『門下生への道・合宿再び』

 門下生になった事は、想像以上に良い結果を齎した。
 仕事が終われば徐庶から師事を受け、休日には塾の講義に出席し、不定期ながら司馬徽からの指南も受ける。決して楽とは言えない環境ではあったが、世間の物騒な噂を聞く機会も減り、不安を植え付けられる事もない。
 そして何より、師事を理由に毎日のように徐庶の屋敷に赴き、二人きりで顔を合わせられる事が一番嬉しかった。人目を憚らず、万一、人に聞かれても師事のためだと答えれば通用する。元々、人目など気にした事などないのだが、徐庶も互いの交流を周囲に隠さなくなった事から、彼自身がこうなる事を望んで提案したのだろう。いかにも奥手な男らしい謀だと思った。
 神流も、日が経つに連れて追憶に動じる事も、過剰に意識し過ぎる事もなくなっていた。かといって、想いが薄れた訳ではなく、むしろ一層深まるばかり。未だに訪れる動悸や火照りは心地良いものとなり、その変調を楽しみにしているところさえあった。
 神流の心境の変化は、仕事中も屋敷に向かう足取りにも自然と現れ、同僚達が気付かないはずがなかった。店先を掃いていた同僚が、宿舎から出た神流にすれ違い様に声を掛けた。

 「神流、門下生になってから、生き生きとしてるわね」
 「えぇ、だって毎日が楽しいんだもの」
 「私から見たら、もの凄く大変そうに見えるんだけど。学問って、そんなに面白いの?」
 「はい!」

 と即答すると、同僚は首を傾げて苦笑した。
 学問も確かに面白い。しかし、神流がここまで学問にのめり込めるのは、徐庶がいるからだ。彼がいなければ、とうの昔に挫折しているし、今の自分はいない。徐庶あっての学問であり、徐庶がいない学問などあり得ないのである。それほど、神流にとって掛け替えのない存在であり、無論、学問以外の場でも同様の事が言えた。彼と会わなければ、下町の呉服屋に勤める小娘のまま、素晴らしい感情が芽生える事もなかったのだから。
 事情を聞けば、「不純な動機だ」と言われてしまいそうだが、実際に学問を怠っている訳でもなく、学ぶ事に喜びもあるから、強ち間違いではないと思う。

 あいにく、この日は司馬徽の指南を受ける事になっており、屋敷でも向かった先は司馬徽の屋敷だった。
 司馬徽門下に迎えられ早数ヶ月が経っていたが、未だに受けた指南は数えるほど。塾の講義も司馬徽が行ない、多くの門下生が仕える多忙な身を思えば、指南を受けられるだけ運が良い。
 指南は司馬徽と一対一となり、天文・兵法・地理・儒学など幅広い学問を習う。彼の人柄が反映された和やかな雰囲気の中で行なわれるが、その内容は講義や徐庶の師事よりも遥かに上を行き、小一時間受けただけで疲労困憊するほど難易度が高い。
 しかも不運な事に、この日は兵法だった。不得手な分野をより難解な言語で教わり、指南を終えた頃には意気消沈していた。疲労から、礼をする動作も鈍い。

 「大分、疲れているようだの」

 重々しい手付きで竹簡を片付ける神流を眺めながら、司馬徽は笑った。師の問いを否定する気力もない。

 「申し訳ありません。その、兵法は苦手でして…」
 「そうか、よしよし。だが、得意不得意は誰にでもある事。構わぬよ」

 髭を擦って穏和な笑顔を見せる司馬徽は、好々爺を思わせる。妙に懐かしい気分になり、心が落ち着く。

 「疲れているところ何だが、時機に試験を行なおうかと思っておるのだよ。そなたの実力を計るための試験だが、なに、難しい事はない」

 と、司馬徽は笑ったが、神流は谷底に叩き落された気分だった。ただの好々爺ではなく、やはり師≠ネのだと改めて認識した。

 *

 指南を受けた帰り、神流は徐庶の屋敷に向かった。講義や指南を受けた後も、講義の復習や指南の報告と称して立ち寄るのだが、言うまでもなく会うための口実である。
 玄関を訪ねると、穏和な笑顔が神流を出迎えた。顔を合わせた途端に不安は和らぎ、代わって心地良い緊張と身体の変調が訪れた。

