『仕官を目指して』

 『曹操が荊州に来る』──そんな一報が、襄陽の街を駆け巡った。
 中原では、もはや覇者たる存在である曹操が、荊州に向けて行軍を開始したと聞いて、襄陽の民は不安と恐怖に陥った。中には戦禍の逃れようと、荷物を纏めて襄陽を発つ者まで現れたが、それは一時的なもので治まった。曹操が急遽、北へと転進したためである。
 神流が門下生との道を歩み出した頃、情勢は大きく変化していた。河北では袁紹が病死し、現在はその子である袁譚と袁尚が、後継者を巡って争っていた。袁紹が生前に後継者を明らかにしていなかった事が、骨肉争いにまで発展したのである。その隙に、曹操は荊州への侵攻を開始したが、河北の憂いを完全に絶つべく軍を転進したものと推定される。
 これにより、一時は曹操の脅威から逃れたものの、曹操が荊州侵攻を目論み、河北を平定した後に、再び侵攻を開始する事は確固たるものとなった。行軍転進は、脅威が先延ばしにされただけに過ぎない。
 一時は騒然としていた襄陽の街も平穏を取り戻したが、街中が急報で右往左往している間も、神流は冷静だった。曹操が荊州侵攻を視野に入れているのは、前々からわかっていた事だし、門下生や塾生の間では日常的にされている噂である。『曹操侵攻』の報を聞いたからといって、今さら騒いで慌てふためくものでもない。

 ただ、この報を受けた時、徐庶は珍しく厳しい面持ちになった。曹操が荊州に攻め入るとなれば、隣接している南陽郡が狙われる。そこには神流の故郷・新野もあるため、徐庶は随分と気に掛けていた。
 確かに故郷が戦地になる事に抵抗がないと言えば嘘になるが、現在、新野には劉備軍が駐屯しているため、不安はなかった。大徳・劉備とその義兄弟らの存在は、神流にとっても心強い存在なのだ。
 そして何より、傍には恋人の徐庶がいる。あの記念日以来、神流に怖いものなど何もなかった。
 あると言えば、彼の傍を離れてしまう事──ただ、それだけだ。


 この日、店主が帰郷するという理由で、早めに店仕舞いをする事になった。正午過ぎに仕事を終えたのは珍しく、思いがけない休暇を得た同僚達は歓喜した。無論、神流も同様である。

 ──今日は、早く元直殿に会える。

 神流の頭には、徐庶の事しかなかった。一度考え始めると、仕事中だろうと無性に会いたい衝動に駆られ、顔を合わせただけで心が満たされる。肌を交わした事で、神流は身も心も彼一色に染まっていた。
 ただ一度の情交でこれほど想いが強くなるとは思わず、神流自身も驚いていた。情交とは、『情を交わす』という言葉通り、絆が深まるものだと身をもって実感した。
 無論、今でも学問を怠る事はなく、門下生として講義を受け、徐庶から師事を受けるという日課は変わっていない。徐庶は仕官を目指し、神流は彼と共に仕官するという、果たすべき大きな志が残っているからだ。ただ、徐庶と親密な関係になれた事は念願の夢であり、少しくらい浮かれても罰は当たらないだろうと、自分に言い聞かせている。
 宿舎に戻ると早々と仕度を整え、意気揚々と外に出た。すると、店先にいた同僚から「ほどほどにね」と、笑顔で釘を刺された。

 「元直殿、神流が来ましたよ」

 屋敷に着くなり玄関先で声を上げた。返事も聞かずに廊下に上がり、真っ先に向かった先は徐庶が生活の中心の場となっている書斎。しかし、そこに徐庶の姿はなかった。また昼寝かと思い、隣の寝室を覗いても布団だけ。玄関に鍵を掛けずに留守にするはずはなく、今回も在宅しているのは確かだ。
 神流は姿なき恋人を探すため、部屋の扉を一つずつ開けていった。脱衣所と厠だけは軽く戸を叩いて確認し、厨、居間、客間と、次々と部屋を覗いていく。書斎と寝室以外の部屋は、物置か書庫と化していた。唯一、綺麗に片付いていたのは厨くらいなものだったが、使っていないとも見て取れる。さすが男の独り暮らし──と呆れたが、男一人で屋敷一軒となると、持て余すのかもしれない。
 屋敷内を見回しても姿がなく、改めて玄関に向かうと、戸棚にある撃剣と小手がなくなっている事に気が付いた。

