それからまもなくして、バーキンの『G-ウィルス計画』は上層部に受理され、本格的に始動した。丁度同時期、ウェスカーは宣言通り情報部への転属を願い出て、それも簡単に許可された。
どちらも話には聞いていたし、予想していた事態であったから、受理されたと聞いた時も「そうだろう」と納得した。ただ、これによって今後の研究が大きく進展、変化する事は目に見えていて、それはあまり望ましいものではなかった。少なくとも、リナにとっては──。
上層部が『G』を認可したという事実は、益々疑念を深める結果となった。現段階でも『G』の遺伝子レベルの進化≠ヘ制御不能だった。生体の個体によって遺伝子の形状も数も異なるのだから、当然その作用も未知数ある。B.O.W.にしろ他の用途にしろ、『G』の開発には長い時間と莫大な資金を要する訳だが、上層部はそれをあっさり承認し、そのための新たな研究施設を建設するとまで言い出した。その建設地というのはラクーンシティの地下≠ナある。
ウェスカーから二次感染性の影響を聞いていたリナは上層部の判断に愕然した。ウィルスが流出すれば甚大な被害になるのは確実であり、研究施設を抹消にするにも都市の下では手の施しようもない。
そこまでしてアンブレラはウィルス開発に何を求めているのか。仮に別の思惑≠ェあるにしろ、もはやスペンサー卿の常軌を逸した思考は理解出来るものではなかった。
そして、この『G計画』が承認された事でウェスカーの情報部転属はいとも簡単に受理されてしまったのである。
ウェスカーにしてみれば『G計画』のおかげ≠ナ上層部の陰謀めいた思惑が濃厚になり、まさに転属するには絶好の機会であっただろう。しかし、リナにしてみれば『G計画』のせい≠ナウェスカーという従うべき上司と離れる事になってしまったから、喜ぶべき状況とは言い難かった。いくら目的のためでも有能な上司を研究員の道を断念するという形で失うのは、やはり気分の良いものではない。
転属を惜しむリナに反して、周囲の対応は実に淡白だった。上層部のあまりに早い対応は『転属は必然的だ』とあからさまに言っているように見えたし、転属を知った同僚の反応も驚きはしたものの納得するのに時間は掛からなかった。
日常的に世話になっておきながら、皆が皆、頭の片隅で本人が言う『限界』を冷静に感じ取っていたのか──そう考えると腹立たしかった。とは言っても、ウェスカー自身も部下を『下っ端』呼ばわりする男だから、そんな連中が何を言おうと痛くも痒くもないだろうし、『お別れ会』など返って迷惑なのだろうが。
研究所を発つ当日も、ウェスカーは相変わらず無表情でデスクの整理をしていた。名残惜しむ訳でも、躊躇する訳でもなく、ただ淡々と必要な書類やノートパソコンをバッグに詰めていく。私物という私物はなく、元々整理整頓の行き届いたデスクを片付けるのに10分と掛からなかった。
リナはその様子を無言で見つめていた。情報部に移った後も、ウェスカーは『顧問研究員』という扱いになったものの、それでも名残惜しかった。本当に後悔していないのか、戻って来るつもりはあるのか──内心では色々と問うていたが、実際に口に出す事は出来なかった。そんな事を聞けば、随分前から話し合いで諒解したのに不服申し立てするつもりか、と叱責されるだけだ。
移動用のヘリが到着するまでの間、ウェスカーは『G計画』のファイルを眺めていた。良くも悪くも進展させた『G計画』をどう思いながら眺めているのか──と観察していると、無表情だった口元が呆れ声を漏らした。
「まさかこうも簡単に承認するとはな。一体何を考えている、スペンサー?」
独り言のように呟いたそれは挑戦的で、どこか楽しんでいるように見えた。共謀者リナの前では平然とその名を口にするが、聞いているこちらは気が気ではない。部署を変えるだけで彼はまだアンブレラの人間で、ここはまだ研究所内なのである。
「リナ、この『G計画』は君に任せたぞ。良い報告を期待している」
