『軍師求む・前編』

 仕事先から徐庶の屋敷に赴くと、玄関に複数の靴があった。石韜一人が訪ねて来る事はあるが、二人以上の友人を屋敷に招くのは珍しい。ある学友は故郷に帰り、ある親友は山中や村落で隠居し、ある知己は臣下として多忙の日々を送っているからだ。また、徐庶も今は鍛錬重視の生活となり、何より神流との時間を優先するため、屋敷に友人を招く事は少なかった。

 「今日は、ご友人が来ているんですね」

 玄関に並ぶ靴を眺めると、徐庶はなぜか気まずそうに頭を掻いた。

 「ええと…いつもの事だけど、勝手に上がり込んで来たんだ。もう帰らせるよ」
 「別に気にしなくてもいいのに」

 強引な友人の事、本当に『上がり込んだ』とも考えられるが、寂しさ紛れに自ら呼んだとも取れる。徐庶は相変わらず、神流の前では友人に素っ気ない態度を見せるが、これも『友人よりも神流が大切』という彼なりの意思表示なのだと、長年の付き合いでわかって来た。
 書斎に向かうと、石韜と、久しく見る向朗、孟建の姿があった。向朗と会ったのは、まだ袁紹が曹操と争っている頃で、孟建は徐庶と恋仲になった時に顔を合わせた以来。どちらとも数年振りの再会になる。神流は久しい人物との再会を喜び、三人が一礼するより先に拱手した。

 「向朗殿に孟建殿まで、お久し振りです」
 「おぉ、これは神流殿。しばらく見ない間に随分と変わられましたな」

 向朗と孟建は揃って目を丸くし、わざわざ腰を上げて拱手した。
 以前の月英と同様の事を言われ、一体どう変わったのかと神流は自らの姿に視線を落とす。恋情は容姿をも変えてしまうのか、それとも肌を重ねた事で自分でも知らぬ間に変わってしまったのか──あれこれ想像して、勝手に一人で羞恥した。しかし、思えば当時は神流から二人に声を掛けた事はなく、塾生時代に比べれば人見知りもなくなったため、『変わった』と驚く理由はそれだと納得した。

 「孟建殿は、いつ荊州にお戻りになられたんですか?」
 「ふと昔の学友が恋しくなりましてね、ふらふらと顔を出したまでです。貴女もお元気そうで何よりだ」

 孟建が答える間、向朗は感慨深く神流を見つめていたが、隣に座る石韜にわざと聞えるように耳打ちした。

 「これも交際の賜物かな。徐庶殿も仕官先を決めたと言うし」
 「向朗殿、まさしくその通りだ。特に元直は、神流殿様様だ」

 石韜が口を挟むと、徐庶は見る見る内に不機嫌になったが、年上の儒学者はわざと身震いをして、おどけて見せた。

 「神流殿が参られた事だし、元直の機嫌を損ねた我々は帰るべきかな」
 「そうして貰えると助かるよ」

 徐庶は間髪置かずに言い放ったが、その隣で神流は首を振った。

 「いいえ、料理を作る間、元直殿を一人待たせてしまうから、お相手をしてあげて下さい。それにお二人と会うのも久し振りですし」
 「それは名案。では、そうしましょう」

 二人はあっさり言葉に甘えて、一度浮かせた腰を降ろした。徐庶は不満気に神流を見つめ返して来たが、「ご馳走作りますから」と耳打ちして宥めた。
 神流は早速厨に入り、食事を作る前に茶請け用の饅頭を作り、茶器と共に四人が談話する書斎へと運んだ。
 先ほどの和やかな雰囲気から一変し、石韜、向朗、孟建の三人は真剣に話し込んでいた。神流の前では笑顔を見せる彼等も、男同士になると途端に気難しい壮士の顔になる。無論、徐庶も同様である。この日は特に空気が張り詰め、世の情勢を語らっているのだと察した。この数年で情勢は著しく変化していたため、久しく顔を合わせた壮士達の話題は豊富だろう。
 真剣に語る中、書斎に入った神流に真っ先に気付いたのは徐庶だった。険しい表情から一転して微笑み、すかさず手を貸した。代わりに盆を受け取り、友人の前に茶請けを差し出す。

 「これはかたじけない」

 友人らは一同に一礼したが、厳しい顔で語る姿を見た後では、返す笑みもぎこちなくなる。ここは会話に立ち入るべきではないと判断し、神流は後ろで黙々と茶を淹れていたが、その間にも話は再開された。

