計画通り、オリガにルイジ暗殺の任務を一任したプロシュートは、ペッシと共で古城2階にある巡回連絡壕にいた。もちろん観光気分でブラッチャーノ街の風景を眺めに来た訳でも、呑気に一服しに来た訳でもない。そこからルイジの動向を監視するためだ。
あれからルイジは『秘密の庭』と呼ばれる外庭へと移動したのだが、挨拶回りを理由に辞退したのに堂々と会場内をうろつく訳にもいかない。そこで、人目も少なく庭を一望出来る巡回連絡壕に移動した。距離は離れているが、外を一望出来るので監視するには十分な場所だった。
深緑の芝生が茂る広大な庭の真ん中に、ルイジとオリガはいた。観光ガイドでもしているのだろう、2人は湖を眺めるような形で立っていて、ルイジが頻繁に四方を指差している。他に数人の来場客とボディガートと思しき男を3人見掛けたが、2人の半径5メートル以内に人はいない。
今は暗殺に不向きな状況だが、ルイジのギラついた様子を見るに、必ず2人きりの状況に持ち込むだろうと確信していた。あとはオリガの覚悟次第だ。
「どうやら順調みてーだな。あいつがオリガを部屋に連れ込むのも時間の問題だ」
プロシュートがほくそ笑むと、隣にいたペッシが困惑顔でぽつりと口を開いた。
「あのープロシュート兄ィ…本当にオリガ1人に任せて良かったんですかい?」
「あぁ? 何言ってんだ、この任務は最初からオリガが1人で殺る事になってんだろうが」
「そりゃまぁ、そうだけど…せっかく標的に近付くチャンスがあったんだし、3人で殺った方が早く済んだんじゃあねーかなって…」
と、やけに情けない表情でぼやいたので、プロシュートはじろりと睨み付けて閉口させた。
ペッシの事だから、今になって『女子には過酷な任務だ』と同情し始めているのだろう。しかし、プロシュートは全くそうは思わなかった。
見た目は平凡な少女であっても、口封じを計ったギャングを返り討ちにする気概を持っているし、色目を使ったルイジにも一瞬殺気を放ったくらいだ。あの様子だと間違いなく任務を決行する。本人が気付いていないだけで、根底には暗殺者の素質≠ェ備わっているのだ。
だから、ライオンが自分の子供を崖下に突き落とし、自力で這い上がった子供だけを育てるように、あえて過酷な状況で任務を遂行させるよう仕向けたのである。尤も、新入りのオリガに対して親ほどの愛情など持っていないが、目上の立場として『成長させてやりたい』という想いはあった。手厳しい態度を取ったのは、本人のためを想っての事だ。
もちろん弟分のペッシに対しても同じ想いだった。
「ペッシペッシペッシよォ〜、だからおめーは『マンモーニ』だってんだよ。俺達の世界じゃあ、そんな甘い考えは通用しねーんだ。オリガはもうわかってるみてーだぜ。うかうかしてると新入りに追い抜かれるぞ」
そう言って、プロシュートは外庭を顎でしゃくって見せた。
深紅のドレス姿で政治家と肩を並べるオリガの様子は他の貴婦人と何ら変わりなく、談笑する表情からも怖気や躊躇は一切見受けられない。自分が置かれている現状を把握し、任務を遂行する事を覚悟したのだ。ペッシも新入りの変化に気付いたようで、急に表情が引き締まった。
「そういやぁ、兄貴って意外と役者なんだな。あんな兄貴、今まで見た事ねーや」
「どうせおめーらに任せても会話にならねーと思ったから仕方なくやったんだ。あんなもん俺じゃあねー」
「まぁ確かに美しい≠ニか言われる兄貴なんて嫌だなァー」
「てめー次にその話をしたら、ジジイにしてあの湖に沈めるぞ」
「いや…軽い冗談ですって…」
ペッシには軽い冗談でも、言われた側には聞き流せない冗談だった。
プロシュートはルイジと対峙した瞬間、『この男は本物の色魔だ』と悟った。表向きは聖人ぶっていたが、言動の至るところに色欲が見え隠れしていて、本能的に直視するのを避けたくらいだ。おそらく気に入った相手ならば男女問わず手を出す類だろう。男から見ても嫌悪感を抱くくらいだから、女のオリガが殺意を抱くのは道理だった。
しばらくして、ルイジがオリガを連れて城内に歩き出したので、すかさずペッシに反対側の階段を指差した。
「おめーは別ルートから行け。いいか、絶対に見失うんじゃあねーぞ」
強く念を押したのは、任務の成否もあるが、一番にオリガの身の安全を確保するためだ。
