試験の結果が出たのは、三ヵ月後の事だった。これほど時間を要したのは、司馬徽が学閥の付き合いでしばらく襄陽を離れ、その間に慌しい年の瀬を迎えてしまったからだ。試験結果は、書簡で知らされた。
結果は思いの外良かった。司馬徽は、あくまで実力を計るもので採点自体は関係ないと言ったが、それでも師事のおかげで良い結果が出せた事に驚喜した。そして、この試験で神流が何に向いているか、今後、目指すべき道が見えた。政治的な面に置いて隠然たる才能があると、司馬徽は書簡で言った。つまり、文官向き≠ニいう事だ。
──もしかすると、私も元直殿と一緒に仕官出来るかも。
司馬徽の報告を受けた神流は、真っ先にそんな事を考えた。
徐庶が兵法に長けているのなら、軍師の道。自分に政治的能力があるのなら、文官の道。分野は違うが、志すものは同じであり、彼と一緒に歩めればこれほど幸せな事はない。
恋仲となった事で、『共に歩み、傍で支える』という誓いは、神流の中で確固たるものになっていた。ただの恋人として傍にいるだけならば、誰にでも出来る。もっと別の形で徐庶に寄り添い、支えたい──となれば、同じ仕官の道を歩む事が、何より彼の力になれるはず、と考えた。
もちろん、門下生としてはまだ駆け出しで、学問では徐庶の足元にも及ばず、神流の仕官は遠い理想でしかないが、そうありたい≠ニいう想いは一段と強くなった。同じ目標を持つだけでも、今の彼の支えにはなれる。
そして徐庶も、仕官に対して以前より増して強い意気込みを見せていた。一時は、仕官を躊躇った理由を神流だと弁解していたが、告白を機に悩みも吹っ切れたらしく、日々、自分磨きに励んでいた。
彼の心境が大きく変わった事で、神流も決意を改め、一段と固いものにした。
ともあれ、結果を早く知らせたい──。神流は仕事を終えると、徐庶の屋敷へ走った。扉を叩きもせずに玄関先に転がり込むと、大声で叫んだ。
「元直殿、これ見て下さい!」
まだ見ぬ屋敷の主に向かって、貰った報告書を広げて見せた。声を聞いて、すぐに顔を出すかと思ったが、徐庶は一向に姿を現さなかった。玄関には靴が置かれ、奥の書斎からも灯りが零れているから、在宅しているのは間違いない。
「昼寝でもしてるのかな」
神流は独り言を溢し、どかどかと廊下を歩いて書斎へ向かったが、もぬけの殻だった。だが、隣の寝室を覗いてみると、思った通り、徐庶は布団の上で眠っていた。
徐庶が自分磨きに励むようになってから、昼寝は習慣になっていた。元々散かっていた室内はさらに書物で溢れ、机上が竹簡で山積みになっているのは、もはや当たり前。また、撃剣と小手が部屋に置かれている事も多く、剣術の鍛錬もしているようだった。
神流はそっと背後に忍び寄り、徐庶の顔を覗き込んだ。いつもながら無垢な寝顔で、毛布に包まって眠る姿は、彼が年上である事を忘れるほど愛らしい。
その背中は添い寝の温もりを思い出させ、神流はそっと徐庶の背後に寄り添った。起こさないように腕は回さず、軽く触れる程度に背中に手を添える。真冬の寒風に当たった身体には、とても心地良かった。
告白で変わったのは、何も志だけではない。彼への愛しさも一層深まり、抱擁を強く望むが故に、度々甘えたい衝動に駆られた。もう会うための口実や、触れ合いの謀も必要もなく、今では徐庶も躊躇わずに受け入れてくれるため、いつも衝動は行動へと移った。
しばらく温もりに浸っていたが、徐庶は依然として呑気に眠り込んだままだった。剣を持つと、一切の隙も見せないというのに、今は無防備で隙だらけの背中。背後に潜む少女の気配に全く気付かない。この滑稽な状況は、少女に悪戯心を抱かせた。
