暗くなった屋敷には、書斎の小さな灯りだけが灯っていた。手元が暗いからと、点けた手燭の油も随分と減り、夜が更けてから長い時間が過ぎた事を示していた。
いつもならば、惜しみながら宿舎への帰路に着き、日が明ける時を待ち侘びて床に就いている頃。だが、今日だけは帰り仕度をする必要も、宿舎を見て溜め息を吐く必要もない。翌日の試験の時まで、屋敷に留まる事が出来るのだ。
邪念を打ち払うが如く学問に集中した甲斐もあり、心身共に落ち着きを取り戻していた。おかげで、本来果たすべき試験を思い出したのだが、一方で触れ合いもなく学問のみで長い時が流れた事を悔やんだ。しかし、時間はまだある。
「元直殿、これはどういう意味ですか?」
書面を見つめたまま尋ねたが、一向に答えが返って来ない。顔を上げると、隣で勉学を見ていた徐庶が、頬杖を付いて目を瞑っていた。試しに名を呼んでみたが、返答がない。舟も漕がずに、監視した姿勢のまま熟睡している。随分と器用な寝方だと感心したが、『徹底的にやる』と宣言した側が居眠りをしては意味がない。だが、不意に悪戯心が湧いた。触れ合いを図る良い機会でもある。
──落書きしてやろう。
先ほど、無闇に鼓動を乱した罰だ。神流は意地悪く笑い、徐庶に筆を近付ける──が、子供のように無垢な寝顔を間近に見て、思わず目を背けた。
この男は、無意識に心を掻き乱す仕草ばかりするから、実に腹立たしい。已む無く悪戯を断念し、筆の柄で頬を突いた。途端に手から顎がずり落ち、大きな物音を立てて男は目を開けた。
「元直殿が先に眠ってどうするんですか」
横目でじろりと睨むと、徐庶は「すまない」と寝ぼけ眼を手で擦ったが、眠そうな顔は変わらない。
「…もう疲れたよ、そろそろ仕舞いにしないか?」
「終わるにはまだ早いですよ。試験は明日なんですよ?」
「試験だから、早く寝た方がいいんだ。寝不足は学問の天敵だよ。続きは明日の朝にしよう」
徐庶は返事も聞かず、手元の書物を片付け始めた。尤もな理由だが、早々と片付ける手付きを見るに、単に早く眠りたいだけだ。だが、かく言う神流も眠りたくないだけ──いや、眠れない≠ニ言った方が正しい。仕事帰りの身体に、一向に眠気が来る気配がない。動悸は治まっても、感情は昂ぶっていた。
嫌な顔をしようと男の手は止まらず、次々と書物が整頓されていく。これでは前回と同じ展開になる──神流は自分の荷物を除けるふりをして、徐庶が寝床にしている部屋の一角に向かった。片付け終えた徐庶が振り向くと、わざとその場に座り込んで陣取り、意地悪く笑った。行き場を失った徐庶は、頭を掻いて「またか」と言わんばかりに眉を顰めた。
「また駄々を捏ねるつもりかい?」
「だって、眠れないんだもの」
そう返すと、徐庶は歩み寄って来た。強引に除ける──かと思ったが、呆れ顔で目の前に座り込んだ。
「眠れないって…そんなに試験が不安なのかい?」
「不安ですよ、初めての試験だもの」
期待と違う反応に少しがっかりしながら、眠そうな顔の男に毅然と返した。本当の原因は貴方だけど──と、内心で付け足す。
「心配いらないよ。今日だって全部出来ていたじゃないか、明日だって出来るよ。俺が保証する」
眠気のためか、一段とふにゃりとした笑みを浮かべた。眠そうな顔と寝癖のおかげで、すでに寝起きのようになり、年上の殿方らしからぬ愛らしい姿。この顔で『保証する』と言われても説得力に欠ける。
「それならいいけど、駄目だったら代償を支払って貰いますよ。お店で一番高い反物を買って貰いますから」
「いいよ。君なら大丈夫だと、確信しているからね」
