『新野道中・前編』

 新野へは、襄陽から河を渡り、丘陵を越えて平原を走る事、約八十里余りある。丸一日馬を走らせれば到着する距離ではあるが、お互い疲労の色を濃くして、夜分遅くに仕官の申し出や実家に向かう訳にはいかない。また、恋人の訪問を書簡で知らせる必要もあるとして、徐庶の提案通り、道中の宿に立ち寄った。
 神流が地図を見て案内し、馬が止まった先は旅人用の小さな宿場だった。ようやく一息付けると建物に入ると、質素な大部屋に雑魚寝する人々の姿が飛び込んで来た。帳だけで仕切られた寝床には、武装した柄の悪い男達や大荷物を抱えた親子が身を窄めて休んでいる。戦が近い現状を考えると、おそらく戦目当てに集う浪人や兵卒、そして戦地を逃れて来た者だろう。襄陽でもよく見る光景ではあったが、見る度に乱世を痛感する。

 ──まさか、ここに泊まるの?

 自ら探し出した宿だが、宿泊する旅人の井出達に不安が過ぎり、もう少しまともな場所を探せば良かったと後悔した。
 徐庶が愛想の悪い店主と交渉している間、神流は駅逓に書簡を認めていたが、その間も柄の悪い連中の視線が突き刺さる。小綺麗な格好をした男女二人は、浪人が集う宿屋では少々目立つようだ。
 目を合わさないように俯いていたが、己の姿に恐怖する娘を見て放っておくほど寛大な連中ではなかった。三人連れの男がおもむろに腰を上げ、神流の横に立った──が、間にすかさず徐庶が立ち入った。

 「俺達は二階の部屋だよ。そこは個室だから心配いらないよ」
 「おい、ちょっと待て」

 割り込んで来た男に浪人は鬼のような形相と声を発したが、徐庶と目を合わせると急に顔色を変えた。

 「頼むから、彼女を怖がらせないでくれないか。君もだろうけど、俺も戦が近くて気が立っているんだ」

 淡々と言葉を返すと、男は踵を返してそそくさと寝床に戻って行った。頭巾で顔が隠れて表情は見えなかったが、見ると徐庶の手は剣把に翳されていた。時折覗かせる冷淡な一面が、豫州で剣を振るっていた当時の姿なのではと思う事がある。

 「新野まで油断出来ないな」

 溜め息混じりにぽつりと溢し、神流の腕を引いて階段を駆け上がった。入った部屋は、古い寝台と御座があるだけの狭く簡素な個室だったが、ならず者が集まる大部屋より断然良い。神流は大きく背伸びをすると、荷物を放り投げて寝台に寝転んだ。

 「良かった。ここならゆっくり眠れそうですね」
 「さすがに大部屋では休めないだろう。あんな連中と一緒じゃ気が休まらないよ」
 「あれも戦が近いせいなんですか?」
 「それもあるけど、血の気の多い浪士はどこにでもいるよ。でも、新野は治安が良いと聞くし、俺がいる間は誰にも指一本触れさせないから、心配いらないよ」

 徐庶はようやく微笑んで見せたが、苛立ちが隠せないのか、剣を置き、軍袍を脱ぐ動作も手荒い。滅多に怒気を見せない温厚な男も、長い旅路で得た疲労の上に面倒な揉め事が絡むと、平常心を保つ余裕もなくなるようだ。
 今夜、一騒動起こるのではと案じたが、彼の口から出たのは疲労や憤りよりも、不安の訴えだった。

 「新野まで残り二十里ほどか…何だか緊張して来たな」

 床に広げた地図を眺めて、独り言のように呟く。この後、人生に関わる二つの試練に挑む彼にとっては浪人など大した問題ではなく、もはや眼中にもないようだ。

 「それって仕官がですか? それとも実家への挨拶?」
 「どちらかと言えば、挨拶かな。浪士が勝手な事を言うなと、怒鳴られそうな気がするよ」

 疲労に釣られて不安が舞い戻ったらしく、ぎこちない笑顔で言う彼の台詞も冗談か否かもわからない。

 「その…さっきの手紙だけど、どう伝えたんだい?」
 「どうって、『恋人を紹介します』って書いただけですよ。もう元直殿の事は知っているから、それだけで十分ですよ」
 「そうか…すまない、俺が言い出したのに、何だか気になってしまって…」