脅かしてみようと、背後に潜んで機会を伺う。息を潜めて潜む自分の姿が、まるで伏兵のようだと思った。
──成功した時に、何をしようかな。
色々と想像して、つい笑い声が漏れた。すると、徐庶の身体が大きく寝返りを打ち、こちらを向いたと思うと、毛布と腕が神流に覆い被さって来た。
「…神流…」
気付かれた──と思いきや、徐庶は未だに目は閉じたままで、寝顔が視界一杯に映った。絶好の機会だと顔を近付けた瞬間、寝ぼけた腕は神流を引き寄せると、毛布諸共、胸元に抱き締めた。
毛布と逞しい腕によって、少女の伏兵は一瞬で蹂躙された。だが、神流は大いに喜んだ。眼前には男の寝顔、逞しい四肢は神流を強く抱き締め、身体を擦り寄せて来る。寝ぼけていようと抱擁には違いなく、神流の名を寝言で呟きながら縋り付く姿は、まるで自分に甘えているように見えて、さらに悪戯心を煽った。
顔を寄せるも、間にある毛布が邪魔で近付けない。すると、徐庶も毛布の違和感に気付き、目を覚ましてしまった。毛布に埋もれた少女を見た途端、目を見開いて仰け反ったが、神流だと知ると大きな溜め息を吐いた。
──何だ、残念。
と内心で溜め息を吐きつつ、寝ぼけ顔の恋人に挨拶をした。
「おはようございます、元直殿」
「…神流、こんなところで何をしているんだい?」
その口調は呆れていたが、今も毛布に包まった少女を抱き締めて、愛しげに見つめている。
──自分がした事に、気付いてないのね。
神流は笑いながら、何も知らない男に事実を冗談めかしく答えた。
「伏兵になってました。でも、元直殿の毛布に蹂躙されたから失敗です」
「伏兵?」と聞き直して、徐庶は笑った。
「それは悪い事をしたな、無意識だったんだけど」
「無意識の内に毛布でぐるぐる巻きにするなんて、さすが軍師殿の策ですね」
「すると今は、捕縛されている状態なのかい?」
「はい」と返すと、男はさらに声を上げて笑う。
「でも、伏兵になって何をするつもりだったんだい?」
「伏兵の役目と言えば、相手の動揺と襲撃に決まっているじゃないですか」
笑顔できっぱり答えると、徐庶は何を想像したのか、頬を染めて苦笑した。
「…駄目だよ、女の子がそんな事を考えちゃ…君は悪い子だな」
「じゃあ、伏兵を謀った悪戯少女に、軍師殿はどんな処分を下しますか?」
「ええと、そうだな…でも、可哀相だから釈放しておくよ」
男は少女の児戯に付き合って言葉を返し、抱き締めていた腕を解いた。期待とは違う行動に、神流はがっかりした。
──口付けくらいしてよ。
恋仲になって三ヶ月。『大切にする』という言葉通り、徐庶は無理に神流を抱く事はしなかった。抱擁はあっても、接吻は軽く触れる口付け£度で、『大切にする』というより、『遠慮している』と言った方が正しい。恋人と言えども、相手は経験の少ない年下の少女。徐庶が気遣っているのは瞭然だった。
確かに、神流にとって徐庶は初めての恋人で、諸々の行為には疎いため、恥じらいもある。しかし、念願の恋人同士となり、触れ合いを楽しみにしている神流には、この気遣いが子供扱いされているようで腹立たしくもあった。ただ、毎回そんな憤りを抱いては、慈愛に満ちた微笑みに心が折れてしまう自分も問題だと思う。
徐庶が布団から起き上がったので、神流はまだ早いとばかりに着物にしがみ付き、質問した。
「元直殿、さっき私の夢を見てたでしょう」
「な、何だい、急に…別に何も見てないよ」
