『君を守る・新野迎撃戦』

 『劉備の下に仕官した』と知らせが来たのは、神流が新野を発って一週間後の事だった。
 それは両親と豫州へ向かう道中の事で、突然『徐庶の使者』と名乗る男が尋ねて来ると、神流に一通の書簡を差し出して来た。使者と言われて動揺したが、渡された書簡を読んで意味を理解した。
 書簡には、仕官までの経緯から現在の状況まで細かく書かれていた。それによると、神流と別れた翌日に劉備と出会い、仕官の申し出をしたというが、唐突な申し出にも快く承諾し、さほど日も置かない内に軍師に一任すると兵馬まで預けたという。思いの外手厚い歓迎を受けて『困惑している』と書かれていたが、その文面には強い歓喜の情が伺い取れた。
 無論、知らせを受けた神流が狂喜乱舞したのは言うまでもなく、長旅の疲れなど一瞬の内に吹き飛んでいった。すぐに返書を認めて使者の男に預け、両親にも自慢げに報告した。
 本人は驚いていたが、司馬徽が軍師の必要性とその存在を劉備に説き、また、徐庶はその司馬徽の門下生で兵法を熟知しているとなれば、歓迎されるのは当然のように思えた。しかし、長年仕えるべき主君を探し求めて鍛練に励んで来た徐庶にとって、その喜びは神流が想像するよりも遥かに大きいはず。そして、その姿を傍らで見守って来た神流の胸にも熱いものが込み上げた。念願の仕官を果たしただけでなく、同時に軍師の道をも歩み出したのだから。
 もしその場に神流がいれば、感極まって抱き締めて来るに違いない──と、無邪気に喜ぶ徐庶の姿を想像して笑った。ただ、彼の軍師としての勇姿をこの目で見る事が出来なかった事が残念でならない。

 ──私も残って、一緒に仕官すれば良かったかな。

 あれから何度も心に思ったが、神流が仕官を果たすには未熟過ぎた。司馬徽の下で学んで来たと言っても、兵法も苦手ならば剣も馬術もからきし駄目。徐庶と共に仕官を申し出ても、戦を目前に控えた現状では足手纏いになるのは明らかだった。
 自分の力量のなさに苛立ちさえを覚えたが、仕官を果たすにはそれほど強い信念と志が必要という事なのだろう。徐庶の仕官によって、改めて志の違いを思い知らされた気がした。
 かといって、徐庶と共に仕官する夢を諦めた訳ではなく、仕官の通知は神流の意欲をさらに沸き立たせた。思い出したように徐庶から貰った兵書を引っ張り出して、険しい旅の道中にも関わらず目を通した。

 神流は現在、豫州に続く旅路の途中にあった。荊州から豫州への道のりは、襄陽から新野までの道など非にならず、急いでも一月は掛かる。そのため、徐庶と別れたその日に必要な物を纏めると、翌日には新野を出立した。荷物が少ない分、旅に掛かる負担も時間も短縮出来たため、この頃には豫州の国境にまで近付いていた。
 旅路は決して楽なものではなかったが、徐庶との今後を思えば何の苦にもならなかった。そして旅人や行商から聞く豫州の話が何よりの励みとなった。
 現在の豫州は曹操の支配下にあり、曹操の酷薄さを噂で聞いていた神流は少なからず不安を抱いていたが、豫州から来た者の話によるとその評判は想像以上に良かった。黄巾の乱から董卓、呂布の動乱と何かと戦禍に置かれる状況にあったが、曹操が平定した以降は見違えるほど発展したという。特に献帝の住まう許昌は見るも煌びやかな所だそうで、規律の整った引き締まった街並みだと皆が口を揃えて言った。乱世の奸雄と呼ばれる男も民の事を考えていると知り、また徐庶の故郷が平穏だと聞いて安堵した。

 ──潁川ってどんな所なのかな。

 ──元直殿は、どんな幼少期を過ごしていたんだろう。

 色んな事が頭を過ぎり、想像しては一人笑った。
 故郷の荊州と徐庶の傍を離れた事は、今では良い選択だと思えた。傍を離れた事で、神流にとって徐庶の存在がどれほど大きく掛け替えのないものかを知る機会になったからだ。
 日が経つにつれて愛情は深くなり、一日たりとも徐庶の事を考えない日はなかった。何をしていても、何を考えていても、必ず恋人を思い浮かべる。離れていても繋がっていると実感するのは、絆≠ニいう見えないもので固く結ばれているからだろう。長年に渡って築き上げた二人の関係は、戦などで簡単に崩れるものではないと知った。

