数日後、店先で開店準備をしていた神流の元に、一人の塾生が駆け付けて来た。一体何事かと思えば唐突に『劉備の身に大事が起こった』と、息も絶え絶えに伝えた。早朝から質の悪い冗談だと眉を顰めたが、血相を変えて必死に訴える姿が悪ふざけには思えず、神流は同僚の目を避けるため、塾生を店の裏に連れて詳しい話を聞いた。
話によると、先日行なわれた襄陽の宴で、劉備を含む荊州の諸大将らが参加したが、それ以降、劉備の行方だけが知れないという。新野にある劉備の居城もただならぬ気配であるから、事実に違いない、との話だった。
無論、幕僚以外の者が内部事情を知る術などないため、具体的な内容も真偽のほども定かでない。しかし、神流は真っ先に真実と見抜き、それが何者かの謀によるものだと悟った。先日の悪い予見は、皮肉にも的中する形となったのである。
「その話、貴方はいつ聞いたの?」
「私は今朝、学問所で聞きました。昨晩、石韜様の学閥内で広まった話だそうです。石韜様に言われて貴女様にも告げるようにと」
劉備との関係を知る石韜の事、真っ先に知らせるべきと判断したのだろう。名高い儒学者から広まった話であれば確証ある話に違いないが、それは同時に徐庶の耳にも届いている事を意味していた。
「すみません、今日は仕事休みます」
話を聞いた神流は店主に一方的に告げると、塾生と共に学問所に走った。劉備の身に何かあれば、仕官の志が閉ざされてしまう──そう思うと、いても立ってもいられなかった。
朝の学問所は、開校したばかりで人こそ少なかったが、すでに書生らによって噂が囁かれていた。彼等にとっては恰好の噂材料であっても、神流には気が気ではない事態であり、また勝手な憶測を立てて楽しんでいると思うと、実に腹立たしい光景だった。
会話に花を咲かせる門下生達を睨みながら徐庶を探したが、その中に姿はなく、裏庭に石韜の姿だけがあった。神流は彼の元に駆け寄って一礼し、真っ先に徐庶の居所を尋ねた。
「元直殿はどこですか?」
「元直は邸にいます。事情は知っていますから、詳しい話は彼から直接聞かれると良い」
石韜は手短に言い、屋敷に向かうよう急き立てた。
──今頃、不安と後悔に打ち沈んでいる違いない。
仕官に悩み、仕えるべき主君を見つけ、鍛錬に励んで約四年余り──ようやく答えを見出した矢先に起こった今回の騒動。ただ憂いに沈むだけならいいが、何分、思い詰める癖がある男だから、自責して心を閉ざしてしまう可能性も十分にある。
神流は最悪の事態を想像し、不安に襲われながら屋敷へ走った。無言で玄関に上がり込み、名を呼びながら書斎に押し掛けると、徐庶は床に横たわっていた。
──元直殿の身に何かあったのでは。
神流は慌てて駆け寄り毛布を剥ぎ取ると、下から寝ぼけ顔が覗いた。
「…神流、こんな刻限に一体どうしたんだ? 仕事は?」
血相を変える神流をよそに、徐庶はゆっくりと上体を起こして寝ぼけ眼を丸くした。酷い寝癖によれた着物。世を騒がしている騒動とは全く無縁な容姿に脱力したが、沸々と怒りが込み上げて来た。この問題は徐庶の仕官に大きく影響し、また二人の将来に関わる重要な事柄でもある。怒り任せに男の背中に張り手すると、抵抗もなく身体が揺れた。
「何を呑気に寝ているんですか! 劉備殿の話は? もう知っているんでしょう?」
「…知ってるよ。夜中に広元が訪ねて来て、全部聞いたよ。もう何日も姿が見えなくて、新野でも騒ぎになってるって…」
そう言うと、急に表情を曇らせた。思い出したように気鬱する徐庶に溜め息を溢し、未だ厳しい口調で聞き返す。
「じゃあ、何で寝てるんですか? 劉備殿の事、心配じゃないんですか?」
