『過去』

 合宿のために徐庶の屋敷に赴き、書斎に篭って数時間。窓から差し込む夕陽は、いつしか青白い月明かりへと変わっていた。
 屋敷は思った以上に快適だった。街の煩わしい雑踏の音を耳にする事もなく、代わって聞える河のせせらぎや虫の音が心地良い。宿舎のうるさくて狭くて暑苦しい環境とは雲泥の差で、羨ましく思うほどだ。そして書斎を埋める書物の山。わからないと頭を悩ましても、さらに詳しい専門的な書物が出て来る。
 また、神流の隣には常に徐庶が付き添っていたから、いつも以上に学問は捗った。『手加減しない』と口では言っていたが、尋ねれば丁寧に教えるから、結局いつも通りだった。薦められた書物の四割を終えたところで、徐庶は手元の本を閉じた。

 「今日はもう終わりにしようか、朝から勉強漬けで疲れただろう」
 「まだ大丈夫ですよ、もう少し出来ます」
 「ここまで出来れば十分だよ。頭を休める事も大切だよ」

 そう言って机上の書物を次々と片付けてしまったので、神流は渋々と筆を置いた。物足りないといった様子に、徐庶は部屋を片付けながら優しく微笑んだ。

 「心配ないよ。神流は飲み込みが早いし、覚えも良いからすぐに取り戻せるよ」
 「あんなに質問攻めだったのに?」
 「知らない事を聞くのは悪い事じゃないよ。君は要領が良いし、続けていけば先生も認めてくれるんじゃないかな」

 立て続けの褒詞を受けて、神流の表情が見る見ると悦色に満ちていく。

 「本当ですか? 私も元直殿みたいな門下生になれますか?」
 「神流なら、俺なんかより優秀な門下生になれると思うよ」

 自分が門下生になる──。塾に通い始めた当初は考えた事もなかったが、最近では時折、本気で考える事がある。もちろん徐庶の影響だ。
 まだ師事なくして理解する事も難しい状態だが、身に付けた学問で世に貢献出来れば、これほど孝行な事はない。学者か、はたまた国に仕える女官か──と、夢を膨らませる。それが徐庶と一緒ならば、尚の事良いと思った。

 ──そういえば、元直殿はどうするんだろう。

 彼がなぜ学問を目指しているのか、まだ聞いていない。書物を全て複写するほど努力しているのだから、このまま隠士として終わるつもりはないはずだ。
 その間にも積まれた書物は片付き、徐庶は部屋の隅に無造作に纏められた枕と毛布を手にした。

 「もう寝るんですか?」
 「そうだよ、夜も遅いだろう? 俺はよくここで寝るんだけど…君が気になるようなら移るよ」
 「それは別にいいんですけど…」

 気遣うところが違う。明日の夕刻には宿舎に戻らなければならない神流には、休む時間さえ惜しいというのに。これでは本当に学問目的の合宿で終わってしまう。

 「まだ起きてましょうよ。せっかく腹を割って話す良い機会なのに、すぐに寝るなんてもったない」
 「もう十分腹を割って話しているじゃないか。こうして邸に泊まりに来るくらいなんだ。こんなに強引な女性は、君が初めてだよ」

 笑いながら返され、神流は赤面した。冷静に考えれば、宿泊を懇願するなど、実にはしたない言動である。門下生と塾生である前に、男と女には違いない。学問を断った焦りと、初めての合宿の喜びと期待から、そこまで考えていなかった。

 「そ、それだけ必死だったんですよ! それに、私は元直殿が信用出来る人だからお願いしたんですよ。他の人にはこんな事頼みません」
 「そこまで信用されていると思うと、責任を感じるよ。下手な師事は出来ないな」
 「信用だけじゃないですよ。元直殿は私の憧れですから」

 笑顔で返すと、徐庶は途端に目を泳がせた。

 「…君は何か誤解しているよ。俺は神流が思うほど大した男じゃないよ」

 誤魔化すように床に寝具を置いて俯いたが、赤くなった耳までは隠し切れていない。

 「またそんな事言って。努力家だし、人望も厚いし、学問も剣術も出来るんだから、もっと自慢してもいいんですよ?」
 「俺には、人に自慢出来る事なんか何もないよ。だから…そんなに褒めないでくれ」
 「そんなに恐縮しなくてもいいのに」

