神流が豫州に到着した頃には、巷では『劉備軍が曹操軍を撃ち破った』という噂で持ち切りだった。旅の道中から新野の戦況は商人と旅人の間で囁かれ、やれ「名立たる将が敗死した」だの「劉備が曹仁を破った」だのと、一体どちらの味方なのか他人事のように騒いでいた。神流は徐庶から届く書簡のおかげで噂より先立って戦況を知っていたが、周囲が声を大きくして騒ぎ立てる様を見ると、つい「私の恋人がやったのよ」と声高らかに自慢したい気分になる。
戦況を聞くに、劉備軍はわずか二千に対し、曹操軍は三万。誰もが曹操軍の勝利を確信していた状況であったため、劉備軍の圧勝の報はまさに青天の霹靂であった。歴戦の将・曹仁、李典軍が強靭な陣形を持って幾度となく新野に攻め込んだというが、どれも完敗し、拠点としていた樊城さえも奪われて、曹仁、李典の二将と少数の将兵だけが許都に戻って来たのだという。圧倒的な兵力差を見せて完敗を喫したのだから、曹操軍にとって実に不面目で手痛い敗戦となったのは確かであった。
神流も信じていたとは言え、ここまで完膚なきまでに曹操軍を敗走させるとは夢にも思っていなかった。猛将と謳われる関羽や張飛、趙雲らの活躍も当然あるが、それだけでは樊城を奪うまでには至らない。今回、劉備軍が目覚しい勝利を飾ったのは、やはり軍師の存在によるところが大きいだろう。徐庶の才知が、仕えるべき主君の下で発揮されたのだ。
徐庶は自らの戦功を自慢げに話すような男ではなく、書簡では神流を不安にさせまいと具体的な戦況を伏せる温情ある恋人。そんな文面や、日頃の奥手で優しい徐庶からは軍配を取る姿など想像も付かないが、果敢な剣侠の姿であれば十分納得出来る。
──やっぱり元直殿って凄い人ね。
戦が終わったとなれば、徐庶と会う日もそう遠くはない。再会する時は、普段の穏やかな恋人の姿か、それとも軍師として勇敢な姿を見せるのか──。神流は徐庶との再会と結ばれる日を夢見て、豫州での新たな生活に向けて勤しんだ。
豫州・潁川に到着したのは一ヶ月ほど前に遡る。天候や検問の影響で予定より遅い到着になったが、戦で混迷する中、大事なく旅路を終えただけ幸いであった。豫州に入ると宿に泊まりながら新居を探し、つい十日前、質素な平屋を買い取って越して来たばかりだ。
豫州の土地柄に疎く、金銭にも余裕はなかったが、徐庶が書簡で土地情報と資金を提供してくれたため、さほど苦労もなく安全に居住地を探す事が出来た。また、豫州の汝南には徐庶の友人である孟建が帰郷していて、彼が豫州中の知人に呼び掛けてくれたおかげでもある。徐庶の名を聞けば笑顔で頷き、快く手を貸してくれる。やはり持つべきは友であり、徐庶が豫州でも多くの知人に慕われている事を知り、その人望の深さに改めて惚れ直した。
この日も神流は、新たな仕事先に挨拶に向かう事になっていた。いずれ徐庶の迎えが来るとしても、何もせずに待っている訳にはいかない。そこで許都にある呉服屋に勤める事にした。都の呉服屋というだけあって、襄陽の呉服屋とは比べ物にならない高貴な店だったが、孟建の知人の計らいで手伝いに入る事が決まった。
都に出るとあって、手持ちの着物の中で一番高価な外出着と羽織を選び、朝早くから仕度をしていた。そんな折、早朝から家を訪ねて来た客人がいた。出迎えた母に呼ばれて玄関に向かうと、『徐庶の使者』と名乗る男であった。
「徐庶様より文と荷物を預かっております」
使者は書簡と包みを差し出したので、神流は「ご苦労様です」と事前に認めておいた返書を手渡した。徐庶から書簡が届くのは五、六日に一度。新野から潁川まで往復する使者も大変な足労だと思うが、神流は毎回この時を楽しみにしていた。
早速開いた包みの中は反物で、『戦利品で貰ったので役立てるように』と文が差し込まれていた。書簡を送る度に、『生活資金』と称して何かしら品物を送って来る。この気遣いに両親は大層喜んだが、神流にしてみれば金品よりも返書の方がよほど嬉しい。
──今回は何が書いてあるのかしら。
一刻も早く読みたいところだったが、仕事先の挨拶を控えているため、已む無く道中で目を通す事にした。
