『虚勢・前編』

 ラクーンシティに新設されたアンブレラ巨大地下研究施設は、施設の広さも、人員や設備の数も、実施される計画内容も、山中深くにあるアークレイ研究所の比ではなかった。
 ラクーンシティ地下研究所で始動するウィルス研究は、主にバーキン主導の『G計画』を中心としていたが、B.O.W.においても『タイラント計画』を始めとした多くの新兵器開発計画が実行された。多くの研究員が加入した事もあり、これまでに開発されていたB.O.W.の改良と大量生産がより可能となった。結果として、アンブレラのウィルス兵器及びB.O.W.開発は以前にも増して勢い付き、大手企業としての社会的権威も揺るぎないものとなっていた。
 アンブレラが着々と己の野望と地位を向上させていく中、リナは引き続きバーキンの下で『G計画』に尽力していた。上層部の思惑通りに事が進んで行くのは本意ではなかったが、真意を突き止めるまで今はただアンブレラ研究員の一人として身を置くしかない。ウェスカーが情報部工作員として上層部に対する諜報活動を行なう間、リナは研究員として出来る事をする──それが果たすべき本来の目的のためであり、またウェスカーのためでもあると考えた。
 ラクーンシティ地下研究所に配属されて以降、リナはより一層過酷な状況に置かれていたが、一方でウェスカーと連絡を取り合う機会も増えていた。そのほとんどは研究の状況報告だったが、ウェスカーとの会話の中で自分への信頼と期待感を得ると疲労も心痛も忘れていった。
 今やウェスカーへの恋情は、リナの活力であると言っても良い。恋情など研究員には不謹慎極まりないと思っていた。しかし、この感情が結果的に良い効果を齎すのであれば問題ないと、リナはそう自分の中で結論付けた。

 転属から2年、この頃には『G-ウィルス』の研究も軌道に乗り、リナはアネットと共に『G』ワクチンの開発に取り掛かっていた。ウィルス兵器開発においてワクチンが重要であるのは言うまでもない。ただし、遺伝子を根本から組み換えるという特殊な構造で成り立つウィルスでは容易に作り出せるものではない。

 「これも駄目ね」

 確認を終えたワクチンサンプルを手元から突き放して、リナは大きく溜め息を吐いた。これまで生成したワクチンは100を超え、簡単なものではないとわかっていても身に堪える。
 サンプルを整理していると、慌しい足音が実験室に入って来た。それは別室で抗体のテストデータを採取していたアネットで、入って来るなり持っていたファイルを差し出して来た。

 「ねぇリナ、これを見て。137番ワクチンが細胞融合が遅滞させているわ。『G』に作用しているのよ」

 アネットは採取したデータを指で追いながら興奮気味に説明した。リナはそのテンションの高さに若干戸惑いを感じながら、ファイルの中身を確認して深く頷いた。

 「本当ね。これをベースに不足分を補っていけば、上手くいくかもしれない」
 「早速、やってみるわ」

 そう言って、アネットは早々と椅子に座って活性処理機にカートリッジを投入した。難読難義な実験ファイルを片手に笑みを浮かべ、思い立つとすぐ作業に移るところは夫のバーキンに似ている。しかし、今ではそんなアネットの一面も微笑ましく映った。
 リナも上司ウェスカーに特別な感情を抱き、彼の期待に応えようとしている。その点ではリナもアネットと同等であり、共に仕事をする中でアネットとも自然に打ち解けていった。接してみれば彼女の家族への愛情は誰よりも深く、会う機会のない一人娘シェリーに度々連絡をする姿を見掛ける。そんな普通の母親としてのアネットを見ると心も和やかになる。
 リナも彼女に続いて培養液の注入作業に取り掛かった。そこへ丁度、実験室の内線が鳴った。

 「あぁもう誰よ、こんな大事な時に。リナ、悪いけど出てくれない?」

 アネットは機材から目も離さずに言った。実験中は脇目も振らないところもバーキンにそっくりだ。この点はやはり似たもの夫婦だと実感する。言われるまま内線に出ると、地上工場事務所のオペレーターからだった。

 「情報部のアルバート・ウェスカーから連絡が入っております。至急ご連絡下さいとの事です」

 機械的な声が告げた上司のフルネームにリナの鼓動は高鳴った。すぐに電話を切ると、「しばらく席を外すわね」と機材に釘付けになっているアネットに一言断って実験室を出た。
 休憩室に人がいない事を確認すると、備え付けの電話で情報部の番号に掛けた。受付からウェスカーに取り次いで貰うと、受話器から「はい、こちら情報部」という建前だけの平板な応対が聞えた。自分の上司としてのウェスカーしか知らないリナは、他の上司や来客にも同じ声色で電話応対しているのかと常々疑問に思う。

