『仕えるべき英傑』

 城下町の間で『劉備一行が襄陽に入来した』という噂が立った。神流が劉備と出会ってから、五日後の事だ。
 勤め先にその噂を運んで来たのは、店の常連客だった。噂を聞いた周囲は驚愕し、真偽を問う者もいたが、すでに事情を知っていた神流は表向きだけ驚いて見せた。水鏡塾では、噂が立つ前から門下生らによって劉備の話題が上がっていたからだ。学舎には劉表幕僚の者も出入りするため、庶民の噂よりも迅速かつ明確な情報が入って来る。
 話によると、袁紹は官渡で曹操に大敗し、袁紹の元に身を寄せていた劉備は河北を離れ、荊州の劉表を頼って来たのだという。曹操が劉備に攻めの構えを見せた事も理由のようだが、劉表は大徳・劉備を客将として歓迎した。
 無論、噂に聞く『大徳』の来訪は、襄陽の民を歓喜させた。劉備の評判は襄陽の至る所で囁かれ、義兄弟の契りから、有能な配下の将にまで噂が及び、劉備一行は襄陽中の民に歓迎された。

 だが、門下生の間では不穏な噂も囁かれていた。石韜や向朗の読み通り、曹操が袁紹を退けた事で、河北平定に大きく前進する形となった。さらに袁紹は、迎え撃った倉亭でも曹操に敗走したという。敗戦を重ねた袁紹は次第に力を失い、曹操の河北平定が現実味を帯びていた。
 河北を平定すれば、次は荊州──。以前に門下生らが話していた言葉が脳裏に蘇る。現状を見るに、憶測では済みそうにないところまで来ている。乱世が深まる中、荊州も戦禍に巻き込まれるのは必至。しかし、いくら覚悟している事とはいえ、争乱が近付いている事を耳にすれば、当然不安になる。
 特に最近では、曹操と袁紹の大戦から、劉備の荊州入来と続いたため、塾に集う塾生や門下生の話題は、この二つで持ち切りとなっていた。他国の情勢や戦況は、彼等にとっては恰好の話題なのだろうが、神流には不安を煽る要因にしかならず、居慣れた夕刻の学舎も居心地が悪くなっていた。


 この日も、学舎内では門下生や隠士らが寄り集まり、曹操や劉備らの今後の動向が論されていた。神流は周囲の気難しい話を断つように書物を凝視していたが、無意識に会話に耳が入って来る。『劉表は劉備をどう扱うのか』とか、『袁紹の息子は仲が悪いから後々問題になる』とか、あらゆる情報ばかりに意識が向かい、書面の文字が頭に入らない。
 見つめていた机上の書面に、ふと影が差した。見上げた先にいたのは、徐庶だった。

 「いつもながら熱心だね」

 ふにゃりとした人懐っこい笑みを見せながら、近くの椅子を引いて神流の隣に座った。優しい声色と笑顔に心安らいだと同時に、少しばかり鼓動が乱れた。

 「今日は、俺の師事はいらないのかい?」
 「いえ、ぜひお願いします」

 神流も男の笑みに釣られるように微笑み返し、手元の書物を差し出した。
 唯一、迫る争乱を忘れられる時は、徐庶と顔を合わせている間だけ。彼から物騒な話題が出る事はまずなく、その穏やかな微笑みは、今が乱世である事さえ忘れさせてくれる。しかし、今では徐庶といる間も落ち着けなかった。顔を合わせただけで、心がそわそわとしてしまう。原因は言うまでもなく、旅先で見た徐庶の別の顔≠フせいだ。
 今、目の前で師事をする徐庶は、相変わらず髪に寝癖を付けた、少し頼りない、のんびりとした人の良い男。賊徒を撃退した姿が、まるで嘘のように見える。だが、この柔和な笑みの裏に、剣侠の顔が隠れているのは事実であり、彼の勇姿は神流の心に深く刻まれている。目蓋を閉じれば、瞬時に当時の情景が浮かんで来るほどだ。軍袍を纏い、馬を駆る背中、伝わる温もり、撃剣を操る姿──。