このオデスカルキ城には20もの部屋があり、どれも広大で経路も複雑だ。パーティー会場と化した城内は来場客で溢れているため視界が悪く、少しの移動でも時間が掛かってしまう。また城内の至る所にはテロ対策として、銃器を所持した警備員が配置されているため、騒ぎを起こせば忽ち警備隊が駆け付けるだろう。
もし暗殺が発覚した場合は、問答無用で射殺される。そんな修羅場を暗殺のド素人であるオリガ1人で突破するのは不可能だ。
──任せたからには守ってやらねーとな。
立場に同情こそしないが、新入りに重い役目を任せた責任は感じていた。最後まで見守るのが世話役の務めであるし、自ら『信じろ』と言っておいて見捨てるなど、プライドが許さなかった。
*
「美しい部屋だろう? ここはオルシーニ家に嫁いだイザベラという女性の部屋でね、今でもローマに伝わる逸話のあるんだよ」
と、ルイジは柔和な笑みを浮かべながら、歴史を語り始めた。
「少し休憩しようか」と言われてオリガが案内されたのは、1階の最奥にある部屋だった。ルイジによると、関係者の控え室として使用しているとの事だったが、女性を休憩に誘うには不純な内装であった。部屋の天井には美しいシャンデリアが輝いているが、床には青い装飾が施された天蓋付きのベッドが置かれている。
──そっちの意味の休憩≠ネのね。
『好かれる女性は聞き上手』というプロシュートの助言を忠実に実行して来たけれど、ここまで簡単に異性の気を引けるとは正直思っていなかった。おそらく会話よりも外見に夢中で、ついに待ち切れなくなった──と言ったところだろう。
短絡的なやり方に呆れてしまったけれど、その方がオリガにとって都合が良かった。愚鈍であればあるほど、手を下す事を躊躇わずに済むからだ。
そして、招かれた場所もツイていた。この部屋はパーティー会場から離れた場所にあり、関係者の控え室となれば部外者が入って来る事はまずない。常に付き纏っていたボディガードも部屋の外で待機しているため、部屋にいるのはオリガとルイジの2人だけ。そして、ルイジもオリガを上手く部屋に誘い込んだ満足感からか、笑顔にも締りがなくなり、油断し切っている。計画通りに事が進み、任務を遂行する絶好の機会だった。
「ルイジさんは物知りなんですね」
オリガは会話に相槌を打ちながら静かに横に立つと、ルイジはさらに饒舌に語った。
得意げに話しているけれど、イザベラの逸話なら城を訪れる前に調べてある。何でも夫パオロの従兄弟と浮気をして、夫に殺害されたのだという。それだけ聞くと悲劇の女性だけれど、イザベラは男性関係の噂が堪えない女性で、夫のパオロにも愛人がいたというから、不貞な夫婦だったと言える。
そんな逸話がある部屋に女性を連れ込んだのは、意図的なものなのだろうか。だとしたら、酷く悪趣味だ。
「──で、今でもローマ郊外にはイザベラの亡霊が出るという噂だよ。こういう話は苦手だったかな?」
「いいえ、むしろ得意な方です。噂が本当なら会ってみたいですわ」
「ははは、それは良いね。しかし、私からしてみれば彼女も自業自得だよ。パオロも問題だが、だからと言って従兄弟と浮気をして良い理由はないだろう。彼女がもっと慎ましくあれば違ったんじゃあないかな」
と、ルイジは尤もらしく意見を述べたが、まるで『殺人は殺される側に問題がある』とでも言うような発言に、オリガは嫌悪感を増強させた。いかにも自分善がりな犯罪者らしい思想で、いくら紳士の仮面で繕っても本質は隠せない。
──そういうあなたはどうなのよ。
麻薬の取引も重罪だけれど、女性を軽んじる言動も許せなかった。女子供を欲望を満たす道具としか考えていない。
やはり養父と同等の救いようのないクズ≠セ──そう思った時には、すでに行動に移っていた。
「そんな事より、そろそろ本題に入りませんか? そのために私を部屋に呼んだんでしょう?」
そう言いながら、オリガはルイジの腕に手を絡めた。誘うような仕草に、ルイジは忽ち恍惚とした笑みを見せたが、次の瞬間には一切の感情を失っていた。オリガのもう一つの黒い腕≠ェ、ルイジの身体に触れていたからだ。
「あなたも自業自得よ」
呟いたところで、息絶えたルイジの耳には届いていなかった。自分でも心底恐ろしい能力だと思うけれど、苦しむ事なく逝けるだけ慈悲深いだろう。本人は自分が死んだ事にも気付かないのだから。
──これでみんなに認められる!
