『水鏡塾』

 最初に彼≠見た印象は『人の良い男』だった。人相見の才がある訳ではないが、顔を見て真っ先に浮かんだ言葉がそれだ。一見どこにでもいそうな男なのに、とても印象深かった。
 彼≠ニ出会ったのは、まだ神流が荊州の襄陽に住んでいた頃だ。その当時の荊州は劉表が治めていて、戦乱真っ只中とは思えないほど平和な地だった。そのため、中原の戦乱を逃れて荊州に移り住む者も多かった。
 襄陽には『水鏡先生』という人相見で有名な隠士が住んでいた。水鏡は道号で、姓名は司馬徽、字は徳操という。その名声は中原中に知れ渡っており、彼の評価を受けて世間に名を出した者もいる。また、彼の元には才知ある者達が集い、多くの門下生がいて、劉表の幕僚にも門弟いるほどだ。さらに指南を受けるために、遠路はるばる屋敷まで足を運ぶ者もいた。荊州には他にも名士が数多く住んでいたが、彼も襄陽では知る人ぞ知る著名人だった。
 『水鏡先生』の存在は、当時の神流に大きな影響を与えた。戦乱が色濃くなる世の中で、女の身で何が出来るかと考えた結果、行き着いたものが学問だった。しかし塾に通うにも、平民の娘で、しがない呉服屋で住み込みで働く神流には、縁遠いものだと思っていた。
 そこで出会ったのが『水鏡塾』である。基本的な文字の読み書きから、地理に天文、兵法と、あらゆる学問を学ばせてくれる学問所で、無条件で誰でも入塾できる。おかげで神流はより深い学問に触れる事ができた。
 彼≠ニ出会ったのは、その『水鏡塾』だった。偶然か必然か──二人は顔を合わせた。

 *

 神流はいつものように勤め先から学問所に顔を出すと、門前で数人の男が立ち話をしていた。いかにも知者らしい身形と顔立ちの殿方。学問所には門下生はもちろん、司馬徽を慕う隠士達が訪れる事もあったため、彼等もそうなのだろうと遠目に眺めていた。
 よく見れば見覚えのある面々で、何やら気難しい顔で話し込んでいる。話の内容は大抵決まっていて、国の情勢とか政治的な話が主だ。塾生として学問を学んでいても、少女の神流には理解できないし、彼等の堅苦しく近寄り難い雰囲気は少し苦手だった。
 だが、この日は一人だけ、見慣れない若い男の姿があった。綺麗に纏めた頭が並ぶ中に、乱雑な癖の付いた髪。寝癖のようにも見える。
 彼等の横をすれ違った際に、男の顔が見えた。周囲の男達同様に厳しい顔付きではあったが、どことなく温厚さが滲み出た顔。寝癖のような髪に続いて、口元には無精髭まで生やしている。

 ──この人も門下生なのかな。

 まだ水鏡塾に通い始めて三ヶ月余り。知らない顔があっても当然なのだが、男の姿が他とあまりにも身形が違うので、少し滑稽に映った。

 夕刻は講義がない事もあり、塾生の姿は数えるほどしかいなかった。日中は塾生で満席になり、講義時間ともなると聞きに来る民衆で学舎前に人だかりが出来る。講義は受けられないが、夕刻の学舎は静かに学問に打ち込めるため、むしろ都合が良かった。
 席に着くと、本棚から書物を数冊持ち出して机上に広げた。講義のない夕刻は、閉校まで本に読み耽る。万一わからない事があっても、学問所の隣には水鏡先生の屋敷がある。また学問所には門下生が留まっている事も多く、質問相手に困る事はない。
 ただ、神流は門下生と会話をした事がなかった。塾生ならば同年代の姿もあるが、門下生はほとんどが男性で、年齢も神流より一回り以上離れている者ばかり。さらに知者特有の固い雰囲気が距離感を生み、十六の少女が気軽に声を掛けられるような者はいなかった。唯一話せるのは、温雅で気の優しい水鏡先生くらいだ。
 しばらくすると、外で話し込んでいた男達が学舎に入って来た。教室の一角に座り込むと、今度は碁盤を囲んで談笑を始めた。話し声に顔を上げると、その場にいたのは三人だけだった。中には、先ほどの若い男の姿もある。彼等が門下生かどうかはわからないが、三人で談笑しているところを見ると、親しい友人のようだ。
 三人の会話に、神流はつい聞き耳を立てていた。

