最近、神流が勤める呉服屋は客足が滞っていた。神流の店だけではない、街全体が粛々としている。
というのも現在、荊州の長沙で乱が起こり、劉表が直々に出征しているためである。いくら平和な土地と言えども、全く戦がないという訳ではない。それに、荊州は豊かな土地柄であるため、何かと周辺の勢力から侵攻を受ける事も多かった。一度、戦が始まると民も自粛する。
仕事が忙しいのも苦痛だが、暇過ぎるというのも苦痛である。かといって店を開けない訳にもいかず、人の来ない店内でただじっと客が来るのを待つ日々が続いていた。この無駄な時間を学問に向けられれば、どれほど効率が良いかと思うのだが、住み込みで働いている以上、逃れようがない。
神流が一人店番をしていると、珍しく店先に人影が立った。だらしなく頬杖を付いていた姿勢を慌てて正し、接客用の明るい笑顔と声で客を出迎えた。だが、店先から顔を出したのは徐庶だった。
「元直殿じゃないですか、一体どうされたんですか?」
親しい人物の来訪に神流は声を上げたが、その顔は作り物とは違う喜色に溢れた笑顔だった。少女の反応に、男も嬉しそうに微笑み返した。
「ええと、今日は客として来たんだけど…今は大丈夫なのかな?」
徐庶は人気のない店内を見渡して尋ねた。これだけ人の姿がなければ、本当に営業しているのかと思うのも無理はない。
「大丈夫ですよ、こんな状態だけど、お店はやってますから。私がお相手します」
お客≠ニ聞いて、神流は少し遊んでみようと思った。改まって「いらっしゃいませ」と両手を前に揃えて挨拶をし、手を差し出して奥の座敷に案内した。
「今日は何に致しますか?」
「ええと、その…着物を新調したいんだけど」
普段とは違う接し方に明らかに戸惑っている様子だった。実際にはこれほど丁寧な接客などしないのだが、戸惑う姿が面白くてさらに続ける。
「どのような反物になさいますか? 当店のお薦めはこちらになりますが」
尋ねると、男は再び「ええと」と言って口籠もり、店内をきょろきょろと見回した。誰かに助けを求めているように見えて、神流は笑いを堪えながら回答を待った。すると、徐庶は頭を掻いてはにかんだ。
「…何だかくすぐったくて嫌だな。俺にはいつも通りでいいよ」
「冗談ですよ。普段からこんな事しないもの」
神流が揃えていた手を後ろに組んで笑うと、徐庶は眉を下げて苦笑した。この男は何にでも期待以上の反応をするから面白い。そして、何より心が和む。店番で退屈していたところに丁度顔を出してくれたので、救われた気分だった。
「それで、どんな着物を探しているんですか?」
「実は軍袍を新調しようと思っているんだ」
「軍袍? どこかに仕官するんですか?」
「そういう訳ではないんだけど…一応、用意くらいしておこうと思って」
思えば、徐庶の口から今後の話を聞いた事がない。以前から疑問に思っていた事だが、軍袍を用意するという事は、仕官する志があるという事だろう。
「どんな軍袍にするか、ご希望はありますか?」
すると徐庶は脇に抱えていた包みを開いた。包みには着物の他に小手と肩当が入っている。
「これはその…俺がまだ剣を使っていた時に作ったものなんだ。今は遠出する時にしか着ていないんだけど、使い勝手が良いから軍袍にも良いかと思って」
「これを基本にするんですね」
神流は着物を受け取り、床に広げた。それは丈の長い上着で、襟元に大きな帽子が付いている。造りも形容も特殊で細部まで凝っていて、このまま軍袍として使っても違和感がないほど形が完成されていた。ただ、控え目な割には、随分とこだわりのある着物を作ったものだと思った。
ふと、この上着を纏って撃剣を持つ徐庶を想像してみたが、どんなに考えても今目の前にいる寝癖の付いた穏和な男の姿しか浮かばない。いくら過去の出来事を聞いても、今の徐庶からは剣を使う姿が想像出来ず、また、官吏となった姿も想像出来なかった。
──仕官したら、さすがに寝癖は直すわよね。
内心そんな事を思いながら、神流は受け取った着物を包みに戻した。