 「して、劉表殿は一体どちらを後継に立てるのだ? 劉埼か、劉ソウか」

 石韜は若干、苛立ったように向朗に尋ねた。冷静で穏和な石韜が憤りを見せるのは珍しく、向朗も険しい面持ちで問いに答えた。

 「無論、劉表様は劉埼を後継に立てるおつもりだが、何せ蔡瑁殿が劉ソウを推しているのだ。劉表様はそこを悩んでおられる」
 「蔡瑁殿…臣下の身でありながら災いを招くような真似を…袁家の二の舞いにしたいのか」

 憤る石韜に、向朗も不快感を露に「全くだ」と頷く。長らく荊州を離れていた孟建は、二人の会話を真剣に聞き入っていたが、徐庶は神流が淹れた茶を飲む事に夢中だった。

 「だが、劉備殿が劉埼を支持しているのは、何よりの救いだな。劉表殿も同族の言は無下にしないか」
 「ところが最近、劉表様は劉備殿をよく思われていないのだ」

 向朗の言葉に、神流と徐庶はぴくりと反応した。石韜が代わって疑問を尋ねる。

 「なに、あれほどもてなしておいてか?」
 「また悪い癖が出たのだ。以前、宴席で劉備殿の寝姿を見て『龍だ』と怖気付いたそうだ。劉備殿も、今では民や自分の臣下にまで慕われている。故に、疑心を抱いたのだろうな」

 各々の口から大きな溜め息が同時に漏れた。聞き入っていた孟建も呆れて口を開く。

 「劉表が不安になる気持ちもわからんでもないな。劉備は昔、仁徳で徐州を手に入れた男だ。荊州も奪われるのではと危惧しているのだろう。徒労だが、あの肝の小さい劉表ではな。悪巧みをしなければいいが」

 すると石韜は笑い、すぐに真顔に戻って一言言った。

 「劉表殿に奸計を練る度胸などないわ。あるとすれば蔡瑁殿だ。甥を世継ぎにせんと一族郎党企んでいるのだからな」
 「でも、劉備殿も災難だな。こんな厄介事に巻き込まれるなんて」

 苛立ち呆れる三人の会話に、突然、穏やかな声が挟んだ。徐庶も友人に釣られて表情こそ険しかったが、その声は温情に満ちている。穏和な男の一言は、友人三人の憤りを一瞬で収束させた。

 「まぁ、劉備殿と劉表殿とは同宗の裔であるし、何より義に厚いお方だ、厄介事でも捨て置けんのだろう」

 徐庶は石韜の答えに頷くと、次に向朗に尋ねた。

 「やっぱり向朗殿から見ても、劉表殿と劉備殿は違うかい?」
 「比べるまでもない、劉備殿は仁君だ。それを臣下の私に言わせるなど、徐庶殿も案外人が悪いな」

 と、向朗も一転して笑った。徐庶の純粋な質問で和んだところで、神流は書斎を出て厨に戻った。
 その会話から、話題に上がっているのは『劉表の家督問題』だとわかった。前々から噂立っていたが、向朗の話を聞くに、幕僚の間では大事になっているようだ。
 劉表の後継には二人の名が挙がっている。一人は長子の劉埼で、今は亡き陳夫人の子であり、賢才だが柔弱だと聞く。もう一人は次子の劉ソウで、臣下である蔡瑁の妹・蔡夫人の子であり、聡明な男子だという。本来は長子が家督を継ぐのが道理であるから、劉埼が継承者であるのは明らか。しかし、劉ソウには蔡瑁と蔡夫人が後ろ盾となって動き、これが劉表の後継問題の一番の要因でもあった。
 あの袁家も、後継者を明確にしなかった故に骨肉争いにまで発展し、長男の袁譚は弟・袁尚を討つために曹操と同盟を組むまでに至ったが、後に反逆し、弟を討つ前に曹操によって討たれた。現在は袁熙と袁尚の二人が残り、さらに北へと落ち延びたという。
 名族・袁家ももはや風前の灯となり、曹操の河北平定は目前に迫っている。そんな中、劉表の後継者問題が浮上したのだから、臣下が呆れるのも無理はない。袁家という悪い例があるから、尚の事である。
 神流の知るところでは、劉表は『優柔不断な太守』として定着している。同盟国は多いが、救援を送る事はあっても自ら国力拡大を計る事をせず、また、曹操や孫権に対する備えも強固とは言えない。徐庶は随分と前から劉表を見限っていたから、全て予見していたのだろう。彼が人一倍悩む理由は、誰よりも大局を見ているためなのか。だとすれば、彼には劉備の天下が見えているのだろうか──。

 「神流、これありがとう。美味しかったよ」

 噂をすれば、背後から徐庶の声が言った。見ると、徐庶は自ら空いた皿と茶器を運んで来たようで、調理台の上に置いた。その後ろには、友人三人の姿があった。

 「馳走になりました。自分達はここで失礼致します」
 「いつも愚痴ばかりで申し訳ない、徐庶殿の屋敷だと話し易いもので」
 「壮年のおじさん方はここで辞退しますので、この後の元直は、神流殿にお任せします」