徐庶は急に目を泳がせて口籠もったため、図星だとわかった。恥じらいを見せる男に、神流は面白がって意地悪く問う。
「嘘ばっかり、私の名前を呼んでいたもの。夢の中で私と何していたんですか?」
「な、何もしていないよ。変な事言わないでくれ」
徐庶は赤面し、神流の腕を振り払って寝室から逃げ出した。その反応から、少女の想像以上に良からぬ夢を見ていたのは明らかだった。
──自分が一番、悪い事考えているんじゃないの。
神流はくすりと笑い、書斎に逃げた徐庶の後を追った。からかわれて不貞腐れた恋人は、髪に寝癖を付けたまま机の前で書物を漁り、仏頂面で尋ねた。
「それより、先生からの知らせは、まだ来ていないのかい?」
日常になっていた質問を聞いて、本来の用件を思い出した。すかさず試験の報告書を渡すと、目を通した徐庶は、「そうか」と一人呟いて満足気に頷き、忽ち機嫌を良くして微笑んだ。どんなに機嫌を損ねても、厳しい態度を見せようと、彼が優しい恋人である事には変わりない。
「凄いな、先生も褒めているじゃないか。良かったね」
「結果が良かったから、例の約束を守って下さいね。ほら、ご褒美」
「あぁ、そうだったね。でも、何がいいのかな…女性が好きなものが何か、よくわからないしな…」
徐庶は独り言のように呟いて苦笑し、空を眺めて考え込んだ。告白前という事もあり、当時は『ご馳走』と答えたが、徐庶にして貰える事なら何でも良かった。それが抱擁や接吻であれば尚良いが、おそらく今の彼の脳裏にあるもの≠ニは、食事や贈物などの物≠セろう。奥手で純情な男の口から、そんな台詞は期待出来ない。
「ええと…すまない、何も思い付かないよ。神流は何がいいんだい?」
徐庶は悩んだ末に、ついに質問してしまった。彼もまた女性に疎い男だと笑い、少し考えて真っ先に頭に浮かんだものを答えた。
「祝い酒なんてどうですか? まだ元直殿と飲み交わした事がないし、丁度いいでしょう?」
「え…神流、酒が飲めるのかい?」
意外だとばかりの驚き眼に、神流はむっとして眉を顰めた。とうに冠礼を迎えている歳だというのに、ここまで子供扱いされると気に入らない。機嫌を損ねたと察した徐庶は、慌てて言い直した。
「いや、その…ご馳走と言っていたから、酒なんかでいいのかと思って」
「いいですよ。それに元直殿の懐具合も知ってるし」
仕返しに意地悪く返すと、「余計なお世話だよ」と徐庶は再び不貞腐れた。
「早速、今夜どうですか?」
「ええと…すまない、今夜は都合が悪いんだ。これから広元と会う事になっているんだよ」
「石韜殿とお勉強ですか?」
「うん、まぁ…そんなところだよ。学問に関しては、彼の方が詳しいからね」
そう言って、徐庶は面目ないと目を伏せた。石韜は徐庶の親友である前に、荊州では名の知れた大学者でもある。先日襄陽を発った孟建の話では、学閥内でも大先輩に当たり、普段は友人同士ふざけ合っているが、学問では全く頭が上がらないのだという。
「私も参加していいですか? 大儒殿のお話は貴重だから」
「駄目だよ、君は明日も仕事だろう。それに広元の話は長いしつまらないし、口うるさいから楽しくないよ。君だって堅苦しい話は聞きたくないだろう?」
徐庶は急に不快感を露にして言い放った。仕事が云々というよりも、ただ友人に会わせたくないだけに見える。恋人宣言をした後に何か言われたのだろうと想像し、神流は笑いながら頷き返した。
「わかりましたよ。じゃあ、今度の休日の前夜でもいいですか? その方がゆっくり飲めるし」
「あぁ、そうだね。当日は、俺が店まで迎えに行くよ」
