灯りの乏しい書斎からは、荒々しい吐息だけが聞えた。
徐庶が溢した『愛している』の一言から、抱擁と接吻は激しさを増していた。神流の唇を口で覆い、大きく動かし、わざと音を立てるように愛撫する。唇の合間から舌が押し込まれ、熱く、ぬるりとした生々しい感触が神流の舌に執拗に絡まる。
抱き寄せる手は着物越しに肌を撫で回し、脚を絡めて身体を密着させ、昂ぶる己自身を押し付ける。漏れる低い吐息が、神流の顔に掛かった。それは、抑えて来た感情を一気に吐き出しているかのような愛撫だった。
交際期間は三ヶ月と短いが、徐庶と出会ってもうじき二年になる。いつからか抱いていた徐庶の片想いを思えば、抑えていた反動で行為が手荒くなるのも無理はない。そうとわかっていても、荒々しい愛撫は受け入れ難く、息苦しさに堪らず顔を逸らした。ようやく唇が外れ、息を吸い込むと同時に声を上げた。
「…元直殿…苦しいです…!」
薄らと目を開けると、眼前に徐庶の顔があった。見つめ返して来た瞳は力強く、優しい面影は微塵もない。まるで別人のようになった恋人の姿に恐怖すら感じたが、一方で男性的な魅力を感じた。手燭のわずかな灯りに照らされた欲に満ちた表情は勇ましく妖艶で、黒い着物が徐庶を大人の男に魅せる。剣侠の姿とはまた違う男性的な色気に、神流は思わず見惚れてしまった。
「すまない…怖かったかい?」
吐息混じりに返した声は、恋人を気遣う優しいものだった。男らしい姿には似つかわしくない台詞に、神流は笑みを浮かべて首を振った。
「いいえ…でも、もう少し優しくして下さい。私、初めてだから」
「そうだったね…悪かったよ」
徐庶はぎこちなく微笑むと、唇を押し付けた。忠告の甲斐あって、少しは荒々しさも治まったものの、欲情した接吻は熱かった。
しばらく濃厚な接吻を交わした後、ふと唇が離れ、その直後、抱き寄せていた腕が神流を持ち上げた。目を開けると、徐庶は神流を抱えて隣の寝室へと入っていた。布団の上に座ると、神流を膝の上に乗せ、着物の帯に手を掛ける。
──ついに来た。
交わりの時を察した鼓動は、張り裂けんばかりに高鳴った。覚悟していても、その時が迫ると不安と緊張が押し寄せる。
「怖いと思ったら、すぐに言うんだよ」
その口調は静かだったが、欲を抑えた声は低く、どこか威圧的だった。瞳は依然として力強く、笑みを失った余裕のない表情は険しく、宥めるには凡そ相応しくない面持ちである。
──元直殿の顔の方が怖い。
そう思うと途端に緊張が解れ、神流は笑顔で頷いた。
「手加減して下さいね」
「わかってるよ、優しくするよ」
再三の忠告に徐庶もようやく笑い、優しく唇を重ねて身体を倒した。
徐庶は神流の上に覆い被さり、口付けを交わしながら帯を解いていく。緩んだ着物の裾から手が滑り込み、直に柔肌に触れた。胸の膨らみを優しく掴み上げ、柔らかな感触を確かめるように愛でる。その艶かしい愛撫に身体は火照り、甘い吐息が漏れた。
柔肌を愛でながら着物を脱がしていき、隠れていた肌が露になると、徐庶は大きな溜め息を溢した。
「…君って、本当に綺麗なんだな…俺なんかが抱いていいのかな…」
身体に熱い視線が注がれ、熱い手が肌の上を滑る。自分の裸体を凝視されて赤面する一方で、躊躇いを見せる徐庶の言葉に笑みが零れた。見惚れる男に、神流は両腕で上体を隠して意地悪く問う。
「じゃあ、やめますか?」
「やめないよ。ずっと、この時を待っていたんだ…」
返って来た声に迷いはなく、微笑みが消えた。徐庶は自らの着物に手を掛ける。慌てる様子もなく纏っていた着物を脱ぐと、引き締まった身体が現れた。抱擁から気付いていたが、穏和な見た目からは想像も付かない、書生らしからぬ筋肉質な体付きだった。驚異的な身体能力と、撃剣を扱う姿を思い返せば当然かもしれない。神流は恥も忘れ、完成された男の身体に魅入った。
頬に手が添えられ、ふと視線を上げると徐庶の顔が間近に近付いていた。愛しげに見つめる眼差しが神流を捉える。近付いた事で互いの身体が触れ合い、熱く心地良く感触に意識が蕩けていく。
「神流…」