「はい。ウェスカー主任の大好きな『タイラント』もお任せ下さい」
冗談混じりに答えると、ウェスカーはさらに機嫌良く笑って、手元の紙にペンを走らせた。千切って差し出したのは、電話番号が書かれたメモ用紙だった。
「私の連絡先だ。何かあれば連絡しろ」
「情報部の番号なら知っていますけど?」
「それは私個人のものだ。仕事上の会話ならばそれでも構わんが、個人的な事情はそちらの方がいい。職場の回線では履歴が残る。用心するに越した事はない」
──それはそうだけど。
アンブレラの思想に染まった人間ばかりの職場で、上層部の疑念を話題にした会話をするのは確かに無謀だ。そうであっても、ウェスカーが簡単にプライベートの番号を教えるとは思わなかった。同期のバーキンですら干渉しない男だというのに。
期待されるのも信用されるのは悪くないが、あまりされ過ぎる≠ニ返って怖気付いてしまう。それに、教えて貰ったからには自分の番号も教えなければいけないのでは──不意に訪れた不測の事態に場違いにもドギマギした。
「…私の番号も教えた方がいいのでしょうか?」
「その必要はない。何かあれば君の方から連絡すればいい。時間はいつでも構わんが、なるべく研究所の回線は使うなよ。君も個人の携帯くらい持っているだろう」
それでは、連絡をした時点で必然的に番号を教える事になるのでは──。リナは平然とファイルを読むウェスカーと手元の番号を交互に眺めて閉口した。
「ウェスカー、ヘリが到着したぞ」
バーキンが研究室に顔を出したおかげで、妙な緊張感から解放された。自ら報告に来たのは同期の見送りも兼ねていたようで、バーキンに案内される形でヘリポートに向かった。そこにはアンブレラのロゴが付いた大型ヘリが旋風を巻き上げながら着地していて、操縦士と所長の姿があった。
「後はお前達に任せる。私の助手の面倒も頼むぞ、バーキン」
「わかっている。『G』も彼女も私に任せておいてくれ」
ウェスカーは自分の白衣を所長に押し付けると、バーキンにそう言い残してヘリに乗り込み、アークレイ研究所を後にした。ウェスカーの白衣姿を見るのは、その日が最後になった。
*
翌日から、リナは言い付け通りバーキン主導の『G計画』に加わった。『G計画』の主要メンバーはバーキンとアネット、そしてリナと他2名の研究員とごく少数だったが、他の計画も同時進行している状態では人員にも限界があり、ウェスカーの話では「多ければ良い訳ではない」のだそうだ。
チーム編成はウェスカーとバーキンで行なわれ、アークレイでも選りすぐりの研究員ばかりを選んだという。さり気なくプレッシャーを掛けられた上に、計り知れないウィルス『G』に課せられた膨大な難題に、リナが開始早々から疲労困憊したのは言うまでもない。
さらに追い打ちを掛けたのは、バーキンの研究スタイルだった。さすが全権を担う科学者だけあって彼が説く研究理念には感銘を受けたが、とにかく与えられる仕事量が半端ではないのである。少しでも良案が思い立てば即行動に移り、結果が出るまで時間も材料も惜しみなく使ってしまう。おかげで研究室に何日も泊り込み、醜悪なサンプルを横に食事を取る事も日常茶飯事だった。彼の助手で妻であるアネットによって休憩や仕事の振り分けは細かく決められていたが、バーキンのレベルに合わせられる研究員はそうはおらず、『G計画』始動から半年ほどで全員が疲弊していた。
そんな中、アネットだけはバーキンの傍を離れず、部下が仮眠を取っている間も夫婦揃って研究室に篭っていた。とにかく2人の研究への情熱は異常で、リナには到底理解出来るものではなかった。
──ウェスカー主任なら、どんな方法を取っていたかしら。
毎日のように被検体が失われていく中、リナは度々ウェスカーの手腕に縋りたい気持ちになった。