徐庶は一転して笑顔を見せた。感情がすぐに顔に出るから、何度見ても面白い。他の表情も見てみたいと、わざと意地悪をしてみる。
「でも、これから大切な約束があるなら、もう帰った方がいいですね。元直殿も仕度があるだろうから」
「あぁいや、まだ約束まで間があるから、気にしなくていいよ。俺も今起きたばかりだから…もう少し、付き合ってくれないか…?」
慌てて引き止め、弁解し、熱い視線を送る──ころころ変わる表情に満足気な笑みを溢し、神流は徐庶の傍に寄り添った。温かい手が触れ、腕が身体を引き寄せると、首筋に唇が触れた。ようやく交わされた口付けは、まだ遠慮がちなものだったが、心地良い唇の感触は神流の肌を甘く酔わせた。
*
参加する酒宴と言えば、仕事や街の行事か、同僚の自棄酒に付き合う程度で、それほど頻繁にあるものではなかった。おかげで酒徒と呼べる相手もいない。そのため、徐庶と祝杯を挙げると決まった時、神流は狂喜乱舞した。好きな酒を好きな相手と楽しめるのだから、喜ばずにはいられない。
そして、神流の仕事や勉学の都合もあって、二人が逢引きをする場所は決まって徐庶の屋敷。恋仲となってから二人で外出するのは今回が初めてとなり、喜びも一入だった。
楽事を控えている時ほど、待ち時間は一段と長く感じるもの。仕事中も頻りに日没を気にし、仕事が終わるや否や、宿舎に戻って酒宴の仕度をした。「薄暮に迎えに行く」と言った徐庶が来るまでの間に、着物を着替え、髪を結い直し、軽く化粧を施す。鏡の前で何度も念入りに身嗜みを確認していると、同僚の声が響いた。
「神流、お客人よ」
合図に神流は弾かれたように顔を上げ、階段を駆け下りて行った。外で待っていたのは、迎えに来た恋人の徐庶と、彼の到着を知らせた同僚だった。徐庶は神流を見るなり、「やぁ」と、お決まりの挨拶と優しい笑顔を見せた。
この日は珍しく、髪に付けている寝癖がなかった。着物も普段と違い、黒紬の格の高い物を纏っている。ただ、無精髭は残っていて、元々癖のある髪も日頃の手入れが悪いせいか、ぼさぼさ。結局、のんびりした男の容姿には変わりなかったが、不器用ながら恋人との酒宴に意気込みを見せる姿勢が何とも微笑ましく、笑みが零れた。
「元直殿、いつもと雰囲気が違いますね。寝癖もないし、着物もよれてないし」
「ええと、今日は神流の祝いの席だから、だらしない格好で行く訳にはいかないよ」
指摘に対して徐庶ははにかんだが、かく言う神流も人の事は言えない。すると、徐庶は急に頬を染めて落ち着きなく目を泳がせると、ぽつりと言った。
「そういう神流も…とても綺麗だよ。俺なんかにはもったいないくらいだよ…」
「ふふ、ありがとうございます」
礼を言ったものの、あまりにも顔を真っ赤にして言うものだから、喜びよりも男の滑稽さに笑いが止まらない。ふと見ると、近くに留まっていた同僚が二人のやり取りをにやけ顔で見つめており、徐庶も頻りに気にしていた。これも赤面した原因の一つだと察し、神流が手で追い払うと、「お気を付けて」と、不敵な笑顔で余計な気遣いが返って来た。
「ええと…そろそろ行こうか」
徐庶が遠慮がちに手を差し出したので、神流は喜々として男の腕にしがみ付いた。
夜の城下町は年の瀬という事もあり、一段と賑やかだった。たとえ戦乱の世であっても、遊興する者の姿は減らず、街行く連中の表情はどれも明るい。他国がどうか知らないが、これも荊州が平穏無事という証拠だろう。
