悩んでいる内に時が過ぎ、徐庶と交流を断ってから一週間が経った。
この日も、徐庶は夜分遅くまで宿舎の前に佇んでいた。窓から見える後ろ姿は一段と暗い影を落とし、見た事のない落胆の色に胸が痛む。時折、様子を伺うように宿舎を見上げ、その度に神流は窓際から一歩身を引いた。
その煮え切らない態度には、同僚も見兼ねて言い寄って来た。
「いい加減に会ってあげなさいよ。強情を張ってても解決しないわよ」
「ううん」と曖昧な返事をすると、大きな溜め息が返って来た。
「もう協力しないわよ。断る度にあんなに落ち込まれると、私が悪い事をしている気分になるのよね」
同僚は素っ気なく吐き捨て、乱暴に戸を閉めた。叱責は尤もで、今の神流は喧嘩をして面会を断って、引っ込みが付かなくて強情を張っているだけだ。本当は出立の仕度は順調なのか、心配で堪らない。荊州や新野が戦場になる事よりも、徐庶の身が心配で堪らない。
窓から覗く悄然とした徐庶の後ろ姿を眺めて、心の中で『こんなところにいて大丈夫なの?』と尋ねる。すると、まるで声が聞えたとでもいう風に徐庶は周囲を見回した。
──人が良すぎるわよ。
我儘な恋人など放って置けばいいものを顔を出すまで離れようとしない。夢に見た仕官の時を放ってまで待つ必要などないのに、ほぼ毎日同じ刻限まで待ち続ける。言葉を交わさずとも会いたい≠ニいう想いが痛いほど伝わって来る。その直向な姿に神流も衝動を抑え切れなくなり、ついに部屋を飛び出した。
宿舎の玄関を少しだけ開いて、外の様子を伺う。徐庶は店の迷惑にならないようにと、街路を挟んで向かい側に俯き加減に立っていたが、扉が開くと途端に顔を上げた。まだ表にも出ていないというのに、気配だけで扉を開けた者が神流だとわかるのだろうか、憂い顔がわずかに晴れた。しかし、神流が宿舎を出て徐庶の元に歩み寄ると、忽ち陰鬱とした気配を漂わせて、向かい合っても見つめるだけで口を閉ざしたままだった。悲痛な姿を前にして、神流も言葉が上手く出て来ない。
「…新野に行かなくていいんですか?」
ようやく出た言葉は自分でも呆れるほど素っ気ないもので、徐庶も目を伏せた。自分では悄然として向き合っているつもりだったが、彼には責めているように見えるのだろう。返って来た声も酷く小さいものだった。
「すまない…どうしても君に話しておきたいんだ。少しだけいいかな」
そう言って街門を手で指したので、神流は小さく頷いた。
賑わう街中を歩く間も、二人に会話はなく、煌々とした街の風景が全く視界に入らず、ただ暗闇しか映らなかった。謝罪しようにも、振り向きもせず無言で先導する男の背中が怖くて、声を掛ける勇気がない。
街門を潜って人気のない河岸の小路に出たところで、徐庶が足を止めた。おもむろに纏っていた羽織を足元に敷き、上に座るように促す。この状況でも気遣いを忘れない恋人に心痛し、神流は羽織の端にそっと腰を屈めるだけに止めたが、その態度が彼の感情を逆撫でてしまった。徐庶は唇を軽く噛み、少し荒い息遣いで不満を露にして神流の隣に屈む。経験のない重苦しい雰囲気に困惑し、横に座る恋人を見る事が出来ず、徐庶もまた俯いたまま神流を見ようとしない。
「その…こないだは悪かったよ。君を泣かせるつもりなんてなかったんだ…」
ぽつりと零れた低音は、闇夜の静寂でも聞き取り難いほど小さい。神流は小さく首を振ったが、沈んだ声は気付いた様子もなく続ける。
「離さないと誓ったのに、突き放すような事を言ったんだ…罵られて当然だと思っているよ。だけど、誤解しないで欲しいんだ。俺は戦なんかで神流を傷付けたくない…故郷が戦場になるところなんて見せたくないんだよ。君が悲しむ姿は見たくない…」
