学問所に門下生や塾生が多く集う光景は、神流が塾に通い始めた当初から変わらない。この日も、正午の講義のために学問所を訪れると、学舎前に人だかりが出来ていた。門下生や塾生はもちろん、司馬徽を慕う学者から民の姿だ。その中には、必ず徐庶の姿があった。
どんな人混みの中でも、遠目から後ろ姿をちらりと見ただけで、それが徐庶だとわかる。恋人だから当然なのだが、門下生の中で一番の長身で、のんびりした雰囲気と寝癖のある頭は、気難しく身形の整った殿方の輪の中では一段と目立つ。神流でなくとも、彼と一度でも面識がある者ならば、一目で見分けが付くだろう。
徐庶が学舎の前で友人らと談話する姿も、出会った当初から変わっていない。ただ、変わった点と言えば、彼が休日に合わせて学問所に顔を出し、談話をしながら神流が来る時を待ち侘びている事だ。
「元直殿」
恋人の姿を見つけた神流は途端に頬を綻ばせ、後ろから近付いて行った。呼び掛けに気付かないところから、誰かと話し込んでいるようだ。長身の身体に隠れて相手は見えなかったが、彼の話し相手は大抵、石韜だ。しかし、近付いてみると徐庶の前に立っていたのは女性らしき者の姿だった。
らしき≠ニいうのは、相手が白い頭巾を深く被っていて、顔が見えないためだ。二股に分れた着物を履き、肩に荷物を抱える身形は一見、旅人のように見える。頭巾の合間から長く繊細な髪が伸び、袖から伸びる腕や脚、身体の細さから、相手が女性だと判断出来た。
──元直殿が女性といるなんて珍しい。
神流の同僚相手ですら落ち着かない男が、女性と対話している姿は実に意外だった。ただ、人との交流が広く、根が温厚な男だから、女性の知人がいても不思議ではない。
徐庶に女友達がいようと一向に構わないのだが──なぜか面白くない光景だった。会話に夢中でこちらに気付かない事が余計に腹立たしい。神流と話し込む友人に嫉妬する徐庶の気持ちがわかる気がした。
静かに徐庶の後ろに立つと、背中を拳で軽く小突いた。ようやく徐庶は振り返り、背後に立っていた恋人に悪びれた色もなく、むしろ満面で笑って見せた。
「やぁ、神流じゃないか。君が来るのを待っていたんだよ」
徐庶の声に、目の前にいた女性もこちらを見た。頭巾の下から形の良い唇が笑い、神流に拱手した。
「まぁ、神流殿ですか? お久し振りでございます。またお会い出来て光栄です」
聞き覚えのある声だと思ったが、未だ正体を明かさない女性に神流は眉を顰めた。頭巾越しの顔を訝しげに覗き込んだが、目が合うと「あっ」と声を上げた。
色白で眉目秀麗、凛とした顔立ち──それは諸葛亮の妻・月英だった。気付かなかったとはいえ、龍の妻に嫉妬を抱いた自分が恥ずかしい。
彼女とは、塾生時代に徐庶と隆中を訪れたきりだったが、当時の思い出は一度も忘れた事はない。思いがけない人物との再会に、神流は歓喜した。
「月英殿ですか!? ご、ごめんなさい、まさかこんなところで会えるなんて思わなくて…! でも、どうして襄陽に?」
「この度は、お忍びで襄陽を訪問したものですから、ここでは素性を明かせないのです。どうかご理解下さい」
声を張り上げた神流に、月英は笑いながら人差し指を自らの唇に当てた。名士の娘であり、伏龍の妻。周囲に『醜女』と噂を流してまで身を隠すほどだから、素性を知られるのは拙いのだろう。
慌てて口を噤んで辺りを見回し、小声で再度「どうして?」と尋ねると、月英は「長くなりますが、よろしいですか?」と一言置いて話し始めた。
「久しく襄陽まで買出しに来たものですから、神流殿の呉服店にも伺おうとこちらまで訪ねて来たのです。ですが、不覚にもお店の場所を把握していなかったもので、学問所ならば会えるのではと思い、伺った次第です。幸いにも徐庶殿の姿をお見掛けしたものですから、事情を説明してお店を紹介して頂こうと…でも、こうして神流殿とお会い出来て良かった…」