バーキンのやり方が間違っているとは言わない。『G』が逸脱した存在では虱潰しの方法を取らざるを得ないだろう。ただ、いつ何時も冷静な判断を下し、部下や同僚の扱いに長けたウェスカーならば、また違った打開策を導いてくれるに違いなかった。科学者としてはバーキンが上かもしれないが、上司としてはウェスカーの方が断然上であって、全く『限界』ではないのだ。
ウェスカーの能力を求めると、同時に助手だった頃を思い出して、胸にぽっかり穴が空いたような寂寥感を覚えた。それでもリナは小まめに実験データを取り、些細な変化も見逃さないよう目を光らせた。
自分はその上司から『G計画』の経緯を見守るよう指示されている。今後大きな影響を与えるであろう『G計画』を一任したという事は、それだけ信用されている証拠だ。滅多に部下を認めない冷徹無情な上司から貰った期待感はリナを奮起させた。期待通りの良い報告が出来るように、合間を見てタイラントの改良にも努めた。
そんな毎日を過ごしている内に月日は流れ、『G計画』始動から1年が経った。
この頃、ラクーンシティの地下に建設中だった研究施設が完成間近になり、図面と共にファックスが送られて来た。それはアークレイ研究所とは比べ物にならないほど広大で、巨大なターンテーブルから全研究データを完備するスーパーコンピューター、そしてご丁寧に起爆装置まで配備されていた。科学者にとっては文句の付け所のない快適な空間だろう。『G計画』のために建設されたようなもので、彼がラクーンシティ地下研究所の中枢となってウィルス開発を展開させていくのは明らかだった。完成予定は1993年──翌年であった。
「早くここでまともな研究がしたいものだな」
図面を見たバーキンは、真新しい研究所主任となった自分の姿を想像したのか、満足気に溢していた。
確かに『G計画』は軌道に乗るかもしれなかったが、多くの市民が住む街の下≠フ研究所ではとても期待出来たものではない。市民も自分の足元にB.O.W.があると知れば生きた心地がしないだろうし、大掛かりな起爆装置など一体どういうつもりで設置したのかと理解し兼ねる。そういった疑問や思い遣りは、ここにいる科学者には皆無だ。
リナは訝しげにファックス用紙を眺めていたが、送信元の一つ『情報部』という印字に目が止まった。
──ウェスカー主任、今頃何をしているのかしら。
この1年間、ウェスカーからの連絡は一度もない。『G計画』の進行状況を聞きに来る訳でも、上層部の諜報に進展があったと報告する訳でもなく、新しい部署での環境を教える訳でもなかった。後者はともかく、顧問研究員として『G計画』の実験データくらいは求めて来てもいいだろうと思う。
信用だとか期待だとか言った割には、やっている事は相変わらず素っ気ない。しかし、リナも現在の環境に慣れたのは最近の事で、真意を突き止める余裕もなければ大きな進展があった訳でもないから、個人的に報告するにもしようがなかった。
『G計画』立案者で同期のバーキンとならば、多少なりとも連絡はしているかもしれない──。ふと思い立って、さり気なくバーキンに聞いた。
「そういえば、情報部に移ったウェスカー主任はお元気なのでしょうか?」
「ウェスカー? さぁ知らないな、あれから連絡を取っていないから。まぁ元気なんじゃないか? 向こうは向こうで忙しいようだけど、簡単に根を上げるような男じゃないだろう」
答えは返って来たものの平板な物言いで、彼等がライバル同士である事を改めて実感した。ウェスカーといい、バーキンといい、ここの研究員は揃いも揃って素っ気ない。
バーキンが言うように、情報部は多忙な部署だから連絡が滞るのも無理はなかった。アンブレラ全体の情報管理と外部情勢の収集、そして対立企業への諜報活動や工作員のような仕事までする部署でもある。当然アークレイの研究状況も把握している訳で、個人的に報告すべき情報などたかが知れている。「バーキンの下は過酷だ」とか「疲れる」とか、不平不満しかない。個人的な報告にも程がある。
