『虚勢・後編』

 予想通り『彼女』への処理≠ヘ長時間に及び、念には念を入れて用意された薬品と機材の全てを用いる事になった。ほぼ瀕死に近い状態にあった『彼女』は、成す術もなく遠隔操作のアームによって処理≠ウれていった。

 「『彼女』がいなければ、また違っていたかもしれんな」

 傍らでモニターを眺めていたウェスカーが、珍しく感慨深げに溢した。ウィルス研究を大きく覆した『G』の発端である『彼女』に、冷徹な男も何の感情も抱かなかった訳ではないらしい。

 「ウェスカー主任は、『彼女』はいない方が良かったですか?」
 「いなければ何も変わっていない。変わらないという事は物事も進展しないという事だ」

 回りくどい言い方をしているが、結論から『いた方が良かった』という事だろう。スペンサーの真意を追求するウェスカーにとって、『G』は上層部の謎を深めると同時に野望を裏付けるものでもあったはずだ。この男の口から未練がましい感情が出るはずがない。
しかし、アンブレラの実験に弄ばれた『彼女』にしてみれば『G』の発見は非情な結果だ。アンブレラの研究に拍車が掛かり、ウィルス兵器は発展してしまったのだから。
 リナはモニターから一寸も視線を逸らさず、『彼女』の存在全てを脳裏に刻み込んだ。それが『彼女』の研究に携わった者の責任であり、せめてもの償い≠セと思ったからだ。今は見届ける事しか出来なくても、いずれアンブレラの悪事を公にするその時≠ノ『彼女』を含める関係者全ての無念を晴らせばいい──。

 「リナ、もう休め。それ以上は無理だ」

 抑揚のない声で我に返ると、リナは自分が祈るように両手を前に結んで身を竦めていた事に気が付いた。ウェスカーの訝しげな視線がそれを眺めていたので、慌てて姿勢を正した。

 「私なら大丈夫です。これも仕事の内ですし」
 「ほう…そんな状態≠ナも大丈夫なのか?」

 ウェスカーは依然として厳しい顔付きでリナの顔を凝視する。冷たい視線の先を辿って顔に触れると、指先が濡れた。涙だった。触れた指もかすかに震えている。
 毅然と振舞っていたはずなのに──リナは慌てて手の甲で頬を拭った。

 「いえ、これはそういった意味ではなくて…疲れているのかしら」

 咄嗟に吐いた言い訳はウェスカーの溜め息を誘っただけだった。

 「欠伸をしたとでも言いたいのか? 強がるな、身体は自分が思うより感情に正直なものだ。いいから休んでいろ、疲れている≠フなら尚更だ」
 「いえ、でも…」
 「これは命令だ、私の部下なら大人しく従っていろ」

 鋭い声に、リナは閉口してその場に縮こまった。突き放されても仕方がなかった。あれほど『責任がある』と自信を見せ付けておいて、自分自身も固く決意したにも関わらず、無意識の内に心痛から涙してしまったのだから。

 ──結局、私は甘い人間のままなのね。

 リナは己の未熟さを痛感して、自ら招いた無様な結果を笑った。上辺だけ強がっていただけで身体は悲鳴を上げている。どんなに覚悟したところで甘い人間≠ノ出来る事は限られているのだ。そんなリナの人格を知るウェスカーが本質を見誤るはずがなく、この展開を予期して立ち会いを拒否したのだろう。この男の指摘はいつだって正しい。悔しいくらいに。
 ウェスカーは居座り続けるリナを横目で睨んでいたが、スピーカーから「全ての処理を終了した」と報告を受けて、ようやく鋭い眼差しがモニターに逸れた。ウェスカーは「了解した」とマイクに返答すると、リナを置いて席を立った。
 後に続けば命令に背いたとして益々失望を買うだろう。しかし、ここで引き下がる訳にはいかなかった。一度決意した以上、どんな形でも最後まで『彼女』を見届けなければ本当に何も変われない。今ここでけじめ≠付けなければ、この先ずっと後悔する。

 「…まだ諦める訳にはいかないのよ」

 リナは後を追ってモニタールームを出ると、処理を終えたバーキンとジョンが研究室から出て来たところだった。途端にウェスカーの視線が突き刺さったが、リナは毅然と傍らに立ってバーキンの報告に耳を傾けた。