 ──もしかして、鍛錬中かな。

 玄関から屋敷の裏手へと回ると、裏庭に佇む男の後ろ姿があった。軍袍に形の似た着物を纏い、小手が装着された手には剣が握られている。その着物は、徐庶が軍袍を作る際に神流が預かったものだった。
 久し振りに見る徐庶の剣侠姿に、胸がときめいた。いつも屋敷に赴く頃には書斎にいるため、一度も鍛錬の様子を見た事がない。神流は物陰から、撃剣を構える恋人の後ろ姿に魅入った。
 おもむろに撃剣を構えた腕が動いた。紐が空を舞ったと思うと、その刹那、前方にあった丸太が貫かれた。紐は手元に舞い戻って来たが、腕が動くと再び紐が襲い掛かり、次の一撃で丸太は真っ二つに割れた。
 一瞬の事で、それが紐先にある鉤の一撃には見えなかった。
 徐庶が同じ動作を繰り返す度に、庭先に並ぶ的が打ち砕かれていく。割れた木片さえも的確に捉え、鋭い一撃が当たると粉塵が上がった。わずか一分足らずで、五つあった的は全て粉砕された。この間、徐庶は立ち位置から一歩たりとも動いていなかった。
 鍛錬の光景を目にした神流は、言葉をなくして呆然と立ち尽くしていた。撃剣が素早さを要する武器だとは理解していたが、この威力を目の当たりにすると、脚も竦んでしまう。鉤だけで丸太を粉砕するのだから、生身の人間では一溜まりもない。賊徒と剣を交えた時も、大分加減していたのだろう。
 しかし、徐庶の勇姿は神流の鼓動を高鳴らせた。普段は優しい男だが、剣を持つと途端に勇ましい一面を見せる。徐庶がただ優しい恋人≠ニいうだけでなく、撃剣の使い手である事をまざまざと見せ付けられた気分だった。

 ──やっぱり格好良い。

 剣が革帯に収まると、背中から闘気が消えた。肩で大きく一息吐いて、散乱した木片を回収して回る。振り向いた際に物陰に佇む神流に気付き、徐庶は目を丸くした。

 「神流じゃないか、いつ邸に来たんだい?」

 驚愕の声を上げたが、すぐに満面の笑顔を見せた。身形は立派な武人なのに、顔は優しく人懐っこい笑顔。だが、この食い違いが神流の鼓動を刺激する。神流はすかさず徐庶の元に駆け寄り、目を爛々とさせて言い寄った。

 「鍛錬を見ていたけど、元直殿って本当に凄いんですね。惚れ惚れしちゃいました」
 「あぁ、その…あれくらい大した事ないよ…」

 徐庶ははにかみ、着物の袖で汗を拭った。その呼吸は荒く、汗が着物を濡らしている。
剣を構える姿は静寂そのもので、軽々と扱っているように見えたが、思いの外体力を消耗するらしい。見兼ねて手拭いを差し出すと、徐庶は「すまない」と笑顔で受け取り、汗を拭いた。

 「今日は早いんだね。仕事はもう終ったのかい?」
 「はい、店主が実家に帰るって言うから、早めに店仕舞いしたんです」
 「そうか、すると明日は休みなのかい?」
 「残念だけど、通常通りですよ。日帰りみたいだから」

 「そうなんだ」と言った徐庶は、どこか悄然としていた。変わったのは徐庶も同様で、記念日以来、神流を恋しがる言動が増えた。店に顔を出す事も多く、顔を合わせれば嬉しそうに笑い、何かと仕事の終了時間や休日を気にする。大人気なくもあったが、彼も自分と同じ気持ちなのだと思うと嬉しかった。
 庭を見渡すと、納屋の傍に丸太が幾つも積まれていた。的のようなものから、筵を巻いた人型のものまである。屋敷の庭は、ほとんど鍛錬用の物で溢れていた。