名を呼ばれ、唇が重なると、二人は瞬く間に性欲に支配された。唇と舌を絡め、身体中を手が這い回る。接吻は首筋から鎖骨、乳房にまで及び、肌を強く吸い付けてなぞっていく。聞える低い吐息と髭の感触が、愛撫をさらに艶かしいものに変えた。
愛撫が激しさを増すにつれ、互いの手足が複雑に絡まり合い、身体が密着する。素肌には一段と固く滾った一物が触れていたが、恥じらいはなく、むしろ欲情している様が愛おしくて、さらに神流の欲を煽った。
上体を愛撫していた手が、肌を滑って下腹部に向かった。弾力のある肌を撫で回し、徐々に内側へと移動する。秘部に触れ、全体を優しく撫で上げられると、身体がびくりと波打った。
「やぁ…んっ…!」
優しい手付きが快感を生み、無意識に甘い声が漏れた。思わず漏れた声は、愛撫していた男の欲をさらに刺激した。全体を撫でながら溝に指を滑らせ、中に秘めた蕾をなぞる。途端に熱く痺れるような感覚が全身を襲い、経験した事のない強い快感に背中が反り返り、大きな嬌声が上がった。自分の淫らな声を耳にしても抑制する事が出来ない。
「あぁっ…やっ…元直殿…恥ずか…しい…!」
「大丈夫だよ、神流…凄くいいよ…もっと聞かせてくれ…」
吐息と欲の混じった声が囁くと、身体は過剰な反応を示した。腕の中で上体を捩じらせ、脚を相手の身体に絡める。肌は紅潮し、汗と蜜でしとどに濡れていった。その変化を知った徐庶は、肌に優しく口付け、蕾を弄んでいた指を濡れた口へと押し込んだ。蜜を絡めながら指を巧みに動かし、柔軟性のない口と内側を馴染ませていく。下腹部から絶えず込み上げる性感に負けた神流は、我を忘れて男の愛撫に溺れた。
性感に善がる身体を前に、徐庶の愛撫と息遣いも荒々しさを増す。唇と密着していた身体を離し、神流の片脚を持ち上げて秘部への愛撫に没頭した。
視線を身体へと移すと、月明かりに照らされた徐庶の逞しい裸体と、その下に自分のものとは思えない白く艶かしい裸体があった。汗で濡れた肌は酷く妖艶で、身体の合間からは大きく反り返った一物が覗いている。両脚の間では秘部を愛撫する男の腕が見え、卑猥な水音が聞こえたが、濡れそぼつ身体を見られている事に恥じらいはなく、愛撫で姿を変えてしまった互いの裸体の妖艶さと、秘部から押し寄せる快感に心奪われた。
初めて目にした男のものに動揺するどころか、胎内はそれを欲して疼き出す。そして、徐庶も限界に達した欲を耐え切れず、口を開いた。
「神流…もう挿れるよ…これ以上…我慢出来ない…」
徐庶は愛撫を止め、露になった秘部に己自身を宛がう。再び神流の上に覆い被さり、深く口付け、身体を抱き寄せると、宛がわれていた塊が胎内に押し込まれた。
挿入された一物は、指とは比べ物にならないほど熱く剛直なもので、神流を襲った。口と肉壁を強引に押し広げ、異物がずるずると突き進む感覚に、接吻で塞がれた唇から嬌声が上がり、身体が大きく仰け反る。しかし、十分に馴らされて蜜に濡れた身体は、わずかな痛みだけを残して難なくそれを受け入れた。
侵入した熱い塊は瞬く間に胎内を満たしていく。だが、それが徐庶が自分を欲している証だと思うと恐怖はなく、むしろ互いの身体が深く繋がった事に、かつてないほど強い快感と幸福感を生み出した。
身体が上下に揺れ始めると、動きに合わせて胎内を満たす肉塊もゆっくりと往復を始める。肉塊が擦れる度に、下腹部から強い性感が込み上げて来た。同時に二人の身体も擦れ合い、逞しい肌が柔肌を愛撫する。
内と外から性感帯を刺激され、全身は淫らな性欲に塗れていった。声は鳴り止まず、肌は熱を放って紅潮し、大量の汗が滲み出す。汗ばんだ肌が吸い付き、相手の身体を離さない。二人の唇から悩ましい声と嬌声が漏れ、混じり合った妖艶な声が室内に響いた。
肌が重なり、身体が繋がり、声が交わる──これが一体になる≠ニいう事なのだと知った。通常の抱擁や接吻よりも相手の心情が伝わって来る。心は慈愛に満ち溢れ、目の前にいる恋人が愛おしくて堪らない。
「んっ…元直…殿…っ…」