「もちろん心配だよ…心配で眠れなかったんだ。さっき公威が帰ったから、少し眠っておこうと思ったんだけど、なかなか寝付けなくて」
「だったら、私を呼んで下さいよ。この非常事態なら、夜中でも駆け付けるのに」
「うん…そうだけど、君は仕事があるし、余計な心配を掛けたくなかったんだ」
と、徐庶は力なく苦笑して頭を掻いた。
──私にだって関係してる事じゃないの。
神流は内心憤ったが、不安で眠れず悄然とする姿を前にしては怒鳴る気にもなれない。長い溜め息で怒気を払い、落胆する徐庶の手を取って静かに尋ねた。
「これも、例の家督騒動が原因なんですか?」
「それ以外に考えられないよ。劉備殿は後継者に劉埼殿を支持しているし、人望の厚い人だから周囲に与える影響力も大きい。あの人を疎ましく思う臣下がいても不思議じゃないよ」
劉備を疎ましく思う人物──真っ先に一人の臣下の名が過ぎり、不快感を露にした。
「その人って、やっぱり蔡瑁殿ですか?」
「…だろうな。甥の劉ソウ殿に家督を継がせたい蔡瑁殿にとって、劉埼殿を支持する劉備殿は十分邪魔な存在になるからね。劉表殿が疑心を抱くようになった今では、それを利用した奸計を目論む可能性は十分あるよ。劉備殿を排除する理由になるし、諸将も説得しやすくなる」
徐庶も一転して険しい面持ちとなり、さらに言葉を続ける。
「襄陽での宴以降、姿が見えないというから、宴自体が罠だったのかもしれないな。ただ、劉表殿のご子息や荊州の諸大将も出席していたから、全員が計略に関わっているとは思えない。宴を利用して独自に計略を仕組んだんだ」
厳しい口調で話す徐庶は、普段の自信のない男ではなく、策士の姿だった。友人の前では、のんびり茶を飲んで会話も上の空だったが、内心ではこの事態も予見していたのだろう。わずかな情報から状況を読み解く力は、さすが兵法を熟知する男だと感心し、神流も推理に対して質問を投げ掛ける。
「でも、劉備殿を慕う人は沢山いるし、そんな策略を聞いて皆が黙っているとは思えません。あまりに身勝手過ぎます」
「その通りだよ。それに劉表殿も劉備殿を討つような真似は絶対にしないよ。同族で、漢室の末裔でもある人物を討っても、周囲の反感を買うだけだ。だから、全員が蔡瑁殿に靡くとは思えない。もしそんな計略が露見すれば、蔡瑁殿の命も危ないよ」
徐庶が質問に同感してくれた事に喜び、神流は大きく頷いた。彼の推理は説得力があり、軍師であればどんな策略も事前に見抜いてしまうだろう。仕官すれば、劉備にとって非常に心強い人物となるに違いない。
──やっぱり元直殿は、軍師になるべき人なのよ。
目を爛々とさせて策士の横顔に見惚れていると、徐庶ははっと我に返り、眉を下げた。
「あぁ…すまない、こんな話されても困るよな…」
「いいえ、やっぱり元直殿は凄いです。それなら絶対、軍師になれますよ」
「…無理だよ。俺がここで何を言っても、状況が変わる訳じゃないんだ。劉備殿が助かる訳じゃない…今の俺は、誰の力にもなれないんだ…」
淡々と敵の策略を推理していた勢いは完全に消え去り、全身で溜め息を吐いて深く項垂れてしまった。もう少し早く仕官していれば、力になれたかもしれない──彼が今考えている事は、そんなところだろう。ここは自分が気丈に振舞うべきだと、神流は明るく笑い返した。
「大丈夫、劉備殿ならご無事です。あの方には頼もしい義兄弟がいるんですもの。そして、元直殿の傍には私がいますから、安心して眠って下さい。考え過ぎると身体を悪くしますよ」
「いや、でも…君は仕事に戻った方がいいよ。その様子だと、途中で抜け出して来たんだろう?」
「仕事なんてどうでもいいんですよ、私は元直殿の方が大事なんだから!」