 ──今頃、何をしているのかな。

 軍師に任命されたのなら、さぞ多忙な毎日を送っているに違いない。書生から武将に変われば苦労も多いはず。書簡にはそんな心労も伺えたが、仕官を受け入れられた喜びの方が上回っているし、何より神流への想いが十分伝わって来るから不安は何一つなかった。

 「頑張ってね、元直殿」

 神流は来た道を振り返って、遠く離れた恋人に向けて小さく手を振った。


 兵が鍛練する様子をただ黙視していた徐庶は、ふと誰かに名を呼ばれた気がして、はっと後ろを振り返った。そこには丁度、白馬を引いて練兵所に入った若い男がいて、こちらに手を上げているところだった。その男は劉備軍の中でも関羽、張飛に次ぐ義将・趙雲であった。

 ──気のせいだったのか。

 彼が自分を呼んだのだろうと、少し違和感を覚えながらも近付いて来た趙雲に拱手した。勇将に相応しい精悍な顔立ちで全身も鎧で固めていたが、返って来た声色は非常に穏やかなものだった。

 「徐庶殿、今日も精が出ますね。あまり無理をなさらぬよう、殿も心配しております」
 「あの…ありがとうございます、趙雲殿。お気遣いに深く感謝致します」
 「そう硬くならずとも自然で構いません。今はもう同志なのですから」

 徐庶の恐縮した拱手に趙雲は声を上げて笑った。同志と言っても、趙雲は劉備軍ではあの関羽、張飛に並ぶ勇将。数日前まで書生として暮らし、仕官したばかりの者が将軍相手に粗末な挨拶などできるだろうか。自然に≠ニ言われて徐庶は笑みを浮かべたが、酷くぎこちないものだった。

 「すみません、その…俺なら大丈夫です。戦も近い事だし、早く慣れないといけないから…」
 「私にはもう慣れたように伺えますが。徐庶殿の采配、とても初めてとは思えません。短期間でこれほど自在に兵を操るとは素晴らしい。ぜひ皆にも伝授して頂きたいものです」

 次々と褒詞を浴びせられて、徐庶は気恥ずかしさに返答も出来ず、困ったように頭を掻いた。まっすぐ見つめる瞳には曇りもなく、その言葉が本心から来るものだとわかるから尚の事恥ずかしい。
 この陣営には己を偽る者はいない。徐庶は仕官した当日に身を持って知った。仕官の申し出をした時も、劉備は一軍を率いる主とは思えぬほどの喜悦を見せて迎え入れたが、その後の計らいも想像以上のものだった。城に招くなり劉備は諸将らを呼び集めて宴を開き、朝まで語らい飲み明かした。そして翌日には軍師に任命され、さらに兵馬の鍛練まで一任した。
 任務に就けば劉備はもちろん、趙雲、関羽、張飛と名立たる勇将らが度々練兵所に顔を出して激励していく。その都度、徐庶は対応に困ってうろたえたが、内心では彼等の善心にいたく感動していた。皆に受け入れられている──そう思うと涙が出るほど嬉しかった。
 しかし、あまり人が良いのも考えもの。この状況をどう逃れようかと、徐庶は目を泳がせながら思考を巡らせた。

 「ええと…それで、俺に何かご用ですか?」

 我ながら情けない返事だと落胆したが、趙雲は「失礼致しました」と返って自身の無礼を詫び、急に表情を固くして用件を話し始めた。

 「実は先ほど、斥候から『曹操軍が樊城に駐屯した』との報告がありました。これより軍議を始めますので、至急城に戻るようにと殿が」
 「わかりました、すぐに向かいます」

 報告を聞いた徐庶も表情を一変させ、指揮鞭を揮って兵に休止の指示を出すと、趙雲と共に練兵所を後にした。

 荊州侵攻を開始した曹操軍の進軍は思いの外早かった。樊城は襄陽の北、新野からは河を挟んで西の対岸にあり、そこに曹操軍が駐屯したという事は、劉備へ攻めの構えを見せた証拠であった。
 軍議のため城に集結した諸将もいつになく緊迫しており、先刻までの穏やかさはすっかり消えていた。