 廊下越しに孟建、向朗、石韜は各々挨拶をして玄関へと姿を消した。廊下から引戸の音が鳴った後、徐庶だけが厨に戻って来た。

 「さっきは悪かったよ。あんな話、聞きたくなかっただろう?」

 徐庶はそう言いながら神流の隣に立ち、手元に視線を落した。料理をする姿を見に来たのか、悪い噂を耳にした神流を気遣いに来たのか──おそらく両方だろう。その様子に神流は微笑みながら言葉を返した。

 「全然気にしてませんよ。でも、向朗殿は劉表殿に長年仕えているのに、随分と不満を抱えているんですね」
 「うん、まぁ…今の劉表殿じゃ仕方ないよ。それに韓嵩殿の事があるから、彼も複雑なんだ」
 「韓嵩殿が、どうかしたんですか?」

 神流が手元から目を離すと、徐庶は「危ないよ」と忠告してから頷いた。韓嵩は司馬徽の門弟で、劉表幕僚であり、向朗とは親しい友人でもある。

 「使者として許都に出た時、劉表殿に曹操との内通を疑われたんだ。皆の弁護で処刑は間逃れたけど、今も獄中だという話だよ。もちろん、韓嵩殿は敵国と内通するような人じゃないよ」

 優柔不断な上に猜疑心が強い──これでは向朗だけでなく、周囲が不満を溢す理由も頷ける。昔は玉璽を手中にした孫堅を討ち、漢室に忠義を尽くす英傑だったが、今の劉表に当時の覇気はない。劉備の登場で、劉表の凡庸さがさらに浮き彫りとなった。

 「その様子だと、他にも問題が出て来そうですね。劉備殿は大丈夫でしょうか」
 「俺も少し心配なんだ。でも、劉備殿には関羽殿と張飛殿がいるから、大丈夫だよ」

 徐庶は、神流の不安を払拭するように優しく微笑んだ。確かにあの果敢な義兄弟が傍にいれば、いかなる揉め事も一喝で収拾してしまいそうだ。
 今も三人の記憶は鮮明に残り、当時を思い返すと彼等が恋しくなるほどだ。いずれ劉備と再会する日も来る。その時は、『夫人』と呼ばれても間違いではないと、神流は頬を緩ませた。


 食事を終えて四刻ほど師事を受けると、宿舎に帰る刻限になる。宿舎の規律は緩く、神流ももう少女という歳でもないから、帰宅は夜中でも構わないのだが、徐庶は決まって同じ刻限に腰を上げる。
 いくら逢瀬を待ち侘びていても、夜分遅くに女性を帰すのは真面目な彼の道理に反するのだろう。また以前、神流が溢した『男に襲われるかも』という言葉がよほど気になったのか、ますます時刻を気に掛けるようになった。
 玄関まで来たところで、徐庶は急に脚を止めた。

 「あぁすまない、小手を忘れたよ。少し待ってて」
 「見送りに小手なんて必要ないのに」
 「用心のためだよ」

 徐庶は笑い、一度履いた靴を脱いで書斎に戻った。宿舎までの見送りに小手を装着するのも、神流が迂闊に溢した一言のせいである。用心と言うが、宿舎がある襄陽城市で物騒な事件が起こった事はない。深夜でも街の灯りは煌々と灯っているし、街道も人が多いため、あっても喧嘩騒ぎくらいなものだ。そもそも、荊州刺史・劉表が住まう襄陽城下に賊徒紛いの輩などいない。
 心配性な恋人に溜め息を吐き、神流は玄関の外を覗いた。城市外にある徐庶の屋敷からも、襄陽城の灯りが見える。三里は離れているというのに、灯りに照らされて、闇夜でも城壁の存在がはっきりと見て取れる。
 神流の故郷、新野は田舎のため、初めて襄陽の街並みを見た時は、その煌びやかさに圧倒されたが、今ではとすっかり見慣れた光景となった。襄陽は第二の故郷と言ってもいい。だが、現在は家督問題という野心が渦巻いているためか、煌びやかな城もどこか暗澹として映った。壮士達の噂は、無意識の内に不安を植え付けていた。

 「一人で外に出たら危ないよ」

 背後で優しい忠告が聞えた。玄関を閉める手元には小手が、羽織の下には剣の鞘と深紅の紐が覗いている。いくら用心のためだとしても、得物を隠し持つ方が危ないと、内心反論した。

