神流を指差すと、月英は「まぁ」と歓喜の声を上げた。突然の事で言葉に詰まる神流に代わり、諸葛亮が答えた。

 「神流殿は呉服屋にお勤めで、反物の目利きがあるお方なのですよ。婚儀の後に、元直が嬉しそうに話していたでしょう。羽織も軍袍も神流殿が選んだと」
 「ちょっ、孔明…っ、本人の前でやめてくれ」

 徐庶は慌てて友人の言葉を遮った。諸葛亮は「これは失礼」と頭を下げたが、羽扇で口元を隠して薄く微笑む姿に、反省の色は見えない。

 「そういえば、神流も土産があると言っていたじゃないか。渡さなくていいのかい?」

 徐庶から急に話を振られ、神流は目を丸くした。己の動揺を誤魔化すために犠牲にされた気分である。咄嗟に徐庶を睨み付けたが、気付けば諸葛夫婦から好奇の視線を一身に受けていた。
 已む無く反物を取り出し、二人の前に差し出した。用意したのは、黒と白の二種類の反物。あの呉服屋の中で一番人気があり、上等な品を選んだつもりだ。

 「あの、もの凄くつまらない物ですが…」

 神流が自信なく言った矢先に月英が声を上げた。

 「まぁ、とても素晴らしい反物ですね。丁度、このような柄が欲しかったのです。孔明様、これで羽織などいかがでしょう?」
 「それはいいですね。きっと素晴らしい羽織になるでしょう。神流殿、心から感謝致します」

 二人同時に礼儀正しい拱手をされ、神流もぎこちなく両手を組んで深々と頭を下げた──が、下げ過ぎて床に置かれた茶器に腕が当たり、ひっくり返してしまった。幸いにも反物は徐庶が素早く抱えたため、茶の湯の被害に遭わずに済んだが、床は濡れてしまった。

 「ご、ごめんなさい!」
 「まぁ大変! 大丈夫ですか?」

 月英は血相を変えて、布巾で神流の足元を拭いた。諸葛亮も茶器を盆に片付け、零れた茶の湯から神流の荷物を遠ざける。

 「危ないところだったね。火傷しなかったかい?」

 反物を高く抱えたまま徐庶が尋ねたので、神流は静かに首を振った。

 「ごめんなさい、お部屋を汚してしまって…」
 「構いませんよ。元々、狭くて汚い部屋ですから」

 と、諸葛亮は笑顔で返した。誰一人として神流を責めず、それどころか気遣う者ばかり。温情ある彼等の言動に、胸が熱くなり視界が滲んだ。それを見た月英は眉を下げた。

 「熱かったですか?」
 「いいえ…大丈夫です。ありがとうございます」

 神流が微笑んで見せると、三人は安堵の表情を見せた。

 「それにしても、さすがは元直ですね。目にも止まらぬ速さでしたよ」
 「せっかくの反物を汚す訳にはいかないからね」

 反物を机に置いて得意げに話す徐庶に、諸葛亮は目を細めてさらに続ける。

 「しかし、反物など放って、茶器を受け止めた方が良かったのでは? 貴方ならば容易に出来るでしょう。その方が、被害を最小限に食い止められたはずです」
 「…俺が火傷するじゃないか。それとも君は、俺だけが被害に遭えば良かったとでも言いたいのかい?」
 「では、神流殿が火傷をしても良かったと? 彼女を誘った以上、貴方には守る責任があるはずですが?」
 「…君のそういうところだけは、好きになれないよ」

 意地の悪い諸葛亮の問いに言い負かされた徐庶は、不貞腐れた顔で溢した。二人のやり取りを見た神流と月英は、互いに顔を合わせて笑った。
 徐庶の周りにいる人物は皆、人が良い──。類は友を呼ぶ≠ニは、こういう事なのだろうと思った。

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