歓喜したのも束の間、生気を失ったルイジの身体は急に鉛のように重くなって、オリガに圧し掛かって来た。咄嗟に身をかわして避けたが、ルイジは近くにあった長机を巻き込みながら床へと崩れ落ちた。おかげで部屋中に大きな物音が響き、扉の外にいたボディガードに気付かれてしまった。
「ルイジ様? どうかされましたか?」
警戒した声色と同時に、部屋の扉がゆっくりと開き始めた。
このままボディガード達が部屋に入って来たら、確実にオリガは捕まる──いや、それは運が良ければ≠セ。この場合、テロリストとして射殺される可能性の方が高い。何しろ、政治資金パーティーの最中に現役外交官が死んだのだ。
──最期くらいまともに死になさいよッ!
無様な格好で倒れるルイジに向かって悪態を吐いたが、そうこうしている内に部屋の扉が半分まで開き、屈強なボディガードの姿が見えた。オリガは部屋を見渡して、ベッドの横にあった古ぼけたドアを開けた。そこには小さな螺旋階段があり、上の部屋へと続いているようだった。
──何かあったら2階の『巡回連絡壕』で落ち合うぞ。
ふとプロシュートの指示が脳裏を過ぎり、部屋の扉が完全に開く前に、オリガは螺旋階段を駆け上った。途中で叫び声が聞えたので、一段と速度を上げて上階のドアを押し開けたが、その先にもボディガードらしき男が3人立っていて、鉢合わせになってしまった。
──こんな所にもいたの!?
オリガは動揺したが、3人のボディガードも突如部屋に飛び込んで来た女に目を丸くしていた。まだ自分の正体に気付いていない──そう悟ったオリガは、すぐさまブラッケンドを出現させると、3人に向かって一気に駆け出した。
「ここで殺られる訳にはいかないのよ!」
無意味な殺生をするつもりはなかったけれど、いざ殺される状況≠ニなると綺麗事を言う気にはなれなかった。何の抵抗もせず一方的に殺されるよりは、最期まで抵抗して力尽きて殺された方がマシだ、と思った。
突進して来たオリガを見て、3人はようやく懐の拳銃に手を伸ばしたが、一手遅かった。ブラッケンドが3人の合間に入り込み、黒い両腕で空を扇ぐなり、精魂尽き果てて次々と床に倒れ込んだ。拳銃を持つより先に息絶えたため、幸いにも争った痕跡も大きな物音も出なかった。不意打ちの攻撃だから成し得た業であって、もし3人が密集して立っていなければ、発砲されていただろう。
「運が良くて助かったわ…」
とはいえ、現状は全く『運が良い』とは言えない。予め敷地内の間取りは記憶しているので、巡回連絡壕への道順も把握しているけれど、階段のある中庭は多くの警備員が待機している。仮に突破出来たとしても、連絡壕に向かったところでプロシュート達が助けに来てくれるとも限らない。むしろ危険と判断して、オリガ1人を残して脱出してしまうかもしれない。
いくら世話役を引き受けてくれたとはいえ、彼等にしてみればオリガは信頼関係も何もない素人同然の新入り≠セ。任務を優先するために見放されても仕方がない立場なのだ。
もしそうだとしても、オリガは連絡壕に向かうしかなかった。窮地に追い遣られた今、それ以外の方法を思い付かなかった。
──大丈夫よ。きっと助けに来てくれる。
任務の前にプロシュートは『絶対に見捨てない』と言ってくれた。その言葉を信じて、オリガは震える脚で歩き出した。
*
幸いにもオリガが向かったイザベラの部屋は会場と直結していたため、見失う事なく追跡出来た。しかし、部屋の出入り口には武装警備員とボディガードが集結していたため、プロシュート達は部屋から3つ離れた会場で待機するしかなかった。
会場は隣室への出入り口が一ヶ所しかなく、部屋の様子を伺うのも難しい。さらに、どこもかしこも人混みだらけで見通しが悪く、度々視界に入って来る成金達の浮かれ顔が余計に癪に障った。
「わざわざ曰くつきの女の部屋を控え室に選ぶとは、悪趣味な野郎だ。金持ちの考える事はわからねーな」
「だけど、すげー物々しい警備ですぜ。オリガのヤツ、逃げられねーんじゃあねーかな?」
「もしバレたら、俺のスタンドを使うまでだ」
「そんな事して大丈夫なんですかい? 騒ぎはヤバいって言ってたのに…」