 「ウェスカー主任、先ほど連絡があったようですけど何かありましたか?」
 「あぁ、アークレイ研究所で動きがあった。リナ、『彼女』の事は覚えているな?」
 「えぇ、もちろん」

 『彼女』の事は忘れようにも忘れられない。現在の『G計画』の発端になった実験体であり、リナもその場に立ち会っているのだから。しかし、今さら何を言い出すのか、と聞き返せる雰囲気ではなかった。ウェスカーの声色はいつになく厳しいもので、只ならぬものを感じる。リナは真っ先に7年前に『彼女』が起こした事故を思い返して、今回もそれ≠セと直感した。

 「…もしかして、また例の奇行を?」
 「その通りだ。最近になって一段と症状が悪化しているようでな、3人の研究員が立て続けに殺された。過去の事故も含めると少なくとも10人以上は『彼女』に殺されている。研究員の損失は我らにとって大きな痛手だ。これ以上、何の利用価値のない『彼女』を生かしておく必要はないと判断し、近々殺処分する事にした」
 「そうですか、わかりました」

 リナは冷たく吐き捨てたウェスカーの言葉を素直に聞き入れた。
 ネメシス投与後、知性を取り戻した『彼女』は人の顔の皮を剥ぐ♀行をも取り戻したが、『G』サンプルの摘出のために今まで地下監禁室で生かされていた。しかし、その『G』も今ではラクーンシティ地下研究所で『G-ウィルス計画』という形で独立している。今の『彼女』は研究員を殺害するだけの存在に成り下がり、もはやウェスカーの言葉を否定して『彼女』を庇う事は出来なかった。

 「いつ実行するのですか?」
 「早い方が良いのだが、面倒な事にあのお優しい主任≠ェ判断を躊躇っている。自分の部下が殺されているというのに呑気な奴だ」

 ウェスカーは皮肉たっぷりに言った。彼が言うのは、昨年アークレイ研究所の主任に就任したジョンの事だ。バーキンの後任としてシカゴ研究所から転属されたのだが、惨忍な研究のあり方に上層部に異議申し立てをしたという、アンブレラ研究員の中では非常に稀な人格者である。
 おかげでジョンの評価は要注意人物≠ニしてアンブレラ内部に広がり、リナの耳にも届いていた。アンブレラで正義を主張する事は己の破滅を招くものに他ならず、ジョンの行動は言うまでもなく無謀なものだ。

 「では、ジョン主任を無視するのですか?」
 「そうしたいところだが、『彼女』が危険である事は奴もわかっている、遅かれ早かれ承諾するだろう。が、呑気に待っているほど我々も暇ではないのでな、私とバーキンで圧力を掛けるつもりだ」
 「それは大変ですね」

 ジョン主任が──と、内心で付け足した。要注意人物とされた上に、非情な上司2人から圧力を掛けられるとは、つくづく気の毒な男である。しかし、同じく上層部のやり方に疑念を持つリナにはジョンの気持ちもよくわかる。下手をすればリナも上層部に異見して、周囲から警戒されていたかもしれない。あの当時、ウェスカーという鋭利な頭脳と同じ疑念を持った上司に出会わなければ。

 「日時が決まったら連絡して下さい。私も立ち会います」
 「立ち会う必要はない。今回は『彼女』の殺処分が決定したという報告であって、君を誘うためではない」
 「私も『彼女』とは古い関係にあるでしょう? 一度担当した以上、最後まで責任を持って見届ける権利はあるはずです」
 「『彼女』の犠牲になるのが主に女性だという事を忘れたのか? それに君はあの若造と似ているところがあるからな、また昔のように『彼女』に同情して取り乱されては困る」

 鼻で笑われて、リナは電話越しに不快感を露にした。いつもの厭味にしては聞き捨てならない言葉だった。確かにあの当時、残酷な研究への疑問から『彼女』に同情した事があったが、それはあくまで昔の自分≠ナあって今は違う。
 研究員になって11年間、アンブレラの非情さと底知れぬ野心を嫌というほど知った。それは全てウェスカーから教えられたもので、リナはその教えに従い、目的を果たすために弱さを捨てて励んで来た。なのに、未だに柔順なだけの研究員だと思われるのは納得がいかなかった。これまでの働きを全て否定されたような気がした。