「じゃあ、もし良い結果だったら、何かご褒美を下さい。美味しいご馳走がいいな」
「…どちらにしろ、俺は何かしないといけないんだな。いいよ、もう何でもするよ」
すんなり承諾したものの、どこか投げ遣りな言い方が納得いかない。膨れっ面で返したが、徐庶はそれを無視して仮眠用の毛布を取った。床に積まれた書物を除けながら、強引に神流の脇に割り込む。押し退けられた神流が後退すると、徐庶はすかさず頭から毛布を被って、その場に寝転がった。
ついに強行策を取った徐庶だったが、神流がこのまま引き下がるはずもなく、男が背中を向けた隙に毛布を剥ぎ取った。「あっ」と声が上がると、眠気に満ちた目が神流を睨み付けた。横たわる身体が、全身で大きな溜め息を吐く。
「…気持ちはわかるけど、俺にどうしろと言うんだ?」
「もう少し付き合って下さいよ。眠れない少女のために」
「付き合えと言われても…子供相手なら、添い寝してあげられるけど…さすがにそんなのは…嫌だろう?」
ぽつりと呟いた徐庶の一言に、神流は思わず息を呑んだ。
「そ、添い寝…ですか?」
困惑した要因となった言葉が、自然と口を突いて出た。すると、徐庶も口を噤み、視線を逸らして、指先で頬を掻いた。その頬が、少し赤らんでいる。これは果たして、本気なのか、冗談なのか──混乱した頭で考えたが、答えは簡単に導き出された。
「…本当に、してくれるんですか?」
少女の問いに、男は目を見開いた。
「…して欲しいのかい?」
聞き返した声も困惑していた。小さく頷くと、徐庶はしばらく沈黙して、再びぽつりと言った。
「…君の気が紛れるのなら…いいよ」
返事は意外なものだった。見つめる瞳が、羞恥に紛れて何か別の色を帯びている気もしたが、彼が少し積極的になった事が嬉しくて、神流は躊躇いなく山積みの書物と徐庶の身体の隙間に身を捻じ込んだ。
徐庶はすぐに背を向けたが、喜々として目の前の背中にしがみ付き、頬を摺り寄せる。広い男の背中は以前と同様に温かかった。ただ、今回は硬い軍袍の質感はなく、体温をより近くに感じる。微かに体臭もした。不思議と羞恥も緊張もなく、むしろ強い安堵感と恍惚感に満たされた。
「…何だか、君は門下生になってから子供になった気がするな。翌年には十八になるのに、そんな事でいいのかい?」
背中を伝って呆れ声がしたが、神流は無言で頷いた。子供だろうと、門下生だろうと、十八になろうと、彼の前では関係ない。
「添い寝なんて、本来は母親が子供にする事だよ。俺も小さい頃は、母にして貰った事があるけど、男の俺が人から頼まれるなんて思わなかったな」
あれほどに眠いと言っていたのに、急に喋々と話し出したため、神流はくすりと笑った。顔は見えないが、ある程度予想が付く。
ふと出た『母』の話に、神流は大いに興味を抱いた。友人や遊学の話はよく聞くが、故郷や家族の話は聞いた事がない。過去の事もあると、神流も聞かなかったのだが、これも良い機会だと話に乗った。
「元直殿のご家族は、今も豫州に?」
「母と弟が一緒に住んでいるよ。もう長い間、帰っていないけどね」
「弟さんがいるんですか?」
少し意外だった。悪いが長男≠ニいう雰囲気ではない。
「たまには、顔を見せてあげればいいのに。過去の件で、帰り難いんですか?」
「それもあるけど、母は厳しい人なんだ。俺は未だに書生だし、こんな未熟な姿は見せられないよ。色々と迷惑を掛けているから、出世した姿で迎えに行きたいんだ。苦労させた分、楽をさせてあげたいんだ」
語る徐庶の声は、いつになく優しかった。何かと自分を卑下する男だが、思い遣る心は誰にも負けていない。神流が彼に心惹かれた理由は、家柄でも経歴でもなく、この優しい人柄なのだ。