 『俺の命より大切なんだ』

 情景と共に浮かぶ徐庶の言葉は、度々、神流を動揺させた。当時は気にする余裕もなかったが、今思えば大胆な発言。勇敢な姿を見せられた上にあんな事を言われては、意識しない方が無理である。記憶を思い返す度に徐庶を意識してしまい、神流自身も困惑していた。

 「神流、聞いてるの?」

 声に呼ばれて、鼓動が波打った。真横には、眉を下げてこちらを覗き込む徐庶の顔。一人深い想像に耽った事と、その原因となった男の顔が視界一杯に映り、神流は頬を染めた。動揺を誤魔化すため、意味もなく机上の竹簡を整理する。

 「ごめんなさい、ちょっと考え事をしてて…」
 「神流…やっぱりこないだの事で、傷付いているんじゃないのかい?」

 沈んだ声に顔を上げると、徐庶は神妙な面持ちで神流に向けていた。男の真顔は剣侠の姿を蘇らせ、さらに神流を動揺させる。

 「そ、そんな事ありませんよ。私にとっては良い思い出だもの」
 「無理しなくてもいいよ。あんな酷い目に遭わせたんだ、蔑まれて当然だと思っているよ。俺に出来る事があれば言ってくれないか? 責任は取るよ」

 どうやら徐庶は、神流が先日の一件で傷心し、引き摺っていると思っているようだ。確かに忘れられない出来事ではあるが、それは彼が想像しているものとは全く別の理由だ。誤解された上に自責していると知り、必死に首を振った。

 「だから、もういいんですってば。私は気にしてないんだから」
 「その割には、元気がないじゃないか。さっきも上の空だったし…」
 「それは──」

 貴方の事が頭から離れないから──と、言える勇気はなく、周囲を見回して弁解した。

 「その…ちょっと他の人の会話が気になっちゃって。何かと物騒な話が多いでしょう?」

 すると、徐庶も続いて学舎内を見回した。隅で話し込んでいる塾生達を見て、納得したように頷いた。

 「あぁ、そうだね。最近になって各地で情勢が大きく変わっているから、無理もないよ」

 何とか誤魔化し切れたと、神流はほっとしつつ話を続けた。

 「でも、劉備殿の評判は凄いですね。街でも噂になってますよ」
 「あぁ、劉備殿は民から慕われているからね。俺も先日、あの人と出会って凄い人だと思ったよ。この乱世の時代に、あんなに義侠心のある御仁がいるなんて思わなかったな」

 感銘する徐庶に、神流も同調するように頷いた。
 見ず知らずの旅人を救うために自ら駆け付け、退けた賊徒さえも憐れむ。気品ある顔立ちと落ち着いた物腰、心遣い、思慮深さ、慈悲の心は、劉備の器量の大きさを証明している。そして、漢室の血筋であり、一軍を率いる将でもあるというのに、決して驕らない姿勢は好印象を与えた。
 義侠心があると言えば、徐庶も負けてはいないと神流は思う。命を奪われてもおかしくない状況にも関わらず、全て当身で退けたのだから。
 あの後、賊徒はどうなったのか。気になるところだったが、劉備の台詞から『処断』という事はまずないだろう。賊徒も相手が慈悲深い人物で救われたと言ってもいい。
 思い返して、再び当時の情景が脳裏を過ぎる。あの一瞬の立ち回りで、撃剣が類稀な瞬発力と俊敏さを要する武器だと知った。のんびりとした男の、どこにそんな胆力があるのか──、ちらちらと横目で徐庶を眺める。
 徐庶は門下生の中でも身長が高く、華奢に見える体格も意外と逞しい。実際に寸法を計り、彼の背中にしがみ付いていたからわかる。袖から覗く手や腕も逞しく、意識して見れば勇ましい男の片鱗はいくらでもある。

 ──って、何考えてるのよ。

 想いを抱くのはともかく、殿方の体型を意識するなど不埒過ぎる。神流はこっそり自分の腿を抓って戒め、話を切り替えた。

 「それより、今の荊州って深刻な状況なんですか?」
 「そんな事ないよ。俺も前はあんな事を言ったけど、劉表殿の政治的手腕は見事なものだよ。その証拠に、周辺の国は戦乱にあっても荊州は平和じゃないか。あくまで憶測でしかないんだから、心配する必要はないよ」