 「お疲れ様。今日の指南はどうだった?」
 「それが兵法だったんです。いつもの数倍、疲れました」
 「だろうね、一目でわかったよ。少し休んで行くといいよ」

 大げさに項垂れる姿に徐庶は声を出して笑い、神流を屋敷に上げた。もう帰った方がいい、とは絶対に言わない。
 徐庶が別室に向かったため、神流は一足先に書斎に入った。室内が書物と書簡で溢れているのは、もう見慣れた光景で、簡単に片付けて二人が座るところだけ確保する。書物と竹簡を広げた頃に、徐庶が盆を手に戻り、机上に茶と饅頭が差し出された。

 「食事はまだなんだろう? 大した物じゃないけど、食べるといいよ」
 「いつもありがとうございます」

 神流は笑顔で一礼し、湯呑に口を付けた。その間、徐庶は広げられた竹簡を眺め、指南の内容を確認した。
 神流に茶と茶請けを用意し、一息吐くまでの間に、師事の準備をする。今日に限らず、屋敷に来ると決まって同じ流れになる。彼の気遣いは知っているが、少女相手にお茶汲みなど、本来、殿方の役目ではない。
 屋敷での師事と門下生の誘いを受けて以来、徐庶の気遣いは一段と増していた。『支える』という言葉以上に師事に尽くし、もてなす。ただ、神流には『対等でありたい』という彼の希望とは程遠いものに見え、本当にこれで満足なのかと、度々首を傾げてしまう。しかし、徐庶が茶を運んで来る姿は見ていて微笑ましく、嬉しそうな顔でもてなしてくれるから、あえて何も言わず好意に甘えていた。
 手元の湯呑から、ふと隣と見ると、徐庶は顎に手を当てて書物に見入っていた。書物を見つめる横顔は、柔和な笑みから一変して真剣そのもの。時折見せる凛々しい顔は、微笑み以上に惹き付けられる。横顔に見惚れつつ、神流は指南の内容を報告した。

 「今度、試験をするって言われました」
 「本当かい? いつだって?」

 ようやくこちらを向いた男に、片手を広げて見せる。

 「五日後です。その日、私の休日だから。都合を考慮してくれたのはいいけど、あまりに早急ですよね」
 「先生らしいよ。俺も昔、急に告知されて、慌てて広元と勉強した覚えがあるよ。先生はいつも急だから、結構大変なんだよな」

 と、徐庶は笑いながら懐かしそうに溢した。それを聞いた神流は、少し容姿を若くした徐庶と石韜が、必死に勉強している姿を思い描いて、くすりと笑った。

 「実力を計る試験だって言っていましたけど、何をするんですか?」
 「これまで学んで来た事が身に付いているか、試すんだよ。復習さえしていれば、難しいものではないよ」
 「やっぱり試験の結果って、今後に影響しますか? 落ちたら破門とか」

 不安な面持ちで尋ねると、徐庶は声を上げて笑ったが、すぐに優しい声色で宥めた。

 「そんな事で破門にならないよ。結果が良いに越した事はないけど、それほど大きな影響はないよ。君が何に向いているのか、先生が知りたいだけだよ」
 「じゃあ、兵法が苦手だってわかれば、しなくて済むんですか?」
 「それはどうかな…でもまぁ、機会は減るんじゃないかな。先生は得意分野を優先するから」

 よし──と、神流は隠れて拳を握ったが、徐庶には見えていたらしく、失笑されてしまった。

 「だって、兵法なんて参謀が使うものでしょう? 私は文官志望だから、関係ないもの」
 「そうでもないよ。文官だって戦況や軍議を理解する必要があるんだ。最低限の知識は必要だよ」

 すると、徐庶はおもむろに腰を上げて本棚に向かった。兵法をするつもりだと察した神流は、取り集めた書物を持って来た徐庶に対し、机上にうつ伏せになって妨害した。

 「今日は疲れたから、師事は今度にしましょう」
 「駄目だよ。試験があるとわかれば、なおさらやっておかないと、困るのは君だよ」

 徐庶が腕を掴んで来たので、神流は顔を伏せて机にしがみ付き、抵抗する構えを見せた。途端に頭上から溜め息が聞え、手が両脇に回った。必死の抵抗も男の力に敵う訳もなく、神流はいとも簡単に机から引き剥がされてしまった。
 両脇を抱えられても尚、全身の力を抜いて男に凭れ掛け、神流は動こうとしない。だらりと両脚を伸ばした様は、まるで抱上げられた猫のようなだらしなさ≠ナある。やる気のない姿勢に、男の口から大きな溜め息が零れた。
 神流が執拗な抵抗を見せるのは、徐庶との触れ合いを図るためだ。この数ヶ月で、お互いに恥じらいは消えたものの、奥手な男が自ら触れ合いを図るはずもなく、神流から機会を作っていた。
 彼は学問の事になると急に年長者らしい厳格な態度を取り、同時に強引にもなるため、度々その習性を利用するのである。いつも思惑通りになるため、我ながら策士だと思う。少女の謀に掛かっているとも知らずに、男は厳しい表情で叱責した。