神流は必死に逞しい身体に縋り付き、何度もその名を呼んだ。優しく濃密な情交に耽っていた徐庶も、名を呼ぶ声と交合で得た強い性感に、次第に理性を失っていった。神流を強く抱き寄せ、欲に任せて頻りに腰を打ち付ける。交合で一段と質量を増した肉塊は、執拗に肉壁を擦り付け、奥底まで突き上げた。
結合部から肌がぶつかる大きな音が立ち、胎内を掻き乱された神流は悶え喘いだが、意思とは別に身体はそれを強く掴み上げた。己自身を刺激された徐庶は、苦悶の表情を浮かべつつも動きを止めず、一層悩ましい声を漏らして行為に溺れた。
「…はぁっ…神流…っ…!」
艶かしい吐息混じりの声に脳髄が痺れ、全身がびくりと反応した。性感は強さを増し、神流は苛烈な行為に意識を朦朧とさせながらも、五感の全てを眼前の男に集中させる。胎内の奥深くまで繋がった身体、熱く濡れた肌が触れ合う感触──強い一体感を伴う感覚に神流は愉悦に浸った。
突然、胎内の奥底から熱いものが込み上げ、ふと意識が遠退いた。その直後、一物が引き抜かれ、白濁とした熱い欲が柔肌に放たれた。徐庶は神流の身体をなぞって力なく倒れ込み、首筋に顔を埋めた。湿った唇と、深く荒い息が肌に掛かる。
情交を終えたばかりの身体は熱く高揚していたが、心は落ち着いていた。心身共に深く繋がった事で強い安心感に満たされ、熱を放ち紅く変色した身体が無性に愛おしく映った。
しばらくして、肌に触れていた唇が動いた。
「…神流、大丈夫かい? 痛くなかったかな」
小さく頷くと、「良かった」と溜め息混じりの声が漏れた。苛烈な攻めから一転して優しい気遣いを見せたので、ふと可笑しく思った。
「大丈夫…少し痛かったけど…とても良かったです…」
「俺も…凄く良かったよ…こんな気持ちは初めてだよ…」
顔を上げた徐庶の表情は悦色に満ちていたが、肌に赤みが差しているためか、とても無邪気なものに見えた。
「…君と一つになれるなんて…こんなに幸せな事はないよ…本当に…凄く幸せだよ…」
肌に優しく口付けた徐庶の瞳は潤んでいた。無邪気な笑顔で感涙する姿に神流は笑ったが、深い愛情を感じる言葉に視界が滲んだ。
「私もです…今日は素敵な記念日になりましたね」
「あぁ…今日の事は一生忘れないよ。本当にありがとう…」
徐庶は、神流の頭を胸元に抱き寄せた。愉悦で加減を失った抱擁は力強く、息苦しさを感じたが、神流に温かい安らぎを与える。その心地良さに、ふと目蓋が重くなった。目蓋が下がる度に睫毛が肌に当たり、異変に気付いた徐庶は腕の力を緩めた。眠気でぼやけた視界に、微笑みを湛えた男の顔が覗き込む。
「眠いのかい?」
「はい…安心したら急に眠くなっちゃって…少し眠っていいですか? 今日はもう…ここに泊めて下さい」
「いいよ。俺も今日だけは、君を帰したくない…」
指先が、頬に付いた髪を静かに除けた。言動の一つ一つに愛情を感じる。心の底から大切にされていると感じる──。愛される喜びと幸福に、神流は瞳から人知れず熱い雫を溢した。
穏やかな声色と腕の温もり、頬に触れる優しい指先を肌に感じながら、神流は静かに目を瞑った。
*
目を覚ました時には、室内は明るくなっていた。隣では、徐庶が眠っていた。一人用の小さな布団の上で窮屈そうに身を縮めて、神流に寄り添っている。
徐庶は寝衣を纏い、神流も着物を着ていた。纏っていたのは自分の物でなく、大きな男物の着物で、少女の身体を手足の先まですっぽりと包み込んでいる。着物は日差しの優しい香りがして、麻の生地が肌に心地良く、彼の優しい気遣いに触れた神流は、嬉しさに頬を綻ばせた。
ふと、着物に触れる肌が妙にさらりとしている事に気が付いた。神流は寝ている徐庶に背を向けて、着物の中を覗き込んだ。肌に付いた汗も体液も綺麗に拭き取られていて、その代わりに複数の紅い跡が付いていた。首筋から胸にかけて跡が続き、それが唇の這った跡だと知ると、昨夜の情交の光景が脳裏に蘇り赤面した。
見慣れているはずの自分の身体が、肌を交わして紅い印が刻まれた事で、全く違うものに見える。だが、それは神流が徐庶と一つになった証拠でもあり、彼の印の付いた身体を愛しげに眺めた。