 同じく床に屈んで男の顔を覗き込む。羞恥から戸惑っているのかと思ったが、その表情は暗い影を落していた。柔和な表情が突然、憂いに沈む──、以前にも同じ事があった。
自信を持てない理由が、身分だけの問題ではない気がする。もっと重い何かを一人で背負い込んでいるように見えた。
 その原因は、おそらく荊州に来る以前──。傷付くのなら触れない方がいいと、あえて深入りしなかったが、温柔な男が胸の内に影を抱いていると知っては放っておけない。

 「何かあるのなら、話して下さいよ」
 「いや…別に何にもないよ」
 「嘘ばっかり。門下生になる前に、何かあったんでしょう?」

 途端に徐庶は顔を上げ、目を丸くした。なぜわかったと言わんばかりの反応に、思わず笑みが零れる。彼は感情を隠すのが苦手なようだ。

 「その…昔の事は、神流には話したくないんだ」
 「信用出来ないからですか?」
 「そうじゃないよ。話してしまったら…信用を失ってしまいそうで怖いんだ。きっと見損なうだけじゃ済まない。君にまで軽蔑されたくないんだ」
 「軽蔑なんてしませんよ。だって昔の事だし、何があっても今の元直殿に変わりはないもの」

 真正面から憂い顔を見つめると、徐庶は観念したように溜め息を吐いた。何度も神流の顔を伺いながら、酷く小さな声でぽつりと溢した。

 「…俺は…人を殺めた事があるんだ…」

 一瞬、聞き誤ったのかと思った。どうして──と、尋ねようにも声が出ない。その内心の問いに答えるように、言葉は続いた。

 「豫州にいた頃、知人に仇討ちを頼まれたんだ。本当はすぐに断るべきだったんだけど、話を聞いている内に放っておけなくなって…それで…」

 徐庶は口籠もった後、唇の端を噛んだ。義理堅さと温情から起こした過ちと知り、ほっとした。彼の人柄上、間違っても自ら進んで修羅の道を行く男ではない。

 「…その後は、どうしたんですか?」
 「役人に捕まって…街先に磔にされたよ。すぐに友人が助けに来てくれたから、何事もなく済んだけど…結局、皆に迷惑を掛けて、自分の首を絞めただけだったんだ。自分がどんなに未熟だったか、思い知らされたよ。だから…剣を使うのを止めて、学問を目指したんだ」

 話している間もこちらを見ようとせず、地の底にでも堕ちたような暗い顔をしていた。すでに諦めているようにも見える。

 「理由はどうであれ、そのおかげで今の元直殿があるんだから、それでいいじゃないですか」

 明るく言い放つと、徐庶は顔を上げて神流を見た。貶されると思っていたのだろうか、呆然としている。

 「君は何とも思わないのかい? 俺は罪人なんだよ」
 「だから、それは昔の話でしょう。今は改めたんだから、もう十分償ってますよ。それを撥条に頑張ればいいだけの話だもの。こういうの確か『捲土重来を期す』って言うんですよね? 失敗してもまた挑戦すればいいんです」
 「…そんな事言ってくれたのは、君が初めてだよ」
 「いつも親切にして貰っているお礼です。それに、私は元直殿の味方ですから」

 沈んでいた男の表情は、嬉しそうに微笑んでいた。やはり彼には、憂い顔より柔和な笑みの方が似合う。

 「さてと、腹を割って話した事だし、私ももう寝ますね」
 「あ…神流!」

 背を向けると同時に、徐庶が声を上げた。振り返ると、今度は真剣な面持ちで見つめている。勢い良く呼び止めておいて言い渋っている様子に、神流はくすりと笑った。

 「どうかしました?」
 「あ、いや…こんな俺を気遣ってくれて…ありがとう。君のためなら、何でも協力するよ。ええと…それだけ言いたくて…」
 「私も、いつでも協力しますよ」

 神流の言葉に、徐庶はその場ではにかんだ。しどろもどろな言動はまだ本心を隠している気がしたが、憂いが消え、いつもの穏和な姿を取り戻していたため、神流は安堵した。
 寝室に入り、顔だけを覗かせて男に微笑み返す。