 司馬徽や諸葛亮のような著名人に比べれば、自分の親など大した人物ではないが、徐庶から見れば曹操よりも手強い相手なのだろう。そう考えるとおかしくて、不安がる恋人をよそに笑った。

 「元直殿なら説明も上手だから、すぐ納得しますよ。身嗜みを整えれば見た目だって完璧…そうだ」

 言っている途中でふと思い立ち、懐に仕舞ってあった櫛を取り出した。

 「この櫛、元直殿にあげます。これで髪を梳かせば、寝癖も直ると思うし」
 「受け取れないよ。大切なものなんだろう?」
 「大切だからあげるんじゃないですか。使い難いなら、お守りにして下さい。柘植の櫛だから丈夫ですよ」

 すると、徐庶は返事もせず脱いだ軍袍に櫛を仕舞い、寝台に転がり込んで来た。寝台の狭い空間に身体を収め、すかさず腰に手を回して神流を後ろから抱き寄せる。感極まって大胆な行動に出たと笑ったが、見つめ返して来た瞳は真剣そのものだった。

 「新野に着いたら、しばらく会えなくなるから…今夜はずっと抱き締めていてもいいかな…」

 優しく穏やかでありながら、熱の篭った妖艶な声。意図的なものかは知らないが、耳元で囁くその声は悪戯に神流の理性を揺さ振る。

 「いいけど…明日挨拶に行くんでしょう?」
 「わかってるよ。だから、抱き締めるだけだ…」

 言った直後、逞しい腕が身体を這い、首筋に唇が押し付けられた。言葉とは裏腹に交わされた抱擁は濃厚なもので、温もりと感触を覚え込ませるように四肢を絡め、身体を摺り寄せて来る。口元から漏れる吐息もどこか切ない。
 彼が胸の内に抱く本当の不安は、実家の訪問などではない。戦は一度始まれば、いつ終わるかも知れないもの。次に再会する時も、いつになるか誰にもわからない。『心配ない』『大丈夫』という励ましは、自分に対しても言い聞かせていた言葉なのだろう。

 ──今度は私が慰めてあげる番ね。

 抱擁に陶酔する男の首に腕を回して、神流は自ら唇を重ねた。優しく交わした接吻は男の感情を煽り、荒々しく唇を絡めて来る。着物越しに身体を愛撫していた手はそれだけでは飽き足らず、裾の間へ滑り込んだ。逞しい手が胸の膨らみを擽り、甘い声が漏れる。すると、その反応に愛撫の手は止まり、唇が離れた。

 「…すまない、こんな事をしたら怒鳴られる程度じゃ済まないな。外泊だけでも悪いのに」
 「言わなければ大丈夫ですよ。それに、こうして二人きりで過ごせるのも今夜だけなんですよ。次に会えるのは何ヶ月後か、何年後かわからないんだから」
 「…そんな寂しい事言わないでくれ。君と離れるのは、一日だって辛いんだ…」

 男の憂いは色濃くなり、それは欲情へと変貌し、理性を呑み込んでいった。上に覆い被さると、再び深く口付け、唇を愛撫し、間から舌を口内に押し込んで己の唾液を絡める。

 「はぁ…っ…やっぱり抱き締めるだけなんて無理だ…悪いけど付き合ってくれ」

 一瞬離れた口元から吐息混じりの声が漏れた。柔肌を掴む手に力が篭り、次第に下腹部に移動し、秘部に到達すると全体を撫で上げた。激しい接吻とは裏腹に愛撫は優しく、身体にぞくりとした快感が走る。

 「いやっ…んっ…!」

 訪れた淫靡な瞬間と己の淫らな声に、身体は瞬く間に紅潮していく。その様を見つめる徐庶も、いつしか夜に見せる妖艶な男へと変わっていた。情交になると言動に躊躇いがなくなり、憂いも甘さも消え、普段は見せない別の顔を見せる。情交の度に見ているのに、毎回その変貌振りに動揺してしまう。
 まだ理性が残る神流には、妖艶な気配を纏う恋人と色欲に染まっていく身体は直視し難いもので、固く目を瞑った。そんな神流をよそに、徐庶は濃厚な接吻を交わしながら着物を脱がし、露になった肌に視線を注ぐ。