しかし、さすがに1年以上も音信不通では心配になるし、不安にもなる。今も共謀者の関係は存続しているのか、情報部で上手くやっているのか、それとも上層部に悟られて連絡出来ない状況に置かれているのか──。要らない世話かもしれないが、少なくとも他の研究員よりは常人であるリナはウェスカーの安否が気になった。
──1年以上経っている訳だし、確認の電話くらいしてもいいんじゃないかしら。
リナはそう思い立ち、次の休憩時間に電話を掛ける覚悟を決めた。
*
次の休暇が来たのは、それから5日後の夜だった。
夜通しの実験で困憊していたリナは、仮眠を取るために何日か振りに寄宿舎に戻った。おぞましい臓器で囲まれた研究室に比べれば、陰鬱とした中庭に佇む木造建ての建物も天国だ。
自室に入るなりベッドに倒れ込んで、しばらく呆然と薄暗い天井を眺めてから、おもむろに携帯電話を手にした。引き出しに仕舞っておいたウェスカーの番号が書かれたメモを取り出すと、リナの鼓動は急な高鳴りを見せた。
「いつでもいい」と言われても、夜分遅くに男性のプライベート番号に電話するのは躊躇う。室内のデジタル時計は午後11時を表示していて、電話に適した時間とはとても言えない。親しい友人や気の良い上司ならともかく、相手があのウェスカーでは気軽に掛けられるものではなかった。期待されようと、ディナーを一緒にしようと、近付き難い男に変わりはない。
出来る事なら情報部の番号で済ませたいところだったが、この時間ではオフィスも閉まっているし、研究員の勤務時刻が不規則である以上はやむを得なかった。それに、ウェスカーの言うように警戒するに越した事はない。アンブレラ情報部の工作員は、電波の妨害や傍受など朝飯前なのだ。反逆や情報漏洩には常に目を光らせているから下手な真似は出来ない。
──大丈夫よ、疚しい電話じゃないんだから。
そう覚悟しても尚、リナの指はボタンを押すのを躊躇った。ウェスカーは「気になったから」という個人的な理由が通用する相手ではない。何よりも結果を求める男で、あれほど期待を押し付けて行ったのだから、それなりの報告がなければ即座に電話を切るかもしれない。
リナは書棚の観察ファイルを探し、最近別の開発チームから入手した実験データをきっかけ≠フ材料に使う事にした。それはつい先月、実験中の事故という偶発的な形で発見された『t-ウィルス』の変異体のデータで、初期段階のために情報部も把握していない。新たな変異体の発見も進展の一つに違いない。ただ、ウェスカーが興味を示すかどうかは別問題だが。
「…全く、手間を掛けさせるわね」
勝手に右往左往したのを相手のせいにして、ようやく通話ボタンを押した。一度コールが鳴り始めると、不満を言う余裕もなくなった。
研究所の内線では幾度も電話を交わしているのに、番号が違うだけでこうも緊張するものなのだろうか──。頭の中で会話の順序を整理しようとファイルを眺めたが、コールが4回鳴ったところで相手が出てしまった。
「…はい」
と、やけにくぐもった声が受話器越しに言った。あまりに不鮮明な低音で、それがウェスカーのものなのかわからず、慌てて番号を再確認した。
「あ、あの…ウェスカー主任でしょうか? 私です、リナ・オーレンです」
「あぁ、リナか。久しいな、何年振りだ?」
名前を聞いた途端、男の声色は警戒を解いた。抑揚のない声に嘲笑と厭味を含んだ台詞──いつもなら腹を立てるところだが、久し振りに聞いたそれは過酷な状況にあったリナを安堵させた。
「今、お時間を頂いてもよろしいですか?」
「それは構わんが、内容によっては切らせて貰う。収穫があったのなら喜んで聞こう」
──やっぱり言ったわね。
この男が「ただ電話しただけ」という女々しい理由を許すはずがない。リナは予想通りの展開に笑い堪えながら手元のファイルを捲った。書類には『宿主ゲノムの変異』と即席で付けられたタイトルが記されている。
「まだ初期段階のもので、『G』と関連がないですが、よろしいですか?」