 「いつも、ここで鍛錬をしているんですか?」
 「そうだよ。こんな狭い所じゃ、出来る事は限られるけど、何もしないよりは良いからね。たまに身体を動かないと、腕も鈍ってしまうし」

 そう言いながらも、徐庶は縁側に撃剣を立て掛けて腰を降ろし、小手を外し始めた。

 「やめるんですか? 続けてていいのに」
 「いいんだ、もう朝からやっているから。それに神流が来たのなら仕度をしないと、師事に入れないよ」

 徐庶は小手から肩当、革帯と、次々と具足を外していった。具足を外す様は神流には物珍しく、慣れた手付きがとても魅力的に映る。神流も隣に腰掛け、具足を外す姿を興味深く眺めた。
 手袋の下から覗いた手は厳つく、汗を伝う首筋も逞しい。特異な武器を操り、厳しい鍛錬があってこその身体なのだろう──と、納得して眺めていると、不意に情交で見た妖艶な肉体を思い返してしまい、羞恥した。あれから大分、月日も経っているというのに、ふとした拍子で鮮明に蘇って来るから参ってしまう。

 「神流」

 名を呼ばれて我に返ると、徐庶の笑顔が飛び込んで来た。彼の無垢な笑みを見ると、不埒な想像をした自分が愚かしく思えて来る。脳裏に蘇った光景を見透かされるような気がして、神流は慌てて目を逸らした。

 「ええと、悪いんだけど、少し部屋で待っていてくれないか? 師事の前に風呂に入りたいんだ。このまま師事に入るのも悪いから」
 「いいですよ。ゆっくり入って来て下さい。今日はたっぷり時間があるから」
 「そうだね。師事の方もゆっくり出来そうだ」
 「えー、そっちは手早くお願いします」

 神流が渋い顔で返すと、徐庶は「駄目だよ」と意地悪く笑った。
 おもむろに立ち上がったと思うと、徐庶はその場で上着を脱いだ。着物の下から筋肉質な上体が現れ、その大胆な行動と逞しい肉体を前に、神流は目のやり場に困り赤面した。関係が深まるにつれて、彼の行動も大胆になっていく。いくら肌を交わしたとは言え、まだ耐性が付いていない神流には目の毒だ。

 「あぁそうだ、厨に茶と菓子があるから、待っている間に食べるといいよ」

 羞恥する神流をよそに徐庶は笑顔で言い、縁側の雨戸を開けて屋敷に上がった。
 神流はしばらくその場に硬直し、徐庶が浴室に入ったのを見計らって屋敷に入った。改めて厨を眺めると、食材こそ少ないが鍋や食器などは一式揃っていた。また、流し台に鍋が置かれている事から、彼が自炊している事を知った。
 神流が屋敷にいる間は、いつも師事を優先にするため、いつ食事を取っているのか知らない。師事中に間食として出て来るものは、饅頭だとか菓子だとか出来合いのものばかりだから、自炊をしているのは少し意外だった。神流のために、わざわざ買っていただけなのだろう。

 ──どんな料理を作るんだろう。

 徐庶が料理する様を色々想像して、くすりと笑った。殺風景な厨の状態を見ると、大した食事は取れていないのは一目でわかる。
 調理台に置かれていた菓子を見つけ、茶器と湯呑を盆に乗せて書斎に向かった。相変わらず書物と竹簡で埋め尽くされ、盆を乗せる場所も足の踏み場もない。已む無く盆を廊下に置き、机上に散かった竹簡と書物を簡単に整頓し、足元にあった書物の束を本棚に仕舞った。
 大抵、徐庶が読む書物は兵書が多く、机上には必ず『六韜』があった。六韜は六巻六十編から成る兵法書で、中でも『虎の巻』は兵書の極意とも言われている。また、兵法以外に政治や国のあり方、部下の接し方まで述べられているという。
 無論、兵法が苦手な神流は読んだ事などないが、『六韜』が兵法書としてどれほど価値のあるものかは知っている。その兵書を愛読しているくらいだから、徐庶が兵法を熟知し、博学な男である事は言うまでもない。
 司馬徽の門下生であり、兵法を得意とし、また撃剣の使い手でもある──己を卑下する必要などない気がする。
 書斎を片付けて、ようやく開けた机上に盆を置いた。開けっ放しの寝室を覗くと、脱ぎ捨てられた着物と寝衣があった。布団は起きてそのままの状態で、毛布も抜け出した形のままになっている。告知もなく昼下がりに顔を出したのだから、片付けていないのも無理はなかったが、散かった部屋に溜め息が零れた。