彼の温情と温かい体温、穏やかな声色が、子守唄となって神流を安らぎへと誘う。しかし、眠ってしまえば、この穏やかな時間が途切れてしまうと思い、眠気を紛わすために言葉を続けた。眠気と感情の昂ぶりが、徐庶と入れ替わっていると思い、ふと可笑しく思った。
「元直殿だったら、仕官すれば立派な軍師になれますよ。私が保証します。だって、あの軍袍にそう願掛けしたんだもの。ご家族に、早く立派な姿を見せてあげて下さい」
「あぁ…そうだね…ありがとう、頑張るよ…」
明るい激励に対し、徐庶は力なく笑った。口を閉ざし、沈黙する。突然、男の背中が悄然とした理由がわからなかった。何か余計な事を言ったのかもしれない──神流は、恐る恐る背中に問い掛けた。
「…私、何か気に障るような事、言いましたか…?」
「違うんだ、そうじゃなくて…どうして君は、俺なんかに…そんなに優しくしてくれるのかと思って…」
慌てて首を振ったと思えば、ぽつりぽつりと自信なく尋ねる。背中を向けたままなのに、今彼がどんな表情をしているのか、簡単に想像出来るから不思議だ。その姿があまりに滑稽で、神流は不安を忘れて笑った。
「お互いに支えるって約束じゃないですか。元直殿が言ったんでしょう?」
「そうだけど、普通は呆れるよ。俺は君より年上で、門下生としても先輩なのに、いつも悩んでばかりで、頼りない男じゃないか。途中で見捨てられても仕方のない男だよ。さっきだって…君のせいにしたんだ…」
言った声は沈んでいた。師事中の会話で神流が怒った事を未だに引き摺っていると知り、背中を叩いて笑い返した。
「あの事だったら、もういいですよ。本気で怒った訳じゃないんだから、気にしないで下さい。それに私は、元直殿が頼りないなんて思った事、一度もないですよ。だって、いつも頼ってばかりじゃないですか。今日だって、私のために合宿までしてくれたんだもの。本当に感謝してます」
しかし、徐庶の反応はなかった。いつだったか、前にも経験した事がある、不安と緊張を煽る沈黙──。彼の心境の異変を察した神流は、一気に眠気から覚めた。
すると、長らく後ろを向いていた徐庶が、肩越しに顔を覗かせた。横顔から見えたのは耳と頬だけで、表情まではわからない。
「神流は…本当に優しいんだな。こんな俺を気遣ってくれるのは、君だけだよ…」
一転して、穏やかな声が囁いた。強い慕情を含んだ言葉は鼓動と思考を乱し、着物を掴む手にも自然と力が篭る。返答出来ずにいると、声がさらに続ける。
「でも、さっきの話は…嘘じゃないんだ。今は本当に、神流の事しか考えられないんだ。仕官の事よりも、君の事ばかり考えてしまって…他が考えられないんだ…」
「また…そんな事言って。からかわないで下さいよ、次こそ本気で怒りますよ」
神流は動揺を抑えながら、表情のわからない横顔に笑い返した。これも、今まで何度も繰り返されて来た展開──。
──どうせ、はぐらかすに決まってる。
だが、こちらに向き直った徐庶を見て、神流は硬直した。表情には動揺も羞恥も、喜怒哀楽の感情も見出せない。ただ、一寸たりとも動かない、神流を見つめる熱の帯びた瞳が、全てを物語っていた。自信のない男は、もういない。
「…俺は本気だよ。悪いけど…もうこれ以上、抑え切れない…」
口元が言った刹那、その胸元に抱き寄せられた。腕が上体を確と掴み、頬同士が触れた。耳元で聞える熱い息遣いに混じり、低音が囁く。
「俺は…神流が好きだ。他の誰よりも…君の事が好きなんだ」