震えた声に顔を上げると、いつしか目の前に徐庶の顔があった。その瞳は濡れていて、目が合うなり表情は一層悲しみに満ち、両腕が神流を抱き寄せる。瞬く間に纏っていた陰鬱とした気配と緊張が消えていった。
「俺だって本当は神流と離れたくないよ。でも、もし君の身に何かあったら…俺は一生後悔する。少しの間だけでいいんだ…だから、俺を嫌いにならないでくれ…」
言葉を重ねるにつれて抱き締める力が強くなる。懸命に想いを伝えようとする抱擁は、神流の内に抑え込んでいた本心を突き動かした。
「わかってます…でも、私も元直殿の事が心配なんです。戦で怪我をするんじゃないかって思うと、不安で堪らないんです」
「俺の事なら心配いらないよ、神流のおかげでここまで頑張れたんだ。君も絶対に大丈夫だって言ってくれたじゃないか。あの軍袍にも、俺が軍師になれるように祈願してくれたんだろう? だから、大丈夫だよ」
優しい声色と温もりが神流を宥める。胸から瞳から熱いものが込み上げ、堪らず男の胸元に顔を埋めた。
「だって…ずっと一緒だったのに、元直殿と離れて私一人でどうすればいいんですか?」
「君は俺なんかよりしっかりしているから、大丈夫だよ。俺はまだ仕官もしていないし、頼りなくて信用出来ないかもしれないけど…戦が終わったら必ず君を迎えに行く。これだけは絶対に守ると誓うから…信じてくれ」
胸を伝って響く声と鼓動に、神流は何度も頷いた。
たとえ乱世だから≠ニ覚悟していようと、近付く争乱に全く不安がないとは言えない。心中の奥底では常に不安が付き纏っていたが、仕舞い込んでいた本音を解き放った今、あるのは愛される幸福感だけだった。誰よりも深い愛情を捧げてくれる恋人が、その優しさで拭い去ってくれたから。
「神流、それで…俺の事許してくれるかい? やっぱり、まだ嫌いかな…」
ふと、頭上から自信のない声がぽつりと尋ねた。『大嫌い』と言われた事がよほど辛かったのだろうか、未だに謝罪への返答を気にする様子に、神流は腕の中で頷き、笑った。
「何があっても、絶対に元直殿を嫌いになったりしません。大好きだもの」
「ありがとう…もう見捨てられると思っていたから、安心したよ。君に我儘を言うのは、これで最後にするよ。もうこんな辛い思いをするのは御免だ…」
徐庶は安堵の声を漏らすと、神流をきつく抱き締めて、しばらく離そうとしなかった。
*
『荊州を離れる』──神流が唐突に持ち出した話にも、呉服屋の店主や同僚達は快く承諾した。それというのも、この頃には曹操軍が荊州に迫っていたからだ。襄陽の街にも報が流れ、近付く戦に忽ち人々は慌しく動き始め、もはや帰郷する者を引き止められる状況ではなかった。
あの後、徐庶との話し合いで、神流も徐庶と共に新野に向かう事になった。襄陽から新野までは遠く、戦が迫っている最中、女一人で道中を歩くのはさすがに無謀であり、何より徐庶が承諾するはずがない。そこで、徐庶が劉備の元に向かう途中、神流は新野の実家に帰り、家族と共に荊州を出る──という形を取る事にした。
神流は早速、全ての事情を認めた手紙を故郷に送った。まだ移住先は正確に決めていないが、豫州の潁川にすると、徐庶には内緒で伝えておいた。曹操の支配下ではあるが、恋人の故郷だと思えば安心出来る。
しかし、両親からは良い返事を貰えなかった。実家に帰る事には賛成したものの、新野を離れる事に対しては、『生まれ育った地を離れたくない』の一点張りで耳を貸そうともしない。急な申し出であるから無理もないが、荊州の危機を前に迷っている暇はなかった。