優しく手を取り、喜びに満ちた微笑みを見せる月英は、以前より増して美しかった。数年振りの再会に胸が熱くなり、神流は無言で何度も頷いた。
「お二人の事は孔明様から常々伺っておりました。神流殿も今では門下生となって、徐庶殿と交際されているとか。私も当時から、お二人のご関係は薄々気付いておりましたが、やはり想定通りだったようですね」
月英は二人の顔を交互に眺めて、くすりと笑った。付き合う前から石韜や向朗にまで関係を怪しまれたくらいだから、一段と洞察力の鋭い諸葛亮や月英から見れば、二人がその後どうなるか、容易に予想出来るだろう。特に徐庶の不自然な態度は、神流でもわかったくらいだ。
諸葛亮とは書簡で交流があるのは知っていたが、一体どう言って交際の報告したのか──ふと徐庶を見ると、彼は目を伏せたまま、女性二人の視線を一身に受けて羞恥していた。
「ええと…月英殿が、神流に渡したいものがあるそうだよ」
徐庶は二人の視線を逃れようとばかりに話題をすり返えたが、月英は案外すんなりと話を受けて頷いた。背負っていた荷物を降ろすと、一つの木箱を差し出した。
「私が作った『からくり人形』です。以前から神流殿にお見せしたかったのですが、そのために隆中へ招く訳には行きませんので、小型に改良させて頂きました。神流殿に差し上げます」
「わざわざ私のために? ありがとうございます」
まさか『からくり』を貰えるとは思わず、神流は戸惑いつつも笑顔で返した。
無論、彼女の気遣いは嬉しかったが、以前、徐庶から聞いた諸葛亮のぼやき≠烽り、内心は複雑でもあった。
一体どんな物なのか──こっそり中を覗いて見ると、着物を着た小さな人形が入っていた。想像していた以上に『からくり』は小さく精密で、その形状も可愛らしいものだったため、神流は安堵した。だが、この人形が実物大で諸葛亮の屋敷にあると思うと少し不気味である。
「月英殿は、今も『からくり』は作っているんですか?」
「えぇ、今もこの人形と同じ動力を使って、他に何か出来ないかと思案しているところです」
「…それで、諸葛亮殿は何と言っているんですか?」
「孔明様は『役に立つ物ならば作っても構わない』と言って下さいました。ですから、これからも孔明様のお役に立つ道具を沢山作っていくつもりです。孔明様のお役に立てる事が、私の喜びですから」
その返答を聞いた神流は「そうですか」と苦笑し、それ以上は聞かなかった。諸葛亮が諦めたのか、それとも彼女の才能を認めたのか──どちらにしろ、月英の発明は今後さらに勢いを増すだろう。ただ、どんな形であれ、夫を支えようとする彼女の姿勢は妻の鏡であり、尊敬すべき存在でもあった。愛しい者に寄り添う身になった今、彼女の気持ちがよくわかる。
徐庶から婚約同然の告白をされ、『結婚』を強く意識するようになった神流にとって、彼女との再会は非常に心強かった。美しい容姿に、夫を気遣う心、『からくり』と生み出す知と才能。まさに才色兼備と呼ぶに相応しい女性であり、今後、神流が目指すべき妻≠フ姿でもあった。
細やかな彼女の事、想像している以上に夫を支え、気遣っているに違いない。美貌と発明の才能は努力しようと到底叶わないが、彼女を模範とすれば、今まで以上に徐庶を支える事が出来るはず──。この再会は良い手本を得る絶好の機会だった。
「もし良ければ、これから私のお店に来ませんか? このお人形のお礼もしたいし」
「まぁ、よろしいのですか?」
月英は歓喜の声を上げたが、一方で「えっ」と戸惑いの声を上げた男がいた。講義や師事が云々というよりも、自分との約束が後回しにされた事が不満なのだろう。眉を下げる徐庶に対し、神流は眉を顰めた。
「いいじゃないですか、講義は自主参加なんだし。せっかく会えたのに、もう別れろって言うんですか?」
「あ、いや、それは構わないんだけど…その、今日は…」