豫州に着いてからは何かと慌しく、街を一望する暇もなかったため、自分の脚で街を歩くのはこの日が初めてになる。初めて見る都と徐庶の故郷を歩く足取りは弾み、眼差しは好奇に満ちていた。
許都近郊は高貴な建物や古城、街を囲む城壁など物々しい景観に戸惑いを感じたものの、潁川に入れば平屋や農地が広がるのどかな風景が広がっていた。どこか荊州の穏やかな雰囲気と似たものを感じて、神流はすぐに潁川の地に親しみを抱いた。
潁川から許都までは約四十里。途中、行商の馬車の荷台に乗せて貰い、景色に見惚れながら徐庶の書簡を開いた。達筆で丁寧な字体で書かれた内容は、『変わりがないか』、『勉学は進んでいるか』と、まず最初に年上の恋人らしい言葉が並び、その後に日常を綴り、最後には必ず『会いたい』の一言で締め括る。だが、今回の文面は違っていた。
『先日、劉備殿から邸を賜り、今は新野で一人住んでいる。やはり独り暮らしは寂しいよ。だけど、しばらくは戦も落ち着くだろうから、機を窺って神流を迎えに行く。もう少しだけ待っていてくれ』
「元直殿、迎えに来てくれるの!?」
思わず独り言を叫んで、行商の主人に笑われてしまった。何事も奥手で慎重な徐庶が言う『もう少し』は、決して少し≠ニは言い難い。早くて三、四ヶ月は掛かるだろう。しかし、この『迎えに行く』の一言で徐庶の覚悟が確固たるものに変わりつつある事を悟った。
──再会の時、元直殿に何をしてあげようかな。
逸る気持ちを抑え切れず、料理が良いか、一晩奉仕するのが良いか──脳裏にあれこれと思考を巡らせて一人頬を緩めて、荷台から見えた優美な許都の景色も視界に映らなかった。
正午には許都に到着した。
遠方から見えていた王城も、都に入ると一層と偉観を誇る。石畳の街道に豪壮絢爛な屋敷が連なり、街行く者の服装からして高貴である。まさに『華の都』と呼ぶに相応しい街。目に映るもの全てが珍しく、我を忘れて見入ってしまうほどで、口からは自然と溜め息まで零れる。
田舎者の雰囲気を全面に曝け出す神流に、行商の主人も苦笑して別れ際に忠告した。
「お嬢さん、最近は役人や兵士共の気が立っているから、荊州の件は禁句だよ。会話には十分気を付けな」
「わかりました、ご親切にありがとうございます」
荊州の件──要するに『劉備軍の話題を口にするな』という意味だ。豫州にも劉備を慕う民は多く、陰では劉備軍の勝利を喜ぶ者もいて、献帝を擁する曹操を『逆賊』と呼ぶ者も決して少なくない。当然ながら、役人はもちろん将兵の前で口を滑らせれば即投獄、処断ものである。新野で大敗した事もあり、街行く小役人や兵卒の表情は険しい。華やかしい都も物々しい気配を潜めていた。
都は商業区、居住区と各地区毎にそれぞれ分轄されて、地図を見て歩けば道に迷う心配はないという。ただし、田舎から出て来たばかりの者は別だ。神流も街の景色に見惚れて、また恋人の書簡で心が浮ついていた事もあって、つい曲がる辻を間違えて、ふらふらと王城の近くまで来てしまった。
丞相・曹操が住まう城だけあり、間近で見ると煌びやかな外装も息が詰まるような威圧感を覚える。高い城壁に囲まれ、広大な兵舎が建ち並び、兵錬所からは規律の取れた威勢の良い声が聞こえて来る。
近年まで激しい戦禍に置かれていたとは思えないほど、整った街並みと豪壮絢爛な王城。神流からすれば、故郷を攻める曹操の印象は決して良いものとは言えないが、発展した豫州の街や表情豊かな民衆を目の当たりにすると、その政治的手腕に関心せざるを得ない。曹操が未だ強大な勢力を保ち続けている理由も納得がいく。
そんな事を考えながら城壁の脇を歩いていたが、王城の周辺を一人うろつくのは状況が悪い。来た道を戻ろうと駆け足で辻を曲がったが、突然男が目の前に現れて、除け切れずにぶつかってしまった。
「おい、貴様! どこを見て歩いている!」
「ご、ごめんなさ──」
謝罪する間に槍先を向けられ、一瞬で血の気が引いた。見れば男は青い具足を纏った兵卒で、後ろには複数人の兵が列を成している。
行軍の一行に出くわしたと察して、忽ち恐怖に駆られた神流は全身を震わせた。敗戦直後で気が立っている状況で行軍を妨げたとなれば、その場で斬り捨てられる可能性は十分ある。