「君が必要と判断したのなら間違いないだろう。そう信じたいものだ」
ウェスカーはさらりと重圧を掛けると、「では報告しろ」と素っ気なく催促した。それはいつも内線で聞いていた上司の口調で、きびきびとした指示は意欲を湧かせる。リナは自然と姿勢を正して、ウェスカーが興味を示した変異体の一端を説明した。
「先月、特別研究チームが五体の『t』被検体を解剖していた時、うち2体が突然活動を再開して研究員1人を襲いました。その凶暴性と行動力は通常の数十倍にも及び、襲われた研究員は即死。直後、処分された被検体を再度解剖したところ、体組織が大幅に変化していたそうです」
「ほう…死亡事故か。確かこちらにも報告書が来ていたな」
すると、受話器越しにキーボードを叩く音が聞こえた。カタカタと耳に心地良い音を背景に冷静な声が続ける。
「その被検体のサンプルから、他に目立った変化はあったのか?」
「データによると、急激な細胞の活性化が見られます。外見にも多少変化がありますし、特に筋力の発達が著しいですね。5体の被検体はどれも殺処分後に解剖に回したもので、事前に生命活動の停止も確認されています。宿主が致命的な損傷を負ったため、突然変異を引き起こしたのかもしれません」
報告書を読んでいるのか、リナの報告に耳を傾けているのか、衣擦れとキーボードの音以外は何も聞えなかった。
雑音がないため、今ウェスカーがいる場所はアンブレラ支社ではないのだろう。情報部は研究員と違って自宅出勤が通常だから、この時刻なら仕事を終えて自宅で休んでいても不思議ではない。もしそうだとすれば、最初の声がくぐもっていたのも説明が付く。
──もしかして、寝ている所を起こしたのかしら。
相手の状況を把握した途端、忽ちリナの脳は科学者から一人の女性に戻って、気まずさと気恥ずかしさに襲われた。叩き起こしてまで報告する内容ではないし、この変異体に関心を持たなければ単に休息を邪魔しただけになってしまう。沈黙に固唾を呑んでいると、受話器から極めて冷淡な声が返って来た。
「…その被検体とやらはゾンビか。こんなノロマに殺されるとは間抜けな奴だと思っていたが、そんな事情があったとはな。担当者の報告不備だ」
「まだはっきりとした結果が出ていなかったからじゃないですか?」
「それでも新種の変異体を確認したのなら報告すべきだ。担当は…あぁこいつ≠ゥ。まぁいい、元々使えん奴だ」
手元の報告書を見たのか、ウェスカーは一人納得して毒の含んだ呆れ声を漏らした。この不機嫌の矛先がこちらに向くのではと肝を冷やしたが、リナの報告には大いに関心を示した。
「その話、興味深いな。死の淵が体組織の強化を齎すのであれば、他の生体でも同じ現象が起こる可能性がある。その変異体の研究は進めるべきだろう。今、手元にデータがあるのなら、私の端末に送ってくれ」
「わかりました。担当者にも報告するよう伝えておきます」
リナは自室のパソコンにデータの入ったCD-ROMを挿入して、ウェスカーのパソコンにデータを転送した。電話をするきっかけ≠ノ咄嗟に選んだデータが、ここまでウェスカーの関心を引くとは我ながら上出来だ。
転送完了のメロディが鳴ると、受話器から「よくやった」と聞えたので、リナは思わず微笑んだ。1年振りに受けたウェスカーの褒詞は一段と心地良かった。
「出来ればこの件も君に携わって貰いたいのが…『G』に『タイラント』、さらにこの『宿主ゲノムの変異』を任せるのは少々過酷か?」
「ウェスカー主任の命とあればやりますよ。過労死しそうですけど」
「では、やめておこう。優秀な助手を失うのは痛い。バーキンにも部下を死なせないよう忠告しておくか」
ウェスカーが皮肉混じりに冗談を言ったので、リナは笑いながら「そうして下さい」と返しておいた。