上体を倒しながらも「でも」と未だに眠る事を渋る徐庶に苛立ち、神流は男の腕を手元に引いた。勢い良く膝上に徐庶が転がり、内側に向いた横顔が急激に赤く染まる。
「神流…この方が余計に眠れないよ…何だか違う事考えそうだ…」
「この非常事態に何言ってるんですか。いいから、さっさと寝て下さい」
ちらちらと泳ぐ戸惑いの眼差しにくすりと笑い、頭から毛布を被せた。羞恥していた割には拒まず、それどころか腰に腕を回し、着物に顔を埋めて来た。場を弁えない行動に、頭を押し退けてやろうかと思ったが、毛布越しにか細い声が聞こえて来た。
「…頼りない男ですまない…本当は俺が励ますべきなのに…」
「いいんですよ。元直殿が困った時は、私が守ってあげますから」
顔を隠した恋人を神流は優しい口調で宥め、毛布越しに頭を撫でた。不安に駆られ、必死に縋り付く様に胸が痛む。劉備の安否を気遣うのは神流も同じだったが、長年仕えるべき主君を探し求めて来た徐庶に比べれば、大したものではない。
だが、神流には劉備が簡単に討たれるような御仁とは思えなかった。劉備はこれまで呂布や曹操の魔手からも逃れて来た男。蔡瑁などによって討ち取られるとは考えられない。
──絶対に大丈夫よ。
しばらくすると、毛布の下から寝息が聞えて来た。憂いを忘れ、ようやく深い眠りに就いた恋人に、神流は安堵の溜め息を吐いた。
*
屋敷内に扉を叩く音が鳴り響き、神流は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしく、室内は薄暗くなっていたが、ふと視線を落すと、徐庶は未だ神流の膝上にいた。毛布が肌蹴て、仰向けになったまま熟睡している。その穏やかな寝顔に、ふと頬が綻んだ。
このまま眺めていたいところだったが、何者かが頻りに玄関を叩くので、已む無く徐庶の頭を枕にそっと移し、腰を上げた。長時間の正座と膝枕のおかげで脚が痺れ、思うように動かない。眠る徐庶のため、音を立てないように床を這って廊下に出ると、壁伝いに玄関に向かった。
鬱陶しいと顰めていた顔を整えて玄関を荒々しく開けると、石韜が立っていた。儒学者の訪問に、慌ててよそ行きの笑顔を浮かべた。
「おや、神流殿でしたか。元直は在宅ですかな?」
「はい、眠ってはいますけど。何かあったんですか?」
すると、石韜は急に神妙な面持ちになり、声を潜めた。
「いや、実は先生から呼び出しがありましてね。何やら重要な話があるのだそうです。ですから、すぐ先生の邸に向かうよう元直にお伝え下さい」
それだけを伝えると、石韜はそそくさと屋敷を去って行った。その態度から、かなり深刻な用件だと察した。一体何をしでかしたのかと首を傾げて書斎に戻ると、徐庶が起きていた。膝枕で熟睡したためか、寝起きの顔が妙に晴れ晴れとしている気がする。
「誰か来たのかい?」
「石韜殿です。先生がお呼びだから、すぐ邸に向かうようにって。大切な話みたいですけど、先生と何かあったんですか?」
「え…いや、全く身に覚えがないけど…」
神流の一言で、一瞬で表情が曇った。劉備の失踪に続き、司馬徽からの謎の呼び出し。おかげで緩和した不安が舞い戻ってしまったが、いかなる理由があろうと恩師からの呼び出しを無視する事は出来ない。
徐庶は困り顔になりながらも着物を着替え、神流も失礼があってはいけないと身支度を手伝い、早々と屋敷を発った。外に出て、時刻が夕刻に近い事を知った。学問所にあった人影も随分と減り、噂で賑わっていた書生らの姿はすっかりなくなっていた。一度大きな噂が立てば、少なくとも一週間は昼夜問わず語り合っているのだが、思いの他早く収束していたため意外だった。
