『画策』

 新年を迎えても研究所の灯りは消える事はない。帰省する事になったのも、事前に休暇を貰ったリナと他2人の研究員だけだった。その中にアネットもいたが、バーキンは研究所に篭ったままだった。彼にとって一人娘よりも『G』が大切なのである。帰省しなかった他の研究員もバーキンと似たようなものだろう。

 一時帰省を前に、リナは規定の検査に追われていた。荷造りは30分ほどで済むが、ウィルスと情報流出防止に行なわれる検査が問題だった。衛生面の検査はもちろん、バッグは中に下着があろうとお構いなく守衛に引っ掻き回される。帰省の度に無礼な検査にうんざりして止めてやろうかと思うのだが、今回はウェスカー直々の命令で食事にまで誘われているから止める訳にはいかない。
 会食の目的が思惑を語る場≠ナあっても、ウェスカーと2人きりで食事をするのは抵抗があった。助手になって大分距離は縮んだものの、仕事以外では一切交流がない。プライベートとなればどうすべきか対応に困る。第一、あの男が普段どんな会話をするのか全く想像が付かない。研究所内なら上司と部下の関係で割り切る事も出来るのだが。
 そんな不安を抱える一方、久し振りのディナーに心を躍らせる自分もいた。20歳でアンブレラ社員になり、さらに研究員に抜擢されてアークレイに配属されてからは研究のために全ての娯楽を断っていた。多忙な事も理由にあるが、異質の研究所で、異質の研究員達との交流は無縁だと思っていたからだ。そのため、こんな形でも職場の人間と交流を持てた事は単純に嬉しかった。

 ──でも、まさか相手があの男だとはね。

 研究員の中でも一番交遊とは無縁そうな男。それでもリナが研究所で心に余裕を持てたのはウェスカーの助力のおかげでもあった。無感情な野心家だが、聡明で容姿も悪くないから一人の異性として魅力もあれば、個人的に関心もある。
 リナは本来の目的も頭の片隅に残しながら、好奇心旺盛だった若かりし頃の感覚を思い出して雀躍していた。

 *

 当日の早朝、職員が運転する送迎車で研究所を発った。森林地帯にあるアークレイ研究所の主な移動手段はヘリだが、それは幹部が研究施設間の移動に使うものであって、普段はアークレイ山中を走る列車『黄道特急』を使う。アークレイ研究所と、今は閉鎖されたアンブレラ幹部養成所を繋ぐアンブレラ職員の交通手段だ。駅までは研究所職員の送迎車で移動する。送迎車といっても、森を安全に走行する事を前提にした軍用ジープだ。
 陰鬱な森にはそぐわない豪勢な外観の列車に乗り、車窓からラクーンフォレストの景色をしばらく眺めると、ようやく街並みが姿を現す。工業都市『ラクーンシティ』である。
 橋の下を流れる大河、立派な時計塔、人通りの多い街路──その景観には必ずアンブレラのロゴマークが映り込む。ラクーン市内の企業はアンブレラ企業が大半を占め、市民の3割がアンブレラに属している、まさにアンブレラ様様の都市だった。

 『人々の健康を庇護する』という社訓を掲げて、クリーンな製薬会社を全面に押し出したアンブレラの看板広告。ラクーン市民は、その傘≠ェ穢れている事を知らない。人々のために掲げた傘≠ヘ、己の穢れた研究を覆い隠すための傘≠ネのである。
 自分もその傘の下で穢れた研究に手を染めている──平穏な街並みを見ると、リナは罪悪感に苛まれる。もし非道なB.O.W.開発を知っていれば、研究員の道を選ぶ事はなかっただろう。
 しかし今は別の新たな目的≠見つけたおかげで、少しばかり慙愧の念も薄れていた。研究員だからこそ出来るアンブレラの真意を明らかにする≠ニいう目的。奇しくも同じ疑問を抱くアンブレラ幹部候補社員で主任研究員のアルバート・ウェスカーという心強い味方がいる。
 リナはアンブレラの真意を突き止めた暁には大罪を公にする行動を起こすつもりでいたが、自分の浅知恵でどこまで出来るかは自信がなかった。たった一人の研究員が大企業相手に訴え掛けたところで勝てると思えない。だからこそウェスカーの意見を聞き、良案があるのならそれに従うつもりだった。聡明なウェスカーが思案した計画なら十分信用に値する。冷徹なウェスカーの事、ただ上層部の真意を明らかにして終わりにはしないだろう。
 この日、ウェスカーは長らく沈黙を貫いていた思惑を語ってくれる。どんな話が飛び出すのか不安もあったが、期待の方が大きかった。