徐庶は曖昧な訴えをして口籠もった。月英の手前もあって明言は避けたが、おそらくこの後に続く言葉は『料理を作ってくれないのか』だろう。不安を見せる恋人に神流は笑い、月英も事情を察して、くすりと笑った。
「心配しなくて大丈夫ですよ。元直殿は屋敷で待ってて下さい」
「何だかお邪魔して申し訳ありません。夕刻には襄陽を発ちますので、それまで神流殿をお借りしてもよろしいですか?」
神流だけでなく月英にまで言い寄られた徐庶は、頭を掻いてはにかみ、「はぁ」と溜め息のような返事をして頷いた。わかりやすい男の態度に、女性二人は笑いを堪えながら襄陽の街へ向かった。
月英とは隆中訪問以来の交流だったが、年齢が近い事もあり、二人が親しい仲になるまでに、さほど時間は掛からなかった。門下生のほとんどは男性で、女性同士の会話が出来るのは同僚くらいなもの。神流は語り合える友人が出来た事を心から喜び、離れていた年月を埋める如く話し合った。
「神流殿、この数年の間に随分とお綺麗になられましたね」
反物を勧める最中、月英は唐突に言った。思わぬ褒詞に狼狽し、端整な顔立ちを前に鼓動が乱れる。
「そ、そんなはずありませんよ。だって、大した事してませんもの」
「いいえ、本当にお綺麗ですよ。恋は人を変えると言いますが、本当にその通りですね。そして徐庶殿も、随分と変わられました。以前とは見違えるようです」
それを聞いた神流は、ふと徐庶の姿を思い浮かべて笑った。長年、徐庶を間近で見ているが、寝癖も無精髭も悩み癖も変わっていない。唯一変わったのは、確固たる志を持った事──月英には、それがわかるのだろう。笑って否定する神流に静かに首を振り、言葉を続けた。
「一目見て、大きな心境の変化があったのだと察しました。私がこのような事を言うのは大変失礼かと存じますが、以前の徐庶殿には迷いがありました。しかし今は、自分の行く先を見据えているように伺えます。目指すものが見えたようですね」
徐庶の変化を的確に言い当てられ、神流は目を剥いた。さすが諸葛亮の妻だけあり、彼女の洞察力も並大抵なものではない。
「実は、元直殿が仕官先を決めたんです。まだ鍛錬中なんですけど、必ず仕官するって…」
すると、月英は「まぁ」と声を上げ、次に手で胸を撫で下ろして見せた。
「そうでしたか…それを聞いて安心致しました。きっと、神流殿との出会いが、彼を変えたのでしょうね。神流殿を見つめる徐庶殿のお姿は、本当に幸せそうでしたから…とても愛されているのですね」
慈愛に満ちた美麗な微笑みに赤面しつつも、神流は大きく頷いた。
互いに愛し合っている事を隠すつもりはなかった。彼からの深い愛情を一身に受け、今の自分が誰よりも幸せで、愛情も誰にも負けていないと断言出来るからだ。この幸福感は、隠そうにも隠し切れない。
「私も、元直殿を支える事が一番の喜びなんです。だから、これからもずっと傍で支えるって誓ったんです」
「では、お二人は将来の事も考えているのですね…何て素敵な事でしょう。このようなお話を聞けるなんて、今日は訪ねて来て本当に良かった…孔明様と共に、お二人の幸せをお祈り致します」
月英はまるで自分の事のように喜び、目に薄らと涙まで浮かべて頷いた。彼女の温情も昔と変わらない。徐庶同様に、月英と親しい仲になれた事も何よりの幸福だった。その全ては徐庶が与えてくれたものだから、感謝してもし切れない。だからこそ、彼を全力で支えたいのだ。
「本当は、もっと元直殿のために尽くしたいんですけど、私には料理とか掃除くらいしか出来なくて…」
「良い事ではありませんか。何事も気持ちが肝心なのですよ。想いがあれば、それに勝るものなどありません。徐庶殿もさぞ喜んでおられるでしょう?」
ふと、料理を前に喜びを隠し切れない徐庶を思い返して、笑みが零れた。元は彼の健康を案じて始めた料理だが、今では喜ぶ姿を見たいがために料理を振舞っているようなものだ。
「えぇ、とっても。今夜も料理を作ってあげる約束なんです」
