リナがウェスカーの部署に異動し、彼の助手となって早半年が過ぎようとしていた。
事の詳細は半年前、ウェスカーの厚意に絆されて、ついうっかり研究に対する本音を吐露してしまった事が原因だ。自分の落ち度とはいえ、半ば強制的に助手にされた状態で、なおかつ冷徹な上司の下では苦労は目に見える──と思っていたが、案外有意義な時間を過ごしていた。
元々彼の評判は知っていたが、ウェスカーの冷静さと思考力は想像以上のものだった。実験が難航しようと、大きな難題に躓こうと顔色一つ変える事なく、すぐさま別の視点から事態を分析し、的確な指示を下して解決してしまう。意外な発想と頭の回転の速さで次々と解決案を導き出す様は、研究員の才能を飛躍させるには良い刺激となり、今ではウェスカーの助手となって良かったと思う。
それに、仕事も必要数片付ければ帰宅を許されるし、よほど大きな問題がない限り研究所に泊り込む事もない。たとえ仕事が溜まっていようと、ウェスカーの指示通りに動けば1日の内に終わってしまう。リナがウェスカーに益々畏敬の念を抱いたのは言うまでもない。
そしてもう一つ、主任研究員の助手という立場に身を置いた事で、リナは新たな発見をしていた。ウェスカーの指示を仰ぐため、研究室にはあらゆる部署の研究員達が行き交う。そこで彼等は同僚の愚痴や雑談を溢していき、ウェスカーも部下の前では面倒見の良い上司を演じるらしく、気のない返事をしながらも雑談に耳を貸すのである。今まで知る事がなかった研究員達の素顔を目にして、こんな狂った研究所にもまだ人間らしさが残っていたのだと、リナは安堵した。
中でも頻繁に顔を出すのが、ウェスカーと同じ主任研究員のウィリアム・バーキンだ。彼が研究室に訪れる時は決まって無断で、手には大量のファイルを持っている。そして室内に入るなり「やぁ、リナ。調子はどうだい」と、手元の書類からほんの一瞬視線を上げて簡単な挨拶をし、リナが会釈した頃にはウェスカーと気難しい顔で話し始めるのだ。
この日も、リナが実験サンプルの準備をしていると、バーキンはノックもなしに研究室に入って来た。手荷物も挨拶もいつもと同じパターンだったが、入るなりウェスカーに言い寄った。
「何度やっても失敗だ。一体何が足りないというんだ!」
バーキンは急に苛立った声色で、持っていたファイルをデスク上に叩き付けた。一見温厚そうな外見とは裏腹に感情の起伏が激しく、特に研究の事になると目の色が変わる。
近年、バーキン主導の下『タイラント計画』なるものが始まっていた。この半年間でバーキンはウィルスによる知能低下を克服する新たな変異株の抽出に成功し、究極の生命体『タイラント』を生み出していた。それは限りなく人間に近いB.O.W.で、知能も能力も他を圧倒的に上回る。
しかし、タイラント計画も新たに浮上した遺伝子適合≠フ問題で程なく行き詰った。要するに、その変異株でタイラントになる生体がごく少数しかいなかったのだ。おかげでバーキンはずっとこの調子である。
苛立つ同僚に対して、ウェスカーは頬杖を突いたまま淡々と答えた。
「遺伝子の適合問題は以前から挙がっていた課題だったはずだ。問題を解決していくのが我々の仕事だろう」
「そんな事は言われなくてもわかっている。あらゆる手段をもって対処しているつもりだ」
「その手段というのは夫婦揃って研究室に篭る事か? 今さらまともな手段を使って何になる?例の件≠熏lえておくんだな」
「…ウェスカー、その話はやめてくれ。もう一度やり直してみるさ」
ウェスカーに諭されると、バーキンは表情を曇らせて踵を返した。
2人は同僚というだけあって、彼等の間だけで成立し、進行している話がある。2人の人格上、良い話だと思えないのは気のせいだろうか。
一息吐く間もなく、バーキンと入れ替わりで年配の研究員が入って来た。どうやら実験の経過報告に来たようだったが、話を聞いていれば報告は最初だけで、後半はほとんど自分の苦労話だった。
ウェスカーは資料を眺めながら気のない返事をして、最後に「その調子で頑張りたまえ」と棒読みで鼓舞し、丁重に追い払った。
「主任も毎日大変ですね。それだけ人望があるという事かしら?」
上司の仕事振りに労いを込めて言ったつもりが、ウェスカーには厭味に聞えたようで、わずかに眉間に寄せて不快感を覗かせた。