 「彼は元気そうだったか?」

 と、青い着物を着た男が尋ねた。

 「相変わらずだよ。最近、結婚相手を探しているらしいよ」

 若い男が穏やかな口調で返すと、二人同時に「結婚」と驚愕の声を上げた。再び青い着物の男が尋ねる。

 「簡単に見つかるとは思えんな。こういうのも何だが、少々変わり者だからな」
 「そうかな、彼は凄いと思うよ。俺なんかじゃ到底敵わない」
 「才があっても、邸に篭ってばかりじゃ意味がないだろうに」
 「嫁を貰えば、少しは気が変わるかもしれんぞ?」

 と、もう一人の男が返すと、若い男と青い着物の男が無言で首を傾げ、笑った。
 先ほどの近寄り難い雰囲気とは打って変わり、談笑を交わす姿は、神流が持つ知者の印象を一変させた。特に初めて見る男の方は、気難しい顔が多い門下生や隠士とは雰囲気がまるで違った。会話の間も終始、柔和な笑顔を浮かべ、見るからに人の良さそうな男だ。
 すっかり見入っていると、その男が神流の視線に気付き、申し訳なさそうに頭を下げた。どうやら『うるさい』と訴えているように見えたらしい。慌てて書面に視線を落としたが、おかげで弾んでいた会話は静まり、粛々と碁を打つだけになってしまった。

 ──悪い事しちゃったかな。

 神流は一人気まずくなり、本を立てて顔を隠し、読書に耽った。

 *

 日が傾くにつれて、一人、また一人と学問所を後にして行く。夕闇に気付いた時には、学舎内には神流と若い男一人しか残っていなかった。いつしか友人二人は退席し、男は碁盤を台にして一人書物を読んでいた。
 いつの間にか取り残されていた事に神流は焦った。帰る前に、明日の講義時間を尋ねるつもりだったのに、いるのは初対面で素性もわからぬ男。閉校間際まで学問所に留まっているところを見ると門下生なのだろうが、先ほど気まずい思いをした相手では、とても声を掛けられない。

 ──どうしよう。

 書面を眺める目が泳ぐ。ちらちらと様子を伺っていると、男は手元の書物を閉じて窓の外を眺め、神流の方に顔を向けた。互いの目が合うと同時に、男は腰を上げた。

 「あの…そろそろ帰られた方がよろしいかと」
 「ご、ごめんなさい、今すぐ片付けます」

 神流が慌しく机上の本を畳むと、男は急に戸惑い始めた。

 「あぁその、すみません、急かした訳ではないんです。ただ、明るい内に帰った方がいいんじゃないかと思って…夜は何かと物騒だから」

 男は困ったように眉を下げ、こちらを見つめている。外見通りの言葉だと思ったが、思わぬ気遣いに困惑し、「はぁ」と気の抜けた返事しかできなかった。
 神流が知る門下生の中では一番若い気もするが、この柔和な面持ちと飾らない身形がそう見せているのかもしれない。年上である事は確かだが、腰が低く、良い意味で庶民的で、親しみやすい雰囲気を持つ男だった。
 まじまじと顔を見ていると、男はさらに眉を下げた。

 「あ…初めて見る顔にこんな事言われても困りますよね…」

 ──また勘違いされた。

 十六の少女を気遣わせては、彼の面目が立たない。神流は必死に弁解した。

 「すみません。まだ通い始めたばかりで、どんな方がいるのかよくわからないんです…」
 「いえ、俺もしばらく襄陽を離れていたし、学問所に顔を出すのも久し振りだから、知らなくて当然かと。おかげで塾生の方とも面識がなくて…」

 男はそう言うと、はにかんで見せた。ふにゃりとした人懐っこい笑みが、神流の緊張を解していく。

 「あの、失礼ですが、水鏡先生の門下生の方ですか?」
 「はい。申し遅れました、俺は徐庶、字は元直と言います。またしばらくここに留まるつもりですので、どうぞお見知りおき下さい」
 「わ、私は神流と言います。こちらこそ、よろしくお願い致します」