 「神流…とても可愛いよ…もっと俺に見せて…」

 耳元で声が囁き、指先が蕾を攻める。執拗な愛撫に身体はびくびくと波打ち、愛撫する男の手を濡らした。周囲に気付かれないよう声を抑えると、逃れる術を失った性感が身体の中に溜まり、より強いものとなって神流を襲う。漏れる吐息はより妖艶なものとなり、愛撫に善がり、欲に染まる柔肌を前に、徐庶は自身の着物を脱ぎ捨てた。
 目の前に飛び込んで来たのは、逞しく滾る男の身体。間から覗く反り立った一物を目にした瞬間、理性が壊れた。無意識の内に身体が動き、自ら脚を広げて行為を誘う。色欲に捉われると、無意識に淫らな行動に出るから、つくづく不思議に思う。自分でも淫乱なのではと思う事があるが、徐庶と肌を重ねる快感と共に得られる愛情を思うと、制御するつもりはなかった。
 交合を望む濡れそぼつ紅い口を前に一層荒い呼吸が聞えると、男の身体が覆い被さり、剛直な一物が両脚の合間に向かった。熱く滾った肉塊が秘部に触れ、淫靡な感触に気が狂いそうになる。

 「今夜だけは一瞬たりとも君を離さないよ。離れている間も、神流を傍で感じていられるように…したいんだ…」

 直後、宛がわれた塊が胎内に押し込まれた。濡れた口を広げてずるりと奥へと侵入し、肉壁を刺激しながら往復を始める。一段と強い快感と身体が繋がった事への恍惚感から、抑え込んでいた声が一気に放出された。

 「いやあぁん! 元直殿っ…!」

 憂いの含んだ情交は加減を知らず、徐庶は己の欲のまま腰を打ち付ける。肌に唇を這わせ、自分のものだとばかりに紅い印を刻み付けていく。神流が相手を締め付けると、低い吐息を合図に勢いはさらに増した。
 結合部から水音と肌のぶつかる音が立ち、熱い肉塊が性感帯を突き上げる。激しい交合にただ苦悶の表情で耐えるしかなく、上がった嬌声も一度きりで、短い喘ぎ声しか出ない。しかし、いくら悶えようと勢いは衰えるところを知らない。

 「はぁっ…神流…離れていても…ずっと一緒だよ…。毎日、神流を想うから…君も…んっ…俺の事を想ってくれるって、約束してくれないか…?」

 苛烈な情交の最中に約束を迫るなど、意地悪でしかない。だが、激しい交合の一方で見つめる瞳の奥は寂しげな色を覗かせていて、喘ぎながらも必死に訴え掛ける様が愛らしく、神流は何度も頷いた。

 「んっ…元直殿…もっと…強く抱き締めて…!」

 腕を絡めて縋り付くと、徐庶は要望通り神流を抱えて、より深く身体を繋げた。唇が絡み、肌が擦れ、名を呼び合う度に互いの身体が反応する。熱と汗で全身が蕩けそうになる。この麗しい瞬間を肌に刻み込むように、二人は情を交し合った。
 ほどなくして絶頂を迎えた徐庶は、最奥に熱い欲を放つと、ようやく繋げていた身体を離した。胎内を流れ込む熱いものが、全身をかつてないほど強い恍惚感に満たしていく。

 「すまない…これじゃ明日、人に合わせる顔がないよ…」

 理性を取り戻して自分の行ないを恥じたが、激しい交合の後では滑稽な台詞でしかない。過激な行為も意図的なものに思えてしまい、情交後の幸福感に浸る間もなく、神流はくすりと笑った。

 「私は嬉しかったですよ。大丈夫、この勢いでいけば必ず成功します」

 冗談混じりに返したが、徐庶には皮肉に聞えたらしく苦笑した。そのまま沈黙したため、深刻に悩んでいるのかと咄嗟に顔を上げてみると、心配をよそに徐庶は抱き付いたまま目を閉じ、昏々としていた。やはり望んでした行為だと思い、想いを遂げて安堵する様に意地悪く尋ねる。

 「思いの丈をぶつけて、安心しましたか?」

 すると、徐庶は苦笑して小さく頷いた。その目は眠気で半開きになっていて、見ていて脱力するほど穏やかな表情である。憂いも不安も消えていたが、同時に浪人を怖気づかせた雄姿もない。

 「そんな事で明日大丈夫なんですか? 人に知れたら笑われますよ」
 「いいんだ、今は神流しかいないから。明日からはきちんとするよ…だから…今夜だけ…」

 肌に顔を寄せて目を瞑り、ぽつりぽつりと呟く。『一瞬たりとも離さない』という言葉通り、抱き寄せる四肢は身体に絡み付いたままだ。

 ──もう我儘は言わないんじゃなかったの?