 優しい口調で諭され、再び鼓動が乱れた。神流への気遣いから、あえて不安を煽るような言葉を避けているのだろう。荊州に不穏な気配が忍び寄っている事は、曹操や孫権の存在からも見て明らかだったが、この微笑みを見ると、そんな危機感さえ消えてしまう。ある意味、危険な微笑みでもある。

 「その…もし学問に集中出来ないようなら、俺の邸に来ないか? 書斎なら貸してあげるよ。それなりに書物も揃っているし、静かだから集中出来ると思うんだ」

 突然の誘い話に神流は目を丸くした。以前なら「喜んで」と即答しているところだが、徐庶への意識が変わった今では、すぐに返答が出来ない。嬉しい反面で、恥じらいがあったからだ。

 「でも、迷惑じゃないんですか?」
 「俺は構わないよ。それに神流も、そろそろ手元の書物で学ぶ事も少なくなって来た頃だろう? 師事だけなら、邸の方が俺も教えやすいからね」

 徐庶は動揺する事も慌てる素振りも見せず、真正面から神流を見据えた。穏やかでありながら、どこか熱の帯びた眼差しは、以前にも増して積極的だ。散策を機に、徐庶も変わった気がする。
 確かに、塾に通い始めて半年以上が経った今、書物で学べる範囲は限られ、ほぼ徐庶の師事で学んでいる状態だった。司馬徽の講義と徐庶の師事さえ受けられれば、夕刻の学舎に顔を出す必要性はさほどないのである。
 戸惑いつつも小さく頷くと、徐庶は嬉しそうに笑った。

 「じゃあ、明日から邸で待っているよ」

 いつも気遣いなのか、それとも意図的なものなのか──。彼の場合、おそらく前者だろうが、今の神流にこの誘い話を持ち出した徐庶が策士≠ノ見えた。


 翌日、神流は仕事先からまっすぐ徐庶の屋敷に向かった。当然のように、胸の鼓動は一段と落ち着きがない。
 玄関扉を叩くと、しばらく間を置いて「はい」と返事が聞え、徐庶が顔を出した。訪問客が神流だと知っていた彼の口元は、すでに綻んでいた。

 「やぁ、待っていたよ」

 一段と頬を上げて無邪気な笑顔を見せると、神流を玄関に上げた。通い慣れたはずの屋敷が、いつもと違って見えた。屋敷内は整頓されていたが、各部屋には読み終えた書簡や書物がそのまま放置され、生活感が露になっている。さらに玄関先には軍靴、戸棚には小手と撃剣が立て掛けられ、向かった書斎には軍袍が着ていたままの形で衣文掛けに吊るされていた。
 長い付き合いから、もはや隠す必要はないと考えたようだが、今の神流には目の毒だった。男性的な一面を見せられると、再び意識してしまう。軍袍も、自ら手掛けたものだというのに、一度袖を通しただけで全くの別物に見えた。
 神流は軍袍に背を向けて座り、荷物から竹簡を机に並べた。一方で徐庶は書斎の本棚を見渡し、目ぼしい書物を集めていく。

 「今日はどうしようか。兵法か、地理か」
 「地理にしましょう。兵法は苦手だから」
 「じゃあ、兵法にするよ。苦手なものは克服しないとね」

 徐庶は強引に言い切り、数冊の兵書を机に置いた。神流は露骨に嫌な顔をして見せたが、顰めっ面で返され、渋々筆を取った。学問の事となると厳しい態度を取るのは、慕情を見せるようになった今でも変わらない。
 黙々と筆を進める間、隣で監視していた徐庶がおもむろに口を開いた。

 「そういえば、神流は将来どうするか、もう決めてあるのかい?」
 「まだ漠然としたものしか頭にありません。国の役に立ちたいとは思っているけど、今はそれどころじゃないもの」