 路面電車で市街地を通り、リナは約半年振りに自宅マンションに帰宅した。マンション近くにはラクーン市警察署があり、お洒落なブティックもある。交通に不自由なく、買い物も便利、そして治安も良いという最高の物件だったが、年に数回しか帰省しないおかげで、ほとんど宝の持ち腐れ状態だった。埃が積もった部屋を見ると、「もう自分の部屋など要らないのでは」と思ってしまう。
 放置された姿見の鏡に自分の姿が映って、リナは溜め息を吐いた。ベージュのコートに白いYシャツ、黒のパンツ。肩まである栗色の髪を後ろに束ね、薄化粧で済ませた姿は中年女性のようで、若さも女性らしさの欠片もない。

 「…さすがに髪ぐらいセットした方がいいわね」

 話し合いでもレストランに普段着の薄化粧で行く訳にはいかない。
 クローゼットを覗くと、何種類かワンピースが出て来たが、流行遅れのものばかりだった。その前に、今の流行は何なのか──そう考えて、鏡に映った自分が老け込んだ理由を悟った。研究に耽ったおかげで、完全に時代の波に取り残されている。
 約束の6時まで余裕があったので、リナは休む間もなく近場の美容院に行き、その帰りにブティックに寄った。「食事に誘われている」と言うと、店員に次々と青のワンピースやらハイヒールと洋服一式を持って来て、結局薦められるまま購入した。
 自宅で洋服一式を身に付けて化粧を施すと、ようやく歳相応の女性になった。少なくとも研究員の面影はない。

 「…これじゃあ、何だかデートに行くみたいね…」

 リナはドレスアップした姿を見て苦笑した。上司との会食でわざわざ美容院に行き、洋服一式を購入する女がいるだろうか。たかが外食に誘われた程度で、遺伝子工学を解くよりも苦戦し、半日を費やした自分が恥ずかしい。

 ──いいや、だらしない格好で行くのは返って失礼よ。

 と、自ら反論して納得すると慣れないヒールに足をもたつかせながら自宅を出た。


 待ち合わせ場所に指定されたセントミカエル時計塔は、ラクーン市の待ち合わせスポットでもあった。新年という事もあって人が多く、恋人と思しき男女が圧倒的に多かった。有名な場所だから待ち合わせに指定した理由もわかる。だが、男女2人が車で食事に向かうには大いに誤解を招く場所でもある。
 そんな場所のせいか、ウェスカーを待つ間も落ち着かなかった。一体どんな車で、どんな格好で、どんな店で食事をするのか──あらゆる妄想が浮かんでは消えていく。相手がいかにも仕事の上司≠ニいった風なら興味も湧かないが、自分と歳が3つしか違わない同年代、それも大分容姿の整っている男だ。その素顔は未だに慣れていない。

 ──何を考えているの、落ち着きなさい、リナ。

 理性が見当違いな事ばかり考えるリナを叱責した。久し振りの外食だから浮つくのもわかる。しかし、相手はあの冷徹無情なウェスカーだ。どんなに容姿端麗だろうと、中身は野心と皮肉の塊ではないか──。
 必死に言い聞かせていると、一台の黒い車が滑るようにリナの前に停車した。少し通り過ぎた車はバックライトを点滅させ、サイドミラー越しにサングラスの男がこちらを見ている。
 見間違えるはずのない若き上司の姿に、心臓は破れんばかりに跳ね上がった。葛藤している最中に現れるとは、厭味かと思うくらいの絶妙なタイミングと登場の仕方である。颯爽と現れた外車に周囲も注目し、おかげで平常心は半分近く失われた。

 「リナ、早く乗れ」

 ウェスカーは開けた窓から愛想なく急かし立てた。リナは人々の視線から逃げるように車両の反対に回り、ドアを開けて慌しく助手席に座った。ドアを閉めたと同時に、ウェスカーはハンドルを切って車道に車を出した。

