『合宿』

 ここ数日、仕事が忙しくて塾に通う事が出来なかった。
 小さな呉服屋と言っても、城下町にある以上はそれなりに客足もある。また、戦袍などの軍用品の注文が大量に入ると、目が回るような忙しさになる。店仕舞いの後も仕立てや反物の注文に追われ、ひと段落するのは夜も更けた頃。こんな状況が三日も続くと、さすがに気も焦り始める。
 一日でも学問を怠ると不安になってしまう。元々、講義に出る回数も少なく、学問所も夕刻にしか顔を出せない状態。わずかな時間でも指南を受けるだけでも違うし、特に今では徐庶のおかげで学問の遅れを挽回しているようなものだ。
 そのため、以前徐庶から貰った書物は救いとなった。経書の他に歴史書、兵書と必要な物が一通り揃っていて、学舎にある書物を借りる事しか出来なかった神流にとって、これほど嬉しいものはなく、今では掛け替えのない物になっていた。
 毎晩、宿舎に戻ると、疲労で熟睡する同僚の横で神流は書物を開く。少しでも遅れを取り戻すために寝る間を惜しんで書物に目を通すのだが、やはり一人では限界がある。わからないと言って、まさか同僚に聞く訳にもいかず、聞いたところで答えられる者はいない。

 ──こんな時に元直殿がいればな。

 頭を悩ます度に、男の姿が浮かんだ。今日も裏庭で呑気していたのだろうか。それとも、いつもの顔触れと談笑でもしていたのか──。色々と思い浮かべて、神流は一人微笑んだ。
 徐庶と会って二ヶ月、思えば塾に顔を出さない日はなかった。当たり前のように顔を合わせ、質問や相談に乗って貰っていたから、どれほど徐庶に頼り切っていたのかと痛感する。それに、彼の穏やかな人柄に触れると、学問の辛さも仕事の疲れも不思議と忘れてしまう。
 考えるほど、塾が恋しくなる。仕事を放ってでも塾に行きたいと思ったのは初めてだった。

 翌日も、小さな呉服屋は思いの外繁盛してしまった。状況を見るに、塾に行けなくなる確率は十分にある。当然、塾のために仕事を抜ける事は出来ず、客が来店する度に仕事が増えると苛立った。
 正午を過ぎてようやく客足が鈍り、同僚から交代の声を貰った。神流はすぐに奥の座敷に座って、両脚を投げ出した。昼食も取らず働き詰めだったため、疲労の色も濃い。
ほっと一息吐いた刹那、店先に出たはずの同僚が座敷に顔を出した。慌てて投げ出していた脚を仕舞う。

 「神流にお客さんが来てるわよ。若い男の人」

 若い男と聞いて、すぐに一人の男が脳裏を過ぎった。神流を訪ねて来る男と言えば彼≠オかいない。裏口から表に出ると、予想通り、見慣れた男の姿が店の軒先に立っていた。

 ──やっぱり。

 店内を頻りに気にしている男の姿は、相変わらず寝起きのようで、神流はくすりと笑った。背後から「元直殿」と声を掛けると、男は肩を跳ね上げて振り向いた。「やぁ」と微笑む徐庶を間近に見たのは四日振りだ。

 「どうしたんですか? お店に顔を出すなんて」
 「ええと、しばらく学問所に来ていないから気になって見に来たんだけど…やっぱり迷惑だったかな…」

 慌しい店内に視線を流し、徐庶は頭を掻いた。いつも通りの自信のない態度に、神流は笑いながら首を降る。

 「大丈夫です、丁度休憩に入ったところだから。塾は仕事の都合で行けなかったんです。今日もこの通りだから、また行けないかも」
 「そうか、君も大変なんだな。何だか邪魔したみたいで申し訳ないよ」
 「いいんですよ。こちらこそ、ご心配掛けてすみませんでした」

 神流はおどけて頭を下げた。心配して店まで訪ねて来てくれた事は素直に嬉しいのに、徐庶の頼りない言動が可笑しくて堪らない。だが、仕事の疲れはすでになくなっていた。

 「そうだ、せっかくだから一緒にお昼でもどうですか? 丁度、元直殿に聞きたい事があるんです」
 「いや…でも俺は──」

 何か言い掛けた徐庶を置いて、神流は足早に宿舎に向かった。部屋から書物を持ち出して戻って来ると、男は目を丸くした。

 「休憩中に勉強するつもりかい?」
 「だって、今しか出来ないから。もちろん付き合ってくれますよね?」

 あまりの熱心さに呆れたのか、徐庶はぽかんと口を開けた。何とも間の抜けた顔に、神流は笑いながら男の背中を強引に押した。


 昼時を過ぎていたおかげで、行き着けの飯店は空いていた。神流は席に座るなり海鮮粥と小籠包を注文し、誘われるまま席に着いた徐庶は、戸惑いながら茶だけを頼んだ。それを見て、先ほど言い掛けた言葉の続きがわかった。「もう食事は済ませた」と言うつもりだったのだろう。卓上に本を広げると、小さな溜め息が聞えた。