小さな声は、神流の耳には酷く明瞭に届き、脳髄にまで響き渡った。逞しい腕は異常な熱を放ち、少女の細身の身体を強く抱き締め、離そうとしない。着物越しに、男のごつごつとした身体の感触が伝わって来る。息遣いと力強い心音が入り混じり、荒い音となって耳に届いた。
男から交わされた抱擁は、硬く、荒く、熱く、優しさも柔軟さもなかった。だが、神流の心は穏やかだった。男の本心を全身で感じ取れた、幸福による恍惚感のせいかもしれない。
「君は、いつも明るくて…どんな時でも俺に優しく接してくれる。俺がどんな男か知っても…信じて、励ましてくれた。凄く…嬉しかったよ。君は俺の生きる希望なんだ…俺の全てなんだ。だから、もう神流しか見えないんだ…」
声は少し震えていた。長い間、抑え込んで来た彼の想いは強く、神流は何度も頷き、宥めるように男の背中に手を添えた。つう、と頬に鼻先が触れた。続いて吐息が当たり、眼前に徐庶の顔が映った。憂いの満ちた力強い眼差しが神流を見据える。
「こんな俺だけど、君を大切にすると誓うから…ずっと俺の傍にいてくれないか? 門下生としてじゃなく、一人の女性として傍にいて欲しいんだ。君さえ良ければ…だけど…駄目かな…?」
強気な告白の最後に、急に自信のない態度を見せたので、神流は思わず笑ってしまった。しかし、その目には涙が滲んでいた。
「いいですよ。私も元直殿と、そうありたいと思っていたから」
「…本当かい?」
徐庶は『信じられない』とでも言うように目を見開いた。しばらく呆然とし、また「本当?」と聞いたので、神流は笑いながら何度も頷いた。
「もっと早く、告白してくれると思っていたんですよ。なのに元直殿ったら、すぐに弁解して誤魔化すんだもの。それでさっき、怒ったんですよ」
「あぁその…ええと、すまない…そうだったんだね…。なかなか言い出せなくて、悪かったよ…もう少し、雰囲気のある所で言えば良かったかな…」
彼の反応が可笑しくて、告白された事が嬉しくて──、神流は零れそうになる涙を隠すように、気丈に振る舞い、笑顔を絶やさなかった。男の表情も安堵に綻び、見る見る内に隠れていた恋慕の情に満ちていく。
「ありがとう…凄く嬉しいよ。もっと…抱き締めてもいいかな…君を離したくないんだ…」
想いが通じた安堵感からなのか、抱擁を求める徐庶は自信と慈愛に満ち溢れていた。神流が頷くと、忽ち胸元に抱き寄せられた。再び交わされた抱擁は、優しく温かかった。待ち焦がれた瞬間に視界が滲み、間近に迫った男の顔がぼやけた。
「…好きだよ、神流…もう離さないよ…」
吐息混じりの声が肌に当たった。指先が頬を撫でると、唇に生温かいものが触れた。それは神流の唇を優しく愛撫し、動く度に吐息と髭が肌を擽る。目を瞑ると、不思議と甘い香りが鼻腔を抜けた。
初めて交わした接吻は、とても優しい香りがした。唇を通じて、想いが伝わって来る。言葉を交わすよりも強く偽りのない感情で、少女は接吻を交わす事の意味を理解した。
秘めていた想いが交差し、甘い香りと唇の感触に、二人は陶酔した。
*
日差しの眩しさに目を開けると、目の前に徐庶の顔があった。一瞬、狼狽したが、穏やかな微笑みを湛えた寝顔に、頬が緩んだ。
徐庶の顔を見るなり、目覚めたばかりの霞掛かった脳裏に、昨夜の出来事が鮮明に蘇って来た。まるで夢のようなひと時だったが、接吻の感触は未だに肌に強く残り、弥が上にも現実であると思い知らされる。柔らかくも、しっかりとした唇の質感。肌に掛かる熱い吐息。唇を愛撫する男の顔──。生々しく当時を思い返し、神流は一人赤面した。
あの後、二人はそのまま眠りに就いた。想いが通じた安堵から、共に潜めていた眠気に襲われたのだ。気付けば夜も明け、今に至っている。