 「じゃあ、また明日お願いしますね」
 「あぁ、おやすみ」

 徐庶はいつになく優しい笑みで返した。
 一歩間違えれば、自ら命運を断っていたかもしれない男の過ち──。想像していた以上の告白に戸惑いはあったが、それも彼らしい≠ニ思った。人柄の良さが、昔から何一つ変わっていなかった事が、神流にとっては嬉しかった。
 身分だとか、過去の過ちだとか、そんなものさえ些細に感じるほど、温情に溢れる男。塾生としての尊敬と憧れもあったが、徐庶個人としての魅力も神流を惹き付けて止まない。

 ──ずっと、あの人に付いて行こう。

 密かに胸に誓い、和やかな余韻に浸りながら眠りに就いた。

 *

 環境が変わると寝付きが悪くなると聞くが、嘘だと思った。窓から差し込んだ朝日で目を覚ますと、布団の中で大きく背伸びをした。
 目の前には、職場の狭い宿舎とは違う高く広い天井。耳を澄ましても、聞こえて来るのは小鳥の囀りと大河のせせらぎのみ。のんびりとした男には相応しい屋敷である。街の騒音が目覚まし代わりの宿舎の環境が、単に劣悪なだけかもしれないが。
 借りた布団を片付け、身嗜みを整えて書斎の扉を開けた。飛び込んで来たのは、床に横たわる毛布の塊。書物に間に上手い具合にすっぽりと嵌って寝ている徐庶だった。まさか本当に書斎で寝るとは思いもせず、神流は静かに笑った。

 「元直殿、朝ですよー」

 そう呼び掛けたが全く反応がない。毛布に包まっているため、頭がわずかに見えるだけ。微かだが寝息も聞える。近くには寝る時に片付けたはずの書物が積まれ、どうやらすぐに眠った訳ではないようだ。
 熟睡しているところを起こすのも気が引けるが、今日で休日が終わる神流には時間が惜しい。仕方なく書物と毛布の間を跨いで男に近付き、毛布の合間から顔を覗き込んだ。
 起きている時以上に穏やかで、子供のように無邪気な寝顔。門下生で、神流より年齢も知も断然上だというのに、からかいたくなる。これも彼の人柄のせいなのか、それとも神流だけが思う事なのだろうか。
 近くにあった書物を丸め、毛布の上から男の耳元に当てた。

 「元直殿! もう起きる時間ですよ」

 大声を上げると、男の身体がびくりと飛び跳ねた。毛布から覗いた顔は、大声で起こされたせいか、強い眠気のせいか、不貞腐れているように見えた。さすがに怒るかと思いきや、神流を見るなり毛布で顔を隠し、背を向けた。

 「…もう少し寝かせてくれないか…何だか落ち着かなくて…眠れなかったんだ…」
 「私の気が変わって、夜中に逃げるとでも思いましたか?」
 「…そうじゃなくて…頼むから、そんなに顔を近付けないでくれ…」

 寝ぼけた掠れ声でぽつりと溢し、沈黙した。また眠ったと思い、神流は横たわる身体を大きく揺さ振った。

 「今日の夕暮れ前には、宿舎に戻らないといけないんですよ。早く始めましょうよ」
 「…わかったよ、起きるよ」

 執拗な訴えに、徐庶はようやく上体を起こした。その姿を見て、神流は思わず吹き出してしまった。着物はよれているし、髪はぼさぼさで酷い寝癖が付いている。この寝方では、寝癖が付く理由もわかる。
 徐庶は寝癖だらけの髪をさらに掻き乱して言った。

 「君はよく眠れたみたいだね…呑気で羨ましいよ」
 「どうして落ち着いて眠れないんですか? 自分の部屋でしょう」
 「それは…女性が泊まっているのに、俺だけ呑気に寝ていられないだろう。君を預かる俺には、責任があるんだよ」

 徐庶は毛布を片付けながら弁解したが、目を合わせようとしない。本当は意識し過ぎて眠れなかっただけだと、すぐにわかった。
 その直後、廊下の方から戸を叩く音がして、二人は同時に扉に顔を向けた。

 「広元じゃないかな。神流はここにいるんだよ」

 そう言って、徐庶は寝起き姿のまま玄関に向かった。あんな格好で出て、違う客人だったら一体どうするつもりなのか──。こっそり扉の合間から様子を伺うと、徐庶が神流の靴を戸棚に隠し、玄関を開けるところだった。
 言った通り来客者は石韜で、顔を合わすなり「酷い姿だな」と笑った。その後ろにはもう一人、見慣れない姿があった。幅の広い鍔の付いた帽子を被り、法衣に身を包んだ男。徐庶や石韜よりも随分と背の小さいその男は、「どっこいしょ」と年寄りのような掛け声を上げて床に座った。