「ここは呆け老人や研究中毒者の相談所ではないのだがな。どいつもこいつも口煩くて困る」
「研究中毒者って、まさかバーキン主任の事ですか?」
「否定はしない」
さすがに冷静な男も、立て続けに同僚や年配者の冗長な会話に付き合わされると苛立ちを抑え切れないらしい。ウェスカーはバーキンと違い、感情が乱れると口が悪くなる傾向がある。「無能」「愚民」と人を見下す発言が増え、どうでもいい相手は徹底的に突き放す。しかし、ウェスカーが毒吐くのはバーキンかリナの前くらいだから、これも信用の証だと解釈している。
「君も下らん事に口を出す暇があったら手を動かせ。今日はスケジュールが積んでいるのは知っているだろう」
「言われなくても、もう一通り出来ています」
ケースに収めた30枚にも及ぶプレパラートを見せ付けると、ウェスカーは「さすがだな」と感服し、サングラスを外して電子顕微鏡の前に立った。
研究室の椅子に腰掛けるウェスカーは容姿や態度から独裁者のような風体だが、顕微鏡を覗く素顔姿の彼は『大望を背負った若き科学者』といった風で、リナは毎回、差違が生じるこの瞬間に見入ってしまう。全権を担う立場であっても年齢は28歳と研究員の中では若く、『B.O.W.開発の主任研究員』という素性さえ明かさなければ、知的な男性として世間でも十分通用する。
──せっかくの男前が、もったいないわね。
顕微鏡を覗く端整な横顔を眺めながら内心偉そうに嘆いたが、実験の毎日で異性との交流が薄い自分が言える立場ではない。それ以前に、上司を異性として見始めている事自体どうかしている。強引な勧誘の際にウェスカーの素顔を見てからというものの、どうも妙な視点で観察する癖が付いてしまったようだ。非道徳的な研究所で考える事ではない。
「そういえば先日、ヨーロッパの研究所から面白い研究資料を手に入れた。確か『ネメシス計画』とか言ったか。あちらでは順調に独自の開発を進めているようだ」
「ネメシスですか? 初めて聞きました」
「知らなくて当然だ。私が独自に入手した情報だからな」
ウェスカーは顕微鏡を覗き込んだまま、「資料はデスクの中だ」と告げた。勝手にデスクを探っていいものかと思いつつ、いつもファイルを閉まっている一番下の引き出しを開けた。
整理整頓の行き届いた引き出しから目的の資料を探すのは容易だった。世界各国のアンブレラ研究所の名が並ぶ中、『ヨーロッパ第六研究所』の一冊を引き抜いて付箋の立ったページを捲ると、真っ先に『ネメシス』の文字が飛び込んで来た。
「ネメシスは他生物の知能を外部から支配する寄生生体≠ネのだそうだ。それを実験体の脳に寄生させれば、B.O.W.としての性能は格段に上がるだろうな」
「外部から知能を支配する…? それって、半年前まで私がやっていた…」
「確かに発想は似ているが、全くの別物だ」
資料に目を通すリナには目もくれず、ウェスカーはサンプルのデータを取りながら淡々と説明を続けた。
読み進めていくと、『ネメシス』は遺伝子操作によって作り出された知能だけを特化させた『寄生生体NE-α型』の事で、戦闘用の生体の脳に寄生させれば高度な知能を得られるという。リナも以前、衰退した知能を外部操作するための研究をしていたが、全ての被検体が死亡するという最悪の結果で終えている。
それをフランスの研究所でも考案し、一足先に実現させていたらしい。アンブレラには大勢の研究員がいるため、同じ発想を持ち、その人物が自分よりも優れていれば実現する事も十分あり得る話だ。
実際に『ネメシス』の研究データには、リナの研究にはなかった点が複数見受けられる。リナは嫉妬よりも、熟練された研究員の集積データに感銘を受けた。
「先を越されて悔しいか?」
意地の悪い声を聞えた時には、ウェスカーは顕微鏡から顔を上げていた。
「えぇ、少しは。でも、このデータを見れば納得出来ます」
「ほう、君は柔順なのだな。だが、納得するのはまだ早いぞ。ネメシスも完全ではない。生体の死亡率があまりに高いのだ」
ウェスカーはおもむろに傍らに立つと、リナの手中にあるファイルを捲って別紙の書類を指差した。それは被験者の死亡リストで、死亡状況も含めて4ページにも及んでいる。
「寄生後、せいぜい5分が限度といったところだ。異物が無理矢理脳を支配するのだから、生体が受けるダメージが大きいのは当然だがな。試してみる価値はあると思わないか?」