「も、申し訳ありません。すぐに身を引きますから…」
「城の周りで何をしていた。もしや間者か。女の間者も珍しくない」
兵卒は神流の言葉に耳も貸さず、一方的に『間者』と決め付け、さらに槍を突き出す。行商の忠告を聞き入れながら不注意を犯した自分を責めたが、ここまで来ては逃れる方法はない。
棒打ちか、処断か──内心諦めかけた時、兵卒の背後から「待って下さい」と声が上がった。兵を押し退けて現れたのは、同じく青い具足で身を固めた若い男だった。その男が顔を出すなり、周囲の兵卒は一斉に拱手して姿勢を正し、神流に向けられていた槍も手元に納められた。
「一体、何をするつもりですか?」
険しい顔で兵卒を問い詰めると、血気盛んだった兵卒も急に顔色を変じた。兵卒相手にも丁寧な口振りであったが、その勇壮な甲冑と兵卒の態度から、若い男が将軍位の武将であると直感した。
「楽進将軍、この女が突然飛び出して、我々の道を妨げたものですから…」
「道を急ぐ者もいるでしょう。その程度の事で民に手を上げてはなりません」
そう言って、『楽進』と呼ばれた男は兵卒を下がらせ、「大丈夫ですか」と神流の身を案じて来たが、名将を前にして、ただ呆然とするしかなかった。
──曹操の重臣が目の前にいる。
一瞬呆気に取られたものの、神流は慌てて腰を上げて、裾の土を払う余裕もなく深く拝礼した。
「あ、ありがとうございます。何とお礼を申せば良いか…」
「いえ、謝るのは我々の方です。近頃は将兵も気が立っているもので、大変申し訳ありませんでした」
楽進は依然として低姿勢で頭を下げて来た。曹操の重臣が、なぜ庶民にこうも穏やかに振舞えるのか──不思議に思ったが、将軍らしからぬ腰の低い態度に緊張もわずかに解れた。
「ところで、貴女はどちらから?」
突然の質問に、神流は咄嗟に「潁川です」と答えた。ここで『荊州』の地名を出すのはさすがに拙い。すると「潁川ですか」と呟いて何やら考え込んだので、疑いを晴らすため弁解した。
「都に来るのはまだ二回目で、建物に見惚れていたら道に迷ってしまって…ですから悪気はないんです」
「あぁいえ、それはわかっています。ただ、どちらへ向かうおつもりだったのかと思いまして」
楽進は再び頭を下げて否定したが、その目は神流が手にする地図を気に掛けている。『わかっている』と意を介しながらも身元を探る辺りは一国の将らしい。すかさず地図を見せると、楽進は「この辻を曲がってまっすぐ行くのがよろしいかと」と細かく指差して教えた。どうやら疑いは晴れたらしいと、胸を撫で下ろした。
「重ね重ねありがとうございます。おかげで助かりました」
「いえ、お役に立てて何よりです。城の周辺を歩くと誤解されますから、今後は気を付けて下さい」
最後にそう忠告して、楽進は兵卒を率いて城門へと去って行った。
曹操軍の楽進と言えば、誰もが知っている勇将。曹操の挙兵当初から従い、渦中の李典や曹仁同様、各地で転戦して来た歴戦の武将である。そんな重臣と遭遇して、命を救われるとは予想もしなかった。
──優しい人もいるのね。
乱世の奸雄・曹操の臣下と言っても、誰しもが酷薄とは限らない。曹操軍の名立たる勇将の器量の深さを知り、王城の威圧感で強張っていた心身も自然と和んでいった。
*
その頃、許都の城内には層々たる顔触れが連なっていた。文官、武官が拝礼して並び立つ中、曹操の腹心である荀イク、程イクも肩を並べ、その中央には丞相・曹操の姿があった。
一同が視線を向ける先には、先日新野から命辛々帰還したばかりの曹仁、李典の姿。新野での負け戦をありのままに報告した後、床に拝伏していた。三万もの軍勢を率いておきながら、帰還した兵は千足らず。呂曠、呂翔の二将も敗死し、曹操もさぞ立腹しているだろうと、諸将らは固唾を呑んで様子を伺っていた。
「この失態は丞相のご威光を汚すもの。如何なる刑も受け入れましょう」
緊迫した沈黙の中、曹仁は己の醜態を恥じ入って声を震わせ、李典もただ無言で深く頭を垂れていた。曹操は報告を受けた後、目を瞑って長らく閉口していたが、曹仁の言に手を翳して「否」と答えた。
「勝敗は兵家の常という。この程度でお主ほどの忠臣を討ち捨てる事こそ儂の汚辱よ」