それぞれに呼び出された理由を脳裏に巡らせ、口数少なく司馬徽邸に赴いた。二人を玄関で迎えたのは、司馬徽本人だった。ぎこちなく拱手する二人をよそに、司馬徽は早速「よしよし」と口癖を言い、髭を擦って微笑んだ。
「ほう、神流殿も参られたか。それもまた、よしよし。二人共お上がりなさい」
「いえ、私は元直殿の付き添いで来ただけで…」
「構わぬよ。徐庶と親しいお主なら信用出来る」
その意味深い言葉に二人は顔を見合わせ、司馬徽に案内されるまま座敷に上がった。
「あいにく、妻が留守でな。爺一人では気の利いた事が出来んのだよ」
司馬徽は冗談混じりに言い、淹れた茶を差し出した。叱責する風でもなく、穏やかな笑みを湛えて招いた弟子をもてなす姿は、まさに好々爺だった。いつ『重要な話』とやらが飛び出すのかと、固唾を呑んで見守っていると、司馬徽はようやく自席に座って話し出した。
「今日は外が騒がしかったの。何でも『劉備殿が失踪した』とかいう噂が広まっていたそうだが、根も葉もない噂に踊らされてはいかんと忠告しておいた。これで少しは静かになったろう」
司馬徽は終始、柔和な笑みを浮かべて言った。騒ぎを収束させたのは司馬徽だとわかったが、これも世間話の内なのか──。神流は「はぁ」と間の抜けた返事をしたが、徐庶はすかさず反論した。
「先生もご存知でしたか。しかし、広元…いや、石韜殿の話では、襄陽の宴以降、劉備殿が新野に戻っていないと。以前から、襄陽では良からぬ噂が度々流れています。これを虚言と聞き捨てるのは軽率かと思います」
「そう向きになるでない。劉備殿の安否を気遣うのはわかるが、情に流され冷静さを欠いてはならぬ。そこが、お主の悪いところだ」
司馬徽はすっと笑みを消して窘めたが、徐庶は納得いかないといった顔で口を噤んだ。恩師にまで言い寄るなど彼らしくないと思ったが、それほど思い煩っているのだろう。
「何も、石韜の話が虚言だと決め付けている訳ではない。かの噂は事実だ、と私が言うのは宴の後、劉備殿と会っておるからだ。追手の手を逃れた劉備殿をこの邸に泊めた」
思わぬ報告に、神流と徐庶は同時に声を上げて腰を浮かせた。その反応に司馬徽は笑い、事情を説明した。
「私も此度の宴は危ういと思うていたが、案の定、何者かの詐計が仕組まれておったようだ。偶然にも、妻が一人馬を駆る劉備殿と会うてな、事情を聞いて邸に招いたのだ。追手の事もある故、他言出来なかったのだが、一昨夜、迎えが来て無事に新野へと戻られた。その矢先に斯様な噂が立ってしもうたが、今度は『劉備殿が帰還した』と噂が立つであろうな」
「それでは、劉備殿はご無事なんですね? お怪我もなく」
「心配せんでもいい。劉備殿は稀に見る強運の持ち主故、詐計如きで果てるお方ではないわ」
神流の問いにも司馬徽は笑顔で頷き、声を上げて笑った。見ると、徐庶も心から安堵の笑みを浮かべている。喜ぶ二人を見た司馬徽は、何を思い立ったのか、突拍子もない事を言い始めた。
「しかし、劉備殿は実に惜しいお方だの。あれほどの徳がありながら、まだ肝心要な人材が傍におらん。あれでは大業も果たすのも難しかろう」
司馬徽は沈痛な面持ちで「惜しい惜しい」と呟いた。神流には、その仕草がわざとらしく見えたが、徐庶は眉を顰めて言葉を返した。
「あの…お言葉ですが、劉備殿の元には武や知に優れた将が多くおられます。なぜそのような事を…」
「確かに武勇に長けた者に義兄弟と趙雲、知に長けた者に孫乾、簡雍とおるが、どの人物も大業を計り得る者ではない。さらに天下大業を成すためには、数多の戦場を渡る他ない。それを補佐する者もまた必要、と劉備殿に伝えておいた」