 ──私だって努力して来たのよ? 貴方だって今まで見て来たじゃない。

 沸々と怒りが込み上げたが、ここで感情的になれば己の未熟さを主張するだけで、冷静に反論した。

 「私はこれでも11年間アンブレラ研究員として勤めているのですよ? 今さらそんな事で取り乱すと思いますか?」
 「ふっ、それもそうだな。では、君にも当時の担当研究員として責任を持って見届けて貰おう。また後日連絡する」

 ウェスカーは厭味っぽく、どこか信用に欠いた口調でそう告げて電話を切った。
 未熟者と扱われるのは腹立たしかったが、不信感を抱かれるのも無理はなかった。いくら自分では変わった≠ニ思っていても、ウェスカーやバーキンに比べれば遥かに甘い人間≠セ。彼等のように非情に徹する人間とは根本的に違うのだから、完全に染まるのは難しい。だから、冷徹に徹せられない者は自分なり≠フ方法を用いるしかない。
 今回『彼女』の最後を見届ける事で、リナも自分なり≠ノ責任と務めを果たすつもりだった。それはウェスカーに自分の弱さを断ち切った事を証明するものにもなる。

 ──私はもう、あの頃とは違う。だから、大丈夫よ。

 リナは自分に言い聞かせて、不通になった携帯電源を切った。

 *

 数日後、『彼女』の処分が翌月に決行されると連絡が入った。その場に立ち会う研究員はリナの他に、顧問研究員のウェスカー、元主任のバーキン、そして現主任ジョンの4人だという。『彼女』の処分決行が短時間で決まったのは、ウェスカーが宣告通りの圧力──いや、それ以上のものをジョンに掛けたからに違いない。
 当日、リナはバーキンと2人でアークレイ研究所に向かった。ウェスカーとは工場ヘリポートで合流する予定だったが、急遽遅れるとの連絡が入ったため、一足先にヘリに乗り込んで約2年振りにアークレイの地に降り立った。ラクーンシティ地下研究所の真新しさに慣れてしまったせいか、深い森と洋館が一段と陰気に見えて、懐かしむ気分にはなれなかった。
 ヘリポートで待っていたのは現在の主任研究員ジョンと所長の2人だった。

 「ウェスカー氏は正午に到着するとの事です」

 ジョンは微笑みながら報告すると、自ら先導して2人を案内した。その途中、ジョンはリナに対して「初めましてオーレン博士。お話は伺っています」と、丁寧な挨拶と握手を交わした。ジョンから見ればリナは先輩に当たるから博士≠ネのだが、不慣れなため聞いていてこそばゆい。
 ジョンの姿を見るのは初めてだったが、一目見て噂通りの男だと思った。同じ主任を務めていたウェスカーやバーキンのような冷徹さはなく、正義感と誠実さが滲み出た非人道的な研究所には相応しくない好青年だ。
 律儀に挨拶を交わすジョンとは対照的に、バーキンは相変わらず書類以外には関心がない様子で、ようやく利いた口も酷く素っ気ないものだった。

 「それで、『彼女』を処分する準備は出来ているのか?」
 「はい、『彼女』は研究室に拘束していますし、処理に使用するものは全て整えてあります。効果があるかどうかはわかりませんが」
 「効果がないと困るんだけどな」

 冷めた上司の一言に、ジョンは苦笑して頭を掻いた。今まで当たり前と思って見ていたが、誠実なジョンと並べるとバーキンの冷淡さが際立って見える。ここにウェスカーが到着すれば、彼は益々恐縮してしまうだろう。少し気の毒になったリナは、落胆するジョンに尋ねた。

 「あれから犠牲者は出ていませんか?」
 「はい、警備隊がすぐに拘束したので。しばらく症状が安定していたので不覚を取りました」

 答えたジョンの表情は後悔と悲痛で歪んでいた。ウェスカーに『似ている』と言われた時は納得いかなかったが、実際に目の前にすると確かに自分と近いものを感じる。まるで昔の自分を見ているような錯覚まで覚えた。

 ──私もこんな感じなのかしら。

 ウェスカーの視点から見れば、今のリナも同じように映っているのかもしれない。だとすれば、確かに未熟だ──そう思うと、自然と気持ちが引き締まった。

 案内されたのは、研究所内を監視するモニタールームだった。モニターに映し出された研究室前の通路には、物々しい装備をした警備隊と多くの機材が置かれている。大量の薬品と手術用具の他に、どこから持ち出したのか知れない巨大な刃物まである。
 いつもながら処理に使う道具一式は物騒で、見ると心が挫けてしまいそうになる。何年研究員を務めていても、どんなに気持ちを切り替えても、被検体の処分に立ち会うのは慣れない。おそらく、これらを用いても驚異的な生命力を持つ『彼女』では処理≠熏「難を極める。長期戦は必至だった。
 書類によると、『彼女』は処分決定後から1ヶ月に渡って致死量分の薬品を投与されており、現在は最終的な処理を待っている状態にあるという。最終処理についての明記はまだなかった。

