『意識・前編』

 某日、アークレイ研究所に一通のFAXが届いた。それは以前から建設中だったラクーンシティ地下研究所が完成したというもので、内容はそれだけに留まらなかった。
 まず、『ラクーンシティ地下研究所開設にあたって人事部は新たな人員の確保と、それに伴った大規模な異動を行なう』とあった。それによると『アークレイ研究所ではバーキン主催の『G計画』と、その関係者をラクーンシティ地下研究所に転属する』とあり、その中にはリナの名前もあった。
 さらに、人事部はすでに大学や医療関係から科学者を大勢スカウトしており、アークレイとラクーンシティの双方に補充するらしい。リストには、アークレイ研究所に20名、ラクーンシティ地下研究所に至っては100人近い研究員の名が記されている。この事から、上層部がラクーンシティ地下研究所でのウィルス研究とB.O.W.開発に莫大な資金と期待を掛けているのは明白だった。
 この新体制への移行措置として、アークレイ研究所では開発中のB.O.W.サンプルを一種につき10個と、『G計画』『タイラント計画』を含む全データをラクーンシティ地下研究所内のメインコンピューターに移動させるよう指示が下された。ただし、『開発中のタイラント被検体はアークレイにて続行せよ』とあった。タイラントの運搬には危険が伴うためだ。
 上層部はFAXという形で簡単に指示を下して来たが、実際にこの全てを実行するとなると、それは大掛かりな作業になる。各ウィルスとB.O.W.サンプルの運搬には細心の注意が必要であり、採取するだけでもかなりの時間を要するし、データもファイリングされている物まで全てパソコンに転写する必要がある。上層部や幹部の人間は、ただヘリや必要な機材を用意すればいいと思っているようだが、現場の人間が過酷な作業を強いられる事を彼等はわかっていない。

 当然ながら、研究所の人間は指示を受けて早々作業に追われる事になり、リナも『G計画』と『タイラント計画』の全データをラクーンシティ地下研究所に転送するため、一日中パソコンに向き合う羽目になった。
 アンブレラの研究所には、紙に置き換えれば街が埋まってしまうほどの大量のデータを、たった1つの端末で管理出来るコンピューターが設置されている。それは今回のラクーンシティ地下研究所にも設置され、データの転写も簡単に済ませてしまうからアンブレラの技術には感服する。とは言っても、研究所内にある情報量を考えると1日やそこらで終わるものではない。
 データ整理を担当する事になったリナのデスクには、次々と大量の書類が置かれて行った。愛想の悪い同僚は気遣いの言葉もなく淡々と積み上げて行くため、これが自分の役目であっても腹が立つ。

 ──少しは労いの言葉くらい掛けなさいよ。

 リナは込み上げる怒りを押し殺して、不承不承にファイルを一冊取った。大量の書類が綴じられたファイルの分厚さにうんざりしながら中を開くと、見覚えのある達筆な字で書かれた細かいメモが、印字と写真の間の至る所にされていた。それは偶然にもウェスカーが残して行った『タイラント計画』の開発初期ファイルだった。久しく見た冷淡な男による熱心な観察データを見てリナは思わず微笑んだが、同時に物寂しさを感じた。
 ここで開発したタイラントはアークレイ研究所に残される。それは過去何年にも渡ってウェスカーが研究を続けて来た被検体であり、その後はリナに一任された。なのに、今回の転属でリナもまた手放す事になってしまう。

 ──途中で投げ出すなんて、助手失格よね。

 上層部の命令とはいえ、ウェスカーの期待に応えられなかった事が悔しかった。ある程度の思考能力は改善されたものの究極の生命体と呼ぶには程遠く、満足のいく成果は得られていない。当初から忌み嫌っていた醜悪な生命体に執着し、別れに名残惜しさを感じたのはもちろんウェスカーへの想いがあるからで、そうでなければおぞましい生物兵器でしかない。
 あの日以来、ウェスカーからの連絡は何もなく、リナ自身も電話をしていなかった。多忙な事も理由にあったが、報告に値する情報──電話するきっかけ≠ェなかったのである。ウェスカーを納得させられる報告がなければ、電話をしても切られるのがオチだ。それは前回の電話でウェスカー自らが証言している。
 いや──これもまた言い訳かもしれない。些細な事でも探そうと思えば話の種はいくらでもあるのに、慣れない感情で臆病になっているところがあった。常に会話を交えたい気持ちはあるし、この感情が恋≠セと確信してから一段と強くなった気がする。なのに、電話を前にボタンを押すか否か躊躇ってしまう。まるで初恋に戸惑う少女のようで我ながら不甲斐なかった。
 しかし、今回はお互いに『ラクーンシティ地下研究所』という電話をするきっかけ≠ノは十分過ぎる話題がある。だが、ウェスカーからの連絡は正直期待出来ない。彼はよほどの事がなければ行動を起こさない男だ。