「まぁ、そうだったのですか、存じ上げず申し訳ありません。私はここでお暇させて頂きます」
月英は慌てて腰を上げ、抱えていた反物を近くの同僚に差し出した。「ご会計お願いします」と微笑むと、同僚は頬を染めながら応対した。彼女を前に赤面するのは、どうやら神流だけに限らないようだ。
「ごめんなさい、急かすつもりじゃなかったんですけど…」
「いいえ、何も謝る必要はありません。この時世ですから、愛する方との時間を大切にされて下さい。私は、こうして神流殿と語り合えただけで十分満足です。徐庶殿によろしくお伝え下さい」
月英は店内の同僚にまで丁寧に拱手し、神流は見送りのため、月英と共に襄陽市の外まで向かった。着いた街門の木陰には、一頭の馬が繋がれていた。馬の鐙には多くの荷物と、革鞘に納まった戈が下がっている。まるで殿方のものと見紛うような武装された馬だったが、目を丸くする神流をよそに月英は軽々と馬に跨った。
「月英殿は、武芸も身に付けているんですか?」
「えぇ、これも孔明様のお役に立つのではと思ったのですが、あいにく街に出る時に馬に乗る程度です。戦に出る訳でもないというのに…これでは、ただのはしたない女ですね」
月英は苦笑したが、神流は必死に首を振って否定した。武装した馬を駆り、戈を下げる彼女の姿はまるで女傑のようで、さらに強い尊敬を抱いた。隆中と襄陽の間は約二十里あり、女性一人で馬を駆るには長く危険な道のりだが、白頭巾を纏って武装した馬に跨るこの姿では、賊徒も下手に手を出さない。
自分にはないものを目の当たりにし、神流に一つの思いが過ぎった。
「では、また会える日を楽しみにしております」
改めて礼を交わすと、月英は馬を歩ませ、掛け声と共に街道を駆け出した。
──私も月英殿みたいになりたい。
颯爽と馬を駆る姿を眺めて、胸に新たな決意をした。
*
月英を見送った後、食材を購入して徐庶の屋敷に赴いた。月英の配慮で夕刻前には到着したが、約束を後回しにされて不貞腐れているに違いない──と思いきや、出迎えた徐庶は笑顔だった。
「その様子だと、二人で盛り上がったみたいだね。久し振りの再会は楽しかったかい?」
そう笑ったが、どこか厭味に聞えるのは気のせいだろうか。瞳にはわずかに憂いが帯び、心からの笑顔ではないとわかった。
──月英殿にまで嫉妬するなんて。
内心呆れたが、神流も一度彼女に嫉妬した身だから人の事は言えない。
「今日は待たせたお詫びに、沢山ご馳走作りますね。楽しみにしてて下さい」
神流は悄然とする徐庶の手を取り、宥めるように笑い掛けた。顔を覗き込むと、徐庶は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、今日も風呂に入って待っていた方がいいかな」
「そうですね、二刻くらい入ってて下さい」
「そんなに入っていたら、のぼせてしまうよ」
と、徐庶は苦笑したが、自ら脱衣所に入って行った。案外、簡単に機嫌を取り戻したため、神流は溜め息混じり笑った。
料理の仕度に入る前に、散かった書斎と寝室を手早く片付けた。書簡と書物をそれぞれの棚に入れ、衣装箱から新たに着物と敷布を用意する。夜は冷え込むため、火鉢には炭を入れておく。
料理と同時に、室内の掃除もほぼ日課となっていた。毎日当たり前のように行なっている内に、部屋のどこに何があるのか把握するまでになり、料理の腕も自然と磨かれ、調理に掛かる時間も短縮され、料理の種類も随分と増えた。料理や掃除は確実に上達していた。学問も、司馬徽の指南や講義、徐庶の師事のおかげで順調に進んでいる。
ただ一つ、神流にないものは『武芸』だった。馬を駆る月英を見た時、これが自分に足りないものだと、身に染みて感じた。文官志望であるから、武芸を学んでも無意味だと思っていたが、月英の『夫を支える姿勢』を目の当たりにして、武芸もある程度は必要だと考えた。