「しかし、5分で死亡してしまうのなら、失敗するのは目に見えています。それに、ヨーロッパ支部が簡単に開発中のサンプルを譲ってくれるとは思えません」
「サンプルは私が直接上層部に取り次げばいいだけの話だ。致死率が高い欠点も、後に我々が解消すればいい。私とバーキン、そして君の3人でな」
勧誘の際にも見せた、野心的で怪しい声色。ウェスカーは、ヨーロッパ研究所で開発した『ネメシス』を自分のものにするつもりらしい。研究で相手を追い越すのではなく、相手の計画を横取りしようなど、怪しいサングラス姿に似合った野心的思想である。
危険な誘いにも関わらず、間近に迫った端整な微笑にリナの鼓動は場違いにも乱れた。こういう時に限って素顔を晒しているのは意図的なものなのだろうか。
「バ、バーキン主任には、もう話してあるのですか?」
「話はしたが、あの通り反対している。バーキンは他人の研究成果を素直に認める男ではないのでね。自力でタイラントを制御しようとしているが…バーキンも馬鹿ではない、必ず承諾する」
自らが主導する計画に他の研究員が持ち出した計画を取り入れるなど、科学者としてのプライドが許さないのだろう。いや、反対するのが科学者らしい考え方なのだ。
当然、リナも他人の研究を奪うなど抵抗があったが、一度は自分も挑戦した『知能の操作』がどんな形で実現したのか──見てみたい願望もあった。5体の被検体を失って傷心しても尚、研究結果を見たいとは、自分もやはり研究者の端くれだとつくづく思う。
「仮にサンプルが手に入ったとしても、この研究には多くの生体を必要としますよ? ヨーロッパ支部の実験でもこれだけの数です。いきなりタイラントに注入するのは危険ではありませんか?」
「その件なら心配いらない。私も無謀な実験に貴重な生体を使う気はないからな。テストに適した実験体なら、もうここにあるだろう。『彼女』を使えばいい。あれ≠ネら失っても誰も損はしない」
ウェスカーは、ここにはいないあれ≠顎で指し示して、悪びれる様子もなく言った。
『彼女』──それは20年以上前からアークレイ研究所でウィルスの実験体になっている女性の事だ。リナが『彼女』を知ったのはアークレイに配属されて数ヶ月ほど経ってからで、一度だけ姿を見た事があるが絶句した。
人の形状こそしているが四肢は異常に発達し、その頭部には人の顔の皮≠ェ幾つも貼り付いていた。それは犠牲になった研究員のもので、処分しようにも異常な生命力のおかげで適わず、已む無く研究所の外れにある地下監禁室に放置されていたのだ。大したデータも取れない事から、研究員の間では『デキソコナイ』と呼ばれている。
リナに研究への疑問を最初に植え付けたのは『彼女』だった。当初はまだ哺乳類や爬虫類を実験体にしていたため、人体実験をしていた事までは知らなかった。『彼女』と会って以降、リナも人体実験に立ち会うようになったため、今思えばその前提で見せたのだろう。
ともあれ、『彼女』の生命力は馬鹿に出来るものではなく、過去複数回に及ぶウィルス投与にも耐えている。『ネメシス寄生体』に耐え得る可能性も十分ある。損得勘定は別として、ウェスカーの提案は間違っていない。
「確かに『彼女』なら、実験に耐えられるかもしれませんね」
「君は物分りがいいな。後はバーキンだけだ」
ウェスカーは満足気に微笑み、野心の宿った青い瞳をサングラスで隠した。素顔が隠れると、ほっとしたような、がっかりしたような気分になる。
「そういえば、君にはまだ『彼女』について詳しく説明していなかったな」
「よく知っています。ここに来てから何度も調べていますし、過去の実験データにも目を通していますから」
「熱心な事だ。だが、あまり深く首を突っ込むのは良くないな。ここでは知らない方が幸運な事もある」
「主任は『彼女』について、何か知っているのですか?」
「知るはずがないだろう。被検体の身元を知ったところで何になる? 私が言いたいのは興味本位の探索は身を滅ぼす≠ニいう事だ。研究にしろ他の目的にしろな」
冷たく言い放ったウェスカーの言葉に、長らく頭の片隅に閉まっていた真意を探る目的≠思い出した。ウェスカーの助手になったのも、ウィルス実験の真相究明のためだ。しかし、未だ上層部の真の目的も見えず、ウェスカーが抱く疑問すら知るに至っていない。