 「本当にもう」

 神流は一人ぼやいて、皺になった着物を綺麗に畳み、布団と毛布と整えた。
 鍛錬重視の生活になってからは、一日の大半を書斎と寝室で過ごし、室内も散かり放題。不規則な生活を送っているのは一目瞭然だった。男の独り暮らしだから仕方がないと思っても、鍛錬に励む身には好ましくない環境である。特に彼の場合、人一倍の努力家で劣等感の強い男でもあるから、無理をして倒れるのではないかと心配になる。

 全てを片付け終えて、茶を淹れて一息吐いたところに徐庶が戻って来た。「待たせたね」と笑った姿は、撃剣や兵法とは無縁なほど穏やかだ。
 徐庶は部屋に入ると、片付いた室内を一望して目を丸くした。

 「あれ、部屋を片付けてくれたのかい?」
 「はい、座る場所がなかったから。ついでに寝室も片付けておきましたよ」

 笑顔で返すと、徐庶は寝室に目を向け、頭を掻いて苦笑した。瞬く間に顔が紅潮していく。

 「そうなんだ…すまない、こんなに早く来ると思っていなかったから…悪かったよ。その…色々と汚いものもあるから、無理に片付けなくてもいいんだよ」
 「いいですよ。元直殿は鍛錬の後だし、これくらいの事はしなくちゃ。それとも、何かまずかったですか?」
 「いや、いいんだ。ありがとう…君が優しい女性で助かったよ」

 落ち着きなく寝室を見ている様子から、どうやら脱ぎ捨てた寝衣や着物は見られたくなかったようだ。あまりに恥ずかしそうに目を泳がせるため、悪い事をしたと反省したが、何があったのかよく見ておけば良かったとも思った。

 「元直殿、自分磨きの方は順調みたいですね」
 「ええと、まぁ…そこそこにね。でも、君に部屋を片付けて貰っているようじゃ、まだまだだよ」
 「励むのはいいですけど、無理しないで下さいね。今の元直殿の生活を見ていると心配で」
 「大丈夫だよ、こう見えて身体は丈夫な方なんだ」

 と、徐庶は笑い、隣に座った。確かに穏和な見た目に似合わず体付きは武人らしいが、日々の生活態度や雑然とした屋敷の様子を見た神流には、とても納得出来る回答ではない。

 「それより俺は、神流の方が心配だけどな」
 「私ですか?」
 「先日の事があるだろう。気になっているんじゃないかと思って…」

 眉を下げて心配する徐庶に、神流は首を傾げた。少し考えて、その意味が『曹操の荊州侵攻』の件だと知った。『行軍転進』の報から一ヶ月が経ち、神流自身はすっかり忘れていたというのに、彼は未だに気掛かりだったらしい。

 「いいえ、全然。だって私には撃剣の使い手が傍にいるから、怖いものなんてないもの。いざとなったら、元直殿に守って貰うから平気」

 神流は喜々として腕にしがみ付いて甘えたが、内心では呆れていた。徐庶の思い遣りは留まるところを知らない。彼はどんな時でも自分を差し置いて人を優先をする男で、師である司馬徽も認めている。
 常に神流を気遣い、情事も無理に誘わない。今も鍛錬を終えたばかりで、食事も休憩も取らずに師事に入ろうとする始末である。疲れている状態で気遣われても素直に喜べない。