思えば、神流は馬にも乗れないし、護身術さえ知らない。いずれは徐庶も劉備に仕官し、神流も武将の妻となる訳だから、嗜みとして馬術や護身術は身に付けておくべきだと考えた。幸いにも、神流の傍らには撃剣を極め、巧みに馬を操る恋人がいる。武芸を習う環境は整っているから、後は徐庶に相談するだけだ。
この乱世、女性が武芸を身に付ける事は珍しいものではなく、嗜みとして習う者も多い。鍛錬の邪魔にならない程度で習う分なら、徐庶も快く承諾するだろうと思った。
料理を居間に運び出すと、風呂から上がった徐庶が一足先に座っていた。神流が顔を出すと、卓上に広げていた書物を手早く片付け、自ら料理を運ぶ神流に手を貸した。
「神流、部屋を片付けてくれたんだね。いつもありがとう」
神流の奉仕に対して、徐庶が毎回感謝を述べるのも日課である。すっかり機嫌を取り戻した笑顔を前に、相談するには良い機会だと見たが、突然言い出しては驚くだろうと、婉曲に話を持ち出した。
「月英殿って、本当に何でも出来るんですね。発明も出来るし、武術や馬術まで心得ているし」
「彼女は努力家だからね。あんなに尽くしてくれる女性と一緒になれた孔明は、本当に幸せ者だよ」
徐庶は感慨深く言い、少し間を置いてから「もちろん、俺もだよ」と付け足して神流に微笑んだ。
「諸葛亮殿も『からくり』を認めたみたいですしね。そういえば、元直殿はあの人形を見ていないですよね。これ、凄いんですよ」
神流は木箱から人形を取り出して卓上に置くと、人形が持つ小盆の上に湯呑を置いて見せた。すると、人形の脚が動き、卓上を移動し始めた。乗せた湯呑を取ると、人形は動きを止めた。月英の説明では、湯呑の重みで内部のからくりが動き、湯呑を除けると止まる仕組みなのだそうだ。
「凄いでしょ、お茶を運ぶ人形なんですって」
「へぇ、これも月英殿が考えたんだね。よく考え付くな」
徐庶は興味津々に人形を手に取り、満遍なく見渡した。どんな反応をするのかと神流は期待して見ていたが、「ふぅん」と気のない声を出して人形を置いた。
「でも、これなら自分で運んだ方が早いんじゃないかな」
徐庶から飛び出した発言に、一瞬目が点になった。
「もう、実用的に見ないで下さいよ、夢がないんだから! これは風流な遊びなんです!」
「あぁ…そうだよね、悪かったよ…」
神流が人形を取り上げると、徐庶は己の失言に気まずい笑みを浮かべた。期待を裏切る反応に憤ったものの、言われてみれば確かに自分で運んだ方が早い。徐庶の本音に納得してしまい、込み上げる笑いを必死に堪えた。
「でも今日は、月英殿には沢山学ばせて貰いました。そこで、私も彼女に習って色々やってみようと思うんですけど、元直殿はどう思いますか?」
「え…何だい、急に。まさか君も、こういうの作りたいのかい?」
神流が『からくり』に興味を抱いたとでも思ったのか、徐庶は怪訝な顔をして卓上の人形を睨んだ。この反応を見るに、どうやら月英の考える『からくり』には感心が持てないようだ。動揺する徐庶に、神流は笑いながら否定した。
「違いますよ。ほら、私は馬にも乗れないし、武芸も何も知らないから、月英殿みたいに少し身に付けてみようかなって。元直殿、教えてくれますか?」
すると、徐庶は急に厳しい面持ちになった。快く受け入れると思っていたので、その反応に少し戸惑った。
「そんな事しなくていいよ。だいたい君は文官志望なんだろう? 戦に出る訳じゃないんだ、武芸なんて必要ないよ」
「そうだけど、せめて護身術くらいは習いたいですよ。物騒な世の中だし、もしかしたら背後から男に襲われるかも…」
言った直後、徐庶の表情がさらに険しくなった。彼には冗談でも通用しない例えだと知り、慌てて「例えばですよ」と付け足して強調した。しかし、徐庶は真顔で首を振った。
「必要ないよ、神流の事は俺が守るから。絶対に誰にもそんな事させないよ」