現在、曹操軍は荊州遠征を開始し、その一方で劉表は病に伏していた。肝心の後継者は未だに明確にされず、曹操に降伏するのではという噂も出ているが、前線の新野を劉備が守備している限り、曹操との戦を放棄する事はないとも言われている。
どちらにせよ、近々荊州の平穏が崩れるのは目に見えていて、戦を予見し、回避出来る機会を与えてくれた彼の厚意を無下にする訳にはいかない。焦りは募る一方だったが、出立の前日になっても説得するには至らなかった。
そして、当日の朝──。荷物の確認をしていると、外から馬の嘶きが聞えた。直後、同僚が部屋に顔を出し、「来たわよ」と一言告げたが、その前に神流は荷物を抱えて部屋を飛び出していた。
宿舎前の街路には、馬に跨った軍袍姿の男が立ちはだかっていた。鞍の両脇には旅籠が掛けられ、頭巾を深く被った男の革帯には一刀の剣が下がっている。馬は借りたものではなく、出立のために用意した徐庶の馬だ。これが恋人だとわかっていても、何度見ても見惚れてしまう雄雄しさである。見送りに出ていた同僚も、店を訪ねて来る普段着の徐庶しか知らないため、目を丸くしていた。徐庶の恋人である事が誇らしくなり、別れの場にも関わらず、『これが私の恋人なの』と、内心自慢した。
男が馬を降り、被っていた頭巾を取ると、よく知る柔和な顔が現れた。忠告したにも関わらず寝癖と無精髭は残っていたが、軍袍姿が男前であるから問題ないと納得して頷いた。
「さぁ、行こうか。準備はいいかい?」
「はい!」と、神流は意気揚々に頷き、勇ましい剣侠へと変貌を遂げた恋人の腕にしがみ付いた。一方で、徐庶は同僚と店主に深く拱手し、「この度は急な出立にご理解を頂き、誠に感謝致します」と、丁寧に感謝の意を述べた。勇ましい恋人を前に一人はしゃぐ自分が大人気なく思い、神流も態度を改めて深々と一礼した。
「たまには遊びに来るのよ」
「行く先がわかったら連絡してね」
「神流をよろしくお願いします。何かあったら許しませんから」
と、同僚が口々に別れの言葉を告げると、徐庶はその勢いにたじろぎながら一礼した。不安にさせまいと明るく振舞う同僚の気遣いに感謝し、神流も笑顔で「またね」とだけ告げて、徐庶に支えられて馬に乗り、宿舎を後にした。
襄陽の街並みとの別れを惜しむように、馬はゆっくりと歩を進める。二人で街を歩くのも最後だと思うと感慨深く、まだ早朝で朝靄の掛かった街並みを目蓋に刻み込んだ。途中にある学問所では、塾生と門下生がぱらぱらと学舎の前に立っている。中には石韜らの姿もあり、こちらに気付くと彼等は皆挙って拱手した。司馬徽にも事前に別れを告げていたが、学問所へ通い詰め、襄陽で暮らした日々を思い返すと目頭が熱くなる。
学舎を目で追っていく神流に気付き、徐庶は背中越しに尋ねた。
「学問所の皆にも、挨拶は済ませたんだろう?」
「もちろん。先日、塾生の子が送別会をしてくれたんですよ。元直殿は?」
「俺も広元達と飲みに行ったよ、『仕官祝い』だと言ってね。まだ仕官の申し出もしていないのにな」
徐庶は後ろ姿で苦笑した。出立と仕官の時を目前にしているとは思えない、のんびりとした言動。緊張が全く感じられない穏和な笑みさえ頼もしく映り、感傷に浸っていた心も和む。しかし、未だに両親を説得が出来ていないと思うと、神流の笑顔も長くは続かず、事情を知っていた徐庶もそれを見逃さなかった。
「まだ返事は貰えていないのかい?」