 徐庶と名乗った男は丁寧に拱手したので、同じく礼を返した。どう見ても歳の差は歴然なのに、腰が引くいため、必要以上に恐縮してしまう。

 「あの、実は伺いたい事があって、明日の講義時間を知りたいのですが…」
 「はぁ、講義…ですか。ええと…先生に聞いてみます」

 男は寝癖の付いた頭を掻いて、慌しく学問所を出て行ってしまった。留守にしていたのだから、明日の講義時間など知るはずがないと、自ら尋ねておいて思った。
 書物を片付け、学問所の外で待っていると、屋敷から男が出て来た。神流を見るなり駆け寄って来た。

 「明日は正午から行なうそうです」
 「わ、わかりました。お手数をお掛けして申し訳ありません」
 「あぁ、待って」

 足早に立ち去ろうとする神流を呼び止めると、脇に抱えていた木簡を差し出した。
見ると講義内容の覚書だった。親切心は嬉しかったが、ここまで来ると申し訳なくなって来る。

 「これ、良ければどうぞ。明日の講義について書いてあります」
 「あ、ありがとうございます」

 両手で丁寧に木簡を受け取ると、慌しく頭を下げてその場を立ち去った。後ろを振り向くと、男は未だに神流を見つめていた。
 柔和な顔、のんびりとした話し方、穏やかな物腰。初対面だと言うのに、随分と親切で人の良い男だと思う一方で、どこか覇気に欠けた男だとも思った。いかにも『気ままな隠士暮らし』をしているような面持ちである──と、挙動不審な行動をしていた自分が言えた台詞ではない。ただ、好感を抱いたのには違いなかった。
 帰り道、男から貰った覚書に目を通した。綺麗な字で明日の講義内容が全て書かれている。ただ一人の塾生のために、よくここまでしてくれたものだと心底思う。

 ──明日もいるのかな。

 わずかしか言葉を交わしていないのに、徐庶という男は神流の記憶に強く残った。

 *

 翌日は、久し振りの休暇だった。勤め先の宿舎では、同僚達が『街に出掛ける』とか『恋人と会う』とかはしゃいでいたが、神流は竹簡を束ねていた。同僚は、その姿を呆れ顔で見つめていた。

 「また塾に行くの? たまには遊んだ方がいいわよ」
 「大丈夫、塾の方が楽しいから」

 すると同僚は「ふうん」と気のない返事をした。いかにも『理解できない』という顔だ。
 年頃の少女が、お洒落もせず塾に入り浸っている姿は、同じ女性から見れば滑稽かもしれない。だが、神流にとっては街で遊ぶよりも、念願の塾で学べる事の方が嬉しかった。そして、水鏡先生の人柄も神流を惹き付けた。中には『変わり者』と噂する者もいたが、彼の元で学ぶ今では、人が集まる理由がよくわかる。
 穏やかで、飾らず、親しみやすい──。その点では、あの徐庶という男も同じように思える。
 初対面で好感を持った人物は水鏡先生以来で、彼の場合は歳が若い分、さらに親近感が湧いた。勝手に妙な親近感を持っては迷惑かもしれないが、塾生では一番若年である神流にとって、徐庶のような人物の登場はとても心強いものだった。
 早くから宿舎を出て、正午前には学問所に到着した。学問所には、すでに大勢の民衆が殺到していた。民衆は老若男女、身形も様々で、毎回、講義を聞くためだけに学舎を取り囲む。
 昔──と言っても三ヶ月前だが、自分も全く同じ事をしていたと、この光景を見る度に思う。当然、講義の席に着けるのは塾生のみ。学舎の外では講義の声を聞くだけに過ぎず、それで満足する者もいれば出来ない者もいる。言うまでもなく、神流は後者だ。
 人混みを掻き分けて学舎に入ると、辛うじて空いていた席に座った。目の前には地図の書かれた大きな木板が立て掛けられ、教卓には筆と書物の他に駒が置かれている。講義内容が『兵法』だと知った塾生達はどよめいたが、神流は一人余裕の表情だった。この日の講義が『兵法』であると徐庶から貰った覚書で知り、昨夜の内に予習していたからだ。
 人が溢れる中、神流は周囲を見回した。徐庶の姿がないかと探したが、学舎の中にも、民衆の中にもいない。

