『君を守る・樊城奪回戦』

 翌早朝、祝宴の余韻も醒めない内に『曹操軍、樊城より進軍』との一報が飛び込んで来た。わずか二千の劉備軍に対し、先陣を切った二将が惨敗を喫した事もあり、また同胞を失った激昂も相俟って、曹操軍は全軍を率いて新野に押し寄せて来た。
 斥候が慌しく転がり込んで来た頃には、曹操軍は新野目前まで押し寄せていたが、状況を予見していた徐庶は至って冷静だった。

 「曹操軍はおよそ二万五千、こちらはわずか二千足らずだ」
 「曹仁、李典は曹操の忠臣だ。先日の呂将のように柔な将ではないぞ」
 「奴ら、我々を新野ごと一掃するつもりらしい」

 一度完勝したとはいえ、十倍以上に及ぶ兵力差を前にしては高まった士気も持続しない。報を受けるなり周囲から次々と弱音が飛び出したが、怒髪した張飛が机を叩き付けたおかげで収拾した。

 「だからと言って、臆している暇はないぞ。ここで新野を守らねば荊州が危ういのだ」

 劉備も厳しい口調で諸将を窘めたが、その表情は暗い影が差している。徐庶はそれを見逃さず、静かに言い寄った。

 「心配には及びません、これも予見していた通りです。この状況を打開する策は練ってありますから、すぐに出兵して下さい」

 自信に満ちた軍師の発言に劉備は安堵して頷き、指示通り兵を率いて新野城を発った。
 その先で待ち受けていたのは、平野一面に広がる物々しい軍勢であった。軍を八つに布き、中央に曹仁、後陣に李典を置き、強大な陣を持って劉備軍を待ち構えていた。

 「何と物々しい軍勢よ。まるで一つの砦のようだな」

 敵陣を一望した劉備は、不安の中にも感心したような声色で言った。隣で馬首を並べていた関羽も溜め息混じりに続ける。

 「見た事もない陣形だが、あのような強固な軍を我々はどう相手にすべきか」

 そう言った後、両者は揃って徐庶に視線を向けて策を求めた。張飛においては口を閉ざしたままで、まるで最初から助言を待っているようにも見える。己の知を必要とされている事に、徐庶は場違いにも感銘を受けた。

 「あれは八門金鎖の陣と言います。名の通り、休、生、傷、杜、景、死、驚、開の八門からなり、闇雲に攻め込めば必ず壊滅します。確かに堅強な布陣ですが、どんな陣形にも破る方法はあります。この八門金鎖にも攻略の手順がありますから、それさえ知っていれば問題ありません」

 『八門金鎖の陣』──または『八卦の陣』とも呼び、八門のうち、生門、景門、開門は吉となるが、傷門、休門、驚門から入れば傷害を被り、杜門、死門を侵せば滅亡すると言われている。周の軍師、かの太公望が考案したとされ、変化自在な故に守備において極めて堅強と呼べる陣形であった。
 さすが歴戦の将だけあり戦上手──と感心したが、兵法を熟知する者には珍しいものではなく、徐庶は一目見て吉となる三門を見破り、さらには中軍の守備が脆く、そこが弱点である事も見抜いた。

 「俺が見たところでは、中央に曹仁、李典軍はその後陣に控えているだけですから、重鎮のいない中軍が一番脆いでしょう。そこを突けば陣形も容易に崩れるかと存じます」

 徐庶は目の前に広がる布陣を指差して説明すると、劉備と関羽は「なるほど」と大きく頷いたが、張飛は首を傾げて『早く要件を言え』とばかりの不満顔だった。そんな義弟に代わって劉備が静かに尋ねる。

 「して、我らはどこから攻め入れば良いのだろうか」
 「東南の生門から入って中軍を崩し、西の景門から出るのが良いでしょう。まずは精鋭を率いて東南から侵攻し、陣形が崩れたところを全軍で討つのです」
 「さすがは徐庶殿だ。ではその任、趙雲に任せよう」

 徐庶の弁舌を聞いた劉備は忽ち表情を明るくして、すぐさま趙雲を近くに呼び、五百騎を率いて東南から攻め込むように命じた。だが、張飛は依然として仏頂面で、趙雲を見送るとぽつりと不満を溢した。

 「なんでぇ、さっきから趙雲ばかりじゃねぇか。敵を蹴散らすなら俺の方が似合いだろ」
 「翼徳、今は功を争っている場合ではないぞ。それにお主は蹴散らすのみ≠ナあろう。此度の軍師殿の策を実行するには少々荷が重い」