 「悪いな、少し遅れた。言い訳は好かないのだが、会議が長引いてしまってな」

 そう言われて、リナはふと腕時計を見た。確かに予定より10分ほど過ぎている。余計な思考を巡らせていたおかげで完全に時間を忘れていた。

 「いえ、お忙しい中、迎えに来て下さってありがとうございます。抜け出すのは大変だったでしょう?」
 「君はプライベートでも丁重なのだな。礼には及ばん、自由に出入り出来るのも主任の特権だ」

 そう言って、ウェスカーはにやりと笑って見せた。
 その服装は真っ黒なスーツとネックシャツで固めていて、プライベートでもサングラスと黒を基調としたスタイルは変わっていなかったが、紳士的でミステリアな知性を引き出している。手馴れた様子で運転する仕草がより男の魅力を強調させる。
 以前から、主任研究員の肩書きと白衣さえ取り除けば知的な男性として通用するのでは、と思っていたが、全くその通りだった。冷静で有能で端麗で、信用も地位もある。男性としての完成度は遥かに高い。もし、これで素顔であったなら観察する余裕もなかっただろう。今でさえ、そわそわとして落ち着かない。座り心地の良いシートの弾力が返って平常心を乱す。

 ──駄目駄目、この会食も仕事の内よ。

 気を紛わせようと、リナはさりげなく目線を車内に滑らせた。高級感を漂わせていた外装と違い、内装は至ってシンプルだ。座席シートはグレーで統一され、備え付けのサイドボードとエアコンがあるだけで、ラジオや音楽機材などは一切置かれていない。あるのは後部座席に置かれた私物と思しきトランクと黒のロングコートだけだ。無駄を省いた落ち着いた車内は男の性格がよく表れている。

 「それにしても、今日は随分と様子が違うようだが?」

 不意に鋭い指摘が入って、ふと我に返った。ウェスカーは前方を向いたまま口角を吊り上げている。

 ──やっぱり誰だって気付くわよね。

 あの地味なパンツスタイルから脚の見えるワンピース姿に変わっては誰だって違和感を抱く。当然の指摘だ。しかし、その口元に浮かべている実に厭味ったらしい薄ら笑いは何なのか。意地の悪い嘲笑にリナも厭味に、そして気丈に振舞った。

 「今日はウェスカー主任直々のお誘いですから、きちんとした姿でお応えしないと失礼でしょう? ここは研究所ではない訳ですし。白衣姿の方が良いと言うなら着替えますけど?」
 「ふっ、それは失礼。余計な気を使わせてしまったかな。では私も、君の期待に応えなくてはな」

 リナの高慢ちきな貴婦人ぶった言い方に、ウェスカーも紳士ぶった言い方で返した。常に冷めた反応しかしない男が、相手のペースに合わせて冗談を返すなど珍しい。これも研究所とプライベートの違いなのか。意外な一面を垣間見た事が嬉しくなって、調子付いたリナは少しおどけて尋ね返した。

 「もしかして、私に気が付きませんでしたか?」
 「気が付かなければ車を止めないだろう。自分の部下と他人を間違えるほど愚かではないぞ」
 「それは残念。意外と溶け込んでいたと思ったんですけど」
 「君は自分の特徴に気付いていないようだな。その髪色と立ち姿でわかる。この目でいつも見ているからな」

 ちらりと向いた青い瞳と視線が合い、リナは気恥ずかしさを覚えて目を伏せた。
感情の見えないあの顔で、女性の髪色から立ち振る舞いまで観察していたとは趣味が悪い。それでも嫌悪より喜悦に満ちたのは、相手が有能で玲瓏な上司だったからで他意はない──と思う。どちらにしろ、余計な事を聞いてしまったと後悔した。

 車は10分ほどで川沿い通りに面したレストラン前で停車した。外観からして気品漂うレストランで、無意識に背筋を正してしまうほどだった。停車した車にウェイターが数人で迎えると、リナは益々緊張で竦み上がった。