 「休める時に休んでおいた方がいいんじゃないか? 無理をしても身に入らないよ」

 徐庶は眉を顰めて神流を見つめていた。窘められようとも、学問を怠った焦りから今回ばかりは引けない。

 「だって、他に方法がないんだもの。塾にも行けないし、他に聞く人もいないし。仕事をしながらだと、こうするしかないんです」
 「それはそうだけど…」

 少女の切実な訴えに、男は腕を組んで閉口した。その間に卓上に料理が運ばれ、已む無く本を片付けた。

 「元直殿は昔、塾以外ではどうやって勉強していたんですか?」
 「そうだな…俺はよく友人の広元に付き合って貰ったよ。合宿してまで学んだ事もあったかな。広元は俺の一番古い友人なんだ。君も何度か会っているよ」

 知っているかと聞かれ、真っ先に思い浮かんだのは青い着物の男≠セった。徐庶の数多い友人の中で一番交流が深い男で、談笑の輪の中にも必ずいる。確かに見た目は若いが、身形が整っているので年上の知人かと思っていた。

 「私には、一緒に学んでくれる人なんていないもの…」

 そう神流はぼやき、手元の粥を蓮華で弄ぶ。同世代の塾生でも、共に学んでくれるほど親しい者はいない。塾生活で親しい人物と言えば、徐庶だけ──。そこで神流はふと思い立った。

 「そうだ、元直殿が合宿に付き合って下さいよ。泊り掛けで基礎から徹底的に教えてくれれば…」
 「そ、それは駄目だよ!」

 突然、声が上がり、周囲の視線が一斉に声の主に注がれた。見ると徐庶は頬を赤らめ、妙に慌てふためいている。唐突な提案に動揺し、さらに注目を浴びて動揺したと言ったところだ。

 「どうしてですか?」
 「どうしてって…広元と違って神流は女の子じゃないか。男の邸に泊めるなんて出来ないよ。君だって抵抗があるだろう?」
 「私なら平気です。部屋が散かっているとか、そんなの気にしませんから」
 「…そういう意味じゃないんだけどな…」

 徐庶は困ったように頭を掻いて口籠もった。彼が戸惑う理由はわかっている。友人や恋人ならまだしも、塾生の少女に家に泊めて欲しいと言われて、すんなり承諾出来るはずがない。
 しかし、今は学問の遅れを挽回する事で頭が一杯で、神流は人目も憚らず卓上に額を押し付けて懇願した。

 「お願いです、元直殿にしか頼めないんです。遅れた分を取り戻すのに協力して下さい。絶対にご迷惑は掛けません」
 「わ、わかったからやめてくれ…でも、今回だけだよ」

 半ば力押しの強引な頼みに、男の眉が極端に下がった。絵に描いたような困り果てた顔をする徐庶に対し、神流は満面の笑みを浮かべた。

 「ありがとうございます! 休暇が決まり次第、追って連絡しますね」

 勢いよく粥を掻き込む少女の傍らで、徐庶は一人苦笑していた。

 *

 仕事が落ち着いたのは、それから二日後だった。
 一仕事終えた呉服屋は、嵐が去った静けさとなり、調整するために従業員には臨時休暇が設けられた。それも一日ではなく、二日もである。さらに神流は若年という事で優遇して貰い、一番最初に休暇を取る事になった。
 同僚の気遣いに感謝しつつも、すぐさま徐庶宛てに『休暇が決まった』と手紙を書き、宿舎にも外出届けを出した。

 ──これでやっと塾に行ける。

 塾だけではない、合宿の事もある。学問に徹底的に打ち込めるし、徐庶を知る良い機会でもある。無論、前回の件で諦めた訳ではなかった。なぜかあの男は興味を引いて止まない。そして理由はどうであれ合宿≠ニいうだけで心は弾んだ。
 休日の朝、神流は早速塾に行く準備をした。鼻歌混じりに書物を纏めていると、同僚の一人が近付いて来た。