「しばらくお借りしますね。生地はどうしますか? 軍袍だから、少し値が張っても丈夫で目に付く生地を選んだ方がいいですよ」
「そうだな、神流に全部任せるよ」
あまりに簡単に言い放ったので、神流はきょとんとした。
「いいんですか? 軍袍って結構大切なんですよ?」
「わかってるよ。でも、そういう専門的な事は神流の方が詳しいだろうし…君が良いと思ったものなら、俺は何でも構わないよ」
徐庶の優しい声色と微笑みに、神流は思わず視線を逸らして頬を染めた。
時折、普段とは違う眼差しを向ける事がある。以前は神流の勢いに押され気味だったが、合宿以来、急に積極的になった気がする。塾だけでなく、店に顔を出す機会も増えた。無論、彼と深い絆を築けた事は素直に嬉しいのだが、時折見せる強い慕情を匂わせる言動には戸惑いを感じていた。
平静を装い、近くの反物に手を伸ばして冗談交じりに返した。
「わかりました。その代わり、どうなっても文句は言わないで下さいね。返品も受け付けませんので」
「言わないよ。あぁでも…羽織も買うつもりだから、あまり高いものにしないで欲しいな」
そう言って、徐庶は恥ずかしそうに弁解した。懐具合を察して欲しいとばかりの言い方に、神流は「わかってます」と笑いながら返した。
「羽織はどうしますか?」
「友人の婚儀に着るものだから、礼服に合う物がいいんだけど」
「誰か結婚するんですか?」
「あぁ、孔明がね。前から考えていたみたいなんだけど、最近、名士から娘を紹介されたらしくて、その人との婚姻が決まったんだ」
徐庶は何気なく言ったが、まさか『伏龍』の婚姻報告をいち早く聞く事が出来るとは思ってもみなかった。以前に石韜らと話し込んでいた『友人の嫁探し』も、諸葛亮の事だったのだろう。
「凄いですね。諸葛亮殿のお相手って、一体どんな女性なんですか?」
「それが、まだ見た事がないんだ。噂は色々聞いているんだけど、何しろ孔明は自分から顔を出さない男だから、俺もまだ詳しい話を聞いていないんだ」
名門の家柄であり、才覚もある人物なのに、小さな村に隠れ潜む男──、だから『伏龍』なのだ。塾生の間でも知らぬ者はいないが、その姿を一度も見た事がないという者がほとんどである。神流も名前と噂だけで、どういった人物かは当然知らない。
「そういえば、君はまだ孔明に会った事がないね。今度紹介するよ、こちらから行かないと会えないけどね」
「はい、ぜひお願いします!」
神流は目を輝かせた。『伏龍』と会うなど、一般の塾生ではまず機会がない。あの『鳳雛』と談話出来たのも、徐庶のおかげと言っていい。門下生の中で徐庶という人物と出会えた事は、本当に幸運だった。出会ってから現在に至るまで、神流にとって良い事しかない。せめて彼に恩返しをしようと思い、棚から少し上物の反物を取り出した。
「元直殿のために、今回は色を付けてあげますよ。羽織の反物、半額にしときますね」
「え、いや…そんなの悪いよ。値切るつもりで言った訳じゃないんだ。金ならきちんと払うよ、門下生としての面目が立たないじゃないか」
徐庶が慌しく裾を探り出したので、神流は笑いながら首を振った。
「いいんですよ、いつもお世話になっているお礼だから。日頃の師事と、この前の合宿のお礼です」
「礼なんていいよ、俺が好きでやった事なんだ。それに、君の役に立てるのなら…俺はそれで…」
ぽつりと溢した言葉に顔を上げると、徐庶は「何でもないよ」と言って咄嗟に微笑んで見せた。さらに誤魔化すように言葉を続ける。
「ええと…いつ頃出来るかな。羽織は早い方が助かるんだけど」
「羽織は五日もあれば出来ますよ。軍袍は一ヶ月ほどで出来ると思います。羽織は塾に行く時に持って行きますね」
「何だか悪い気もするけど、好意に甘えさせて貰うよ」
「では、少し失礼しますよ」
と、神流はおもむろに徐庶の後ろに立つと、呉服尺と手を使って寸法を計り始めた。長身だとは思っていたが、計ってみると案外、胸囲があり、腕や脚も逞しい。剣術を身に付け、何ヶ月も遠出する体力があるのだから、筋肉があって当然かもしれないが、外見に似つかわしくない体付きに少し驚いた。