天下大業を成すために必要な人材──それは何かと問うまでもない。軍師≠ナある。
徐庶も司馬徽の言を悟って目を見開いたが、まだ迷いを拭い切れず、恐る恐る司馬徽に尋ねる。
「では…先生はあの二人をご紹介されたのですか?」
「二人とは、伏龍鳳雛の事か。確かに存在は教えたが、あの者らがどんな男か、親しいお主がよく知っておろう。補佐する英才は何人いようと構わぬ。お主も志があるならば、努々迷い臆する事なかれ」
その一言で、徐庶の憂い顔が一変した。瞳の奥には、強く鋭い光を帯びている。己が志を見出し、長年の迷いを打ち払ったようだ。弟子の意気込みを見た司馬徽も満足気に頷き、ようやく手元の茶に口を付けて「よしよし」と笑った。
司馬徽邸を発った頃には、外は黄昏に染まっていた。噂と度重なる不安のためか、食事を取る事自体忘れていたが、劉備の無事を知り、沈む陽を前にした途端、空腹と疲労感が襲った。
しかし、屋敷を後にした神流の心は実に清々しいものだった。慌しくも、この一件で得たものは非常に大きい。恩師の助言により、彼の知を必要とする英傑がおり、仕官への迷いが取り払われたのだから。その証拠に、隣を歩く徐庶の表情も、長年の憑き物が落ちて、いつになく穏和な笑顔を湛えていた。
「劉備殿の無事がわかって良かったですね。多分、噂と行き違いになったんですよ。今頃、劉備殿も新野に着いている頃だと思いますよ」
「あぁ、安心したよ。でも、神流には迷惑を掛けてしまったね…俺の悪い癖だ、本当に反省してるよ」
「大丈夫、落ち込んだ時は、私がまた励ましてあげますよ。膝枕で」
「…それは凄く嬉しいけど、なるべく直すように心掛けるよ」
志を失い掛けて悄然とする姿も、恋人に縋り、膝上で熟睡する姿も、今となっては微笑ましい。確かに、思い悩む癖は彼の欠点でもあるが、そこは自分が代わりに支えればいい。徐庶の知略が優れたものであり、司馬徽も認めている。劉備の元に仕官し、必ず軍師になれると神流は確証していた。一方で、軍師になっても彼の悩み癖も寝癖も、そう簡単には直らないだろうと思った。
「…でも、何だか自信が付いたよ。近々、新野に行ってみようかな…劉備殿のところに」
ぽつりと呟いた言葉に、はっと顔を上げた。ふにゃりとした人懐っこい微笑みは、夕日に照らされて一段と穏やかに映ったが、瞳に宿る光は未だ衰えず、なお果敢となり、彼の決意に一点の迷いもなかった。思わず狂喜乱舞したい衝動に駆られたが、彼の意思と支える事を最優先にすべきと、神流は必死に感情を抑えた。
「じゃあ、その時に備えて万全にしておかないと駄目ですね。早速、夕食作りますね!」
「俺も手伝うよ。それから、今夜は…その…俺も神流に何かしてあげたいんだ…あの、昼間の礼に。大した事は出来ないけど…何でもするよ」
手に温もりが絡み付いた。熱っぽい声と手の感触には、感謝の礼とはまた別の気配も漂い、どうやら膝枕の際に過ぎった違う事≠忘れた訳ではなかったようだ。たどたどしく、回りくどい言い方に苦笑したが、今回ばかりは良いかと、神流は握り締めた手を振って街道を歩き出した。
後日、司馬徽の言葉通り『劉備が新野に帰還した』と噂が立ち、事態は急速に収束した。徐庶の予見通り、襄陽の宴による策略は蔡瑁によるもので、事情を知った劉表は激昂し、蔡瑁の処刑を命じたが、蔡夫人と周囲の弁護で間逃れたという。
幾度となく内乱や他国の脅威に晒されようと、平穏を保って来た荊州──。
しかし、建安十二年。再び訪れた北からの脅威によって、その長き安寧が絶たれようとしていた。
荊州争乱の時は、確実に迫っていた。
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