 「一先ず脳波と脈の停止は確認したが、『彼女』の中の『G』が今後どう作用するかわからない。2、3日は経過を観察する必要があるな」
 「その間も万一に備えて薬品の投与は続行した方がいいでしょう。『彼女』の生命力は侮れません。安全のためにも『彼女』の活動再開は完全に阻止しなければ」

 ジョンも主任研究員らしく厳しい口調で続けたが、相変わらず台詞には誠実さが現れている。それに対してウェスカーは「そうしてくれ」と素っ気ない返答をして、バーキンも手持ちの資料をジョンに押し付けて白衣に着替えた。

 「悪いが、私は3日も研究所を留守にする訳にはいかない、ここで帰らせて貰うよ。君達はどうするつもりだ? 最後まで付き合うのか?」

 「はい」と答えたリナの返事を「遠慮する」というウェスカーの声が遮った。

 「我々も帰らせて貰う。不調を訴えている者がいてな、陰気臭い研究所に一人留めて置く訳にもいくまい」

 途端にバーキンとジョンの視線が一斉にリナに集中した。思わずウェスカーを睨み上げたが、その無表情な面持ちは前方の同僚を見据えたままだった。

 「確かにオーレン博士の顔色が優れませんね、長時間も『彼女』と向き合っていれば無理もありませんが」

 ジョンは憂い顔でリナを気遣ったが、弱音を許さない上司を前にしたこの状況では要らぬ優しさでしかない。案の定、バーキンは「そうなのか?」と怪訝な顔をしたので、慌てて首を振って否定した。

 「私は大丈夫です。ウェスカー主任、変な事言わないで下さい」
 「本当の事を言ったまでだ。その証拠に後輩も認めているだろう? 多数決で2対1だ、君はこのまま休暇に入るといい」

 ようやく顔を向けたと思うと、ウェスカーは指を立てて不敵に笑った。おどけて見せるウェスカーに唖然としたのは、リナだけでなくバーキンも同様だった。

 「待て、勝手に休暇を決められては困る。リナは私の部下だぞ?」
 「お前の部下である前に、私の助手でもあるのだ。もう少し労わって欲しいものだな」
 「私のやり方が悪いとでも言いたいのか? 休暇ならアネットが管理している、何も問題はないはずだ」
 「何でも規則通りであれば良いというものではない。上司なら部下を気遣うのも務めだろう。全研究の責任者ならば尚更ではないのか?」

 常時冷静なウェスカーに対し、バーキンはついに憤って声色を変えた。

 「ウェスカー…私のやり方にケチを付ける気か? これでも部下の事は見ている!」
 「見ているのならわかるだろう。いくら優秀な研究員でもリナも女だ、心労の一つくらいある。それに、お前の妻でも何でもない」

 まさか自分の事で2人が口論になるとは思わず、リナは動揺し、内心では冷や冷やしながら両者を眺めた。結局バーキンも冷静に正論を述べるウェスカーには敵わず、苛立った溜め息を吐いて不承不承に承諾した。

 「あぁそうだな、わかった、好きにすればいいだろ。ただし、今回だけだからな」

 バーキンは投げ遣りに言って、廊下の格子扉を乱暴に閉めて立ち去って行った。それは言い負かされて不貞腐れた子供のようで、どこか滑稽だった。

 「バーキン主任を怒らせても良い事はありませんよ? 私に矛先が向いたらどうするつもりですか?」
 「激昂しやすい男だが、部下に八つ当たりするほど愚かではない。あの程度なら10分も経てば忘れる。許可を得たのだ、遠慮なく休むといい」

 そう言って薄笑いを浮かべると、ウェスカーもバーキンに続いて颯爽とその場を立ち去った。2人がいなくなると、長らく沈黙していたジョンが安堵の溜め息を吐いた。

 「一時はどうなる事かと思いましたが、ウェスカー氏も理解のあるお方のようだ。良かったですね」

 人の良いジョンは上司の厚意に歓心したが、リナは休暇を強行したウェスカーの真意がわからず困惑していた。ウェスカーは何事も自分にとって利になるか否かで判断している傾向にある。これも今後不利にならないための配慮による厚意なのか──それにしては彼らしくない強引なやり方だと思った。