 ──少しは自分の事を考えればいいのに。

 疲れている彼に自分が何をしてあげるべきか、考えるまでもなかった。

 「そうだ。今度、元直殿のために料理を作ってあげましょうか?」
 「え…何だい、急に。料理って…その…いいのかい?」

 唐突な提案に、徐庶は戸惑い聞き返したが、表情は見る見る内に喜色に満ちていった。

 「いいですよ、元直殿も鍛錬で疲れているだろうし、日頃のお礼も込めて。それに一度、手料理を振舞ってあげたいと思っていたんです。駄目ですか?」
 「いや…凄く嬉しいよ。君の料理が食べられるなんて夢みたいだ…ありがとう」

 徐庶は満面で笑うと、胸元に神流を抱き寄せた。鍛錬のためか、腕はいつも以上に熱く逞しく、まだ湯気の残る身体で交わされた抱擁に鼓動が高鳴った。

 「早速、今度の休日にでも作りますね。講義の帰りに寄りますから、十分にお腹を空かせておいて下さいよ」
 「あぁ…楽しみにしているよ…」

 耳元で声が囁くと、腕の力が強まった。作る前から熱い抱擁を交わすようでは、作った後はどうなるのかと先が思い遣られる。しかし、思っていた以上に喜びを露にしたため、神流も腕の中で笑った。

 *

 当日、学問所で正午の講義に出席した後、最寄りの店で食材を購入して徐庶の屋敷に向かった。玄関で声を掛けると、この日は一分もしない内に扉が開いた。この時を待ち侘びていたとばかりに、徐庶は喜びに満ち溢れた笑顔を見せていた。

 「約束通り、料理を作りに来ましたよ」
 「待っていたよ。君に言われた通り、まだ昼を食べていないよ」
 「じゃあ、早く作らないと駄目ですね」

 神流は笑いながら襷を巻き、厨の調理台に立った。

 「料理を作っている間、元直殿はお風呂に入るなり、本を読むなりしてて下さい。二刻ほどで出来ると思いますから」
 「俺は手伝わなくていいのかい?」
 「鍛錬に励む元直殿のために料理を振舞うって言ってるのに、元直殿が手伝ったら意味ないでしょう。いいから、ゆっくりしてて下さい」

 背中を押して徐庶を厨から追い出すと、早速、料理の仕度に取り掛かった。宿舎以外の厨に立つのは初めてで、さらに恋人のために料理を振舞うとなると、包丁を握る手も緊張する。だが、徐庶の屋敷で料理を作る事に、神流の心は躍っていた。

 ──何だか、元直殿の奥さんになったみたい。

 ふと、そんな事を想像して頬が綻んだ。徐庶と出会って二年以上が経ち、深い関係に至った今、いつ彼と『結婚』という形になろうと構わなかった。むしろ彼とそういった関係になれるのなら、人生最高の幸せである。
 ただ、徐庶はどう考えているのか──気になるところだったが、今は仕官を目指す事が最大の目標であり、二人の今後を考える時ではない。それに、徐庶が心から神流を想い、愛し、大切にしている事は十分過ぎるほど伝わっていたため、特別な言葉がなくても不安はなかった。

 「神流、大丈夫かい?」

 背後から聞えた声に我に返ると、いつの間にか湯上り姿の徐庶が扉の前に立っていて、神流の背中を見守っていた。半刻で風呂を済ませ、厨の様子を見に来た恋人に神流は苦笑した。

 「まだ早いですよ。そんなにお腹空きましたか?」
 「うん、まぁ…それもあるんだけど、何だか落ち着かなくて…」

 そう言って神流の隣に立ち、包丁を握る手元に視線を落とした。料理をする姿を見に来たのか、それとも刃物を使う事が心配なのか──どちらとも取れる仕草である。その表情は喜びが隠し切れないとでも言うような笑みが浮かべている。男性らしからぬ愛らしい言動に笑い、意地悪く返した。

 「そんなに私の料理の腕が心配ですか?」
 「そういう訳じゃないんだ。ただ、こうして君が料理をしている姿を見ていると…とても幸せな気持ちになるんだ。だから、ここで見ていたら…駄目かな…?」

 熱の篭った声が聞こえると、隣に立っていた徐庶が神流に近付いた。湯上りの身体は、少し近付いただけで生温かい体温が肌に触れる。妖しい気配に振り向くと、すぐ真横に徐庶の顔があった。熱い身体同様に穏やかに見つめる瞳にも熱が帯び、さらに濡れた髪が妖艶に映り、鼓動を激しく乱した。このまま傍に留まられては、とても料理に集中出来ない。