切迫した顔で見据えられ、神流は頬を染めて目を泳がせた。優しく穏和な男から一変して、勇ましい態度を見せるのは反則だ。
「じゃ、じゃあ、馬術はいいですよね? 徒歩は何かと不便だし、馬なら可愛いから…」
「駄目だよ。馬だって人を見るんだ、振り落とされでもしたら危ないよ。馬が必要な時は、俺が後ろに乗せてあげるから、君は覚えなくていいよ」
それもいいかも──と一瞬納得しかけたが、慌てて首を振った。彼なりに神流の身を案じているのだろうが、あまりに一方的に反対されると頭に来る。
「それじゃあ、私は何も出来ないじゃないですか! 私だって元直殿のお役に立ちたいのに、どうして駄目なんですか?」
腕を掴んで言い寄ったが、徐庶は尚も首を振った。
「君がもう、十分素敵な女性だからだよ。俺は努力しないと駄目な男だけど、君が俺のために努力する必要なんてないよ。それに俺は、今の神流が好きなんだ。人真似なんてして欲しくないよ」
穏やかな眼差しと声色で諭され、心が大きく揺らぐ。
「…でも、何でも頼りっ放しなんて嫌です。元直殿の足手纏いになるじゃないですか」
「そんな事ないよ。俺も君を支えると約束したじゃないか。君のためなら、俺は何でもするよ。神流の役に立てれば、それでいいんだ」
腕に添えていた神流の手に、大きな手が覆い被さった。この温もりと優しい声色に抗う理性は、あいにく持ち合わせていない。高鳴る鼓動と火照り始める身体に陶酔する中、徐庶はさらに言葉を続けた。
「それに、君には武芸とか戦とか…そういう物騒な事には深く関わって欲しくないよ。いくら自分を守るためでも、人を傷付けるものには違いないんだ。もちろん、剣を使う女性は沢山いるけど…俺はそんなに寛大な男じゃないから、君には使って欲しくない。必要な事は俺がするから、君は今の…優しい女性のままでいて欲しいんだ…」
手を握る力が、ふと強くなった。今、神流を見つめる瞳は、愛情よりも不安や憂いの方が強い。徐庶は、武芸で人を傷付け、殺める術を神流に知って欲しくないのだろう。また、それによって神流が傷付き、変わってしまう事を恐れているようだった。
過去に自分自身が剣で過ちを犯した故なのか──。徒労だと思ったが、強い憂いを覗かせる姿は、それほど神流を案じているのだと、必死に訴え掛けているように見えた。
愛されている事は日々の言動から十分過ぎるほど知ってたが、その内に秘める想いは一段と強い。胸の奥から言いようのない喜びと慈愛が込み上げ、不安と憂いに沈む彼の姿さえ愛おしく映る。神流は溢れ出す感情を抑え、片手を上げて誓いを立てた。
「わかりました、武芸はしません。その代わり、私は元直殿のために何をすればいいんですか?」
「その気持ちだけで十分だよ。俺は神流が傍にいてくれるだけで幸せなんだ」
「じゃあ、そうします」
神流は喜々として徐庶に抱き付き、着物に顔を埋めた。湯上りの身体は温かく、仄かに檜の良い香りがする。「神流」と囁く優しい声色が、包み込む体温と男の心音に相乗され、一段と安らかに耳に響いた。
想いに勝るものはない>氛沍ォ妻の言に納得し、今改めて実感した。どんなに嬉しい贈物や感謝の言葉を貰おうと、深い愛情に触れた時の幸福感には敵わない。
数年振りの再会で高揚した身体は、思いの外疲れ切っていた。心地良い抱擁に誘われて、眠気が意識を覆う。神流はしばらく脇腹にしがみ付いて舟を扱いでいたが、ついに睡魔に負け、男の膝上にころりと転がった。徐庶は途端に素っ頓狂な声を上げ、胡坐を掻いていた脚を慌てて閉じた。
「元直殿…このまま少し眠ってもいいですか? 今日は沢山話したから、疲れたみたい…」
「い、いいけど…普通は逆じゃないかな…」
「今度、元直殿にもしてあげますよ。膝枕」
こちらを見下ろす赤ら顔に笑い掛け、神流は膝上に頭を寄り掛けたまま目を閉じた。
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