 「神流、君はもう十七だろう? いつまでも子供みたいに駄々を捏ねないでくれ」
 「まだ十七ですよ。元直殿から見れば子供じゃないですか」
 「屁理屈はいいんだよ。いい加減にしないと怒るよ」

 険しい顔が神流に迫った。思った以上に間近にまで接近したため、身体が急激に火照り出す。しかし、兵法をやりたくない一心で、赤面しながらも首を振って必死に抵抗した。

 「嫌です、兵法なんか知りたくないです」
 「兵法だって立派な学問だ。それに、戦を終わらせるためには絶対に必要なものなんだ。無駄な犠牲を払わないためでもあるんだよ。甘く考えないでくれ」

 声を荒らげたので、これ以上は拙いと思い、そそくさと身体を起こして正座した。すかさず空いた机に乱暴に書物の山が積まれる。やり過ぎたと反省したが、男の温もりを感じた恍惚感から、机に置かれた書物が兵書でも不満はなかった。

 *

 師事を終えて、屋敷を出た頃には日もとっぷり沈んでいた。帰りはいつも徐庶が送ってくれるため、真夜中だろうと構わないのだが、翌日の仕事を気遣って月が出る頃には帰される。仕事をしていなければ、明け方までいられるのに──とも思ったが、彼の事だから必ず同じ刻限に帰すだろう。

 「あーあ、今日は一段と疲れた気がする」

 と、神流は大きく背伸びをして、あてつけがましく言った。ちらりと横を睨むと、徐庶は頭を掻いて苦笑していた。
 一度損ねたはずの機嫌は、師事が始まって数刻の間に戻り、今では神流の荷物を片手に隣を付き添っている。厳しさも怒りも持続しないのは、基本が優しい男だからだろう。

 「仕方ないじゃないか。君だって後悔したくないだろう?」
 「そうだけど、残り四日でどうにかなるとは思えませんよ。この調子だと、赤点取りそう」
 「心配ないよ、そこまで酷い訳じゃないんだから」
 「心配ないって言われても、心配になりますよ。門下生になって初めての試験なんだから」

 神流は溜め息混じりに返した。彼が言う『心配ない』が、本当なのか気遣いなのか、時々わからなくなる。
 小さく頭を垂れると、徐庶も眉を下げて口を噤んだ。しばらくの間、夜道に沈黙が訪れる。二人はそのまま何も言わずに歩き続け、ついに宿舎が視界に入った。

 ──今日もここで、お別れなのね。

 そう思った刹那、隣でぽつりと声がした。

 「…また合宿でもしようか」

 零れた一言に振り向くと、こちらに微笑み掛ける徐庶の姿があった。一瞬、聞き違ったのかと思ったが、その表情から耳の誤りではないと知った。まさか彼の口から聞く事になるとは思わず、神流は呆然とした。

 「…いいんですか?」
 「君さえ良ければ、俺は構わないよ。神流の力になれるのなら、俺は何でもするよ」

 穏やかな声色に、鼓動が乱れた。長い時を経て、再び持ち出された『合宿』の誘い。しかも今度は、徐庶からの誘い──そう思うと鼓動はさらに過剰な反応をし、全身が熱くなった。久し振りに訪れた極端な心身の変調は、再び神流を動揺させる。
 しかし、戸惑いの中には喜びもあった。合宿となれば、翌日まで二人きりの時を過ごせる。別れを惜しむ必要はなくなる。そして──、淡い期待もあった。常に心の片隅で彼を想っている神流が、この誘いを拒む理由など、どこにもない。

 「じゃあ、またお願いします」

 笑顔で頭を下げると、「わかったよ」と優しい声が返って来た。気丈に振舞ったものの、神流の鼓動は荒々しく波打っていた。

 *

 合宿は、試験前日に行う形で合意した。仕事帰りに屋敷に寄り、そのまま合宿に入り、翌日に試験に挑む──という日程だ。職場には『試験に備えた夜間講習』と口実を付けて、外泊の許可を貰った。同僚も、神流が門下生として歩み出した事もあり、今回ばかりは激励の言葉を送った。
 しかし、神流の心境はそれどころではなかった。合宿が決まって以来、胸の鼓動は絶えず落ち着きがない。心地良かった動悸や火照りは、『合宿』の一言でいとも簡単に乱されてしまったのである。いくら屋敷で師事を受けて来たと言っても、一泊する≠ニなると、やはり話は変わって来る。昔の合宿を振り返っても、我ながら大胆で恥ずかしい申し出をしたものだと思う。