「まだ聞いていませんでしたが、ウェスカー主任の疑問とは何ですか?」
「私は物事の深層まで見定めてから判断する方でね。おぼろげな疑問は語るべきではない」
にやりと笑った顔が、まるで「君のように軽はずみに話すほど馬鹿じゃない」と言っているように見えた。人には話すように強要しておいて、自分は何も語らないとは卑怯な男だと思ったが、強ち間違いではないから反論出来ない。
「やはり…スペンサー卿…ですか?」
追求してやろうと恐る恐る総帥の名を出してみたが、ウェスカーは肩を竦めて微笑むだけに留まった。サングラス姿では本心どころか感情も読めない。だが、リナもこれ以上の追求は得策ではないと判断した。2人しかいない研究室でも、ここはアンブレラの研究施設内。上層部の手の内にいる状態で多くを語るのは危険だ。
「ふっ、君は呆れるほど素直だな。女性としては魅力的だが、私の助手としてはまだ未熟だ」
総帥の名に怖気付くリナに、ウェスカーは含み笑いを溢しながら椅子に腰掛けたが、次に向き返った時にはサングラス越しに冷たい眼差しを注いでいた。
「日常的に感情を捨てろとは言わないが、研究所の中では狂って≠ィけ。疑問を表面化すると目を付けられるぞ。真相を探るには、もっと隠密に行動しなくてはな」
彼の言う事は断然正しい。アンブレラが人体実験によるB.O.W.開発という鬼畜極まりない行為を許可する企業である以上、柔な覚悟では真意≠ヘ見抜けない。下手な行動で上層部に目を付けられれば、抹消される可能性がある。相手は多国籍大企業であり、各研究施設や情報には厳重な監視と管理体制が布かれている。その企業の裏にある真相を探るとは、それ相応の危険が伴う。
それでもリナが気丈でいられたのは、ウェスカーの存在によるところが大きかった。独自のルートでヨーロッパ支部の研究資料を入手し、上層部に取り次ぐほどの権限と信用を持った男が自分の味方なのだから、これほど心強いものはない。研究にしろ真意を探る隠密行動にしろ、この男に従っていれば間違いがない事はこの半年間で十分理解していた。
「肝に銘じておきます。主任のアドバイスに感謝します」
リナは一転して笑顔を浮かべて、抱えていたファイルに再び目を通した。
*
数日後、『ネメシス』のサンプルがアークレイ研究所に届いた。
サンプルが到着したという事は、ウェスカーがバーキンの説得に成功し、さらに上層部の説得にも成功した事を意味している。これもウェスカーの才能なのか、彼が立てた計画は必ずその通りに事が運ぶから末恐ろしいものを感じる。
到着した『ネメシス・プロトタイプ』は、早速『彼女』に投与される事になった。洋館の忘れられた空間に一人置き去りにされていた『彼女』は、実験のため久しく外に連れ出された。
『彼女』が研究所に運ばれたと報告を受けて、リナはウェスカー、バーキンと共に実験室に向かった。実験室周辺には、万が一に備えて武装した警備員数名がスタンロッドと機関銃を片手に立ち、運ばれた『彼女』はというと、両手両脚に枷を付けられ、鎖と拘束衣で手術台の上に厳重に縛り付けられていた。過去に研究員が犠牲になっている事を考えれば当然の配慮だろう。
実験室のガラス越しに『彼女』を見て、最初に口を開いたのはバーキンだった。
「こんな形で『彼女』と再会するとは思わなかったな。一体何年になる?」
「研究所に配属された当初に会ったきりだからな、かれこれ11年経つ。まぁ、『彼女』自体は我々よりもずっと長く研究所にいるがね」
呆れ気味のバーキンの問いに、ウェスカーも淡々と答えた。
知らない者が聞けば、男2人が関心のある女性の会話をしていると思うに違いない。だが、彼等が普通の研究員ではない事を忘れてはいけない。もはや女性である片鱗はどこにもない実験体を『彼女』とは皮肉もいいところで、狂った研究所に相応しい呼び名である。
実験室に全身防護服で身を包んだ研究員達が現れると、スピーカーから「準備が整いました」という声が届いた。その声を合図に、ウェスカーとバーキンは感染予防のガスマスクと手袋を嵌める。リナはその場で主任二人と『彼女』の様子を交互に見守っていた。
「リナ、君はここでデータを記録しろ。こんな事で大切な助手を失う訳にはいかないのでな」
ウェスカーは入室前にそう言い残して、バーキンと実験室に入って行った。