 不得手な兵法を押し付けられた不満から、顔も見ずにぶっきらぼうに返すと、神流の隣からやや沈んだ声が返って来た。

 「そうか…でも、神流も仕官する志があるんだね」
 「理想はそうだけど、現実は無理ですよ。私は元直殿と違って、ただの塾生だし」
 「そんな事ないんじゃないかな。君は塾生の中でも優秀だし、今なら先生の門下生にもなれるよ」
 「お世辞なんか言わなくてもいいのに」
 「君の事で嘘なんか言わないよ。もし志願するつもりなら、俺から先生に話してあげるよ。推薦する事くらいは出来るよ」

 『推薦』と聞いて、神流は驚きから弾かれたように顔を上げた。まじまじと見つめると、曇っていた徐庶の表情が悦色に満ちた。『ようやく顔を上げてくれた』と、喜んでいるかのような反応だった。

 「わ、私が門下生なんて無理ですよ。仕事だってあるし、大変そうだし…」
 「仕事と両立している人は沢山いるし、門下生になっても、やるべき事は変わらないよ。でも塾生と違って、より深い学問に触れられるし、先生から直々に指南を受けられるから良いと思うんだ。最初の内は簡単な試験があるけど、門下生になって損はないよ。俺が保証する。だから、真剣に考えてくれないか?」

 徐庶に力強い口調で言い寄られ、困惑した。門下生になれる事ほど嬉しい事はないが、なぜ彼がここまで勧めて来るのか、理解出来ない。返答出来ずに黙り込んでいると、徐庶の表情が再び曇った。

 「…やっぱり駄目かな」
 「駄目というか、自信がないんだもの。そんなに急かさなくても、まだ時間は沢山あるじゃないですか」
 「急かしている訳じゃないんだ。ただ、神流が門下生になってくれると、俺も心強いんだ。それに…その方が…君と対等になれるだろうから…」

 ぽつりと零れた熱の篭った言葉に、神流は頬を赤らめた。胸の鼓動も高鳴る。徐庶はちらりと上目遣いで様子を伺い、目を泳がせながら言葉を続ける。

 「ええと…我儘を言っているのはわかってるよ。でも神流といると、いつもより自分に自信が持てるんだ。怖いものだってなくなる。だから、君も俺と同じ道を歩んでくれれば、今まで以上に頑張れる気がするんだ。もちろん、俺も神流を支えるよ。だから、その…君も一緒に付き合ってくれると嬉しいんだ…」

 二人で同じ道を歩む──。神流も同じ事を考えていたのに、彼の口から聞くと別の意味合いとなって聞えて来る。いや、実際には、そちらの意味も含まれているのだろう。言葉の端々に本心が滲み出ているし、これまで幾度となく態度にも見せているから、彼がどんな感情を抱いているのか、聞かずともわかる。未だに明確な言葉で本心を口にしないのは、やはり自信が持てない故なのか。

 ──今ここで、あの時の顔を見せればいいのに。

 頻りにこちらの様子を伺う奥手な門下生を前に、神流は静かに笑った。賊徒相手には果敢に立ち向かうのに、たった一人の少女の前では弱腰になる。その変化はとても滑稽で、愛らしくもあった。

 「いいですよ。私も元直殿と一緒だと心強いし、自分を試すと機会だと思って、門下生のお誘い、お受けします」
 「…我儘を聞いてくれてありがとう。これからも、全力で君を支えると誓うよ」

 徐庶の温かく優しい声色は、鼓動を急がせ、身体に熱を帯びさせる。だが、それは思いの外心地良いもので、心が惹き付けられていく。

 「じゃあ、私が門下生になったら、元直殿の競争相手になるって事でいいですね?」
 「え? いや…そういう意味で言った訳じゃないんだけどな…」

 秘める想いを隠すように意地悪く返すと、徐庶は頭を掻いて苦笑した。
 もし、彼が本心を打ち明けても、その時は全てを受け入れる──。それだけは断言できた。

 *

 休日、神流は門下生の志願を申し出るため、徐庶に連れられて司馬徽の屋敷に赴く事になった。
 司馬徽とは、講義の際に顔を合わせて質問する程度で、それ以外に交流の機会はほとんどなく、屋敷に赴いた事も一度もない。ただでさえ緊張するというのに、屋敷を訪ねるきっかけが『門下生への志願』となると、足取りも自然とぎこちなくなる。