 「曹操軍はおよそ三万。こちらは全ての兵を掻き集めてもわずか二千余りだ。さらに相手方は大将を曹仁とし、李典、呂曠、呂翔の三将を率いているそうだ」
 「中でも曹仁、李典は曹操が挙兵した当初から仕える勇将。しかも、駐屯した場所が樊城というのも状況が悪い。あの地は荊州の要とも言える堅城だ」
 「斥候によると、呂軍が五千の軍を率いて進軍の動きを見せているそうだ。しかし、こちらの軍備はまだ完全とは言えぬ」

 諸将から飛び交う言葉にも動揺が見え隠れしている。すると突然、張飛が立ち上がり、臆する文官に対して凄まじい形相を見せた。

 「何をびくついてやがる! 曹操が攻めて来るのは前からわかってた事じゃねぇか。相手が五千だろうが五万だろうが、この俺様が捻じ伏せてやらぁ。二千もいれば十分だぜ、そうだろ兄者」

 室内に響き渡る大喝に、ざわついていた文官は一斉に静まった。軍師として近くに座っていた徐庶は耳鳴りを起こし、堪らず顔を背けてしまったが、見れば関羽や趙雲も顔を歪めて苦笑していた。
 一方で劉備は目を瞑り、静かに臣下の言に耳を傾けていたが、ふと顔を上げて口を開いた。

 「徐庶殿、いかがしたものか」

 劉備の一言で周囲の視線が一斉に徐庶に注がれた。劉備軍に初めて迎えられた軍師。皆がその助言を求めている──。だが、徐庶は重圧に狼狽も見せず、むしろ平然と言い放った。

 「張飛殿の言うように、二千と五千ならば問題ないと思います。それに相手は呂曠と呂翔。この二人は元袁尚の配下で、俺が言うのもなんですが、連戦を重ねた他二将と違い、強敵と呼べる相手ではありません」

 徐庶の強気な発言に諸将は戸惑い顔を見合わせたが、賛同を得た張飛は「よく言った」と大声で笑った。

 「何か良策があるのですか?」

 趙雲の問いに、徐庶は「ええと」と遠慮がちに言いながらも、手際よく卓上の地図に指を滑らせた。

 「ここは伏兵を用いるのが上策かと存じます。各所に兵を伏して敵を誘い出し、分断したところを叩くのです。樊城にはまだ曹仁率いる二万もの兵が残っていますから、ここで兵力を消耗する訳にはいきません」

 そう言って、地図を示して伏兵の位置とさらに詳しい説明をして見せると、諸将は食い入るように耳を傾け、最後には「なるほど」と口々に関心の声を漏らした。

 「さすがは徐庶殿。この方法ならば最小限の兵力でも打ち勝てよう」

 と、劉備に続き関羽と趙雲も頷いたが、ただ一人、張飛だけは納得いかないようで不満を溢した。

 「そんな小細工使わなくてもいいじゃねぇか。俺と兄者だけでどうにでもなるぜ」
 「翼徳よ、もはや力押しでは通用せぬほど曹操は力を得ているのだ。軍略を用いらねば民を守り切る事は出来ぬ」

 劉備がそう窘めると、張飛は渋々返事をして軍議を後にしてしまった。すると関羽も後を追って席を立ち、その光景に劉備は大きく溜め息を吐いて頭を下げた。

 「申し訳ない、今まで策らしい事をしなかったために不慣れなのだ。ああは言っても徐庶殿の策は認めている故、問題はないと思うのだが…」
 「いえ、劉備殿が謝る必要はありません。突然押し掛けて軍師になった身ですから、すぐに信用するのは難しいかと」

 仕官したばかりの男を軍師として認めるのは難しい。確かに徐庶は兵法を熟知していたが、実際に戦場に出た経験もなければ軍配を握った事もないから、連戦を重ねて来た武将から見れば素人同然だ。
 しかし、徐庶には自信があった。これまで学んで来た知識を集結させ、脳裏で思い描いて導き出した策。さらに一万の兵に匹敵すると謳われる彼等らの武を持ってすれば、勝利は間違いないと確証していた。


 ほどなくして斥候の報告通り、新野に呂曠、呂翔が率いる五千の軍が攻め込んで来た。二将の軍陣を見た徐庶は納得したように一人頷き、すぐさま各軍に指示を出した。

 「手筈どおり、まずは敵と交戦して下さい。相手が深入りする時を待つのです」

 趙雲を先鋒にして敵陣に攻め入ると、呂曠、呂翔は「趙子龍を討って名を挙げん」と兵を鼓舞し、戦線に突出して来た。まさに思惑通りの展開。徐庶はすかさず次の一手に移った。