 あの頃は、徐庶と出会って日も浅く、ただの門下生と塾生の関係だった。信頼出来る人物と交流を持ち、神流も学問に喜びを感じ始めていた頃だ。しかし現在では、徐庶との付き合いも一年を越え、神流にも尊敬以上の感情が芽生え、徐庶も密かに──とは言い難いが、慕情を抱いているから、同じ『合宿』でも、過去と現在では状況が大きく異なる。当時の神流も、徐庶への尊敬が恋慕に変化するなど、考えもしなかっただろう。
 徐庶が試験に向けた合宿≠ニして提案した事は、重々承知している。しかし、恋多き同僚達の話によると、殿方は『日が沈むと豹変する』のだそうだ。恋愛経験のない神流でも、その会話が意味するところは知っている。
 温厚とはいえ、徐庶も男性。彼も豹変するのだろうか──と、考えたが、あの人柄では全く想像も付かなかった。もし、彼がそのような男であれば、とうの昔に想いを遂げているだろうし、昔の合宿の時点で事が起こっている。神流からしてみれば、むしろ徐庶が強気になってくれる事に期待していた。何しろこの数ヶ月、目立った変化は何もないのだ。

 あらゆる思いを巡らせながら屋敷に赴いたが、徐庶はいつもの穏和な男だった。「やぁ」といつもの笑顔で迎え、書斎に入ると、茶をもてなす。この日、出された茶請けは甘菓子だった。そして、神流が一服している間に、隣で師事の準備をする。日課となっている一連の行動も、この日は別物に映り、緊張を煽った。もてなす笑顔が、書物を物色する横顔が、度々鼓動を刺激する。
 だが、そんな神流の心情も知らず、徐庶は次々と机に書物を積み上げて行った。山積みにされた書物の多さに、神流も思わず我に返る。

 「ちょっと、これ全部やるつもりですか?」
 「そうだよ。明日は大事な試験を控えているからね、今日は徹底的にやるよ」

 と、徐庶は意気揚々に宣言した。

 ──学問の事になると、盲目になるのね。

 前回同様、学問中心の合宿だと知り、見る見るうちに気持ちが萎えていった。がくりと肩を落とすと、隣から笑い声が聞えた。

 「試験までの辛抱だよ。ほら、早くやるよ」

 渋々と差し出された筆を取ると、背中を軽く叩かれた。顔を上げた先に、机に腕を掛けて微笑み掛ける徐庶が映り、鼓動は現金なほどに昂ぶり始め、勢いを取り戻した。
 師事をする真剣な顔、手元を見つめる視線、書面を指差す手、度々触れ合う肩──。一体、どこから違う一面を覗かせるのかと思うと、言動の何から何まで意識が飛び、学問に全く身が入らない。これでは真面目に師事をする彼の好意を無駄にするだけでなく、翌日の試験すら危うい。気分を紛わせるために、神流は唐突に話を持ち出した。

 「そういえば、諸葛亮殿はお元気ですか?」
 「今、孔明は関係ないだろう。集中しないと駄目だよ」

 師事中に、全く無関係な話を持ち込まれたため、徐庶はさも不機嫌そうに叱責した。

 ──誰のせいだと思ってるのよ。

 と、内心毒吐いたが、過剰に意識し過ぎる自分も悪いのだ。機嫌を取るべく、神流は甘えた声で言い寄った。

 「だって、今日は仕事で疲れたんだもの。気晴らし程度に談笑するくらい、いいじゃないですか。先生は指南の最中でも、面白い話をしてくれますよ?」

 司馬徽を例に持ち出すと、険しかった顔が一転して困り顔になった。

 「…わかったよ。少し休憩しようか」

 いとも簡単に、男は折れた。神流はすかさず茶器に湯を注ぎ、互いの湯呑に茶を淹れる。「どうぞ」と笑顔で差し出すと、徐庶は溜め息を吐いて湯呑を受け取った。

 「で、諸葛亮殿と月英殿は、お元気ですか?」
 「元気だし、相変わらず草庵に篭っているよ。そういえば、月英殿が変な物ばかり作って困ると、孔明が書簡で溢していたな。君が煽ったからじゃないか?」
 「変な物? あぁ、『からくり』ですか?」