 「ねぇ、こないだの男の人は神流の何なの?」

 尋ねた同僚の顔は、随分とにやついていた。

 「あの人は水鏡先生の門下生ですよ。いつも勉強を教えて貰っているんです」
 「へぇ、本当にそれだけ? 実は恋人なんじゃないの?」

 同僚はさらににやついて肘で小突いたが、神流は「まさかぁ」と笑って返した。動揺する様子もなく、あっさりとした態度に「ふぅん」と、さもつまらなそうな返事が返って来た。
 尊敬はしているが、彼をそういった目で見た事はなかった。目標としている門下生で、信用に足る人物──それが、神流が見る、徐庶という男だった。きっと彼も、神流を強引で勉強好きな少女としか見てないだろう。先日の呆れた反応を見るに、厄介な塾生だと思っているはずだ。

 六日振りの塾に、さらに合宿の事を考えると気持ちが逸り、朝早くに宿舎を出た。
 学問所に到着するなり、真っ先に徐庶を探した。早朝の学舎に塾生の姿はなく、唯一、屋敷の前に男が数人立っているだけだった。一人は徐庶が親友と言っていた『広元』だったが、尋ねようにも抵抗がある。未だ徐庶以外の門下生とは口を利いた事がなく、近付き難い印象が拭い切れた訳ではない。
 男達に目を向けていると、『広元』と目が合ってしまった。神流に気付くなり『広元』は近付き、一礼した。

 「これはお久し振りです。元直をお探しで?」

 聞かれて神流は無言で頷いた。間近で彼を見たのは初めてだが、涼しげな顔立ちのためか、やはり徐庶より年上に見える。この日も男は青い着物を着ていた。まじまじと顔を見ていると、男は慌てて拱手した。

 「あぁ、これは失礼した。私は石韜、字は広元と申す。これでも元直とは同郷で古くからの友人です。そう固くならず、何かあれば気兼ねなく尋ねて頂きたい」

 石韜とは、今まで礼は交わしても言葉を交わすのは初めてだった。徐庶から色々と聞いているはず──、そう思うと恥ずかしくなり、ぎこちない拱手をした。その様子を石韜は目を細くして笑った。

 「元直ならば、最近は正午から顔を出していますが。用件があるのなら伝えておきましょうか?」
 「い、いえ、大丈夫です。大した事じゃないですから」

 さすがに合宿の事は話せない。神流は再び拱手し、逃げるように学舎へと入って行った。また誤解を招く言動を取ってしまったが、やはり徐庶と同じように接する事は出来ない。
 午前中に講義を終え、正午に裏庭で昼食を取り、学舎で一人書物を読んでいても、一向に徐庶が現れる様子がなかった。石韜が言う午後はとうに過ぎ、日も傾いている。

 ──もしかして逃げた?

 あれほど合宿を躊躇っていたから、可能性はある。そう思った矢先、学舎に徐庶が顔を出した。後ろには石韜がこちらを指差す姿があり、何を話しているのか容易に想像が付く。神流を見た徐庶の反応は、意外にも普段通りだった。

 「今日は朝早くから来ていたみたいだね。広元から聞いたよ、待たせてすまない」
 「いいえ、私が早く来過ぎちゃっただけです。休暇は二日もあるから、思う存分学べますよ」

 意気揚々と返すと、徐庶は先日同様に苦笑した。

 「今回は協力するけど、その…本当に女性が泊まるような所じゃないんだ…見たらきっと幻滅するよ」
 「大丈夫ですって。塾生が門下生のお宅にお邪魔するってだけじゃないですか」

 恥ずかしそうに声を潜めたので、神流は笑いながら答えた。塾生の前に女性として気遣うところは彼らしいが、すでに玄関先から散かった光景は見えていたから、今さら忠告する事でもない。

 「幾つか決め事があるんだけど、守るって約束してくれるかい?」
 「もちろんですよ。私が無理言ったんだもの」
 「それじゃあ、これから向かうけど…本当に大丈夫?」

 どこか不安げな顔をする男に「いつでもどうぞ」と明るく言い放った。
 途中で顔を合わせた石韜には「家まで送る」と言い、二人は屋敷に向かった。十六にして初めての合宿に加え、内緒で何かをするという事も、少女の胸は喜びと期待で満ち溢れた。ただ、神流の足取りは弾んでいたが、徐庶の口数は少なかった。
 屋敷の玄関の前に立つと、徐庶は急に足を止めて振り向いた。