『彼女』が襲う相手は決まって女性という事もあり、リナは実験に立ち会う事を許可されなかった。尤も、『彼女』の頭部にこびり付いた複数の歪んだ顔を見て、立ち会いたいなど微塵も思わないが。
実験中、リナは実験室隣の観察用モニターを眺めながら様子を見守っていた。あらゆる実験体を目にして来たが、改めて見ても『彼女』の異様さには圧倒される。なまじ人間らしさを保っているせいか、腐乱したゾンビよりもおぞましく見える。
20年以上前からウィルス実験を繰り返されている女性の実験体。その経緯は11年主任研究員を務めるウェスカーでさえ知らない。『彼女』は何者なのか。なぜ人の顔の皮を剥いで身に付けるのか。「ウィルスの影響」と片付けるのは簡単だが、実験体が異形に変わっていく経過で人であった頃の名残が行動に現れる事はよくある。もしや、わずかに残る『彼女』の人間としての思考が、奇行に走らせたのではないだろうか──。
『せめて研究所の中では狂っておけ』
不意にウェスカーの忠告が脳裏に過ぎって、リナは目を堅く瞑って考え改めた。人体実験に手を染める自分が被検体に同情したところで身勝手な感情に過ぎない。今出来るのは、研究員として『彼女』の実験を成功させて『デキソコナイ』の汚名を返上させる事だけだ。ウィルス研究の真意を突き止めるまで、自分は一研究員でいなければならない。
その時、スピーカーから「何だと?」と驚愕の声が上がった。慌ててモニターを覗き込んだが、感傷に気を取られていたおかげで異変に気付けなかった。研究員達のどよめきに警備員は危険を察して、武器を片手に通路を駆け回り、瞬く間に実験室周辺は騒然となった。リナは確認する間もなく警備員らに強引に連れ出され、事態を把握したのは次の日だった。
翌日、ウェスカーから詳しい事情を聞いたリナは絶句した。
「ネメシスが消えた? それはどういう事ですか?」
「さぁな」
と、ウェスカーは酷く素っ気ない返事をした。頬杖を突いてサンプルデータを眺める様子は不機嫌そのものだ。話によると、ネメシス投与後、脳に定着する様子を観察している間に寄生生体が消滅したというのである。
「消えたというより、体内に取り込んだ≠ニ言うべきか。『彼女』はネメシスと融合した、という事だ。とはいえ、全く予想外の展開だ。どうやらただの『デキソコナイ』ではないようだな」
「どうするつもりですか? これではネメシスの研究まで行き詰ってしまいますよ」
「ネメシスより、あの女を調べ直す方が先だ。過去のデータが一切役に立たなかったのだからな」
『彼女』をあの女≠ニ呼ぶところを見ると、自分の期待を大きく裏切られた事に相当苛立っているようだ。『タイラント計画』を好転させるはずだった『ネメシス』が、長年放置されていた『デキソコナイ』によって狂わされたのだから無理もない。
リナはデスクに戻り、もう一度『彼女』の過去データを読み返した。過去に『彼女』は始祖ウィルス変異体からt-ウィルスに至るまで、あらゆる試作ウィルスが開発される度に投与されていたが、異常な生命力がある事以外変わった性質は見受けられていない──いや、他の被検体と比較すれば十分変わっている=B『彼女』だけが異常な生命力を持ち、多数のウィルスを投与されても変異を起こしていない。
「ネメシスと言い、なぜ『彼女』だけがウィルスに反応しないのでしょうか。これだけの実験を繰り返していれば目立った変異があってもおかしくないのに、始祖ウィルス投与から変化がありません。生命力の問題ではなく、『彼女』の中に特別な抗体があるような気がします」
「さすが私の助手だな、私もバーキンも全く同じ見解をしている。不特定多数のウィルスを投与されても『彼女』が生き長らえて来たのは、それらに対して抗体があったからとしか思えん。もしかすると、これは転機≠ノなるかもしれんぞ」
これも不幸中の幸い≠ニ言うべきだろうか。予想外にしろ、『彼女』のおかげで研究は別の形で進展に向かおうとしている。
ウェスカーも確信を得たのか、態度を一変して野心的な微笑みを浮かべていた。部下に忠告する前に、彼自身も少しは己が醸し出している怪しさと野心を自覚すべきだと、リナは苦笑した。
ともあれ、これで『彼女』の『デキソコナイ』の汚名が返上出来ると思うと、少しだけ気分が晴れた。
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