 「一度退いて、敵を誘導して下さい」

 徐庶の指示に将兵らは迅速に動く。怖気づいたと見せ掛け、兵を後退させると、勢い付いた敵軍は我先へと軍を進め、導かれるように伏兵の待つ拠点へと踏み込んだ。それはまるで徐庶が地図を示して諸将に説いた通りの流れであった。
 策が成った直後、敵軍は瞬く間に崩れていった。襲撃に動揺し、士気が乱れ分断された軍を殲滅するのにそう時間は掛からない。混乱した軍は総崩れとなり、呂曠、呂翔の二将は撤退したが、その先に伏せていた張飛らによって討ち取られた。新野の曹操軍は数日の内に壊滅したが、一方で劉備軍の被害は百もなかった。
 初陣とは思えぬ徐庶の鮮やかな采配には、諸将も舌を巻いた。冷静に戦況を見極め的確な指示を成し、強大な軍力を持つ曹操軍を見事敗走させたのだから、徐庶を軍師として認めるには十分過ぎる戦功であった。

 *

 その夜、新野城では早速、宴が催された。
 未だ樊城には曹仁率いる二万以上の兵が残っており、依然として不利な状況であるには違いなかったが、曹操軍を撃退し、軍配を上げた徐庶への功績を祝さんと、劉備と臣下達が勧めてくれたのだ。
 軍議も兼ねた宴と聞いて足を運んだが、宴席には山のような酒樽と食事が並んでいて、徐庶は呆気に取られた。仕官に続き、自分の功績にまで盛大な宴を開いてくれた事に動揺したが、同時に温情ある彼等の厚意に胸が熱くなった。

 「おぉ、徐庶殿、来てくれたか。ささ、早くこちらの席へ」

 呆然と立ち尽くす徐庶に、劉備は笑顔で手招きをして横に座るよう促した。主君とは思えぬ腰の低さに戸惑い、わずか数日で義兄弟らと同じ立ち位置に付いてしまった事に困惑した。

 「あの…俺のためにここまでして頂いて、本当によろしいのでしょうか?」
 「此度の戦に勝てたのは徐庶殿のおかげだ。せめてこれくらいの催しをせねば、私の気が治まらぬ」

 そう言って未だ困惑する徐庶に杯を渡し、劉備自ら酒を注いだ。すると、談笑していた諸将らも各々席に着き、戦を勝利へと導いた軍師に一斉に拝礼して見せた。戦場では冷静さを失わなかった徐庶も、この状況には赤面せずにいられない。口を噤んで俯く姿に劉備は何を思ったのか、急に表情を曇らせて詫びた。

 「そなたが思うところはわかっている。まだ戦も終わらぬ内に宴など無礼にも程があろう。しかし、未だ放浪の身である私などに仕えてくれたそなたの厚意に少しでも報いたいのだ。故に、この無礼を許しては頂けないだろうか」
 「あぁ、いや…あ、ありがとうございます。そのお気持ち、ありがたく頂きます」

 劉備のまっすぐな姿勢に「誤解だ」と弁解する機会を失った徐庶は、諸将らの熱い視線が注がれる中、杯を掲げて見せた。
 劉備が『大徳』と呼ばれ、人々から厚い人望を得た理由を徐庶は仕官を経て、その身をもって幾度となく知った。放浪軍でありながら多くの将兵らが彼を慕って止まないのは、この仁徳に惹かれた故だろう。彼ならば争乱を鎮め、皆が望む泰平の世を築いてくれる──劉備は不思議とそんな思いを抱かせる。

 ──やはりこの御仁こそ、俺が仕えるべき主君だ。

 徐庶もまた、劉備の徳に惹かれた者の一人であり、間近でその人柄に触れ、彼が築く世を見てみたいと今尚強く心に願うようになっていた。
 粛々とした宴も、杯を交わすと一変して賑々しくなった。特に張飛などは酒が入るとさらに豪快さを増し、大声で呂曠らを討ち取った状況を演じて見せると、宴は尚も盛り上がった。次第に過熱していく自慢話に見兼ねた関羽は叱り付けたが、義弟の酒癖の悪さを止めるには至らず、その滑稽な様子が笑い声を誘う。