 「これはまた派手にやったな。リナ、あれを見てみろ」

 バーキンが興味津々に複数あるモニターの1つを指差した。そこに映っていたのは拘束された『彼女』で、身体には血痕と肉片がこびり付いている。頭部は一段と大きく肥大し、モニター越しでも複数の人の顔がはっきり見えた。つい最近、犠牲になった研究員の真新しい皮──。リナは一目確認して、時計を見る振りをして視線を逸らした。

 ──ウェスカー主任、早く来てくれないかしら。

 この惨状を好奇心旺盛に眺めるバーキンと2人きりの状況は少々身に堪える。アネットとは打ち解けられても、研究一筋のバーキンだけはどうやっても理解出来なかった。ウェスカーが来たところで労わってくれる訳でもないが、バーキンの異常な研究スタイルに一人付き合う事は間逃れるし、何より安心出来る。
 沈黙の中、モニターと時計を交互に眺める事30分。時計の針が正午を10分程過ぎた頃、「ヘリが到着した」と内線が入った。
 『待ってました』と駆け付けたい気持ちを抑えてバーキンとヘリポートに向かうと、丁度冷徹なサングラス男がヘリを降りて来たところだった。3人が揃って顔を合わせるのは4年前、情報部に転属するウェスカーをこの場で見送って以来になる。リナは当時の思い出とウェスカーの再会に喜んだが、鬱蒼とした森を一望したウェスカーは苦笑した。

 「またここに来る事になるとは思わなかったな」
 「そういえばウェスカーは4年振りだったか。何も変わっていないから安心してくれ」
 「そのようだな」

 と、ウェスカーは書類を見たまま応対するバーキンに皮肉っぽく答えた。リナとは二度目の再会で、ウェスカーとバーキンに至っては4年振り──つまり研究所を離れて以来の再会になるという。
 ウェスカーは、リナには目配せをして軽く頷いただけで、バーキンに続いてエレベーターに向かった。4年振りに3人揃ったとは思えない呆気ない再会だったが、突然再会の抱擁を交わせば返って異様な光景だ。
 三人は一先ずモニタールームに集合して、改めて『彼女』の現状を確認した。ウェスカーは一段と異様さを増した『彼女』を冷静に見つめて肩を竦めた。

 「やはり、あの時に始末しておくべきだったな」

 その冷ややかな口調は忌々しい≠ニいうよりも呆れている≠ニいった風である。その背後から、ジョンは処理内容を綴った書類を差し出した。

 「現在、何段階かに分けて薬を投与して『彼女』を弱体化させています。あとは最終処理を施すだけになりますが、効果のほどは…」
 「活動が停止するのであれば何でもいい。バーキン、早速始めてくれ」

 ウェスカーは書類も見ずに、ジョンの言葉を遮るように手短な指示を下した。異見する隙も感傷に浸る猶予を与えないといった決断の早さで、バーキンもまた指示を受けて足早にモニタールームを出て行った。おかげでジョンは何も言えないまま退室する事になった。

 ──気の毒だけど、私にはどうしようもないわ。

 性悪な上司に代わって励ましても、一時の気休めにしかならない。こればかりは彼自身が変わるしか方法はない。自分なり≠ノ変わっていかなければ、益々立場を失うだけだ。
 2人を見送って室内に戻ると、ウェスカーは悠然と椅子に腰掛けていた。部下の心境などどこ吹く風といった涼しげな横顔で、書類をぱらぱらと指で弄びながら流し読みしている。

 「あの…ウェスカー主任は立ち会わないのですか?」
 「立ち会うのは現役の主任研究員だけだ。現場を離れた顧問研究員の仕事ではない。私もここで見物させて貰うぞ。長くなるだろうから覚悟しておけ」

 そう言うと、ウェスカーは頬杖を突いて『お手並み拝見』とばかりにモニターを眺めた。
 まるで他人事のような素振りに性悪≠ニ内心ぼやいたが、ウェスカーと2人残された事を喜ぶ自分もまた性悪≠セと思った。この後、アンブレラの犠牲者がまた一人闇に葬り去られるというのに、恋情に浸っている場合ではない。
 しかし、状況に相応しくないこの感情も過酷な状況を乗り切るには強みになる。この毅然とした男が傍にいるのなら、今後どんな現状が待ち受けていようと真摯に受け入れられる気がした。

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