狭い書斎の一角で、寝具も毛布だけだったが、肌寒さを感じずに朝まで熟睡出来たのは、彼の温もりのおかげだろう。今も神流の腰には、離すまいとばかりに腕が回されている。
徐庶を起こさないよう、そっと上体を持ち上げて窓を眺めた。朝にしては日差しが眩しい気もするが、昨夜の余韻で鈍った思考では時を計る事が出来ない。
ふと、男の口から唸り声が上がったと思うと、薄らと目が開いた。視線は真っ先に神流を捉え、その口元がふにゃりと笑った。
「やぁ…おはよう」
と、寝ぼけた掠れ声で言ったので、つい笑ってしまった。
「…よく眠れたかい?」
「はい、おかげさまで」
「そう…良かったね」
徐庶は笑顔で呟くと、その場で背伸びをした。昨夜の荒い抱擁と熱い接吻を全く感じさせない、のんびりとした言動。一夜明けて、普段の穏和な男に戻ったようだ。ただ、この間も神流に添えた手を除けず、視線を逸らす事もしない。見つめる瞳や笑顔も、穏やかな中に熱っぽさを秘めている。告白を機に、彼の心境が大きく変わったのは、見て明らかだった。
そして神流も、高鳴っていた動悸や火照りもすっかり身体に馴染み、彼の笑顔や触れる手の温もりが、とても愛おしかった。そっと男の手に触れると、大きな手は神流の手を優しく握り返した。
徐庶は寝そべったまま、首だけを上に向けて窓を見つめた。髪には酷い寝癖が付き、着物もよれて、未だに寝ぼけているような男の仕草に、神流は頬を釣り上げて笑った。
だが、日差しの強い空を見た徐庶は、寝ぼけ眼を大きく見開いた。
「…まずいな、もう昼近い。寝過ぎたみたいだ」
「えっ?」
神流は表情を一変させ、改めて空を眺めた。空高く昇った白い陽が見える。どうやら、心地良い抱擁でお互いに深い眠りに就いてしまったようだ。
試験は正午から司馬徽の屋敷で行なわれるため、復習をしている余裕はない。遅刻などすれば、あの好々爺もさすがに眉を顰めるだろう。それは神流だけでなく、徐庶の脳裏にも過ぎったに違いない。
甘い余韻に浸っていた二人は、一瞬で我に返った。徐庶は起き上がるなり、毛布を手早く丸めて隅に放り、慌しく書斎を出て行った。神流も荷物を風呂敷に詰め、櫛で髪を梳いて身嗜みを整える。書斎に戻って来た徐庶は、すでに別の着物に着替えていて、その手には小さい紙包みがあった。無言で荷物の上に置かれたため、何かと思い、包みを覗くと饅頭が入っていた。
「こんなの食べている暇ないですよ」
「何も食べないのはまずいよ。行く途中でもいいから、食べた方がいい」
徐庶は神流の返事も聞かずに腕を引き、玄関へと走った。神流が靴を履き終えると、すかさず腕を引いて背中に背負おうとしたので、思わず身を引いた。
「ちょっ…いいですよ、そこまでしなくても! おんぶ≠ネんて恥ずかしい…!」
「そんな事言っている場合じゃないよ。ここから学舎までは遠いし、試験の前に消耗する訳にいかないだろう。俺のせいで遅刻しそうなんだから、これくらいの事はさせてくれ」
赤面する神流をよそに、強引に両腕を引いて身体を背負うと、躊躇いもなく屋敷を出た。
以前では考えられない大胆な行動に出始める徐庶に、神流は動揺したが、秘めていた想いを解き放った事で、どこか吹っ切れたように見えた。懸命に走る徐庶の背中に笑顔を溢し、神流も首元に腕を回して男にしがみ付いた。
背中に揺られている間に貰った饅頭を食べ、寝癖の付いた男の髪を櫛で梳いてあげた。見た目によらず胆力のある男は、少女を背負ったまま道中を走り続け、一刻も経たない内に学舎が見えて来た。
塾では、未だに講義が行なわれていた。学舎の周囲には講義を聞く民衆が大勢取り囲んでいたが、おかげで外で集う門下生達の姿はなかった。