 ──これが終わったら、私から電話してみよう。

 そう胸に決意したものの、デスクに積み上げられた大量のファイルを見ると、当面は諦めるしかなかった。

 *

 それからデータ移行作業は連日深夜にまで及び、一区切り付いたのは10日後の事だった。ただし、それはリナが任されていたデータ転送作業が終わっただけであり、サンプルの摘出や運搬などは未だ続行中である。その証拠に、研究所内では慌しい足音や物音が頻繁に聞えている。バーキンやアネットはと言うと、いつものように別室の実験室に仲良く篭って被検体と対峙中だ。
 研究室で一人パソコンと向き合っていたリナは、ようやく最後の実験データを編集し終えると、大きく背伸びをした。

 「あぁ、疲れた!」

 一人であるのを良い事に、リナは大きな独り言を溢した。声は思いの外研究室に響いたが、ウィルス漏洩を防止する鋼鉄製の壁はそう簡単に内部情報を漏らさない。仮に聞えたとしても、ここの連中は干渉しない主義だから聞かぬ振りをする。
 時計の短針は『2』を指していたが、それが午前なのか午後なのかはわからなかった。研究所は日の光も入らないし、特に今は研究員が一日中行き来しているから昼も夜もないに等しい。リナはそれを午前2時だと判断して、凝り固まった肩を解しながらコーヒーポットの黒い液体をコップに注いだ。
 不味いインスタントコーヒーを飲みながらカレンダーを眺めていると、2週間後の日付の空欄に『落成式』と赤字で書かれていた。それはラクーンシティ地下研究所の落成式の事だ。当然ながら、表向きは『製薬会社アンブレラの新工場の落成式』で、式に参加するのは営業開発部やら建設部やらと一部のお偉い幹部だけである。傘の日陰≠ノ属する研究チームには全く無縁な行事だ。
 おそらくこの落成式は、街を上げた盛大な式典となって市民の笑顔に囲まれて行なわれるのだろう。温かい声援の中、出席する幹部は皆作り笑顔で、その腹の内はどす黒い私欲に塗れて──想像しただけで嫌悪する光景だ。
 何しろ、アンブレラはラクーンシティ地下研究所を建設するにあたり、一部の政治家と癒着している。街の地下に違法な研究施設を作るのだから、街の関係者を内部に引き込んでおくのは至極当然の手法と言える。政治家を引き込んでおけば、外部に情報が漏れた際の証拠隠滅にも役立つからだ。
 今さら上層部が何をしようと驚きはしなかったが、つくづく鬼畜だと思う。人々の健康を庇護するどころか、人々の安全と命まで脅かしている。もちろんリナも、同じアンブレラ研究員である以上は同じ穴の狢≠ネのだが。

 「…何がめでたいんだか」

 不満と溜め息を吐いたところで、突如電話が鳴った。外線のランプが点滅し、慌てて取り繕って「はい、特別研究部です」と、よそ行きの声で答えたが、相手は「ピー」というFAX受信を知らせる機械音で答えただけだった。この瞬間ほど虚しいものはなく、リナは一人羞恥しながら送られて来たFAXを覗いた。
 それはメールの写しのようで、FAXの送信元は『情報部』になっていたが、メールの送信元は『ラクーンシティ警察署』になっている。噂をすれば何とやらで、早速アンブレラの癒着先から連絡が届いたようだ。どういう訳か『バーキン宛て』になっている。

 ──バーキン主任も癒着に関係しているのかしら?