慣れた手付きで身体中の寸法を計る間、徐庶は神流の行動を目で追い、なぜかそわそわと落ち着かなかった。
「ええと、その…さっきの着物の丈じゃ駄目なのかい?」
「せっかく新調するのに、正しい寸法を計らないと駄目ですよ」
ふと顔を上げると、徐庶は眉を下げて戸惑いの表情を見せていた。その顔は少し赤らんでいる。
──寸法を計るだけで、何でこんなに照れるのかしら。
少しばかり言動が積極的になっても、奥手なところは変わっていない。神流が寸法を計り終えるまで、男の視線が落ち着く事はなかった。
後日、羽織は無事彼の元に届けられたが、未だに軍袍の生地を選べずにいた。信用して『任せる』と言ってくれた事は嬉しかったが、呉服屋に勤めて一年足らずの少女には大役で荷が重い。形はすでに決まっているものの、生地だけでも見栄えは大きく変わるし、武将の顔にもなるため下手な物は選べない。ただ、自分が選んだものが使われるのなら、名誉な事でもあった。
店にある反物と睨み合い、預かった上着と交互に見比べ、徐庶の姿を思い浮かべが、なかなか考えが纏まらない。一度、剣を持つ姿を見せて貰えば良かったと後悔したが、見れば徐庶の印象が大きく変わってしまう気がして、少し怖くもある。
数日も生地選びに悩む神流を見兼ねて、同僚が声を掛けた。
「まだ悩んでるの? そろそろ決めないと、間に合わないわよ」
「そうだけど、どれが良いのかわからなくて…」
「その人って、よく店先に顔を出す門下生の人でしょ? あの、ぼんやりした男の人」
ぼんやりした男──。同僚の目には徐庶がそんな風に映っていたと思うと、神流は失笑した。あの見た目では否定出来ない。
「でも、元直殿は撃剣の使い手でもあるんですよ。そんな事言っちゃ可哀相ですよ」
とは言ったものの、撃剣がどういったもので、実際に使う姿も見た事がない。
「へぇ、意外ね。剣を使うように見えないけど」
と、同僚は驚愕の声を上げた。どうやら誰の目から見ても、彼に対して同じ印象を抱くようだ。
「その人の雰囲気や特徴に合う色や柄にすればいいんじゃない? 無理に派手にする必要はないんだから」
徐庶の雰囲気に合う物──。同僚の助言を受けて、神流は三種類の反物を手に取った。それは緑を基準にした反物で、柄もやや控え目の生地だったが、彼に一番似合うと思った。
*
軍袍の仕立ては同僚と数人で手分けして行ない、神流が徹夜で作業を進めたおかげで、一ヶ月以内に仕上げる事が出来た。
いざ完成した品を見ると、我ながら良い出来だと感心した。門下生で剣術も使える男という特徴を考慮して、知者らしく威風もある軍袍に仕上げた。知略ある彼ならば、きっと仕官すれば軍師として活躍するはずだと思ったからだ。
──きっと気に入ってくれるはず。
予定日より数日早かったが、神流は翌朝、早速完成した軍袍を持って徐庶の屋敷に向かった。一日でも早く、彼に軍袍を見て欲しかった。
玄関を叩くと、しばらく間を置いて徐庶が顔を出した。
「こんな朝早くに、一体どうしたんだい?」
朝から訪問して来た少女に男は目を見開いた。相変わらず寝癖はあったが、その身形は整っている。寝起きではないようだ。
「頼まれていた軍袍が出来たから、お届けに来たんです」
「もう出来たのかい? 大変だっただろう」
「いいえ、慣れていますから」
徐庶は相変わらずの気遣いを見せて、差し出された軍袍を受け取った。その場で包みを開けるかと思ったが、廊下を手で差した。
「良ければ上がって行かないか? ただ、友人が来ているんだけど、それでもいいかな?」
「はい、お邪魔でなければ」
見ると、玄関に二足の靴がある。一つは石韜と思われるが、もう一つは想像が付かない。ホウ統は随分前に襄陽を離れてしまったし、諸葛亮が来るとも思えない。交流の広い男だから、他に思い当たる顔はいくつもある。
案内されて書斎に向かうと、そこにいたのはやはり石韜と、もう一人男の姿があった。