唸り声に振り向くと、徐庶は寝返りを打っただけで、未だ夢の中だった。穏やかな寝顔を見ている内に言いようのない想いが胸に込み上げ、神流は喜びを抑え切れずに眠る徐庶の上に飛び付いた。途端に、神流の下から鈍い音と「ぐっ」とくぐもった声が聞え、目の前の寝顔が苦痛に歪んだ。打撃と不意打ちで目覚めた徐庶の表情は険しかったが、神流が笑顔でしがみ付いていると気付くと、口元がぎこちなく笑った。
「…痛いよ…もう少し優しく起こしてくれ…」
「ごめんなさい、何だか嬉しくて」
「…君は朝から元気だな…身体は大丈夫なのかい?」
「全然平気です。十分眠ったから」
呆れる徐庶をよそに、神流は胸板に顔を摺り寄せた。甘える仕草に頭上から力ない含み笑いが零れ、背中に腕が回る。
「元直殿、私が眠ってる間に色々としてくれたんですね。この着物、洗って返しますね」
「あぁ、その…別にいいよ。あのままだと風邪を引くと思って…俺が勝手にした事だから、気にしないでくれ」
徐庶はいつもの寝癖の付いた髪で、恥じらいを含んだ柔和な笑みを浮かべていた。すでに妖艶な男の色気は消えている。勇ましい剣侠から夜に見せる妖艶な姿まで、色んな姿を見て来たが、やはり彼には穏やかな姿が一番似合う。
ただ、その声は随分と小さく、言葉の合間に度々溜め息を吐いていた。抱き寄せる力も弱く、顔も青白い──明らかに二日酔いの症状だった。情交で酔いから醒めたと思われたが、身体に回った酒精までは消えなかったようだ。胸の上に乗っている事が気の毒になり、神流はそっと身体の上から降りた。
「私の事より、元直殿は大丈夫なんですか? 顔が真っ青ですよ」
「…情けないけど、二日酔いだよ」
徐庶は力なく笑ったが、青白い顔では微笑み返すのも忍びない。
「ちょっと待ってて下さい」
神流は腰に縋る腕を外し、水を取りに厨に向かった。借りた着物が思いの外大きく、裾を引き摺りながら廊下に出ると、玄関先から眩しい朝日が入り込んでいた。
結局、朝帰りになってしまったが、後悔も焦りもなかった。この後、仕事を控えていると言うのなら、叱責を恐れて慌てて屋敷を飛び出すが、この日は休日。同僚達にも『酒宴に参加する』と伝えてあるため、神流の身を案じる事はあっても過度な叱責をされる心配はない。そもそも規律の緩い宿舎だから、破ったからと言って激怒するような者はいない。
だが、何かと目聡い同僚の事、恋人と酒を飲んで朝帰りとなれば、一夜の間に何が起こったのか──もう感付いている頃だろう。それだけが一番の気掛かりだったが、どう弁解しようと言い逃れ出来そうにない。
あれこれと考えながら水差しと器を用意し、他に酔い覚ましになる食材を探して厨を物色する。男の独り暮らしでは必要最低限のものしかなく、唯一、篭に入った林檎を見つけると、小口切りにして皿に乗せ、寝室へ戻った。その頃には徐庶も布団から起き上がり、座ったまま窓の外を眺めていた。
「もうすっかり朝だね」
と、徐庶は顔を見るなり寝ぼけ眼で言ったため、神流は失笑した。寝ぼけているのか、まだ酔っているのか、表情は虚ろで口調も覚束ない。
水を差し出すと、徐庶は「ありがとう」と言って一気に飲み干した。水を飲んで落ち着くかと思えば、急に眉を下げた。
「神流、もう宿舎に帰った方がいいんじゃないかな。今頃、君の同僚も心配しているはずだよ」
「大丈夫ですよ、今日は休みだし、皆も事情を知っているから、いつ帰っても構いません」
「でも、許可は貰っていないんだろう? 俺のせいで君が怒られるのは嫌だよ」
「邸に行こうって言ったのは私だし、仕事をさぼった訳じゃないんだから、怒られたりしないですよ。人の心配より、自分の心配して下さい」
「いや、でも…」
と、何か言い掛けた徐庶に、神流は「平気平気」と軽く流して強引に毛布を被せた。不満なのか具合が悪いのか、徐庶は「ううん」と曖昧な唸り声を漏らして、渋々布団に横たわった。
同僚が気掛かりなのは違いないが、今は二人きりの時間に浸りたかった。離れると、身体に残る心地良い余韻が消えてしまうような気がする。それに、情交の感覚が肌に残っているこの状態で、知人と顔を合わせるのは気恥ずかしくて、外に出る勇気がなかった。