 「本当に大丈夫なんですか?」
 「心配ないよ。俺が先に話すから、君は聞かれた事だけ答えればいいんだ」

 不安げな顔で尋ねる神流に、徐庶は優しく返した。このやり取りも、何度目かわからない。
 司馬徽の人柄は寛大で温雅で、何かと「よしよし」と口にするから、周囲からは『好々先生』とも呼ばれている。そのため、一部からは『変わり者』と言われているが、奢らず飾らない司馬徽の人柄は多くの人々から好かれ、それは神流も同様だった。
 とはいえ、襄陽では門下生を大勢持つ著名な隠士であるには変わりなく、また彼の周囲に集まる門下生や隠士らの存在が、さらに距離を置いてしまう原因だった。徐庶や石韜のような門下生は稀で、堅苦しい人物の方が圧倒的に多いのだ。

 屋敷近くの学舎の前には、相変わらず門下生達が立ち話をしていた。いつもの顔触れだが、頻りに屋敷を気にしている。その中には石韜の姿もあり、二人を見つけるなり手招きをした。必死な様に首を傾げて石韜の元に歩み寄ると、すかさず耳打ちをして来た。

 「今、先生の邸に劉備殿が来ているぞ」

 石韜が指差した先には、屋敷の門前に立つ複数の男の姿があった。具足を纏った兵卒らしき男二人と、戦袍を纏った長身の男。劉備本人の姿がないから、付き人か何かだろう。ただ、戦袍を纏った男だけは一際大柄で、長く立派な髭を蓄え、厳格な将軍の風格を放っていた。

 「あの方は劉備殿の義兄弟で、関羽殿だぞ。名に聞く武将だけあって、さすがの貫禄だな。お忍びで挨拶に来たようだが、あれでは目立つぞ」

 尋ねる前から、石韜が感銘の声で返した。
 劉備一行に出会えたのだから運が良いのだろうが、今は複雑な気分だった。門下生の志願話を前にしているから、緊張感が増しただけだ。不安な面持ちで徐庶を見つめると、彼も困ったように頭を掻いた。劉備が屋敷にいる以上、立ち入る訳にはいかない。
 しばらく学舎前で様子を見ていると、門口から男が現れた。具足は付けていなかったが、気品ある独特な雰囲気から、一目で劉備だとわかった。屋敷に向かって丁寧に拱手すると、関羽と連れの男を率いて学舎へと向かって来た。
 改めて見ると、劉備一行の風格は別格だった。城下でも劉表幕僚の姿はよく見られるが、これほど圧倒される光景はない。特に関羽の貫禄と威圧感は凄まじく、この場に張飛の姿はないが、三人揃って歩けば彼等の威風で皆、萎縮してしまうだろう。未だに放浪軍である事が不思議に思うほど、完成されている。
 周囲の門下生が一斉に拱手したので、神流も真似して頭を下げた。対して、劉備もにこやかに一礼したが、急に「おぉ」と声を上げた。何事かと思い顔を上げると、途端に劉備と目が合った。

 「貴女は、先日お会いした旅のご夫人ですな。無事に襄陽へ辿り着いたようで、何よりです」

 突然声を掛けられ、神流は慌てふためいた。周囲の視線は一斉に神流に向けられ、皆、驚愕の顔をしている。塾生の少女が、大徳・劉備と顔見知りだったのだから無理もない。すぐ隣には徐庶の姿もあるのに、劉備の視線は神流しか捉えていなかった。

 「しかし、このような所で会えるとは奇遇ですな。ご主人はお元気ですか?」

 劉備は終始、穏やかな笑みを湛えて気遣ったが、この状況では余計なお節介でしかなかった。依然として『夫人』と間違われたまま、他の門下生の視線も突き刺さり、冷や汗が流れる。

 「は、はい! いえ、その、あれは主人じゃなくて…こ、これです!」

 神流は咄嗟に横にいた徐庶を前に突き出した。激しい動揺から誤って『これ』呼ばわりしてしまったが、状況を押し付けられた徐庶も狼狽し、劉備に小さく頭を下げた。突然近くにいた男を紹介されて、一瞬目を剥いたものの、相手を知った劉備はにこりと笑った。