 「最初に言っておくけど、俺が良いと言った部屋以外は見るのも入るのも駄目だよ。それから…もし不快だと思ったら、途中で帰っても構わないよ」

 真顔での忠告にも、神流は笑顔で何度も頷いた。その反応に男は不満気に首を傾げて、神流を先導した。

 「お邪魔します」

 と、元気良く足を踏み込むと、先日訪れた時より廊下が片付いていた。奥の部屋に向かう間も人知れず辺りを見回したが、部屋の扉は全て閉ざされ、廊下に置かれていた剣もなくなっていた。まさか部屋を片付けていたのだろうか──、部屋を掃除する姿を想像して、神流は内心笑った。
 案内された部屋は書斎だった。机の両脇には背の高さほどの本棚が並び、所狭しと書物が押し込まれている。数え切れない書物の量に、神流はしばらく呆然と眺めた。簡単に「あげる」と言えるのも頷ける。

 「この部屋なら、自由に使っても構わないよ」
 「凄いですね。こんなに沢山の本、一体どこで手に入れたんですか?」
 「複写した物がほとんどだよ。あとは友人から貰ったり、遠出した時に手頃な本を買って来るんだ」
 「複写って、これ全部を一人でですか?」
 「そうだよ。その方が頭に入るし、複写した書物は他の物と交換も出来るから色々と役立つんだ。実は君にあげた本も複製本なんだ…黙っていてすまない」

 どうりで綺麗な書物だと思ったが、簡単に複写出来るような内容ではなかったはず。謝っているが、謙遜する必要などない気がする。

 「私もそれくらいやった方がいいんですか?」
 「俺の真似をする必要ないよ。それにこんな事、よほど暇じゃないと出来ないよ」

 真似にしようにも、出来そうにない。身分を気にして人一倍努力していると言ったが、努力し過ぎではないかと思う。呆れるほどの努力家だ。

 「それから…君が泊まる部屋だけど、この隣の部屋でいいかな。友人が来た時には、いつもそこに泊まって貰うんだ」
 「いいですよ、寝るつもりはないから」
 「徹夜は駄目だよ、睡眠不足は学問の敵だからね。君を預かる以上、俺にも責任があるんだ。従って貰わないと困るよ」

 そう窘めると、書斎の奥の引戸を開けて部屋を見せた。隅に書物の束が積んであるが、布団が畳んで置かれている以外は何もない。

 「ええと…一応、来客用の布団はあるんだけど、嫌だったら使わなくていいよ」

 急に年上らしい厳しい言動をしたかと思えば、すぐに自信を失い相手に気を使う。本当に忙しい男である。
 両方の部屋を交互に見比べる。見渡す限り書物に埋もれた部屋と、何もない殺風景な寝室。本人が気にするほど酷い部屋でもなく、勉学に励むだけならば適した環境だろう。ただ、徐庶の一面を覗きたい神流には退屈な状態である。

 「私が使ってもいいのは、書斎とこの部屋だけですか?」
 「そうだよ」
 「他の部屋は絶対に駄目なんですか?」
 「最初に言ったじゃないか、俺が良いと言った部屋以外は駄目だよ」

 他にも部屋が沢山あるのに、立ち入れるのは書斎と寝室だけ。何か疚しいものでも隠しているのかと思ってしまう。駄目だと言われると、余計に見たくなるのが真情というもの──。ふと、良からぬ事を思い付いた神流は不敵な笑みを浮かべた。

 「さすがに厠くらい使ってもいいですよね? どこですか?」
 「あぁ、それなら書斎を出て手前の扉だよ」

 徐庶が指差した先に扉が二つあった。指先は明らかに廊下の突き当たりの扉を差していたが、神流はわざと反対の扉に手を掛けた。

 「こっちですか?」
 「違うよ、そこは──」

 徐庶の制止も虚しく扉は開かれた。途端に大量の竹簡が雪崩れ込み、がらがらと音を立てて廊下に散乱した。竹簡の山から視線をずらすと、男は恥ずかしそうに目を伏せた。

 「…慌てて片付けたから、他の部屋はまだ整頓していないんだよ」

 ──やっぱり片付けていたんだ。

 想像通りだった事が可笑しくて、神流はくすくすと笑って足元の竹簡を拾い集めた。この男に限って疚しい事などあるはずがない。

 「合宿のお礼に、私が部屋の掃除をしてあげましょうか?」
 「そ、そんな事しなくていいんだよ。大体、君は勉強しに来たんだろう? 六日分取り戻したいのなら、そろそろ始めた方がいいんじゃないか? 早く座りなよ」

 徐庶は机の前を指差して、厳しい口調で言った。からかわれた事に立腹していたが、動揺から頬を赤らめている。

 ──面白い合宿になりそう。

 上辺だけの謝罪をして席に着くと、徐庶はその期待を消沈させるように大量の書物を机上に積んだ。

 「やるからには、手加減しないよ」

 と、男は珍しく眉を吊り上げて言い放った。

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