 別れ際に『沢山作って待っている』と言っていたから、本当に作っていると聞いて、つい笑ってしまった。あの伏龍が、賢妻の発明品に困り果てていると思うと可笑しくて、さらに声を上げて笑った。徐庶も想像したのか、釣られて失笑した。

 「じゃあ、ホウ統殿は? 最近、襄陽に帰っていないみたいだけど」
 「彼も相変わらずだよ。今は功曹を辞めて荊州の山中に住んでいるようだけど、士元も気紛れな男だから、今頃どこかで一人楽しんでいるんじゃないかな」

 と笑ったが、寂しげな声だった。談笑する姿からも、諸葛亮、ホウ統、石韜の三人が、徐庶の一番親しい友人だと理解していた。ただ、伏龍、鳳雛は揃いも揃って変わり者。唯一、頻繁に交流があるのは石韜だが、腹を割って話せる相手が一人では寂しいのだろう。友人を恋しがる姿が子供のようだと、神流は笑った。

 「それじゃあ、元直殿はどうなんですか?」

 話の流れで尋ねると、徐庶は首を傾げた。「仕官先」と付け足すと、急に目を逸らし、ばつが悪そうに答えた。

 「俺は…まだ決まっていないよ」
 「先生が言ってたじゃないですか、近くに仕えるべき英傑がいるって。あれって劉備殿の事でしょう?」
 「知ってるよ。でも、まだ…考えているところなんだ」

 そう言って、徐庶は小さく俯いた。先ほどまでの勢いはもうない。
 なぜ──と、神流は首を傾げた。師である司馬徽に、仕えるべき英傑・劉備の存在を知らされた今、もう主君探しに思い悩む必要はない。
 劉備は現在、新野に駐屯している。当然、襄陽でも噂にもなり、神流の故郷でもあるため、実家からも知らされた。仁君は瞬く間に人心を掴み、新野中の民に慕われているそうだ。
 大徳・劉備が、徐庶の主君に相応しい御仁だと、神流も薄々と感じていた。両者共に人柄が良く、奢らず、人に好かれ、義理堅く、正義感が強い、と共通点も多く、主君と臣下の関係であっても何ら違和感がない。司馬徽がどのような理由で、徐庶に劉備を指し示したのかは知らないが、これらの理由も含まれているはずだ。
 師から英傑の存在を知らされ、自身も仕官先を探し求めていたというのに、なぜ決断出来ないのか──。神流は、さらに徐庶を問い詰める。

 「どうして考えるんですか? 元直殿も、劉備殿は凄い人だって言っていたじゃないですか」
 「そうだけど、今、仕官しても足手纏いになると思うんだ。劉備殿の下には有能な将が沢山いるし、今の俺じゃあまりにも未熟すぎるよ」
 「そんな事言ってるから、決まらないんですよ」

 未だに煮え切らない態度に、言い返した神流の口調にも自然と苛立ちが篭る。すると徐庶は力なく笑い、ぽつりと返した。

 「わかってるよ…でも、まだ考えられないんだ。今は、神流の方が大事だから…」

 突然、飛び出した思わぬ一言に、神流は目を丸くした。落ち着いた緊張と鼓動が、再び高揚し始める。そんな神流を尻目に、徐庶は俯いたまま言葉を続けた。

 「ええと、その…今、俺が仕官すると、神流が一人になるじゃないか。君は門下生として大事な時期を迎えているし、せっかく同じ道を歩むと決めたばかりなのに、俺だけ先行する訳にはいかないよ。君を誘ったのは俺なんだ」
 「わ、私のせいにしないで下さいよ!」

 神流は顔を赤くして一喝すると、「すまない」と酷く小さな声が戻って来た。

 ──どうして、はっきり言えないのよ。

 本心を言うかと思えば、またすぐに妙な弁解をする。苛立ちもあったが、赤面した原因はそれだけではない。
 湯呑に残っていた茶を一気に飲み干し、動揺を誤魔化すために自ら書物に視線を落した。神流が憤っていると知った徐庶は、さらに眉を下げた。

 「ええと…その…休憩はもういいのかい?」
 「い、いいんです! さっさと始めましょう!」

 徐庶に顔を覗き込まれて気が動転し、言い返した声が上擦った。嬉しくもあり、寂しくもあり、何とも複雑な気分だった。

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