 「士元じゃないか。一体どうしたんだい?」

 徐庶も法衣の男の訪問に驚きの声を上げた。石韜が答える前に、男が返した。

 「いや何、近くまで来たもんだから、ついでに里帰りさ。途中で石韜殿に会ったから、あっしも一緒に付いて来たんだよ」

 法衣の男は随分と軽妙な口調で言い、さらに「土産だよ」と徐庶に小包みを渡した。男は二人よりも年上にも見えたが、顔が帽子と頭巾で覆われているため年齢どころか顔立ちさえわからない。
 法衣の男が話し終えると、ようやく石韜が口を開いた。

 「まぁ、そういう事だ。元直も彼と会うのは久し振りだろう。三人で談話するのも良いかと思ってな」
 「ええと、その…来てくれたのは嬉しいんだけど、今日は都合が悪いんだ。別の日じゃ駄目かな」

 徐庶は引き止めたが、言っている傍から二人は早々と靴を脱ぎ始めた。

 「つれないねぇ、せっかく顔出したってのに。長旅で疲れてるんだ、ちょいと休ませとくれよ」
 「固い事を言うな。落ち着いて談話するには元直の邸の方が都合が良いのだ」

 法衣の男に続いて、石韜もずかずかと屋敷に上がり込む。慌てふためく徐庶の制止も聞かず、二人はまっすぐ書斎に向かって来た。神流は扉を閉め、慌てて隣の部屋に逃げ込んだと同時に、書斎の扉が開いた。

 「意外と片付いているじゃないか。客人でも来るのか?」

 と、言ったのは石韜の声だった。

 「そうだよ、だから駄目なんだ」

 強引な友人に、徐庶は不機嫌そうな声で答えた。おそらく、その顔は神流の姿がなくて安堵しているはずだ。

 「来る≠じゃなくて、来ている≠じゃないのかい? そこに女性物の風呂敷があるよ」

 法衣の男が指摘して、神流ははっとした。書物を纏めていた風呂敷を書斎に置いたままだ。

 「それは預かり物だよ」

 咄嗟に弁解した徐庶の声は上擦っていて、「ほほう」と笑いの含んだ友人の声が同時に上がった。

 ──元直殿、動揺しすぎ。

 隠れる場所を探して室内を見回したが、あいにく納戸も何もない部屋。布団に隠れるにも無理がある。

 「待ってくれ!」

 徐庶の動揺した声がした途端、部屋の扉は開かれた。扉の前には石韜と法衣姿の男、そして後ろには徐庶が何とも表現し難い顔で立っていた。突然、目の前に現れた少女の姿に、二人の目が点になっていた。特に石韜は面識があるため、驚愕の表情をしている。

 「こ、こんにちわ。お先にお邪魔してます」

 神流はぎこちない笑顔で頭を下げた。二人はしばらく呆然と見つめていたが、石韜が急に忍び笑いを溢して沈黙を破った。

 「なるほど。昨日からどうも様子がおかしいと思えば、こういう事でしたか」
 「こんな可愛らしい娘さんを家に連れ込むなんて、元直も隅に置けないねぇ」

 法衣の男も、頭巾の間から目を細めて笑った。すると徐庶は怒気の含んだ口調で事情を説明した。

 「連れ込むなんて、人聞きの悪い事言わないでくれ。彼女は塾生なんだ。勉強を教えて欲しいと言うから、教えていただけだよ」
 「それはそれは、こんなに朝早くから熱心な事です」

 石韜はにやついた顔で神流に拱手した。明言は避けたが、全てお見通しだとでもいう物言いに赤面した。早朝から屋敷にいるなど、『泊まりました』と言っているようなものだ。法衣の男も、頭巾で隠れた口元を押さえて笑っている。

 「しかし、元直ばかり狡いな。私など、名前以外に大した紹介もされていないというのに」
 「石韜殿は知っているのかい。せっかくだから、あっしにも紹介しておくれよ」
 「駄目だと言ったのに勝手に上がり込んだんだ、士元から自己紹介したらどうだい?」