 「駄目です。料理は出来てからのお楽しみなんだから、書斎で待ってて下さい。準備が整ったら呼びますから」

 神流は咄嗟に身体を除けて徐庶を押し退けると、「わかったよ」とさも残念そうに溢し、厨を出て行った。あの様子では、食事の後に何か起こりそうな予感がする。記念日から数ヶ月──その間、肌を交わしていないため、十分に起こり得る。

 ──でも、何かあってもいいかな。

 抱擁を思い浮かべて口元が緩んだが、慌てて首を振って邪念を払い、料理に集中した。
 料理を居間に運び、卓上一杯に並んだ料理を前にして神流は満足気に頷いた。一人分としては量が多いが、鍛錬で疲れ、空腹の状態で二刻も待たせたのだから、丁度良いはずだと判断した。
 早く料理を食べて欲しい一心で、廊下を走って書斎で待っている徐庶の元に向かった。
徐庶は頬杖を突いて気難しい顔で書物を読んでいたが、神流が顔を出すとふにゃりと笑った。

 「出来たのかい?」

 目が合うなり徐庶は言った。待たされて不機嫌になるどころか、表情は一層喜悦に満ちている。その無垢な反応に抱き付きたい衝動に駆られたが、腕に縋るだけに留めた。

 「お待たせしてごめんなさい。早速、案内しますね」

 神流は強引に腕を引いて、徐庶を居間へと連れ出した。卓上に並んだ料理を見ると、笑顔が驚愕に変わった。

 「これ全部、君が作ったのかい?」 
 「そうですよ。お腹が空いてると思って沢山作ったんですけど…やっぱり多いですか?」

 わざと眉を下げて顔を覗き込むと、徐庶は慌てて首を振った。

 「いや、違うんだ。俺なんかのために、ここまでしてくれるなんて思わなかったから、驚いてしまって…大変だっただろう?」
 「これくらい大した事じゃないですよ、いつも宿舎で同僚の分も作っているんだし。恋人の気遣いに、気遣わないで下さいよ」

 恐縮する男の背中を叩き、腕を引いて席に座らせた。すかさず箸を差し出し、間近で爛々たる眼差しを向けて食事を勧める。無言の圧力に徐庶は苦笑しながら料理に口を付けた。

 「どうですか、美味しいですか? 不味いですか?」

 と、間髪置かずに半ば強引な問いをしたので、徐庶は呆れたように笑った。

 「凄く美味しいよ。いつも君の料理が食べられる同僚が羨ましいよ、俺は人から料理を振舞って貰う事なんてないから」
 「元直殿さえ良ければ、いつでも作ってあげますよ。今度から、休日は手料理をご馳走しましょうか?」
 「そうだな…今回は君の好意に甘えるよ。今まで以上に鍛錬にも身が入りそうだから」
 「じゃあ、私も料理の腕を磨きますね。大好きな元直殿のために」

 自分の手料理を食す姿が嬉しくて見入っていると、徐庶は「食べ辛いよ」と、はにかんだ。

 ──結婚すれば、毎日こんな感じなんだろうな。

 神流は再び、『結婚』を想像した。二人で過ごす時が甘く長いほど、彼と恋人以上の関係になりたいという願望が込み上げて来る。だが、今は仕官が大切だと、欲張る感情を押さえ込んだ。

 「何だか…君とこうしていると…このままずっと俺の傍にいて欲しいと…願ってしまうよ…」

 ぽつりぽつりと、声が言った。頬杖を突いて見惚れていた神流も思わず姿勢を正し、目を丸くした。徐庶自身も、自らの発言に頬を染めていたが、見つめて来た瞳は熱っぽく、呼吸も深い。おもむろに神流の膝上に手が添えられた。
 知らない間に誘ってしまったのか──再び訪れた妖しい気配に動揺した。頭の中では『構わない』と思っていても、経験が少なく状況にも不慣れなため、いざとなると困惑してしまう。
 だが、そんな神流をよそに徐庶は両手を掴み、身体を向き直して真正面から神流を見つめた。