 「ラクーン市街にこんな良いレストランがあるなんて知りませんでした」
 「見た目は良いが、それほど大した店ではない。ここの料理が君の口に合うかどうか心配だ」

 ウェスカーは自ら予約した店に手厳しい評価を下したが、車外のウェイターには一転して愛想良くキーを渡し、助手席のドアを開けて自らリナをエスコートした。ウェイターは相手が厭味な客とも知らずに「お待ちしておりました、ウェスカー様」と改めて一礼して、2人を店内に案内した。
 店内には豪勢なシャンデリアがあり、真っ赤なカーテンと絵画が飾られていて、研究所の洋館を彷彿とさせる内装だったが、クラシックな音楽と真っ白なテーブルクロスが優雅な気品に溢れていた。テーブルを囲む客層も高価なドレスや燕尾服で着飾り、明らかに階級が高い。これを「大した店ではない」と言うのなら、どんなものが「良い店」なのか。己を卑下した発言だと思いたい。いずれにせよ服を新調しておいて正解だった。
 案内された席はラクーンシティの夜景が一望出来る特等席だった。さすがのウェスカーも店内ではサングラスを外し、ワインを注ぐウェイターにも愛想を振り撒いていた。素顔とサングラス姿では、なぜこうも態度が変わるものなのかと常々不思議に思う。

 「ひとまず乾杯といこう。休日に時間を割いてくれた君の厚意に」

 真正面から見据える整った微笑に、リナは照れ笑いを浮かべて返した。
 マナーとしてサングラスを外すのは当然なのだが、慣れない素顔に不慣れな会食も相俟って緊張が増した。端整な顔立ちもそうだが、冷たくも美しい青色の瞳が全てを見透かしているようで、たじたじとなる。
 注がれる視線にたじろぎながらワインを口にすると、ウェスカーも続いてグラスを口元に運んだ。ここでもレディーファーストを重んじているらしい。

 「職場を出る際に君の勤務表を確認したが、前回の帰省が半年前になっていたぞ。どうやら私は君に過剰労働をさせていたらしい」
 「私が休暇の申し出をしなかっただけです。実家に帰るにもニューヨークでは時間が掛かり過ぎるし」
 「君はラクーン大学の医学部出身だろう。この街に同期はいないのか?」
 「いますけど、友人も忙しい身ですから」

 自分と違ってまともな職業だけど──と、内心で付け足す。同期は人を救う職業に対して、自分は人を殺す職業で、会うにも後ろめたさがある。固い笑顔を見せるリナに、ウェスカーは首を傾げて「やむを得ない」と憂うような声で言った。

 「学友とはそういうものだ。それでも陰気臭い寄宿舎で過ごすよりはマシだろう」
 「そうですね。この食事で益々充実した休日になりました」
 「それは光栄だ」

 しばらくそんな他愛のない雑談を交わしながら、次々運ばれる料理に舌鼓を打った。会話の間もウェスカーの言動に注目していたが、リナへの気遣いもウェイターへの対応、テーブルマナーまで全て完璧だった。レディーファーストは常識でも、異性に優しくされると弱いものだ。たとえ計算の行動であっても。
 それに加えて料理も全て一級品で、美しい夜景と美味しい料理に緊張も解れていった。食後のデザートが運ばれて来ると、リナは年甲斐もなく喜色満面に微笑んで改めて礼を言った。

 「こんなに素敵なお店に誘って頂いて、何だか申し訳ないです。ここまでして頂いて良いのですか?」
 「時に部下を労うのも上司の役目だ。同胞の信用を得るためにもな。気に入って貰えて何よりだ」

 ふと目的を臭わせる物言いをしたので、リナははっとして男の顔を見た。ウェスカーは口元に笑みこそ湛えていたが、見据えていたのは研究所で見せた野心を湛えたあの瞳だ。

 「場の雰囲気も和んだ頃だ。本題に入っても構わないな?」

 どうせならデザートの後にして欲しかったと思ったが、リナは緩み切っていた表情を引き締めて頷いた。すると、ウェスカーは両肘を突いてリナを見定めるように一段と鋭い眼光を向けた。

 「先に忠告しておくが、聞いた以上は二度と後戻り出来んぞ。私と共謀するとは、そういう事だ」
 「わかっています。覚悟がなければ研究員にはなっていません。ウェスカー主任の助手にも」