 「劉備殿も、よくお城の宴に参加するんですか?」

 唐突な問いに、徐庶は首を傾げながら答えた。

 「あぁ、劉備殿は劉表殿と同族だし、今は新野に駐屯しているからね。向朗殿の話では、近々大きな宴を開くそうだけど…それがどうかしたのかい?」

 宴と聞いても、家督問題が浮上する最中では、私欲と野心の溜まり場に違いない。表向きは笑顔で煽て合い、胸の内は野心に燃える──そんな宴を想像して嫌悪感を覚えた。
 返答もせずに城を眺めていると、手に温かいものが覆い被さった。徐庶の指先は、剣の鍛錬で少し固くなっていたが、神流の掌に優しく絡み付いて来る。

 「神流…君の不安は、俺が必ず取り除いてみせるよ。あと少しなんだ…だから、そんな顔しないでくれ…」

 その声色は恋人を案じて憂いと慕情が入り混じっていたが、瞳には力強さがあった。彼を急かすまいと仕官の話はなるべく控えていたが、徐庶自身の口から改めて決意を聞き、抱いていた不安など一瞬で消え去った。長い月日と鍛錬を重ねて、彼が探し求めていたものが見えたのかもしれない。

 「そうですね、私の傍には元直殿がいるし、新野には劉備殿がいるんだもの。もう怖いものなしですよね」

 神流は狂喜したい感情を精一杯抑えて、握る手を引いて街道へと躍り出た。
 着実に仕官の時≠ェ近付いている──。まだ確定した訳ではないが、仕官の意気込みを聞くと結婚≠ノ大きく前進したと思い、急に喜びが込み上げて来る。

 「その様子だと、鍛錬の成果が出ているみたいですね」
 「あぁ、あと少しで答えが出そうなんだ。後は、劉備殿が俺を受け入れてくれるかどうかなんだけど…『お前なんか要らない』とか、言われたりしないかな…」

 徐庶は眉を下げて力なく笑った。それが彼の冗談なのか、本心なのか──自信なく俯く姿から後者とも取れる。あの劉備から口が裂けても出る台詞ではないと笑った。

 「元直殿だったら大丈夫ですよ。学問も兵法も剣術も出来るんだから、劉備殿も喜んで迎えてくれますよ」
 「そうだと嬉しいんだけどな」

 神流の笑顔に、徐庶は安堵して微笑んだ。いつしか彼の方が強い不安に駆られ、長い間鍛錬を重ねても、自信のない姿勢までは改善出来ないようだ。まだ憂いの残る顔を覗き込んで、意地悪く尋ねる。

 「あんなに熱望していたのに、仕官が不安なんですか?」
 「ええと、まぁ…初めての事だし、全く不安がないと言えば嘘になるよ。でも、こんな俺でも人の役に立てると思うと嬉しいし、期待の方が強いかな。それに、君の事ももっと守ってあげられるからね」

 間近で微笑む優しい声色から逃れる術はなく、神流は頬を染めて頷いた。
 徐庶が門下生から武将に変わる──待ち遠しい瞬間ではあったが、それは同時に、長年続いた徐庶との日常が大きく変わる事を意味していた。二人で歩く宿舎への帰り道、穏やかであり物悲しさを感じるこの瞬間も、仕官と同時になくなる。神流の休日を見計らって、彼が学問所で待っている事も、その頃にはもうない。徐庶と出会って五年以上も続いた日課がなくなり、また武将として乱世を歩み出すと思うと、寂しくもあり複雑でもあった。
 宿舎が近付くにつれ、二人の口数も自然と減っていく。そんな中、徐庶は思い立ったようにぽつりと溢した。

 「…神流、もし怖かったり不安な事があったら、いつでも俺の所に来るんだよ。傍にいてあげる事くらいは出来るから」
 「元直殿も、何かあったらいつでも私に言って下さいね。すぐに駆け付けてあげますから」

 恋人を励ますには凡そ相応しくない声色に、神流は離すまいと絡み付く男の手を握り返した。宿舎に着くまでの間、隣にある温もりを肌に覚え込ませるように二人は寄り添った。


 それから一ヶ月後、夜に見る襄陽城は一段と煌々としていた。この日、城では大規模な宴があり、荊州各地から諸将が集っていた。これが徐庶の言っていた『大きな宴』なのだろう、多くの兵が城周辺に駐屯し、宴とは程遠い物々しい雰囲気を醸し出している。

 ──あの中に、劉備殿もいるのかな。

 神流は宿舎の窓から、城を眺めていた。城を囲む光たるや実に華やかで人目を惹き付け、同僚も城下の者も魅入っている。しかし、神流には何度見ても気分の良い場景ではなかった。
 不安が過ぎると、先日の徐庶の言葉を思い出す。『いつでも来て良い』と言っていたが、仕官への不安を見せる彼の身の方が心配だ。むしろこちらから出向いてあげようかと、その夜、神流は微笑みながら床に就いた。

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