二人寄り添って街を歩くひと時は、屋敷での逢瀬とはまた一味違う快感だった。夜風の冷たさも男の温もりの前には無力で、祭りでもないのに足取りが弾む。腕を組み、手を握り締めて歩く二人の姿に、周囲は度々視線を注いだが、それすらも快感に感じる。だが、神流が甘いひと時に浸る傍らで、徐庶は終始落ち着きがなかった。
徐庶に案内されて向かった酒場は、大勢の男女で賑わっていた。だが、店員は徐庶を見るなり丁重に出迎え、奥の個室へと案内した。そこは酔っ払いで騒がしい表とは違い、仕切りのある静かな座敷で、黒塗りの卓子まで置かれている。店員の対応を見るに、彼がこの店では特別顔が利く常連客で、また、すでに予約済みという手際の良さが、とても頼りがいのある男に見せた。
席に座ると、徐庶が黄酒を注文したので、神流もひとまずそれに従った。最初から彼の前で大酒を煽る訳にはいかない。
「神流は、いつもどういう時に酒を飲むんだい?」
「ほとんど仕事の付き合いだから、あまり飲む機会がないんです。だから、元直殿と飲めるなんて本当に嬉しいです」
「俺も嬉しいよ。こうして君と二人きりで飲めるなんて思わなかったから…何だか夢みたいだよ」
徐庶は頬杖を付いて欣幸の至りといった表情をしたので、神流はくすりと笑った。
「お酒くらいで、少し大げさじゃありませんか?」
「いや、その…今日は神流と恋人同士になって、初めての付き合いだろう? 今後も君と、こうして色んな付き合いが出来ると思うと、凄く嬉しいんだ。こんなに幸せな気持ちは初めてだよ…」
悦色に満ちた微笑みと、とろりとした熱い眼差しが、神流を見つめる。個室で二人向き合った状態では男から逃れられず、まだ酒も飲まない内から頬が染まっていき、手元にあったお品書きに視線を落して回避した。
「じゃあ今日は、試験合格記念と、初めての酒宴記念と、交際三ヶ月記念で、ぱっとやりましょうか」
「随分と欲張りだな。忘れられない日になりそうだよ」
徐庶は声を上げて笑ったので、少しほっとした。
「忘れちゃ駄目ですよ、記念日にするんですからね」
「忘れないよ、神流との大切な日だから」
そこへ、注文した酒と肴が運ばれて来た。おかげで徐庶の熱い眼差しを回避出来たが、空気が読めない腰の低い店員に嫌悪感を覚えた。
*
二人が静かに酒を飲んでいたのは、最初の内だけだった。酒が入るにつれて互いに不遠慮になり、注文する酒の酒精も増していく。談笑にも華が咲き、一時間もしない内に、静かだった個室には二人の笑い声が響いた。
隣でお酌をしていた神流も、徐庶の膝の上に座って酒を煽るという暴挙に出ていたが、酔いが回っていた徐庶はそれを除ける事もせず、後ろから抱き寄せていた。人から見れば『はしたない』と言われる光景だったが、個室では人目を気にする必要もないため、存分に二人の時間を楽しんだ。
しかし、飲み始めて四時間も経つと、徐庶の手が度々止まるようになり、目を瞑っては神流の着物に顔を埋める事が増えて来た。
「ほら、元直殿、もっと飲んで下さいよ」
神流は膝に乗ったまま、相手の口元に自らの杯を差し出す。だが、徐庶は抱き寄せたまま静かに首を振った。
「俺はいいよ。主役は神流なんだから、君が飲むといいよ」
「でも、支払いは元直殿だし、私ばかり飲むのは悪いですよ。飲まないと損ですよ」
強引に口元に押し付けると、眉間に皺を寄せて顔を背けた。
「頼むから、少し休ませてくれないか。とてもついていけないよ」
「もしかして、弱いんですか?」
「…君が強いんだよ。本当は隠れて毎日飲んでいるんじゃないのかい?」