 平然と答えると、ウェスカーは「それもそうだな」と愚かな事を聞いたとばかりに鼻で笑った。獣の如き双眸に怖気付かなかったと言えば嘘になるが、野心を露にしたウェスカーに安堵していた。紳士的な姿も様になっていたが、やはりこちらの方が彼らしい。

 「その前に、君に聞いておきたい事がある。仮に上層部の思惑と証拠の全てを手中にした時、君はどうするつもりでいる?」
 「もし可能なら、世間に公開してその大罪を償って貰うつもりです。無難な方法かもしれませんけど」
 「確かに無難だな。そして無謀だ。法廷の場で君の話に耳を傾ける者が果たしてどれだけいるだろう。相手は世界を股に掛ける大企業で、その傘下にある街や企業は山ほどある。あれほど大掛かりで性悪な施設を設けるために、上が今まで正等な手段を取って来たとでも思うか? 逆に訴訟を起こされるのがオチだ」
 「それはわかっていますけど…」

 あまりに的確に的を射られて閉口せざるを得なくなった。一般常識が通用しない相手に常識的な手段を取っても通用しない。それでも国をも謀る汚濁企業をのさばらせておくのは気に入らない。

 「リナ、君はあの洋館を建てた建築家を知っているか?」
 「えぇ、ジョージ・トレヴァー氏ですよね? 変わり者で行方不明になっているとか」

 唐突な問いに眉を顰めながら答えた。
 アメリカでは有名な建築家だから当然知っている。何でも風変わりな建物を好み、あの奇怪な洋館の設計を手掛けた事からも伺える。だが今現在、ジョージ・トレヴァーは行方不明になっている。変わり者でも有名だったから、自ら作った建物内で迷子になったとか、スランプで発狂したとか、当時は勝手な噂が飛び交っていた。確かトレヴァー氏が行方不明になったのは洋館が完成して間もない頃だったはずだ。
 ジョージ・トレヴァー失踪の情報を思い返している内に、リナは偶然過ぎる一致に悪寒を覚えた。

 「…もしかして、何か関係があるのですか?」
 「全く無関係とは言い切れないだろう。あの洋館は施設を隠すために建てられた一種の罠だ。部外者がその構造を把握している事は果たして利になるだろうか? あくまで私の推測だが、上の連中なら機密保持と称してやり兼ねない」

 たとえ証拠がなくても、どこからか研究所に運ばれて来る被検体を見る限り否定は出来ない。もしや運ばれて来る死体袋の中に関係者も混ざっているのでは──と考えて、リナは思わず口元を手で覆った。上層部の鬼畜極まりない思想に吐き気がしたのだ。

 「失礼、食事中にする話ではなかったな。要するに、私は君に安易な行動を慎んで貰いたいのだ。つまらん事で共謀者を失うのも心苦しいし、真意を知る前に共倒れする訳にもいかないだろう?」
 「では、ウェスカー主任はどんな方法を取って然るべきだと思うのですか?」
 「わざわざ危険を冒してまで楯突く必要もあるまい。私なら、今ある地位と上の期待感を利用して自滅するように仕向けるな」

 目を細めてにやりと口角を吊り上げた表情は底冷えするほど涼しげだった。ウェスカーの場合、『正義の鉄槌を下す』よりは『目には目を』の報復精神の方が合っている。その方法が何であれ、この男もやり兼ねない≠ニ思う。

 「まぁ、遅かれ早かれボロ≠ヘ出るだろう。君や外部の者が手を下すまでもないかもしれんぞ?」
 「綿密な計画の上で行なっているのに、そんな簡単にボロを出すでしょうか?」
 「考えてもみたまえ、たとえ外界から隔離された精密な施設でも、我々が扱う『t』はナノメートル単位の微小な物質だ。しかも拡散率が高く、性質は極めて不安定だ。そんなものが他の何を媒体にして外部に漏洩するかなど、どんな数式を用いても予測不能だ。いかに厳重な監視下に置いても、人間が100%制御出来る代物ではないのだ」