 「この調子なら、残りの曹操軍もなんて事はねぇな」

 張飛は城内にこだまするほどの大声で得意げに笑ったが、最後には「あいつは凄い奴だ」と、徐庶を褒める事も忘れなかった。

 そんな折、徐庶の傍らに一人の男がそっと忍び寄り、膝を付いて「預かり物です」と一冊の竹簡を差し出した。宴には凡そ相応しくない装束の男、斥候らしき姿を目にした劉備は戦の気配を察したのか、ふと表情を強張らせたが、徐庶はすかさず「俺の使いです」と穏やかに答えた。
 本来ならば「場を弁えろ」と叱責すべきなのだろうが、受け取った書簡を見て部下の無礼を許してしまった。差し出し人の名が、遠い地にいる愛おしい恋人のものだったからだ。
 新野で神流と別れて半月が経ち、待ち侘びた返書に逸る気持ちを抑え切れず、徐庶は「失礼します」と一言劉備に断り、その場で書簡を開いた。

 『元直殿、お変わりはありませんか──』

 目に飛び込んで来たのは見慣れた字体。その女性らしい柔らかな字は、荒々しい戦を終えたばかりの未だ冷め遣らぬ身の猛りを解き解していった。

 『まず始めに、軍師就任おめでとうございます。使者の方から書簡を経て事情を知りましたが、元直殿なら必ず仕官できると信じていました。劉備殿もさぞ喜んでおられたでしょう。軍師として多忙な日々を送る元直殿の姿が目に浮かびます。でも、決して無理はしないで下さいね。元直殿はすぐ落ち込むから少し心配です』

 年下の恋人は相変わらずの気遣いを見せ、綻んでいた口元から思わず笑い声が漏れる。

 『こちらでは、ようやく豫州の国境が見えて来た頃です。この書簡が届いた頃、元直殿は何をしている頃でしょうね。お話ししたい事が沢山ありますが、次の書簡のために取っておきます。お体に気を付けて、軍師の任を果たして下さい』

 読み終えた頃、鼓動は異常な高鳴りを見せていた。書簡の一字一句全てが、愛おしい恋人の姿を連想させる。どのようにして書簡を読み、返書を認めたのか──思えば思うほど胸が熱くなる。気を散らさぬようにと言葉を選んでいたが、その気遣いが徐庶を高揚させた。軍師となった事も、戦に勝った事も、誰よりも先に彼女に伝えたい。だが、この胸の内にある想い全てを伝えるには、とても書簡だけでは足りなかった。

 ──今すぐにでも、神流に会いたい。

 もし会えば、きっと話すだけでは済まない。潰れてしまうほど強く抱き締めてしまうかもしれない。しかし、彼女なら笑って許してくれるだろうと思った。

 「その様子だと、随分と親しい者からの文のようだな。もしや、あのご夫人か?」

 劉備の一言で、徐庶ははっと我に返った。一人妄想に耽ってしまった事に羞恥したが、未だに『夫人』と誤解している劉備に苦笑した。

 「いえ、彼女は婚約者なんです。俺と同じ水鏡先生の門下生で、それがきっかけで…」
 「おぉ、そうだったのか、これは失礼致した。そういえば、まだ名も伺っていなかったな」

 そう言って劉備が己の失態にはにかんだので、徐庶は「神流と言います」と本人に代わって答えた。

 「して、神流殿は今どちらにおられるのだろう。一緒ではなかったのか?」
 「はい、今は戦禍を避けるために豫州に移り住んでいます。だから、彼女のためにもこの戦を終わらせないと…すみません、こんな大切な戦に私的な事情を挟んでしまって…」
 「いや、構わぬ。私とて戦う理由は似たようなものだからな。それに守りたいものがあれば、これほど心強いものはなかろう」

 劉備はそう言って徐庶を諭すと、さらに柔和に微笑んで、

 「しかし、そうとわかれば我々も全力で新野を守らねばならぬな。下手な戦をしては、お互いに神流殿に合わせる顔がなくなってしまう」

 と、付け足して笑った。
 この場に神流がいれば、きっと彼女も劉備の温情に感銘を受けるだろう。そして神流の仕官も、劉備ならば心から歓迎してくれるに違いなかった。

 ──その時は、門下生の時みたいに推薦しようかな。

 徐庶は神流が文官となって喜ぶ姿を思い浮かべて一人笑った。
 今すぐにでも返書を認めたいところだが、諸将が集まる宴を外す訳にはいかない。宴が終わるまでの間、何度も書簡に目を通しては頬を緩めた。

 ──神流、必ず君を守るから待っていてくれ。

 宴の後、徐庶は部屋に戻るなり返書を認めて使者を出し、受け取った書簡は櫛と共に軍袍の懐へと大切に仕舞い込んだ。

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