 「神流…少しいいかな。君に話しておきたい事があるんだ…」

 いつしか笑みが消え、力強い眼差しを向けている。『話がある』と聞いて安堵したが、この状況に赤面せずにはいられず、また何を告げられるのかという緊張が走った。固唾を呑んで様子を見守っていると、徐庶は再びぽつりと言った。

 「その…俺は本気で考えているんだ、君との今後の事。いつか神流と…結婚したいと思ってる…」

 『結婚』という言葉に、身体が敏感に反応した。鼓動が波打ち、肌が火照り、手を握る力が強まる。神流が考えていた矢先の徐庶からの告白──情交で身も心も深く繋がったためなのか、まるで互いの心が通じ合っているような錯覚を覚えた。

 「ずっと前から考えていたんだけど、今回の一報で決意したんだ。こんな俺でも傍にいれば、君の不安もなくなるんじゃないかと思って……だけど…」

 神流は驚愕したものの、嬉しさから笑顔が零れた。彼と想いが通じ合った喜び、自分を愛してくれている事への感謝──想いが巡って胸が熱くなる。しかし、その反応を見た徐庶の表情は次第に曇っていき、目を伏せてしまった。最後に「だけど」と付け足したところから、何か思い煩っていると察し、神流は何も聞かずに次の言葉を待った。

 「その…今の俺じゃ、君を幸せにする自信がないんだ。未熟で貧しい書生だし、苦労を掛けるのはわかり切ってる。それに…君のご両親に挨拶に行く自信もないんだ。だから、俺が仕官してまともな男になるまで…待っていてくれないか? また弁解したみたいで悪いんだけど…俺は本気なんだ。もちろん、今まで以上に大切にするよ。だから…」

 言っている間に自信のない面持ちに変わり、頻りに神流の顔色を伺った。掴んだ手を固く握り締めて離そうとしない。
 仕官が優先だと十分理解しているというのに、その心情までは彼に伝わっていないようだ。必死に意志を訴えて繋ぎ止めようとする様が滑稽で、真剣な場にも関わらず神流は笑った。

 「ありがとうございます。元直殿がそこまで真剣に考えてくれただけで、十分嬉しいです。私の事は後でもいいから、元直殿は自分が納得いくまで鍛錬に励んで下さい。それまで私が料理で支えますから」
 「神流…」

 手が引かれたと思うと、神流は胸元に抱き締められていた。逞しい両腕が華奢な身体を締め付け、顔が首筋に押し付けられる。余裕のない抱擁は息苦しかったが、とても愛おしかった。

 「…本当に君は、俺なんかにはもったいない女性だよ。こんな俺と恋人になってくれて、ありがとう…」

 耳元で低い吐息が聞えると、徐庶の身体が圧し掛かって来た。重みに耐え切れずに倒れ込むと、上に覆い被さって来た。

 ──まずい。

 妖しい展開を察した神流は咄嗟に徐庶の着物を掴み、声を上げた。

 「ご、ごめんなさい、今日は駄目です! まだお昼だし、明日は仕事だし、お風呂に入ってないし…」
 「わかってる、無理にはしないよ。でも…口付けくらいなら、してもいいかな…? もっと近くで神流を感じていたいんだ…」

 慈愛に満ちた眼差しと甘えた声に、いとも簡単に心が折れた。小さく頷くと、唇が優しく触れた。軽く唇を愛撫し、わずかに離れた口元から声が呟く。

 「…君のために、もっと頑張るよ。早く迎えに行けるように、頑張るから…」

 神流は頷いて背中に手を添えると、再び口が塞がれた。
 仕官の時が、二人が結ばれる時──。そう遠くない未来に二人の想いが叶うと思うと、かつてない恍惚感に満たされ、自然と接吻も濃厚になる。互いの想いを確かめ合い、強い幸福感を味わうように唇を絡めた。

 ──もっと、支えてあげなくちゃ。

 目の前で接吻に陶酔する愛おしい姿に微笑み、胸に固く誓った。

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