 関羽が冗談混じりに返すと、皮肉られた当人は大きく舌打ちをした。そんな義兄弟のやり取りに、緊張していた将兵からも小さな笑いが起こる。徐庶が兵法の妙を説いて見せた事も、彼等の間に余裕と笑顔が生まれた理由だった。
 無論、このまま猛将を用いずに済ますほど、徐庶が描いている策は甘くはない。曹仁が全軍を率いて新野に進軍したと聞いた時、すでに次の一手を考えていた。

 「心配いりません。この後、お二人には樊城を攻め取って貰うつもりですから」

 未だ眼前の曹操軍すら破っていないというのに、軍師の突拍子もない献策に劉備はもちろん、張飛も大きな目をさらに見開いた。

 「こちらは少数だというのに、樊城まで攻めるとはまことか?」
 「曹操軍は全軍を率いて新野に布陣しています。つまり今の樊城はがら空きです。たとえ地勢や兵力が不利であっても、それを覆すのが兵法です。まずは眼前の敵を迎え撃ち、後の樊城奪還への備えとするのです」

 まるで勝利を確信したような徐庶の自信に劉備は戸惑いを見せたが張飛は感心したらしく、仏頂面を破顔させて自ら進んで策に聞き入った。
 新野は兵も土地も連戦に堪えられるほど強靭ではなく、ここで曹操軍を完膚なきまでに叩かなければ守り切る事は出来ない。十倍の戦力差で新野を防衛する必要がある今、手段を選んでいる時ではなかった。

 ──神流に守ると誓った以上、必ず勝利しなければ。

 献策する徐庶には一切の迷いも甘えもなく、かといって冷静さに欠いている訳でもなく、軍を指揮する姿は至って穏やかであった。恋人が手掛けた軍袍と、その胸に仕舞い込んだ櫛と書簡が、劣勢の戦に立ち向かう自信と勇気を与えていた。

 先陣を切った趙雲率いる五百騎は、指示通り東南から侵攻し、味方の鼓舞を得て怒涛の攻めで中軍を突破すると、徐庶の予見通り敵陣は瞬く間に混乱した。曹仁自ら兵を鼓舞するも、雪崩れ込んだ中軍を立て直すには至らず、趙雲は敵兵を蹴散らしながら西の景門まで向かうと、再び東南へと引き返して縦横無尽に敵陣を掻き乱した。
 悉く蹂躙された八門金鎖の陣は、東南から内側に掛けて大きな穴を開けて崩れていった。

 「今が好機です」

 陣形が崩れた時を見計らって総掛かりの令を下すと、控えていた千五百騎が一気呵成に敵陣へと攻め込んだ。士気を失い、八門金鎖の陣も効力を失った今、二万五千の軍勢はほぼ無力に等しかった。わずか二千の劉備軍の勢いは十倍の曹操軍をも覆い尽くし、新野から追い立てていった。

 「おそらく、この程度では引き下がらないでしょう。夜襲の警戒をしておいて下さい。それから関羽殿と張飛殿は樊城へ向かって下さい。早速で申し訳ありませんが、次の策に移ります」

 勝ち戦に沸き立ち、軍師の采配を感賞する中、徐庶は冷静に言い放った。二度敗走したとはいえ、致命的な打撃を受けた訳ではない。雪辱を晴らさんと再び攻め込んで来ると徐庶は見ていた。
 指示に従い、劉備は関羽、張飛に別動隊として千騎を与えて樊城に向かわせ、陣営には趙雲を置いて夜襲の備えとした。徐庶は別動隊に同行し、樊城奪還の指揮を取った。

 「張飛殿は谷に兵を伏せて、関羽殿は曹仁が城を空けた後、樊城の西から進攻して下さい」

 樊城は堅城とされるが、山河が立ち並ぶ地形を利用すれば、奇襲も城を攻め取る事は可能だった。荊州にいる間、各地を散策していた徐庶は樊城周辺の地形も把握しており、樊城と新野の境にある蛇口と呼ばれる谷は伏兵に適し、また城楼の西ならば攻め入る隙がある事も知っていた。ましてや兵の大半が出陣しているとなれば、少数の兵力でも十分事足りる。これも長年に渡って身に付けた知識と兵法の妙諦が弾き出した徐庶の策であった。

 「さぁて、これから曹操軍に一泡吹かせてやろうぜ」

 本当に夜襲などあるのか、樊城が取れるのか──と、軍師の言を疑う声は一切聞かれず、策など性に合わないと言っていた張飛も、遠方にある堅城を眺めて意気揚々と笑った。

 *

 一方、陣営に逃げ帰った曹仁の憤りは、徐庶が思う以上のものだった。
 弱小な二千の劉備軍相手に二度も敗戦し、武将としての誇りも傷付けられ、普段は寡黙な男も怒気を隠せなかった。憤りも極限に達すると罵声も出ず、曹仁はただ黙したまま卓上の地図を睨み付けて、その形相がさらに諸将を恐怖させた。