 「おぉ、貴公でしたか。申し訳ない、服装が違ったため気付きませんでした。もしや、お二人は司馬徽殿の関係者の方ですか?」
 「ええと…はい、俺は先生の門下生で、徐元直と言います。先日は大変お世話になりました」
 「いえ、私など何もしておりませぬ。大した事も出来ず、返って申し訳ありませんでした」

 徐庶の後ろに隠れて会話を見ていた神流は、劉備の背後にいた連れの男に視線が止まった。関羽は顔色一つ変えずに義兄を見守っていたが、兵卒の男一人だけが妙にそわそわとしている。
 よく見れば、どこか見覚えのある顔。記憶を辿りながらじっと眺めていると、脳裏である男の顔と一致した。目を丸めた神流の反応に気付き、男は慌てて顔を背けたが、もう遅い。この男は、賊徒の一人だ。徐庶に武器を割られ、腰を抜かしていた男だ。
 神流はすかさず徐庶の背中を突いたが、劉備の手前もあって無視された。すると、会話の中にその話題が上がった。

 「実を言うと、彼等は我々の方で保護致しました。あのまま放って置くのは惜しいと思ったもので、我が陣営に迎えたのです」
 「はぁ…やはりそうでしたか。どうりで見覚えがあると思いました」

 徐庶も男に気付いていたらしく、両者はぎこちなく頭を下げた。更生したとは言っても、襲った者と襲われた者が顔を合わせたのだから、互いに気まずいのは当然。劉備は笑っていたが、意外と鈍い御仁だと思った。しかし、賊徒に処断も厳罰も与えず自分の部下に迎えるところは、さすが『大徳』と呼ばれるだけある。
 話し込む義兄に、関羽が耳打ちをした。

 「兄者、そろそろ城に向かわねば、会合に遅れますぞ」
 「あぁ、そうだったな。では、我々はこれで失礼致す。機会があれば、またお会いしましょう」

 深々と拱手すると、劉備と関羽、そして連れの男二人は学舎を立ち去った。角を曲がって彼等の姿が見えなくなると、門下生達は途端にどよめき出した。疑問を持つ彼等に代わって、石韜が説明するように二人に言い寄った。

 「道中で劉備殿に会ったとは聞いていたが、まさか向こうから声を掛けて来るとはな。神流殿、顔を覚えて貰えて良かったですな。おそらく塾生では貴女くらいだと思いますよ」
 「はい、これも元直殿のおかげです」
 「しかし、劉備殿は何か勘違いしていたようだが…元直、お前はいつ結婚したんだ?」

 急に不敵な笑みを浮かべ、石韜は二人の顔を交互に眺めた。他の門下生の前でからかい始めた友人を徐庶は無言で睨み返したが、「おっと失礼」とおどけた返事が返って来た。神流も弁解するために徐庶を差し出したのだが、結局、誤解は解けなかった気がする。でも、今はそれでも良いと思った。
 石韜は咳払いをし、気を取り直して機嫌の悪い友人に尋ねる。

 「それより元直、塾に何か用でもあるのか? まだ講義の刻限ではないが」
 「そうだ、先生の邸に行かないと。広元、話ならまた後にしてくれ」

 徐庶は友人を軽くあしらい、神流の手を引いた。突然、手を握られて気が動転したが、大きな手の温もりと感触に意識が傾き、胸が熱くなる。劉備との再会、間近に感じる温もり──自分の門下生の志願など、どうでもよくなった。

 屋敷を訪ねた二人を出迎えたのは、年配の女性だった。彼女は司馬徽の奥方で、屋敷に訪れる門下生や隠士達を笑顔で迎える姿をよく目にする。その温厚で世話好きな人柄から、司馬徽同様に人々から慕われている。
 司馬徽夫人は、徐庶を見るなり満面の笑みを浮かべた。

 「あらあら、徐庶殿ではありませんか。どうなさったの?」
 「突然の訪問、大変申し訳ありません。先生にお話がありまして」

 度々の訪問客にも夫人は優しい笑顔を見せ、「どうぞどうぞ」と二人を奥へと案内した。
 司馬徽の屋敷は襄陽の著名人にしては質素で、徐庶の屋敷とそれほど変わりなかった。ただ、家具や飾られている骨董品は立派な物が多く、掃除も行き届いているため、やはり独り身の門下生の屋敷とは違う。