 そこまで話すと、一旦ワインで饒舌な口を潤してさらに続けた。

 「もし漏洩を危惧するのならあの場所≠選んだのはあまりに安直だ。多くの生態系が潜む中で『t』が流出すれば、瞬時に莫大な被害を被るのは目に見えている。一種の植物が『t』の影響を受ける事はすでに証明済みだが、我々が把握している『t』の特性はごく一部でしかない。最悪の状況に陥った時、我々が宿主を特定するのは困難極まりないし、二次被害が及ぶのも時間の問題だろう。上層部も最悪の事態は予測しているだろうが、これではまるで膨大な金を掛けた施設と『t』を最初から不意にする覚悟ではないか」

 それは自問自答しているようでもあり、上層部──主にスペンサーに向けて発せられた問い掛けにも聞こえた。ウェスカーの疑問はリナの疑念とは全く異なるもので、目から鱗が落ちた。
 言われてみれば、アークレイは他の研究施設よりも奇怪だ。世界3地域に及ぶ研究所は、全て二次被害を回避するために孤島や南極だったりと外界から完全隔離されている場所にある。なのに、アークレイだけは人口10万人の中規模都市と隣接し、森林地帯を含めて最も相応しくない場所に設置されている。ウィルスが流入、拡散する経路は無数とあり、この地域で『t』が漏洩すれば想像を絶する事態が発生するのは明らかだ。
 なぜ今まで気付かなかったのか──。実験の残酷さにばかり目が行き、二次感染性は全くもって盲点だった。
 各研究施設には万が一に備えた起爆装置があったが、それは証拠隠滅に適してもウィルス漏洩となればもはや効果を成さない。当然ながらアンブレラにとって壊滅的な被害になるのは瞭然としていた。B.O.W.研究材料の喪失だけでなく、大手企業としての信用問題による損害もある。アンブレラが製薬企業である以上、信用の欠落は致命的と言っていい。
これではアンブレラは自ら危険な道を選んでいるようなものではないか──。

 「確かに妙ですね…何だか『t』の拡散を望んでいるみたい。だとすれば、それこそ法廷で裁かれる事態にまで発展すると思いますけど」
 「もしそうなれば君にとっては好都合だろう、そう簡単に罪を認めるとは思えんがね。私は上層部が自滅しようとどうでもいい問題だが、我々に何をさせるつもりか知っておく必要はあるだろう。何も知らずに素直に従うのは性に合わないものでね」
 「でも、どうやって見定めるつもりですか? 今でさえ総帥のお考えがわからないのに」
 「方法は考えてある。今日はそれを教えるために君を誘ったのだ」
 「その方法って何です?」

 ついに『限界』の意味がわかる──リナが前のめりになって食い付くと、ウェスカーは悠々とグラスを弄んで、もったい振らせてから一言言った。

 「情報部に転属する」
 「転属って…研究員を辞めるんですか?」

 重大発表を実にあっさり言うものだから、つい声量を抑える事を忘れてしまった。隣席の客が一斉に視線を向けて来たので、リナはワインを飲む振りをして誤魔化したが、一方でウェスカーは平然と回答した。

 「今のポジションでは限度がある。より多くの情報を得るには転属した方がいいだろう。そもそも情報部は諜報活動をメーンとした部署だ、そちらの方が断然動きやすい」
 「それはそうですけど…いきなり転属すると言って受理されるでしょうか? プロジェクトも途中ですし」
 「その心配は不要だ。今、私が辞めると言っても異論を唱える者はいまい。指揮もバーキン一人で間に合っているし、近々『G』の企画案も完成する。となれば、私が離脱しても当然の成り行き≠ニ見るだろう。まぁ、君は違うようだが」

 ウェスカーが鼻で笑ったのは、以前『限界』と聞いて取り乱したリナの言動を思い出したからだろう。たとえ周囲の見方がそうであっても、助手という立場上、上司の能力を誇示したいし、転属すると聞けば当然止めるのが筋だろう。実際にリナはウェスカーが『限界』だとは未だに思っていないし、認めてもいない。だからウェスカーの皮肉にも動じなかった。

 「私はどうすればいいのですか?」
 「君には引き続き現在のプロジェクトに参加して貰う。そしてバーキンの下で『G』の開発に尽力しろ。私に代わって『G計画』をその目で見届けるのだ。私にとっても『G』は非常に興味深いのでね」
 「私がバーキン主任と『G』を…ですか? 大丈夫でしょうか?」
 「君なら問題ない、私が認めた自慢の助手だぞ? バーキンも君の才能は認めているから、拒否する事はないだろう。その時が来たら私からバーキンに頼んでおく」