そう言って苦笑した顔は、赤く虚ろだった。一番酒精の強い酒を四時間も煽り続ければ、当然の症状である。答えて間もなく、再び着物に顔を埋めて昏々とし始めたので、神流も泥酔状態から目を醒ました。
「大分飲んだ事だし、そろそろ終わりにしましょうか」
「いや、遠慮しなくていいよ。俺も休んだ後にまた飲むつもりだから、続けていいよ」
徐庶は慌てて顔を上げて引き止めたが、虚ろな目で言われても快く頷けない。まだ酒宴を終わらせたくないのか、抱き寄せる腕を離さず、昏倒寸前でも尚、抵抗を見せる姿に、神流は溜め息混じりに一つ提案を出した。
「じゃあ、元直殿の邸で飲み直しましょうよ。その道中で、酔い覚ましも出来るでしょう?」
「でも、邸に寄ると帰りが遅くなるじゃないか。君も店の人に怒られるよ」
「朝帰りじゃなければ平気ですよ。飲みに行く事も知っているから」
「でも…まぁ…君がそう言うのなら…そうしようか」
徐庶は迷いながらも提案を受け入れた。しかし、酔いが回った二人が席を立ち、会計を済ませて店の外に向かうまで、長い時間を要した。
城下町を抜けて大河近くの小路に入ると、静かな夜が訪れた。夜も更けた事で、一段と冷たい夜風が吹き付けていたが、酒で火照った身体には丁度良く、屋敷に着いた頃には、全身に回っていた酒精も抜けていた。
屋敷に上がり書斎に入ると、二人は力が抜けたようにどっと床に座り込んだ。酔いが醒めた事で、身体が四時間の宴で得た疲労を思い出したようだ。
「何だか疲れましたね」
「あぁ…そうだね」
と、徐庶は力ない声を溢すと、床に寝転び、腕で顔を覆った。酒場では強がっていたが、相当酒が回っていたらしく、とても飲み直しが出来る状態とは思えない。神流は厨から水を運び、横たわる男の手に水の入った器を握らせた。徐庶はもそもそと起き上がり、「すまない」と言って水を飲むと、再び横になってしまった。
「これ以上は身体に悪いから、もう休んだ方がいいですよ」
「何だか情けないよ…酒では神流に敵わなかったな」
「そんな事で勝っても嬉しくないです。ほら、せっかくの着物が皺になりますよ」
苦笑する徐庶の両腕を引いて上体を起こすと、羽織に手を掛けた。すると、男の腕が神流の腰に回り、気付いた時には抱き寄せられていた。神流を抱えたまま床に寝転び、四肢を使って身体を拘束する。驚いて顔を上げると、徐庶は無邪気な笑顔を浮かべていた。
「捕まえたよ。今日はどうしようかな」
目が合うなり、男の口元が笑った。酒に酔って、先日の児戯で戯れ始める徐庶の言動に、溜め息が零れた。
「急にはやめて下さいよ。びっくりするじゃないですか」
「それは悪かったよ。今日はまだ、神流を抱き締めていなかったから」
酒場でずっと抱き締めていたでしょう──と返すつもりが、温かい抱擁と見つめる眼差しに言葉を失った。酔っているためか、男の瞳は一段と熱を帯びている。見据えられて羞恥しているのに目を逸らせず、言葉を返して誤魔化すしかなかった。
「…今日はどうするんですか? 釈放しそうにないですね」
「…帰る刻限まで、このまま抱き締めていてもいいかな…?」
児戯に戯れていた無邪気な笑顔が、次第に慈愛に満ちた微笑みへと変わっていく。徐庶はさらに神流を抱き寄せると、首筋に顔を埋めた。
「今日はありがとう…とても楽しかったよ」
耳元で囁いた声は、穏やかで優しかった。程よい緊張と心地良い男の声に思考が鈍り、小さく頷き返すだけで精一杯だった。ふと、首筋に伏せていた顔が動き、神流の目の前で微笑んだ。大きな手が頬に触れ、指先が軽く肌を愛でる。
「神流…凄く…綺麗だよ…」