二日酔いで無愛想になった男の機嫌を取るように、神流は果物を盛った皿を差し出した。
「厨で林檎を見つけたんですけど、持って来て良かったですか?」
「あぁ、助かるよ。丁度、食べたい思っていたんだ」
徐庶が一転して笑顔を見せたので、神流は林檎を手に取って、男の口元に差し出した。途端に寝ぼけ眼が大きく見開き、その反応に神流は意地悪く笑った。
「食べさせてあげますよ。はい、あーんして」
「い、いいよ、病人じゃないんだ、自分で食べるよ」
「青白い顔して何言ってるんですか。もう深い仲なんだし、遠慮しなくていいんですよ」
『深い仲』と自分で言っておいて、恥ずかしくなった。徐庶も頬を染めて少し躊躇ったものの、押し付けられた林檎を一口で食べた。食べる様を見つめていると、はにかんでいた徐庶の顔から次第に笑みが消えていく。不意に膝上に大きな手が添えられ、着物越しに伝わる熱い掌の感触と妖しい雰囲気に肌が色めき立った。
「神流…あまりこういう事をされると…帰したくなくなるよ…」
「もしかして、我慢出来なくなりました?」
冗談めかしく言ったが、徐庶は真顔で頷き返し、神流の腕を引いた。前屈みになって胸元に倒れ込んだ神流の上体を、すかさず抱き締める。耳元で聞える心音は熱く高鳴っていて、二日酔いの状態で再び身体を高揚させる恋人に苦笑した。
「元直殿って、甘え上手ですね」
「そうかな。俺はただ、神流を抱き締められる事が嬉しいんだよ…もう我慢しなくてもいいから」
──十分、甘えてるじゃないの。
神流はくすりと笑い、上体を抱かれたまま布団に脚を滑らせた。横になった途端、正面から身体を抱き寄せられ、首筋に顔が押し付けられた。行為に及ぶかと思えば、徐庶は顔を伏せたまま動かなくなった。肌に掛かる息は深く荒いが、まだ二日酔いの症状の方が勝っているらしい。
「…しばらくこのままでもいいかな。こうしていると、とても落ち着くんだ…」
「いいですけど、今日は添い寝だけですよ」
「…わかってるよ、今日は俺も無理だよ…」
徐庶は溜め息混じり苦笑し、神流は身体に縋って二日酔いに悶絶する恋人に笑った。呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していったが、少しでも気が紛れるように声を掛ける。
「元直殿は、いつから私の事を意識していたんですか?」
「…初めて会った時から、ずっと気になっていたよ…」
意外な返答に神流は戸惑った。徐庶の心境が変化したのは、少なくとも最初の合宿以降だと思っていたから。
「…それって、一目惚れですか?」
「少し違うかな。何というか、その…とても印象が強かったんだ」
──私と同じ事、考えていたんだ。
出会った当初から、互いに意識し合っていたと知った神流は動揺したが、誤魔化すように冗談混じりに聞き返した。
「挙動不審で、おかしな少女っていう印象ですか?」
すると、耳元で笑い声が聞えた。
「そんな事思わないよ、純粋で可愛い子だと思ったよ。それに君は明るくて、優しくて…会う度に好きになっていったよ…。今はもう言葉にならないくらい好きだ…だから…君と一緒になれて…凄く幸せなんだ…」
長い間秘めていた彼の愛情は、自分の愛情とは比べ物にならないほど深く純粋で、言葉にも一点の迷いも偽りはない。肌を交わし、全身で受け止めた今では、その愛情が本物だとわかる。
これほど直向な愛情を向けてくれる人は、他にいるだろうか──。そんな彼と相思相愛になり、結ばれた自分は、この世で一番の幸せ者だと思った。
「幸せなのは、元直殿だけじゃないですよ。私は、もっと幸せなんだから…」
「うん」と、小さな溜め息のような返事を最後に、徐庶は沈黙した。静かで一定の呼吸が聞える。徐庶は首筋に顔を埋めたまま眠っていた。抱擁で得た安堵からか、はたまた願いが叶った恍惚感からなのか──、とても安らかな眠りだった。
「…私も、ずっと前から気になっていたんですよ…元直殿の事…」
神流は眠る男の耳元で囁き、髪に手を添えて寄り添った。
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