 今後の『彼女』の観察はジョンに任せて、死体破棄当日にウェスカーのみが証人として立ち会う方向で話を纏めると、3人はアークレイ研究所を離れた。
 ヘリが新工場屋上のヘリポートに着陸した頃には、午前0時を過ぎていた。工場内で帰省手続きを済ませて地下研究所に戻るバーキンを見送ったが、この頃には不機嫌さもどこかに消えて、別れ際に「アネットに伝えておく」と言ってエレベーターを作動させた。エレベーターの扉が閉まるなり、ウェスカーは踵を返した。

 「この時刻では交通の足もないだろう、自宅近くまで送ろう」

 そう顎で指示されて、リナは言われるまま背中に付いて行った。
 困惑していた心中も、時間が経つにつれて不満が募っていた。休暇という厚意は未熟者のレッテルを貼られたようなものだし、『彼女』の本当の最期≠ノ立ち会う事も許されなかった。全て自分が招いた結果だとしても、意見を言えず、覚悟を証明する機会も与えられないまま帰宅を余儀なくされるのは不服だった。
 駐車場で車に乗り、数ヶ月振りのラクーン市街地に入ってもリナの口は噤んだままだった。終始不満顔で閉口する姿にウェスカーは苦笑した。

 「せっかく休暇を貰ったのだ、もう少し喜んではどうだ?」
 「…喜べません。強引に決めるんですもの」
 「あの状態で続けられるとでも思うのか? 周りが迷惑するだけだ」
 「私にだって覚悟があるんです! こんな事で逃げ出したくありません!」
 「君が見せているのは覚悟ではなく虚勢だ。そんな低レベルな覚悟は捨てろ。私を振り回すな」

 ウェスカーの横顔は忽ち険しくなり、的を射た鋭い指摘に反論も出来なかった。
『覚悟』も『責任』も果たせなければ無意味であって、今のリナは自分の意地を突き通そうと強情を張っているだけに過ぎない。そしてウェスカーに気を使わせて──最低だった。バーキンに言い寄ったのも、未熟な助手を持った故にそうせざるを得なくなったのだ。
 すると、走行していた車が路肩に止まった。そこはいつも停車する警察署付近ではなく、街灯と人気のないマンション街の裏通りだった。

 ──『降りろ』っていう意味なの?

 悲壮感からそう勘繰ったリナは運転席を見ると、丁度こちらを向いたウェスカーと目が合った。一切感情が読み取れない無表情な顔──しかし、その口が発した言葉は予想とは違っていた。

 「どうも最近の君は焦心しているな。元々努力家である事は知っていたが、望まない研究に憔悴してまで必死になる必要がどこにある? ただ単に覚悟≠ノ拘っているだけとは思えん」

 問い掛ける冷淡な声も、サングラスの奥から見据える瞳も、リナに一切の弁解の余地も与えようとしない。おそらく──いや、確実にウェスカーはリナの心境の変化を悟っている。

 ──この人には敵わないわね。

 局面に立たされているのに、リナは改めて男の鋭利な思考力に感服した。悉く相手の深層を分析して来た男が、散々挙動不審な態度を見せて来た女性の心理を読み解くなど容易いだろう。ウェスカーとは人格も能力も遥かに劣っている自分が、どんな弁解したところで尋問から言い逃れる事は出来ない。だが、逆に考えれば本音を告げる好機≠ナもある──リナはついに覚悟を決めた。

 「それは…ウェスカー主任の期待に応えたかったからです。助手としても、一人の女としても、貴方に認めて欲しかったから」

 リナは相手を真っ直ぐ見据えたまま、秘めていた本心を告げた。素直な回答に無表情だったウェスカーも驚いたように目を見開いたが、次の瞬間には失笑を溢した。

 「そんな事だろうとは思っていたが…それにしては随分ストレートに打ち明けたものだな」
 「もう気付いていたようですし、嘘を言っても仕方がないと思ったものですから」

 「確かにそうだな」と、ウェスカーはさも愉快そうに笑った。リナの恋愛感情は見抜いても、正直に告白するとは思っていなかったようで、ウェスカーの予想を上回る行動をした自分が少し誇らしく思えた。