 ラクーン市警とB.O.W.研究所主任──この奇怪な関係に首を突っ込めば確実に厄介な事になる。不穏なものを感じて、それ以上内容を読まずにFAX用紙をそのままにしておいた。
 その直後、再び電話が鳴り出したので、思わず小さな悲鳴を上げた。再び外線になっている。悪事の匂いがするFAX後の電話──。出るべきか迷ったが、研究室の留守番も任されていた以上、居留守を使う訳にはいかない。
 電話に出るなり「どちら様でしょう」と声を上擦らせたが、今度の相手は機械音ではなかった。

 「ん? もしかしてリナか?」

 聞き覚えのある怪訝な低音は、迷わずリナの名を呼んだ。驚いたような台詞の割には、ブレがない冷静な低音──この声の持ち主はウェスカーしかいない。長らく音信不通だったウェスカーからの電話、そして彼が送ったとされる極秘文章と思しきFAXを見た罪悪感から、リナの鼓動は不安定に乱れた。

 「ウェスカー主任…!? こんな時間にどうしたんですか?」
 「バーキンに野暮用があったものでな。FAXが届いただろう、その件だ」

 ウェスカーは特に隠す様子もなく平然と言ったが、リナは手元のFAXに目をやって肝を冷やした。野暮用にしては大それた内容を送ったものだ。アンブレラの悪事は今に始まった事ではなくても、実際に証拠を目の当たりにすると動揺が隠せない。しかも、関与しているのは現在の上司であるバーキンだ。

 「その…今、バーキン主任は実験室にいるんです。良ければ呼びましょうか?」
 「いや、いないのであれば構わん。見ての通り、大した用件ではない。欲深い政治家からの催促状だ」

 ウェスカーはリナがFAXを読んだ前提と考えたようで、自らFAX内容を話した。説明されたところで内容など確認する気になれず、「そうみたいですね」と適当に話を合わせると、ウェスカーは心中を悟ったらしく鼻で笑った。

 「君はこういった件には臆病なのだな。それでよく裁判を起こすと言えたものだ」
 「だって、実際に上司が関係しているなんて思いませんもの」
 「バーキンが研究の中枢にある以上、無関係なはずがあるまい。まぁ、バーキンにしてみれば『G計画』に支障が出ないよう利用する形になるのだろうが、これもラクーン市民のためだと思っておけ。ウィルス開発が明るみになれば、アンブレラに支えられている市民の生活は忽ち崩壊するのだ。今はまだ知らない方が彼等にとって幸福だ」

 ウェスカーは尤もらしい事を言ってリナを窘めたが、抑揚のない声色から上辺だけの庇護であるのは瞭然だった。おそらくこの男の本心は、『アンブレラの人間である以上は黙って従え』と言ったところだろう。
 確かに同じ穴の狢≠ナは、どんな悪事も他の狢と共有するしかない。ウェスカーは上層部までも利用する狡猾さがあるが、リナにはそれがない。そういった者は事態が好転するまでただ従うしかないのだ。
 しかし、バーキンの場合はおそらく違う。研究を有意義に出来るのであれば癒着も躊躇わない節がある。この2年間、バーキンの下に就いてわかったのは、彼が根っからの科学者だという事だけだ。アンブレラに忠誠を誓っている様子はないが、研究のためなら何でもする。

 「かなり苦しい言い訳ですけど、そういう事にしておきます」
 「それでいい。君は聞き訳が良いから助かる」

 と、ウェスカーは受話器越しに含み笑いを溢した。久しく聞いた落ち着きのある低音は耳元で囁いているようで、なぜか無性にリナの耳を擽った。元々深みと色のあるウェスカーの声は、恋慕を抱いた状態で聞くと一段と肌が色めき立つ。不意打ち同然の電話では心の準備も出来ていない。
 リナがそんな状況に陥っているとは露知らず、妖しげな低音は言葉を綴る。

 「それより、君が電話に出てくれたおかげで手間が省けた。丁度そちらの様子が気になっていてな。ラクーンシティへの移行作業は捗っているのか?」
 「えぇ、それなりに。先ほど『G計画』と『タイラント計画』の全データを転写して、ラクーンシティのメインコンピューターへの移動を完了しました。サンプル摘出と運搬作業はまだ途中段階ですが、あと5日もあれば完了すると思います」
 「さすが手際が良いな、リナ。過労で才能が腐っているのではないかと心配したが、徒労だったようだ」

 ウェスカーは期待通りの返答に感銘の溜め息を溢したが、実を言うとリナは動揺を隠すために忙しなく説明していたに過ぎなかった。
 電話だから気付かれなかっただけで、耳と頬は赤く染まっている。声が聞こえる度にこそばゆくて、受話器を耳に当てるのも儘ならない。意識し始めただけで身体が過剰反応を起こし、鼓動は雀躍している。恋という感情は状況を選んでくれないから厄介だった。