「どうやら間に合ったみたいだね」
徐庶は息も絶え絶えに言い、学舎の手前で神流を降ろした。遅刻せずに済んだ事ももちろんだが、顔見知りに姿を見られなかった事が一番何よりだったと、神流は安堵の溜め息を吐いた。
──が、ふと見ると、学舎から遠く離れた道端に二人の男が立っていた。少女を抱えて走って来た男の姿に、ぎょっと目を剥いたまま佇んでいる。一人は見覚えのある青衣の男で、それが石韜だと知ると、途端に顔が熱くなった。徐庶の後ろに隠れたが、時すでに遅く、石韜はもう一人の男と共にこちらに近付いて来た。
「やはり元直だったか。一体、これは何事だ?」
石韜は平然と尋ねたが、着物の裾で口元を隠していた。目を細めているから、明らかに笑いを堪えているとわかる。もう一人の男も、にやけ顔だった。しかし、徐庶は慌てるどころか、石韜の連れの男を見て声を上げた。
「公威じゃないか。久し振りだな、いつ戻って来たんだい?」
「つい先日だ」
『公威』と呼ばれた男は、徐庶と固く握手を交わしたが、視線は頻りに神流を気にしていた。親しげに話すところから友人だとわかったが、初めて見る男だ。
「こちらの方は?」
と、男が指差したので、神流は小さく頭を下げた。友人の問いに徐庶が答えた。
「ええと、彼女は神流だ。先生の門下生で、その…俺の恋人だよ」
「おぉ、それはめでたい」
公威は声を上げて喜んだが、初耳だった石韜は目を丸くした。そして、告白早々、恋人と紹介された神流も、頬を染めて俯いた。告白されて口付けまで交わしたのだから、恋仲には違いないのだが、言葉にされるとやはり恥ずかしい。しかし、彼の口から『恋人』と言われると、彼との関係が門下生同士ではなく、男女の仲になったのだと改めて実感し、嬉しくもあった。
「自分は孟建、字は公威と申します。二人とは同郷であり学友の者です」
孟建は丁寧に拱手したので、神流も同じく返した。
門下生の間でも、その名はよく聞かれる。司馬徽、石韜、孟建、そして徐庶──豫州とは、有能な人物を多く輩出する地域なのだろうか。孟建は色白な男で、立派な口髭を蓄えていた。石韜は眉目秀麗な学者、孟建は白皙美髯の壮士。この二人が並ぶと、徐庶がいかに飾らず親しみやすい男かよくわかる。神流は三人を見比べて、『やはり徐庶が良い』と、内心で失礼な事を考えた。
「しかし、長らく襄陽を離れている間に、元直に恋人が出来ていたとは。広元殿もなぜ言わぬ」
「私も、今初めて聞いたのだがな」
石韜は、さも不満気に返した。恋人になったのは昨夜の事だから、知らなくて当然です──とは、とても言えない。除け者にされたと思った友人は、さらに不機嫌な顔で徐庶を叱咤した。
「恋仲なのはいいが、少しは場を弁えてはどうだ。人前で女性を背負って走るなど、はしたないぞ」
「あぁその…神流はこれから大事な試験があるんだ。それで、試験の前に勉学を見ていたんだけど、長引いてしまって、遅刻しそうだったから…つい」
徐庶はそう弁解した。恋人とは言えても、さすがに『屋敷に泊めた』とは言えないようだ。試験と聞くと、二人は改まって拱手した。そして石韜は、ずいと徐庶の前に割って入り、神流に言った。
「しかし、試験とは懐かしい。私も昔は、よく元直に付き合わされたものです。彼の師事は、お役に立ちますかな?」
「はい、とても。そのお話は、元直殿からも聞きました」
「こう見えて、広元殿は大儒ですからね。学問に関しては我らより上です。自分もよく世話になりました」