 ──そういう意味で聞いた訳じゃないのだけれど。

 ウェスカーですら難航した『G』の開発に、自分などが付いて行けるのか、という不安も当然あったが、それよりもバーキンのやり方に付いて行けるのか否かの不安の方が大きかった。
 バーキンは研究が全て≠ニいった男で、科学者としてのプライドは誰よりも高い。学究肌より『マッド・サイエンティスト』の呼び名の方が相応しい。ウェスカーでさえ慣れたのだから、バーキンも時間を掛ければ慣れるかもしれないが、正直なところあまり慣れたくはない。

 「いつ頃、届けを出すつもりですか?」
 「バーキンが『G』の企画案を提出する頃だ。それに乗じれば手続きも簡単に済むだろう」
 「ウェスカー主任は、研究員を辞める事に抵抗はないのですか?」
 「ない。限界を感じているのは事実だ。つまらん意地で現在の地位にしがみ付いていては、本来の目的を果たせない」

 鋭くはっきりと言い返されて、それ以上問い詰める事が出来なくなった。研究員の道を断念する振りをして情報部に転属する──それが最適な方法には違いないし、目的のためなら主任研究員の地位を捨てる事も厭わないと言うのなら、それでいい。
 ただ、リナはどうも腑に落ちなかった。ウェスカーが才能の限界を理由に転属する事に抵抗を感じる。なぜ自分が意固地になっているのかわからないが、とにかく何だか気に入らなかった。

 「話はここまでだ。進展があればまた報告する」

 ウェスカーは一方的に区切りを付けると、ウェイターを呼び付けて会計を済ませてしまった。

 レストランを出て、ウェスカーの車で自宅近くまで送って貰う事になったが、胸中は依然として靄付いていた。口数が少なくなったリナの異変に、ウェスカーが気付かないはずがなかった。

 「不服そうだな」
 「不服という訳ではないですけど…」

 これも不服と言うのだろうか。いや、ウェスカーの画策に異論はないから不服ではない。リナが一方的に、ウェスカーのプライドが傷付く事に抵抗しているだけなのだから。

 「私は君に期待しているのだ。転属を決めたのも、君なら今後の研究を任せられると思ったからだ。そんな私の期待を裏切ってくれるなよ」

 ウェスカーは普段の表情の見えないサングラス姿で、鼓舞とも威圧とも取れる冷めた声色で言った。
 そう──これはウェスカーの期待と信用の表れなのだ。信用されていなければ、あれほど重大な問題を語る事はしなかっただろう。それなのに、どうも最近つまらない事で情緒不安定になってしまう。これから本格的にアンブレラの陰謀に挑もうとしているのに、こんな事で躓いている場合ではない。

 「わかりました。転属した後の事は私に任せておいて下さい。期待に応えてみせます」
 「それでこそ私の助手だ」

 リナの気丈な返事に、ウェスカーは満足気に口元を綻ばせた。
 警察署の近くで車を降り、去り際に「明日は遅れるなよ」と一言釘を刺されて、その日はウェスカーと別れた。

 部屋に戻ったリナは、しばらくそのままの姿で一日を振り返った。半年振りの休暇は慌しい内に終わってしまったが、胸中は喜々として満ち足りていた。
 ウェスカーから絶大な信用を得ていた事もわかったし、誰も知らない本心と一人の男性としての一面も見る事が出来た訳だ。自分だけが特別な扱いをされた気がして、そう思うと少しばかり優越感に浸った。

 ──ウェスカー主任の転属、いつ頃になるのかしら。

 リナはふとカレンダーを眺めて、来る日を予想した。
 『G』の企画案が受理されようとされまいと、ウェスカーは研究員を辞めるだろう。もちろん転属した後も同志としての関係は続く訳だが、あと何日ウェスカーの助手として過ごせるのか──そう思うと少し寂しくなった。
 休日の夜は、翌日には異質の研究員に戻ってしまう自分に嫌気が差すのに、この日だけは明日が来る事を待ち望んだ。

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