 ──今日は来てないのかな。

 その間にも水鏡先生が顔を出し、落ち着かない内に講義は始まってしまった。

 講義が終わり、休憩のために学舎を出ると、屋敷前に男が三人立っていた。それが昨日の三人で、うち一人が彼≠セと一目でわかった。姿を見つけて嬉しくもあり、気まずくもあった。昨日の自分の言動で気を損ねていないか、気掛かりだった。
 ふと目が合い、小さく頭を下げて挨拶をした。すると、徐庶は談笑の輪から外れて近付いて来たので、神流はぎょっとした。

 ──中断してまで来なくていいのに。

 動揺している間に、徐庶が目の前に立った。先日同様、無精髭で寝癖の付いた髪に、柔和な笑みを浮かべている。相手が口を開く前に、神流は早々と頭を下げた。

 「昨日はありがとうございました。おかげで助かりました」
 「いえ、お役に立てて何よりです。あれから二人に聞いたんだけど、毎日遅くまで残っているそうですね」

 「えっ」と声を上げると、徐庶は後方にいた友人二人を差した。まさか二人の目にまで止まっていたとは思いもせず、途端に赤面した。

 ──そんなに変な女に映ってたのかな。

 おろおろと閉口していると、徐庶は声を出して笑った。

 「悪い意味ではありません。熱心な塾生がいると、感心して見ていたそうです」

 それを聞いて、ますます赤面した。理由はどうであれ、目に付いていた事自体が恥ずかしい。

 「ええと、神流殿…でしたね。失礼ですが、お住まいはどちらですか?」
 「じょ、襄陽城市にある呉服屋です」
 「ご実家ですか?」
 「いえ、住み込みで働いているんです。実家は新野にあります」
 「新野か…」

 と、徐庶は独り言のように呟いた。何やら真剣な面持ちで考え込んでいるが、良からぬ誤解をしている気がする。神流が不安げに男の顔を覗き込むと、男ははっと我に返り、頭を掻いた。

 「あ…すみません、若い女性の塾生はあまり見ないものだから、どういう方なのかと思って。でも、まだ若いのに仕事と学問を両立するなんて、偉いと言うか、その…凄いですね」

 門下生からの褒詞に神流は動揺した。蔑まされる覚えはあっても、褒められるような事は何一つしていない。

 「わ、私なんて大した事ありません。平民の娘だし、塾に通うまではずっと独学で、講義だってわからない事だらけで…」

 本当は、付いて行くだけで精一杯だった。講義も理解できない事ばかりで、自分の知識がいかに未熟なものか思い知らされる。仕事も学問も中途半端にしか出来ない自分に、苛立ちすら感じる。
 力なく俯くと、徐庶の表情からも笑みが消えた。しばらく沈黙し、ぽつりと口を開いた。

 「あの…最初から完璧に出来る人なんて、そういないと思います。俺も昔は学問とは無縁だったし、今でも苦労は多いですから。それに…俺は門下生としてまだ未熟者です。他の門下生や知人が優れた人が多いから、俺なんか大した…いや、ええと…違うな…」

 と、徐庶は頭を掻いて自分の言葉を否定した。

 「その、俺なんかで良ければ何でも相談して下さい。出来る限り協力します」

 徐庶は急に明るく言い放ち、微笑んで見せた。年下の塾生に言葉を選んで話す男の姿が滑稽で、思わず頬が緩む。

 「でも、ご迷惑じゃありませんか? 昨日だって…」
 「いえ、塾生を気に掛けるのも門下生の役目ですから。それに俺自身も、努力している人が傍にいると励みになるんです。同じ門下の者同士、これから一緒に切磋琢磨していきましょう」

 徐庶は丁寧に拱手をして一礼した。
 なぜこの男は、ここまで他人に優しく出来るのか。戸惑うくらいに人が良い。でも──神流は嬉しかった。同じ学問所で、同じく学問を志す人と、これから共に同じ道を歩む事が出来ると思ったから。

 「ありがとうございます、私も心強いです。それでその…早速一つ、お願いがあるんですが…」
 「はぁ、何でしょうか?」
 「私は塾生だし、徐庶殿より年も下ですから、普通に話して欲しいんです。名も呼び捨てで構いません。敬語だと、何だか恐縮してしまって…」

 神流の言葉に、徐庶は途端にはにかんだ。

 「あぁ、そうですよね。ええと、じゃあ…神流、これからよろしく頼むよ。俺の事も元直でいいよ」

 男が優しく笑ったので、神流はようやく心から笑顔を見せた。

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