 内心ぼやいたが、肌に縋って甘える仕草が心を擽る。粗暴な輩の前では勇敢な男を見せるというのに、二人きりになると甘い男に豹変する。本人は全く無自覚だから余計に罪だと思う。
 眠りに就いた徐庶の表情は非常に穏やかで、神流は悪戯に心を乱す純朴な恋人に優しく口付けた。

 *

 翌朝、神流目を覚ました頃には、徐庶はすでに旅支度を始めていた。軍袍を羽織り、革帯を締め、手際よく衣の体裁を整えていく。見る見る内に剣侠へと姿を変える様に見惚れていると、視線に気付き男が振り向いた。

 「やぁ、おはよう。もう朝だよ」

 早朝にも関わらず、返って来た笑顔は明るく清々しい。神流は思いがけない情交に寝不足気味だったが、徐庶は一夜を共にした事で吹っ切れたようだ。

 「元直殿、よく眠れたみたいですね」
 「あぁ、ええと…君のおかげだよ。ありがとう」

 徐庶ははにかんだが、軍袍を纏い、腰に剣を携えると、一晩中恋人を抱き締めて眠っていた甘え上手な男だとは誰も想像出来ない。この一面を知れば、血の気の多い浪人も唖然とするだろう。
 いつもの事ながら、身体は綺麗に拭かれ、替えの着物を着ていた。そして肌にも紅い痣が残っていたが、首筋など着物から見えるところに痣はなく、激しい情交の間にも気遣いはあったようだ。この後、実家に帰ると思うと痣に関係なく気恥ずかしいものがあり、今頃になって徐庶が一度抱擁を躊躇った理由がわかった。しかし、いつ非情な別れが訪れるか知れないこの時代、恋人と情を交わす事は決して悪い事ではないはず──と、神流は自分に言い聞かせて納得した。
 徐庶が仕度をする後ろで、神流も着物を脱ぎ、新しい襦袢を纏う。ふと視線を感じて振り向くと、徐庶はその様を見つめていた。視線を辿ると痣の残る素肌に向かっていて、咄嗟に着物を羽織って睨むと、視線が逸れた。

 「もう、朝からどこ見てるんですか」
 「い、いや、違うんだ。その…昨日は悪かったよ…本当に自分勝手だったと反省しているよ。出来れば忘れてくれないか…ほら、その…変な事を言ってしまったし…」

 痣を見て昨夜の言動を思い出したのか、徐庶は赤面しながら謝罪したが、早朝から謝る事でもなく、むしろ逆効果だと思う。

 「わかってます、二人だけの秘密。それから、毎日元直殿の事を想うと改めて約束します」

 意地悪く情交中の約束事を持ち出して、戯れ半分に指切りをして見せると、徐庶はますます羞恥に俯いた。赤らんだ顔と酷い寝癖のおかげで、勇ましいはずの軍袍姿も威厳に欠ける。

 「ほら、今日は大切な日だから、私が身嗜みを整えてあげますね」

 寝台の上に立って軍袍の襟を正し、櫛で髪を梳いてやると、徐庶は「ありがとう」と囁いて、耳まで赤く染めて嬉しそうに微笑んだ。
 今日は肝心な日だというのに、未だに甘える姿を見せる恋人。本当に本番を迎えられるのかと不安を覚えたが、一歩部屋を出ると神流を守るように前を先導する頼もしい剣侠に戻っていた。めり張りがはっきりしているのはいいが、散々甘えた後では気迫も半減して見える。

 「さぁ、新野まであと少しだ。行こうか」

 徐庶は馬に跨がるなり意気揚々と声を上げて手綱を引いた。

 ──もう大丈夫みたいね。

 神流は意欲的になった恋人に笑い、二人は気持ちを新たに道中の宿場を後にした。

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