孟建の言葉に、石韜は「こう見えては余計だ」と笑った。だが、その後ろで徐庶は渋い顔をしていた。友人らに阻まれ、不満だと言わんばかりの顔である。友人に会えないと消沈するのに、その友人が神流と話し込むと機嫌を損ねる。意外と嫉妬深い男だと思った。
その間に、学問所の門が開いた。学舎から塾生が次々と外に出て、群がっていた民衆も辺りに散っていく。講義後の雑踏は、試験が迫っている事を告げ、穏やかだった神流の胸に緊張が走った。
「そろそろ試験が始まりますので、私はここで失礼致します」
「我ら一同、貴公のご健闘をお祈り申し上げます」
石韜、孟建は揃って拱手した。ふと視線を徐庶に向けると、彼も笑顔で頷いた。
「君なら大丈夫だよ。試験が終わるまで、ここで待っているから…頑張るんだよ」
優しい微笑みと声色が、瞬く間に緊張を解していった。彼が傍にいると思うと、不安も、緊張も、恐怖も感じない。共に歩む者がいると、これほど頼もしいものなのだろうか──いや、相手が彼≠セから、一層強く感じるのかもしれない。
優しい恋人の笑顔と、その友人らに見送られて、神流は意気揚々と屋敷に歩き出した。
試験は一通りの学問を一度に行なうため、長い時間を要し、試験を終えた頃には日も傾いていた。
だが、徐庶の師事と合宿の甲斐あって、試験は無事終了した。結果は次の指南の際に報告すると言われたが、今までの指南の日程からすると、約一ヶ月後だろうと予測した。無論、結果への不安はなかった。
司馬徽夫人に挨拶をして玄関を出ると、門口で徐庶が立っていた。そこに友人二人の姿はなく、黄昏の中で一人壁に凭れて書物を読んでいたが、神流の姿を見るなり、彼は笑った。
「試験、終わったんだね。ご苦労様。疲れたかい?」
「えぇ、少し。でも、自分でも良い出来だったと思います。元直殿のおかげですよ」
満面の笑顔で答えると、男は嬉しそうに頷いた。疲れなど、彼を見た時点で消えている。
「お二方は?」
「用があると言って、先に帰ってしまったよ」
そう言った徐庶が、どこか清々して見えるのは気のせいだろうか。二人は話し込みながら横に並び、自然と宿舎への帰路に着く。
「孟建殿も、古い仲なんですか?」
「同じ門下で、共に学んだ仲だからね。昔は広元と、公威と、孔明と、俺の四人で学んでいたんだよ。孔明は早々と学閥を去ってしまったけどね」
それを聞いた神流は、「凄いですね」と声を上げた。徐庶の交流関係は幅広く、純粋に学問を追い求めているから、何度聞いても感心してしまう。
「今まで、どちらに行かれていたんですか?」
「荊州を遊学して回っていたんだよ。でも、ここは退屈だから故郷に帰ると言って、別れを言いに戻って来たみたいなんだ。しばらく襄陽に留まった後、北へ発つそうだよ」
「帰ってしまうんですか? 久し振りに会えたのに」
「仕方ないよ。この時世に、故郷に帰るなと無理に引き止める訳にもいかないだろう」
友人を気遣っていたが、表情は暗かった。乱世だからと言ってしまえば、それまでなのだが、友人と嬉しそうに話している光景を見ているから、憂いに沈む徐庶の姿は胸が痛む。
「寂しくなりますね」
「うん…でも、今は神流が傍にいるから、寂しくないよ。君さえいてくれれば、俺はもう…それでいいんだ」
徐庶は微笑み掛けると、そっと神流の手に触れ、握り締めた。指を絡め、少女の小さい手を覆う。
積極的な行動に神流は度々頬を染めたが、喜びの方が強かった。これからは、ありのままの心に触れる事が出来る。彼の温もりを身近に感じる事が出来る。今この時も、彼の温かい想いが伝わって来る──。
この日の帰り道に、いつもの寂しさはなかった。
[*prev] [next#]
[back]