徐庶と交流の深い門下生で、劉表幕僚でもある男・向朗。面識はあったが、会話をした事はない。それに最近では、学舎にも司馬徽の屋敷にも顔を出していなかったため、姿を見るのは久し振りだった。荊州が慌しいせいだろう。
書斎に入るなり、両者の視線は神流に注がれた。
「おや、これは神流殿。こんな所で会うとは奇遇ですな」
と、石韜は意味深な笑みを浮かべて拱手した。隣にいた向朗も同じく拱手する。
「貴女が神流殿ですか、二人から話は聞いています、何でも徐庶殿によく懐いているとか」
向朗まで不敵に微笑んだので、徐庶は複雑な表情で頭を掻いた。しかし、神流は彼等の冗談に笑い返す余裕もなく、ぎこちなく頭を下げた。向朗は顎鬚を生やし、威厳ある気難しい顔付きがいかにも文官らしい。その見た目から、徐庶と親交ある事が不思議に思うほどだ。
「この人は向朗殿だよ。俺と同じ門下生で、今は劉表殿の幕僚で県長でもあるんだ」
そう説明しながら徐庶は二人の間に座ると、小さく手招きして神流を呼び、隣に座らせた。その様子に二人は細く微笑む。
「今日も朝から元直と勉学ですか?」
石韜がにやけ顔で尋ねると、「違うよ」と徐庶は即答した。友人のからかいに、さも不機嫌そうに。
「先日、注文した軍袍を届けに来てくれたんだ」
「ほう、徐庶殿が軍袍を? どこかに仕官するのか?」
と、向朗も神流と同じ問いをしたが、徐庶は首を振った。
「いや、ただ用意しただけなんだ。仕官先はまだわからないよ」
「まだ気になる人物は見つからないのか?」
石韜の問いにも静かに首を振った。二人のやり取りを見て、向朗が小さく溜め息を吐く。
「しかし、もったいない話だ。徐庶殿のような人物が仕官してくれれば、我々も助かるのだが」
「向朗殿には悪いけど、俺は劉表殿に仕える気はないよ。彼には大局を見る目がない」
はっきりと言い放った徐庶の顔付きは厳しかった。意外な一面に神流は動揺したが、少女を差し置いて門下生達は話を進める。
「いや構わん、私も否定するつもりはない。先日も袁紹から援軍の要請が来たのだが、大した返事もせずに長沙鎮圧に向かってしまったのだからな。曹操の誘いまで有耶無耶にする始末だ」
「確か曹操は今、北の袁紹を攻めているのだったな。その援軍要請か?」
石韜の問い掛けに、向朗は溜め息混じりに頷いた。
「曹操や袁紹も、いずれ脅威となり得る勢力だ。東の孫権もいつ攻め込んで来るかわからんというのに、劉表様は全く動こうとしない。『八俊』と英傑視されたのも、もう過去の話だ」
向朗の答えに、三人はしばらく沈黙した。おもむろに石韜が口を開く。
「此度の戦、おそらく曹操が勝つだろうな。袁紹は名門に胡坐を掻いて来たが、曹操は戦を重ね、あの呂布をも破った男だ。すぐに河北など平定する。だが、問題はその後だぞ」
「そこは我々も危惧しているところだ。曹操がこの荊州を放っておくとは思えん。これまで度々侵攻を防いで来たが、曹操の勢いを止められるかわからん。北には奸雄の曹操、東には仇敵の孫権…劉表様は、この現状をどう見ておられるのか」
いつも彼等が、学舎の前で深刻な面持ちで話し込んでいる理由がわかった気がする。普段からこういった話が主なのだろう。とても塾生が立ち入れるような会話ではない。
徐庶はそんな神流を気遣い、話し込む友人を横目に静かに囁いた。
「…すまない、つまらない話ばかりで。もう少しで終わるから、後ろで本を読んでいてもいいよ」
「いいえ、勉強になるから聞いています」
その後も、三人は国の情勢を語り合ったが、とても理解出来るような話ではなかった。ただわかった事は、現在の劉表に昔のような威光はなく、北の曹操が必ず脅威になるという事──。どうやら、この平和な襄陽にも争乱の兆し≠ェ見え始めているようだ。
「いかん、すっかり話し込んでしまった。そろそろ仕事に戻らねば」
向朗が話を打ち切って席を立つと、石韜も腰を上げた。ようやく難しい話が終わり、内心ほっとしていると、向朗が頭を下げて来た。