主君の恩情に二人は深く拝伏して敬服したが、曹操の表情は依然として冴えなかった。臣下を咎めるものではなく、なぜ劉備が曹仁、李典の軍を悉く撃ち破ったのか≠ニいう疑問によるものであった。あの弱小な劉備軍が強固な陣形を破り、奇襲を看破し、樊城まで奪い取ったと聞けば、ますます腑に落ちない。
「此度の戦、何やら劉備の背後に軍師の影があるようだな。帷幕の中に謀を献策している者がおるはずだ」
「えぇ、ご明察の通り、軍師らしき男の姿がありました。樊城を去る際、見慣れぬ男をこの目でしかと見ました」
曹操の疑問に答えたのは、李典だった。ようやく床から上げた顔は、依然として緊張の色が覗いている。
「斥候を放ち、男の素性を探らせましたところ、その名を徐庶と言い、つい二月ほど前に劉備の軍師として迎えられたようです」
「ほう、徐庶とな。聞き覚えのない名だが」
曹操が眉を顰めて無言で諸将に問うてみると、傍らにいた程イクが一人頷いた。
「何とも、久しい名を聞きましたな」
「左様でございますね」
程イクの言葉に、荀イクも涼やかに答えた。両者は共に曹操から絶大な信頼を寄せる腹心であるが、その外見も策謀も全く対称的で、華奢で玲瓏な容姿をした荀イクに対して、程イクは立派な顎鬚を蓄えた長身の偉丈夫である。特に程イクの文官らしからぬ風貌は、文官と並び立つと歴然と現れる。
腹心二人の反応に曹操は忽ち徐庶に興味を示した。
「お主らは徐庶をよく知っておるのか」
「我らとは同郷の生まれですから、よく存じております。義に厚く、剣と兵法を好み、この老いぼれとは比べ物にならぬ賢人でございます」
答えたのは程イクで、同じ賢人である腹心の賞賛を聞き、曹操は「ほほう」とさらに強い関心を見せた。徐庶に関心を抱いた曹操が、その心中で何を思案しているのか──荀イク、程イクの二人は瞬時に悟り、荀イクは曹操の関心を満たす如く徐庶の素性を語り始めた。
「この徐庶という者、若年は剣を好んでおりましたが、知人の仇討ちで追われる身となってからは学問に励み、後に同郷の名士・司馬徽の門下に入ったと聞き及んでおります。一時は名を『単福』と改めて諸国を遊学していたようですが、現在は荊州に身を落ち着かせたようですね。彼ほど博学で、多くの才人と交流の多い人物は他にないでしょう」
「ほう、荀イクまでもが称えるとは、よほどの人物のようだな。此度の戦で劉備が勝利したのも、徐庶という男の才あってこそだろう。何とも惜しい男を劉備に渡してしまったものよ。儂の下にあれば、さぞかし心強い忠臣となるであろうに」
ぽつりと溢したのは曹操の本心であり、荀イク、程イクは「やはりな」と同調するように顔を見合わせ、打ち負かされた曹仁、李典は目を丸くした。
天下にある才人の名と評判を耳にすれば、即座に関心を抱いて我が幕下に迎え入れんと思い立つのが曹操という男。過去にも劉備の義兄弟、関羽の義侠心と武に惚れ込み、一時の間手厚く迎え入れた事もあるほどだ。
「丞相、諦めるのはまだ早いですぞ。二月前に劉備に召抱えられたのであれば、こちらに靡かせる手は残っております。この程仲徳に考えが」
曹操の嘆惜を悟って真っ先に策を献上したのは程イクだった。程イクはすかさず曹操の傍らに立つと、諸将に聞かれぬよう小さな声で耳打ちをした。
「現在、徐庶には母一人しか身内がおりませぬ故、丞相自ら親しく保護してやれば、恩を感じて都に駆け付けるに違いありません。幼少より母に育てられ、親孝行な息子だと評判ですから、母一人を放ってはおきますまい。一筆書簡を認めて、徐庶の母を城に呼び寄せましょう」
「なるほど、それは良い考えだ。その策、お主に一任しよう」
程イクの進言に曹操は早々と納得して頷いた。思考の似通った両者、持ち出された姦計に一切の躊躇いを見せない。
耳打ちのおかげで城内の諸将には聞き取れなかったが、陰謀に長ける老年参謀が主君に説いて見せた策が悪策≠ナある事をその場にいた大半の者が察した。中でも、二人の傍らにあった荀イクは憂色を湛えて見据えていた。
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