 「立て続けに負け戦とは、このままでは面目が立たぬ。今宵、夜襲を掛けるぞ」

 ようやく溢した発言に、傍らで沈黙していた李典は急に怪訝な顔をして、「待った」と声を上げた。

 「待って下さいよ、相手はあの八門金鎖の陣ですら簡単に見破るような連中ですよ。今までの劉備はただ逃げるだけでしたが、今回はどうも様子が違う。おそらくは、よほど頭の冴える策士を幕下に迎えたんでしょう。となれば、曹仁殿の夜襲も看破されるに決まってますよ」

 李典は警告したが、敗戦後の緊張にそぐわぬ軽妙な口調が返って曹仁の怒りを煽る事になった。甲冑の合間から鋭い視線が注がれ、李典は思わず目を背けたが、味方が危険に晒される事を知って見過ごす訳にはいかず、態度を改めて真剣な面持ちで言葉を続けた。

 「いや、何となく嫌な予感がするんです。もしかすると樊城の留守を狙われるんじゃないか…ってね。もしそうなれば戦どころじゃなくなります。ここで判断を誤ると危険です、もう少し冷静に…」
 「では、無様な姿を晒したまま都へ逃げ帰れと言うのか。丞相より荊州の攻略を任されたのだ、結果を出さずして退く訳にはいかぬ。此度の戦はお主の面目にも関わる事なのだ、心して戦え」

 一見冷静に見える曹仁も案外激し易い男で、一度激昂した彼の耳には知将・李典の助言も届かない。ろくに話も聞かず「夜襲を敢行する」と一方的に決め付けると、早速兵を纏めて出て行ってしまったので、李典も已む無くそれに従った。


 夜半になると、曹仁は残る兵を引いて劉備の陣営に夜襲を掛けた。しかし、陣営にあったのは見せ掛けの天幕と甲冑を被せた人形のみ。罠と察した直後、頭上から火矢が降り注ぎ、辺り一面火の海となった。

 「いかん、罠だったか! 退け!」

 撤退を命ずるも、後方は火中にあって退路を絶たれ、追い打ちを掛けるように天幕の奥から趙雲率いる精兵が次々と現れる。返り討ちに遭った曹仁の軍は動揺して指示も儘ならず、瞬く間に兵の大半を失って、自ら痛手を負う形となって樊城へと転進した。
 だが、劉備の備えは夜襲の迎撃だけに留まらなかった。河を目前にしたところで、谷間の前後から騎馬が雪崩のように押し寄せ、忽ち修羅場と化して河川は赤く染まっていった。

 「燕人張飛のお出ましだ! おめぇら、絶対に逃がさねぇからな!」

 水が弾ける音と断末魔の中に、際立った男の声が響く。その怒号は、度重なる襲撃に混乱した将兵に更なる恐怖を植え付けた。絶望して逃げる気力すら失ったが、曹仁、李典は自ら身を挺して兵を守り、死に物狂いで河を渡り切った。

 ようやく樊城城門まで辿り着いた頃、残った兵は千にも満たなかった。命辛々逃げ帰った曹仁は門前で鐘を鳴らして開城を求めたが、李典はいち早く城の異変を察して手で制した。

 ──悪い予感が当たった。

 この時、李典は一瞬で血の気が引いていく感覚を全身で味わった。

 「…まずいですよ。もう敵の手に落ちています」

 直後、城門の上に人影が立った。闇夜の中でも一際威風を放つ大きな人影──その人物が誰かと尋ねるまでもなかった。趙雲、張飛と来たのなら、残るは関羽しかいない──。ゆらりと揺れた松明の灯りが、その雄雄しい姿を照らし出す。

 「樊城は、この関雲長が貰い受けた。城に立ち入るというならば、拙者が直々にお相手いたそう」

 咆哮のような声を合図に開けた城門から、次々と騎兵が姿を現した。
 大勢の兵と戦意を失った状態で『一騎当千』と呼ばれる猛将と戦う事など、二人は少しも考えなかった。関羽を見るなり馬首を巡らせ、傷付いた兵を引いて許都へと引き返すしかなかった。
 そんな折、李典は関羽の傍らに頭巾で顔を隠した軍袍姿の男が立っているのを見た。
馬を鞭打ち、敗走の辛酸に唇を噛み締めながらも、その男が全ての策を看破した策士だと悟り、感服した。

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