 徐庶は笑いながら尋ねる友人らに対し、素っ気なく返した。彼もこういう態度をするのだと少し意外に思ったが、どこか子供染みていて滑稽だった。『士元』と呼ばれた男は徐庶の態度に肩を竦めた。

 「あっしはホウ統、字は士元だ。元直とは同じ門下生で、実家も元直の屋敷と近くてねぇ。まぁ親しい仲なんだよ」
 「それに彼は『鳳雛』と呼ばれていて、この荊州の名士、ホウ徳公殿の従子でもありますよ」

 石韜が付け足すと、ホウ統は「いやいや」と恐縮して首を振った。徐庶は『伏龍』こと諸葛亮とも友人だというから、『鳳雛』と知り合いであっても不思議ではない。彼の人望を知る今では、もう驚く事でもなかった。
 しかし、ホウ統は想像していたよりも随分と印象が違った。名士の従子で、『鳳雛』と称される男だから、もっと威風がある男かと思ったが、拍子抜けしてしまうほど軽妙で飄々とした男だ。
 すると、徐庶はぶっきらぼうな言葉を挟んだ。

 「紹介が済んだのなら、さっさと帰ってくれ。君達がいると学問どころじゃなくなる」
 「そういう訳にはいかん。神流殿がいるとわかった以上、元直が妙な真似をしないように監視しなくては」
 「そうそう、元直は普段は物静かだけど、急に手加減を知らない男になるからねぇ。見た目に惑わされちゃいけないよ、油断していると食われちまうよ」

 友人から続けざまにあらぬ疑いを掛けられ、徐庶は顔を赤らめて声を荒げた。

 「誤解を招くような言い方をしないでくれ! 何もする訳ないだろう!」
 「向きになるという事は、少なからず考えていたな」

 石韜の冷静な指摘に、徐庶はさらに赤面した。三人の大人気ないやり取りに、神流は耐え切れず声を上げて笑った。三人の顔が一斉にこちらを向く。

 「私はいいですよ。門下生の方が沢山いると心強いし」

 神流の返事に徐庶は戸惑い眉を下げたが、友人二人は待ってましたとばかりに席に着いた。

 「では、お言葉に甘えて。元直、少しは身嗜みを整えてはどうだ。女性の前で失礼だぞ」
 「その様子じゃ、まだ食事は済ませていないようだねぇ。土産の肉まんでもどうだい? 元直、早く用意しとくれ」

 許可なく屋敷に上がり込み、家主を扱き使う友人二人。そして不満気な顔をしながらも、友人に従う徐庶の姿が可笑しくて、神流は絶えず笑みを溢した。人望ある男の友人が、彼同様に人柄が良いのは同然。抱いていた緊張は一気に消え去っていった。
 友人が訪問して来た事で会話に花が咲き、学問よりも世間話が中心になった。
 ホウ統が現在、江東の周瑜の下で功曹を務めているとか、その周瑜は噂通りの美男子だとか、兄弟が諸葛亮の妹と婚姻したとか、色々と聞かせてくれた。その傍らで、よほど友人の訪問が気に入らなかったのか、徐庶は終始不機嫌な顔で座っていた。

 結局、石韜とホウ統は夕刻まで屋敷で話し込み、神流が帰ると言うと、二人も席を立った。友人二人を玄関先で見送り、神流を宿舎まで送る途中、徐庶がようやく口を開いた。

 「今日はすまない…まさか友人が来るなんて思わなかったから」
 「いいえ、とても楽しかったです。色んな話を聞けたし、打ち解けられたから。元直殿の友達って、良い人ばかりなんですね」
 「いい加減なだけだよ。本当はもう少し気遣って欲しかったな…二人の言った事、本気にしないでくれよ」
 「何か言ってましたっけ?」
 「その…手加減を知らないとか、変な事言っていただろう。俺はそんな野蛮な男じゃないよ」
 「わかってますよ」

 改めて友人に対して不快さを露にしたので、神流は笑いながら返した。
 友人の前ではどうかわからないが、友人に慕われ、女性に対して初心だという事は十分過ぎるほどわかった。そして、尊敬する相手に選んだ自分の目に狂いはなかった、という事も──。

 「また今度、伺ってもいいですか? まだ教えて欲しい事が沢山あるから」
 「それは構わないけど…急に言い出すのはやめてくれよ」

 徐庶は困ったように頭を掻いたが、合宿自体を否定する事はしなかった。

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