 「そういった私情を挟むから柔順≠セと言うのだ。今後弱みになるだけだ、今ここで捨てていけ」
 「それが出来るならとっくの昔にやっています。私は素直な感情でしか動けないんです。自分に嘘を吐けるほど器用な人間ではありませんから」

 想いを打ち明けた事で長年の憑き物が落ちて、本音を打ち明ける事に何の躊躇いも感じなかった。告白したところで受け入れられるとは最初から思っていない。それでも本心が伝わるのなら、今ここで車から放り出されようと、除名されようと構わなかった。
もはや開き直りとも取れる告白の数々に、ウェスカーも呆れたように深い溜め息を吐いた。

 「気持ちはわかった。が、私は君を部下として見ている、それ以上でも以下でもない」
 「そうでしょうね…よくわかっています」
 「だが、君を女性として見ていなかった訳でもない」
 「…どういう意味ですか?」

 意味深な台詞に顔を向けると、途端に顎を鷲掴みにされた。驚愕に目を見開いたリナの視界に映ったのは、不敵な笑みを浮かべながら久しく素顔を晒し出した玲瓏な男の姿だった。

 「女としては申し分ないという意味だ」

 目の前の男が低音を発した直後、リナの口は塞がれた。視界を覆う男の顔、唇に押し当てられた生温かく弾力のある肉の感触──その全てを把握した思考は一瞬でパニックに陥った。鼓動は跳ね上がり、肌が紅潮していくのがわかる。
 唇が這う感触に堪え切れず、突き放そうと相手の胸元に手を押し当てたが、その前に身体が離れた。

 「な…なんて事するんですか!?」
 「君の好意に応じたまでだ。それとも、こういった関係は望んでいなかったか?」

 望んではいた──が、あまりにも早急過ぎて全く状況が飲み込めない。これはウェスカーも『リナを女として意識していた』と受け取って良いのだろうか──こちらを見据える青い双眸を眺めながら考えたが、闇夜に青白く浮かぶ素顔は艶かしく、益々リナの思考を混乱させただけだった。

 「でも…どうしてですか? 出来れば言葉で説明して欲しいのですが…」
 「私はあくまで上司と部下の関係で見ているが、君が私と男女の関係を望んでいるというのなら、受けても構わんという事だ。ただし、それ以上の関係になるかどうかは保証し兼ねるがね」
 「…それは『OK』という事で良いのでしょうか?」
 「君がそういう関係≠ナも構わないと言うならな」

 ウェスカーの言う男女の関係≠ヘ身体の関係≠意味していると悟った。リナを女性として受け入れても、現段階では『まだ主従関係である』と、この男は主張したいのだろう。だが、それはリナの対応次第ではそれ以上の関係にもなり得るという意味でもある。

 ──そう簡単には認めないのね。

 いかにも冷血漢らしい返答だったが、ウェスカーに受け入れられた事は純粋に嬉しかった。どんな形であれ、女として相手を意識させる事が出来たのだから。それも滅多に感情を表さない、この男を──。

 「それでも構いません。ウェスカー主任に認められただけで嬉しいですから」
 「素直だな。そこが君の良いところだ」

 にやりと笑った唇が再びリナに近付いて来た。まさか二度目のキスを求めて来るとは思わず、咄嗟に両手で男の身体を阻んだ。待ち望んだ展開には違いないが、研究員の務めも果たさずに休暇を強行した後では、さすがに良心が咎める。唇は吐息が掛かる距離で停止し、ウェスカーは眉間に皺を寄せた。

 「何だ、今さら拒むのか? 喜んで受けるものと思っていたが」
 「いえ…だって今日は拙いと思います。あんな事があった後ですし…」
 「また言い訳か、望んだのは君自身だろう。それに今はプライベートだ、仕事は関係ない…いいから付き合え、リナ」

 ウェスカーはこれまで湛えていた薄ら笑いを消すと、制止を無視して再び唇を押し付けた。強引な印象とは違い、その唇は優しくリナの唇を弄び、忽ち心地良い恍惚感を生み出す。時折リナを見つめる青い瞳は初めて熱を帯びていた。

 ──ようやく想いが通じた。

 リナは訪れた甘美な一時に今度は素直に身を委ねた。

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