 「そちらの女性は、塾生の方でよろしいのかしら?」

 夫人は主人の部屋に案内する途中、神流を見てそう尋ねた。気品ある優しい声色は、司馬徽に似ている。返答に困っていると、「そうです」と代わりに徐庶が答えた。
 夫人が一室の扉を開けると、机の前に初老の男が一人座っていた。白い着物に水色の羽織を纏い、簡易に纏められた髪と長い髭。一見どこにでもいる老人に見えるが、彼が水鏡先生こと、司馬徽である。

 「ほうほう、次に誰が来たと思えば、徐元直だったか」

 司馬徽は目尻を下げて微笑んだ。人柄が滲み出た静かで穏やかな声色に、緊張が解れる。司馬徽は自ら腰を上げ、拱手する二人に御座を用意した。

 「先ほど、劉備殿が挨拶に参られたばかりでな。自ら挨拶に赴くとは、噂通りの御仁のようだな」
 「はい、俺もこの身を持って知りました。先日、旅先で劉備殿に救われましたから」
 「ほう、そうだったか」

 司馬徽は細い目を見開いたが、すぐに笑顔を見せて「それは、よしよし」と言った。その間、後ろから夫人が茶と甘菓子を差し出す。

 「して、そちらは確か…私の塾の…ええと、名は何だったか」

 と、司馬徽は神流を指差したので、慌てて「神流です」と名乗った。名を聞くと、髭を擦って「そうだった、よしよし」と言った。口癖と知っていても、あまり何度も聞くと笑いそうになる。徐庶はどうなのかと、ふと気になって横を見たが、さすが師の前だけあり、真剣な面持ちで正座していた。

 「神流殿だったか。いつも真面目に講義を受けている姿は見知っておるぞ」

 司馬徽の目に止まっていたと知り、消え掛けていた緊張が蘇り、神流を襲う。だが、それを聞いた徐庶はすかさず本題に入った。

 「彼女を知っているのならば、先生にお願いしたい儀があります。徐元直、この度は神流殿を先生の門弟に推挙致したく、参じた次第です。彼女には秘めた才能があります。ぜひとも先生の手で開花させて頂きたいのです。彼女を受け入れて下さいませんか?」

 徐庶が両膝を付いて深々と拝礼したので、神流の緊張は最高潮に達した。さすがの司馬徽も、突如持ち出された直球な用件と、改まった姿勢に目を丸くし、「ほほう」と驚愕の声を上げた。
 束の間、室内に沈黙が訪れる。固唾を呑んで様子を伺っていると、司馬徽は髭を擦りながら空を見つめ、急に満面の笑顔で頷いた。

 「よいぞよいぞ、お主の話ならば間違いはなかろう。私も神流殿の姿勢と賢才さには、かねがね感服しておった故」

 案外あっさりと話が通ったため、神流も徐庶も礼をする事を忘れ、その場できょとんとした。その様子に司馬徽は声を上げて笑い、「よしよし」と三度目になる口癖を溢した。二人が揃って拝礼すると、また同じ口癖を溢して手で制し、茶を口にして徐庶に尋ねた。

 「して、徐庶よ。人の事はよしとして、お主はどうなのだ。己の歩む道は見えたのか?」
 「はぁ、それが…まだ…」

 ばつが悪そうに目を伏せると、司馬徽は髭を擦って静かに首を振った。

 「己を差し置いて、他人を立てるとは、お主らしいな。そこが長所であり、短所でもある」

 窘められた徐庶は、さらに表情を曇らせて深く俯いた。師弟の会話に神流も気まずくなり、釣られて小さく俯く。しかし、落ち込む門下生を前に、司馬徽は寛大な笑みを浮かべた。

 「悩むのも、またよしよし。だが、お主が仕えるべき英傑は、もう近くまで来ておるぞ」

 師から受けた一言に徐庶は顔を上げ、呆然と首を傾げた。疑問を投げ掛けるように神流の顔を見る。すると、司馬徽は一層大きな声で笑った。
 司馬徽が示した人物が、一体誰なのか──。神流にはすぐにわかった。

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