「せっかく来て頂いたというのに、不安を煽るような話ばかりで申し訳ない。不器用な男の妄言と思って聞き流して下さい」
「い、いえ、私がお邪魔しただけですから」
突然声を掛けられ、返した声が上擦ってしまった。すると、石韜が妙におどけた口調で言った。
「堅苦しいおじさんの相手は疲れたでしょう。我々は帰りますから、後は元直と仲良くやって下さい。あぁ、変な意味合いではありませんよ」
「…君は一言余計なんだよ、早く帰ってくれ」
徐庶は怪訝な顔をして石韜の背を押した。おかげで神流の緊張は解れたが、徐庶には通用しない冗談だったらしい。廊下に追い遣られた石韜が慌てて書斎の戸を掴み、声を上げる。
「待て待て、せっかくだから元直の軍袍を拝見しなければ」
「駄目だよ、俺だってまだ見ていないんだ。広元になんか見せないよ」
「石韜殿、失言で嫌われたようだな」
向朗が言うと、二人は声を上げて笑ったが、徐庶は鬱陶しいとばかりに友人を手で払った。結局、二人は追い出される形で屋敷を後にした。
「これでようやく落ち着いたね。早速、本題に入ろうか」
徐庶は振り向き様に清々したように微笑んだ。大人気ないと笑ったが、神流も同感だった。書斎に戻るなり、神流は机に置かれた荷物に手を掛けた。
「実は少しだけ手を加えたんです。気に入ってくれるといいんですけど」
包みを開けて軍袍を差し出すと、途端に歓喜の声が上がった。
「凄いな、こんなに良い物にしてくれるとは思わなかったよ」
「気に入ってくれましたか?」
「もちろんだよ。でも、俺なんかに似合うかな…軍袍に負けそうだよ」
「大丈夫、元直殿なら仕官すれば、きっと立派な軍師になれますよ。そう祈願して作りましたから」
「…もの凄い重圧だな。でも、この軍袍ならそれくらい出来そうな気もするよ。ありがとう、大切にするよ」
徐庶は嬉しそうに微笑み、しばらく軍袍を眺めていた。この笑顔を見ると、徹夜した仕事の疲労も苦労も忘れてしまう。神流は安堵しておもむろに腰を上げると、男の表情が一変した。
「もう帰るのかい?」
「だって、まだ仕事中だもの。配達に来ただけですから」
そう言って神流は一足先に書斎を出た。徐庶も遅れて後ろに付き、軽い足取りで前を歩く少女に尋ねる。
「そうなんだ…引き止めたりして悪かったよ。大した話も出来なかったし…」
「いいえ、国の情勢を聞く機会なんて滅多にないから、とても勉強になりました。それに私、襄陽から出る事がないから、話くらい聞いておかないと」
「女性一人じゃ、遠出は出来ないからな。君さえ良ければ、今度連れて行ってあげるよ」
何気なく言い放った一言に、神流は咄嗟に後ろを振り向いて顔を見た。すると、男は急に目を泳がせた。
「ええと、その…話で聞くより、実際に行った方がいいと思ったんだ。それに一緒の方が、色々案内出来るからいいんじゃないかと…あぁその、別に変な意味じゃないよ、もちろん日帰りだよ。君が嫌ならいいんだ」
驚きと嬉しさで言葉が出なかっただけなのに、急に慌しく弁解し始めたので神流は堪らず笑ってしまった。石韜が言った冗談を本気にしていると思ったのだろう。慌てふためく反応が面白くて、神流はおどけながら返した。
「いいですよ、元直殿なら身の危険を心配する必要もないだろうし。それに私の事、守ってくれるんですよね?」
「あぁ、必ず君を守ると誓うよ。絶対に神流を傷付けたりしないよ」
再び見せた、優しく慕情に満ちた男の微笑み。何の前触れもなく見せるから、どうしても動揺を隠し切れない。ただ、包容力のある微笑みは強い安心感を与え、鼓動の高鳴りも身体の火照りも心地良く、どこか癖になる笑顔だった。
羞恥を隠すように、神流は玄関に屈んで靴を履き、明るく振舞った。
「では、また夕刻に顔を出しますね」
「気を付けて帰るんだよ。今日も塾で待っているから」
屋敷を出て、角を曲がって男の姿が見えなくなるまで、その笑顔が絶える事はなかった。
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