目前に迫った口元が囁くと、神流の唇に触れた。その唇は次第に動きを成し、優しい愛撫を始める。それは遠慮がちな口付け≠ナはなく接吻≠セった。しばらく振りに徐庶から交わされた接吻に、瞬く間に恍惚感に満たされ、意識は蕩けていった。
弾力のある男の唇は、少女の柔らかな唇を愛で、その感触に酔いしれた。動く度に酒気の混じった吐息が掛かり、重なった唇の間から音が立ち、触発されるように息遣いが荒くなる。抱き寄せていた腕が神流の背中を這い、着物越しに身体を撫で始めた。
濃厚になっていく接吻と、身体を擽る手の動き、深まる抱擁に、神流は陶酔する一方で動揺し始めていた。酒が入った男の愛撫は、経験の少ない少女には刺激が強い。だが、徐庶は執拗に脚を絡めて神流の身体に縋り付く。男の股の間に身体がずり落ちると、固い膨らみが太腿に触れた。徐庶の身体が昂ぶりを見せていると知ると、急激に脈が早くなり、一気に恍惚感から目が覚めた。
いくら温厚であろうと、徐庶も男性。酒が入り、恋人との愛撫に酔いしれれば、身体が交わりを望むのも当然だろう。無論、徐庶と交わす事に抵抗はなく、彼とより深い関係を熱望する神流には、むしろ願ってもない機会だった。しかし、初めて男性の身体の変調を肌で感じては、動揺が隠せない。
まだ触れてはいけないものと思い、何とか逃れようと、接吻を交わしながらも腕の中で脚を動かす。だが、もがくほどに太腿に当たってしまい、男の口元から低い吐息が漏れ、ますます気が動転した。すると、徐庶も神流の異変に気付き、唇を離した。
「…すまない、つい気持ち良くなって…嫌だっただろう?」
「い、いえ…急だったから驚いちゃって。でも、もう大丈夫です」
憂い顔で見つめる徐庶に笑顔で首を振り、その胸板に顔を埋めた。だが、一向に濃厚な接吻も抱擁も始まる気配がない。気分を害してしまったのかもしれない──後悔と焦りが生じる。だが、徐庶の口から意外な返事が返って来た。
「…これ以上はやめておくよ。嫌な思いをさせて悪かったよ」
神流は驚いて顔を上げた。『誤解』だと必死に首を振り、同時に『なぜ』と疑問を目で訴え掛ける。
「嫌だなんて思う訳ないじゃないですか。私、元直殿の事好きだもの」
「俺も神流の事は好きだよ。でも、俺のために無理をさせたくないんだ。もっと君を大切にしたいんだ…」
この期に及んで気遣いを見せる恋人に呆れてしまった。抱き締める腕は熱く、身体も依然として交わりを望んでいるというのに──。
神流は上体を起こし、徐庶の顔を覗き込んだ。酒気は消え去り、代わって欲を帯びた憂い顔が見つめ返す。
「無理をしてるのは元直殿でしょう。私だって、元直殿の支えになりたいんです。試験の結果を聞いて、私もいつか仕官して、もっと傍で元直殿を支えるって決めたんだもの。だから…もっと抱き締めて下さい…」
「…神流」
言い掛けた男の唇に、恥を忍んで自ら口付けた。羞恥に固く目を瞑り、不器用に唇を押し付ける。想いの篭った接吻に、徐庶は強い愛撫で応えた。熱い吐息を溢し、少女の小さな身体を抱き締める。抱き寄せた身体を横に倒し、上に覆い被さると、さらに深く口付けた。
「…神流…愛している…もう絶対…離さないよ…」
わずかに離れた口元から、吐息混じりの声が漏れた。荒い息遣いと、欲に満ちた眼差しは力強く、濃厚な接吻にも余裕は感じられない。
しかし、ようやく素直になった男に神流は優しく微笑み、全身で愛撫を受け入れた。
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