 「その様子なら、今後も期待出来そうだ。君に任せて正解だった。落成式にも間に合うだろう」
 「落成式には参加出来ませんけどね。私達はあくまで裏方の人間ですし」
 「本来はそうなのだが、君には出席して貰う事になるかもしれん」
 「えぇっ? どうしてですか?」

 と問うと、ウェスカーはなぜか小さく溜め息を吐いた。

 「今回、ラクーンシティに異動する事になった幹部の一人がどこかで君の噂を聞いたようでな。同研究所に配属される前にぜひ君と会って話がしたいと言っているのだ」
 「幹部が私に…?」

 途端に饒舌だったリナの口はようやく押し黙った。幹部の人間とは交流もなければ顔もろくに知らない者ばかりで、なぜ突然そんな話が挙がったのか全く心当たりがない。リナは慌ててデスクに戻り、ラクーンシティ地下研究所の人員リストを広げた。配属が決定した幹部の人間は複数いたが、どれも知らない名ばかりだ。

 「その方は、どうして急にそんな事を?」
 「その男が言うには、君は若き女性研究員でありながら私やバーキンの下で各計画に参加し、功績を上げて来た事に興味を示したそうだ。少なくとも君を警戒している様子はないから安心したまえ」

 ウェスカーは動揺を宥めるように経緯を説明したが、その口調はやけに平板なもので、益々不安を煽った。
 本来、幹部の人間に認められれば一研究員として喜ぶべき事態なのだろう。しかし、上層部の非道な手法に疑念を抱く者にとっては、ただ動揺と不安を生むものでしかない。自分の言動を怪しんでいるのでは──リナは肝を冷やした。
 閉口していると、ウェスカーは「ご尤もだな」と急に鼻で笑った。

 「見ず知らずの幹部が懇願したところで、承諾出来るはずもない。嫌なら私の方から断っておく。私もあの男を君に会わせるのは気が進まないものでね」
 「ウェスカー主任はその方をご存知なのですか?」
 「嫌と言うほどな。君に興味を抱いたのも、私の部下だからだ。まだ幹部になって2年足らずの新参者だが、どうも他人を干渉したがる癖があるようでな。迷惑極まりない男なのだ」

 ウェスカーは冷淡な声に一層不快感を孕ませた。どうやら終始平板だった声色は、その幹部の男への不満から来ていたらしい。人を干渉しない男にとって、人に干渉されるのはさぞ迷惑だろう。隠された裏事情を知ったリナは、その滑稽な場景を想像して頬を上気させた。ただ、相手がアンブレラ幹部である以上警戒を怠るべきではない。

 「その幹部というのは一体誰ですか?」
 「セルゲイ・ウラジミールだ。元ソビエト連邦軍の大佐だった男だ」

 人員リストを指で辿って行くと、すぐに見つかった。ラクーンシティ地下研究所でも継続される『タイラント計画』の主任研究員として名が記されている。別紙の研究員ファイルからさらに調べ上げると、セルゲイの写真があった。元少佐に相応しい魁偉な風貌で、整えられた身形からは威厳と気品が感じられる。

 「でも、幹部直々の話では断れないですね。私はただの平社員ですし、同じ研究所に配属されるのなら挨拶くらいした方がいいでしょう。断ると返って警戒されるかもしれませんし」
 「会うのは構わんが、信用はするなよ。幹部というのは皆、狡猾なのだ。これも計算の内かもしれん」
 「わかっています、肝に銘じておきます」
 「よかろう。では当日の正午、例の時計塔で待っている。幹部の命となれば休暇も容易に得られるだろう」

 そう言って、ウェスカーは満足気な含み笑いを漏らしながら電話を切った。

 「…やっぱり仕事の話なのよね」

 電話をする機会も、話の内容も、褒められるのも気遣われるのも、全て仕事絡みだ。それも当然で、ウェスカーにしてみればリナは部下以外の何者でもない。もちろん部下として期待されるだけでも嬉しかったが、やはり女性としてもウェスカーに認められたかった。そう思うようになったのは、言うまでもなく恋心のせいだ。
 そのため必要なのは結果≠残す事だ。これでも6年近くウェスカーの助手をしているから、彼が何を第一に考えているのか把握している。仕事でも何でも、ウェスカーの関心を惹くのは何よりも結果≠ネのだ。

 ──次も期待に応えてみせる。

 カレンダーの『落成式』を見つめて、リナは気を取り直して再びパソコンに向かい合った。

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