「…はい、全然。戦が近い事は知ってるはずなのに、故郷は捨てられないの一点張りで…」
何かと理由を付けているが、先日の神流同様に強情を張っているだけに過ぎない。いくら故郷であっても、戦禍に巻き込まれる事を良しとする者などいない。
「そうだろうな…じゃあ、俺が直接会って説得するよ」
何の躊躇いもなく言い放ったため、神流は呆然とした。徐庶が家族に会う──それは二人が交際している事実を正式に発表する事を意味している。
「えっ…いいんですか? だってまだ…」
「構わないよ、俺が無理を言ったんだから、俺から話すべきなんだ。それに…君との付き合いも、きちんと話さないと失礼だろう? 今なら自信を持って言える気がするんだ」
そう言った後、「はは」と力ない照れ笑いをしたが、神流は心待ちにしていた瞬間に、堪らず背中にしがみ付いた。たとえ二人で誓い合っても、正式に交際が認められるのは、親と面会し承諾を得た時。まだ先の話だと思っていたため、予期せぬ事態に興奮が抑え切れなかった。
徐庶との交際が始まった時、初めての恋人に浮かれた神流は真っ先に実家に知らせていたので、両親も彼の事は知っている。相手が司馬徽の門下生だと聞くと、驚愕したと同時に喜んでいたから、二人の交際を怒って反対する事はまずない。そして、自信に満ちた今の彼なら、どちらの説得も上手くいくだろうと思った。
「喜んで迎えてくれますよ。元直殿の良さは見てすぐにわかるもの」
「そうだと嬉しいな。落ち着いたら俺の家族も紹介するよ。その頃には、胸を張って会えると思うんだ」
──今の姿でも、十分会えるわよ。
豫州にいた頃の徐庶が、どんな男だったのかは知らないが、もう自信のない迷える書生の面影はない。軍袍を纏い、剣を携え、馬に跨る雄姿は誰でも目を見張り、勇敢な外見の内側には人並み外れた温情がある。家族であっても、たとえ劉備やその下に集う者であっても、この魅力に気付かない者はいない。彼の体温を全身で感じると、その優しさが本物であるとわかる。
「もし説得出来たら、豫州に移住するよう薦めて下さいね。元直殿の故郷を見たいから」
「そうだな…今なら豫州の方が一番安全かもしれないな」
反対するかと思えば、徐庶は納得して頷いた。単に恋人の故郷に住みたい≠ニいう願望から選んだのだが、案外適切な選択だったらしい。
「それで、豫州のどこにするつもりなんだい?」
「そりゃあ、潁川ですよ。どうせなら一緒の方がいいでしょ?」
「…嬉しいけど、何だか急かされている気分だな。頑張って説得してみるよ」
恋人の故郷に住み、結ばれる──そんな未来を想像して、つい口元がにやける。神流が背後で妙な期待で胸を膨らませているとも知らずに、徐庶はおもむろに地図を取り出して後ろ手に差し出した。
「悪いけど、道中に宿がないか探しておいてくれないか? 新野は遠いから、途中で一泊した方がいいと思うんだ」
「えっ、宿に泊まるんですか?」
「一昼夜走り続ける訳にもいかないだろう。大した宿には泊まれないけど…拙いかな」
「いいえ、元直殿と外泊なんて初めてだから嬉しい! 早く行きましょう!」
『宿に泊まる』という提案は神流をさらに歓喜させた。本来の目的も忘れてはしゃぐ様子に、頭巾から覗く横顔は呆れ気味に微笑んだが、要求通り一気に馬を駆け出した。
襄陽の街並みが、見る見る内に遠ざかっていく。だが、この出立≠ヘ新たな道へ歩み出すための一歩。神流の心は大きな期待で満ちていた。
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