情報部に転属しても、ウェスカーは何も変わっていなかった。ただ厳しいだけでなく、時には冗談や褒詞を交えながら部下を鼓舞する。誰よりも人の扱い方に長けた有能な上司のままで、リナは変わらない皮肉混じりの談話を喜んだ。実験続きで談話を楽しむ機会が少なかった事もあったが、心から笑うのは久しかった。
「それで、ウェスカー主任の方はどうなのですか?」
「あいにくだが、処理する仕事が多くてな。スペンサーに近付く事も適わん」
「どうなのか」というのは『情報部の仕事はどうなのか』という意味であって、計画の進行状況を聞いた訳ではないのだけれど──。リナは内心弁解したが、報告内容からそちらに受け取られてしまうのも当然だった。どうやら躊躇いもなく創始者の名を出してしまうところも変わっていないらしい。
「大丈夫ですか? その名前を出しても…」
「問題ない、ここは私の部屋だ。他に誰もいない」
──やっぱり自宅なんだ。
しかし、自宅にしては生活音がまるでしない。キーを打つのを止めてしまった今、あるのは静寂だけだ。機材の少ない車内を思えば、無駄なものは置かない主義なのかもしれない──と、全く無関係な事を考えて頭を振った。相手の私生活を探ったところではしたないだけで、ウェスカーの休息を邪魔したのは事実だ。
「すみません、お休みのところを邪魔してしまって」
「構わん、先の報告で一つ貸しにしておく。君の方こそ呑気に電話をしている暇があるのか? 研究放棄はバーキンが最も嫌うところだ」
「大丈夫です。3時まで仮眠すると言って出て来ましたから」
言いながら、リナはふと時計を見た。早いもので30分も経っている。大丈夫とは言っても、夜分遅い電話で休息を妨げられたウェスカーにしてみれば迷惑な話だろう。勤務時間が不規則な研究員と、一般の勤務体制を取っている情報部とでは環境が根本的に違うのだから。
案の定、ウェスカーはリナの返答に溜め息を吐いて、
「なら、さっさと休め。君には常に聡明であって貰わなければ困るのだ。疲れて役立たずにだけはなるなよ」
と、ぶっきら棒に言うと一方的に電話を切ってしまった。1年振りにも関わらず、別れの挨拶もなくぶつりと電話を切るとは、相変わらず愛想の欠片もない男である。
「おやすみなさい、冷たい人」
切れた電話に毒吐いたリナの口元は微笑んでいた。
よほど眠たかったのか、機嫌の悪さを強調していたが、厳しい忠告は婉曲にリナを気遣っている。これがウェスカーの気遣い方だと知っていたから、返って可笑しかった。おかげで今はもう実験の疲れも忘れて、心身は安らいでいた。
──こんな人に安心するなんてね。
ウェスカー相手に安堵するとは、以前なら到底考えられない事だった。しかし、研究所を離れてウェスカーの重要さを痛感し、リナにとって欠かせない上司であり同志であると再認識した。そして──ウェスカーを上司以上に敬愛している事にも気付いた。
今思えば、素顔と対峙すると鼓動が乱れたのは、顔が良いとか、声が良いとか、それだけの理由ではなかったのだろう。見た目だけが気になる男なら、職場が変わった程度で寂寥感を覚える事はない。電話を掛けるだけで緊張する事も、厳しい言葉に安心する事も、上司の転属に意固地になる事だって普通の部下≠ネらばしないのだ。
「きっと好きなのね、私」
これが恋慕≠ナあるという確信を得て、リナは失笑した。動揺や躊躇はなかった。以前から自分の中の異変には気付いていたし、上司として尊敬し、異性としても魅力的な相手であったから、惚れても意外だとは思わなかった。
ただ、感情の見えない男に今まで忘れていた感情を抱いた事は少々皮肉だと思う。それも、自ら異論を唱えている鬼畜極まりない研究所の中で。これではアネットの事は言えない──いや、今ならば彼女の気持ちも少しわかる気がした。
──私も普通じゃないみたい。
ベッドに横たわり、近付くまどろみの中でぼやいたが、胸中は以前より増して安らかだった。
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