「緊急事態なら問題ねーだろ。騒ぎが起ころうが死人が出ようが知った事じゃあねー。逃げたもん勝ちだ」
すると、ペッシは表情を曇らせて、テーブルにあったアイスペールを脇に抱え込んだ。
やると言ったらトコトンでやるのが己の信条で、ペッシも承知している事だったが、まるで悪い事態を予期するような行動にプロシュートは眉を顰めた。怯えた様子に腹が立った訳ではない。こう見えてもペッシは勘が鋭いのだ。
その直後、奥の部屋から荒々しい声が聞こえた。見ると、イザベラの部屋付近に立っていたボディガード達が、血相を変えて右往左往していた。
「息がない! 早く救急車を!」
その一言で、会場は一気にどよめいた。人混みが邪魔で室内の様子までは見えなかったが、オリガが任務を遂行した事だけは理解出来た。しかし、部屋からオリガが出て来るところは見ていない。
すでに別の出入り口から部屋を出ているのか──と思ったが、警備隊が一斉に城内に散って行くのを見て、状況が暗転した事を悟った。
「…本当にバレたみてーだな」
プロシュートは小さく溜め息を吐いて、すぐさまスタンドを出現させた。
グレイトフル・デッドが放つ煙は忽ちフロア中に充満し、煩いほど賑わっていた会場は幽霊屋敷のような光景へと一変した。来場客だけでなく、部屋を取り囲んでいた警備員さえも老木のような四肢になって、息も絶え絶えに床を這っている。
グレイトフル・デッドの能力は、それほど即効性に富んでいる訳ではない。直に触れれば一瞬だが、遠距離の場合は完全に老化させるのに数十秒は掛かるし、これほど広大な敷地となれば、スタンド能力を全開にしても持続出来るのは10分が限界だ。オリガまで巻き添えにしてしまうが、悠長な事を言っている場合ではない。予め老化現象の対処法は教えているから、何らかの処置に出るはずだ。腑抜け≠ナなければの話だが。
「おいペッシ、今すぐオリガを追うぞ! あの部屋には上に続く階段があったはずだ。部屋から出て来ないっつー事は、そこから2階の巡回連絡壕に向かったんだ。あそこで『落ち合う』っつったからなァ!」
「えぇ!? でも、そんな所に行っても逃げ道なんかねーですぜ!?」
「だから『今すぐ追う』っつってんだろうがッ!」
プロシュートは床に転がる老人の群れを蹴散らしながら、イザベラの部屋に向かった。
室内にはルイジの死体と、老衰したボディガードが横たわっており、さらに視線を移すとベッド横のドアが開け放たれていた。ドアの先には螺旋階段があり、推測通りオリガはここから2階に向かったようだ。
だが、ペッシの言うように、2階の巡回連絡壕に行ったところで、外への逃げ道はない。むしろ見通しの良い一本道のため却って危険だ。
──世話の焼ける女だな!
内心ぼやいたものの、ルイジを殺害したオリガの覚悟には感心していた。未熟なところはあるが、やはり暗殺者の素質は十分にある。約束通り暗殺任務を遂行したのだから、面倒な後始末は自分達でやればいいだけだ。
螺旋階段を駆け上がると、再び寝室らしき部屋に出た。その部屋も関係者の控え室のようで、関係者と思しき男が3人床に倒れていた。しかし、その3人は老化しておらず、首に手を宛がってみると息絶えていた。
「こりゃあオリガの仕業だな。鉢合わせして已む無く殺したってところか」
部屋には争った形跡がないため、躊躇いもなく殺害したようだ。
ふとテーブルに視線を移すと、ブランデーグラスとアイストングはあるのに、アイスペールはなかった。持ち去ったのはオリガだろう。急に始まった老化現象を緩和するために、氷を持ち去ったのだ。
「アイツ、なかなかやるじゃあねーか。気に入ったぜ」
すると、室外の様子を伺っていたペッシが突然声を上げた。
「兄貴ィ! 中庭の方から足音がするぜ! オリガじゃあねーですかい!?」
耳を澄ますと、確かに小さな足音らしき物音がどこからか聞えて来る。
音を辿って中庭へ向かうと、老衰した来場客と警備隊が折り重なるように倒れていたが、オリガの姿はなかった。
「どこ行きやがった。もしや氷が切れて、その辺で干乾びてるんじゃあねーだろうなァ?」
「兄貴、この階段ですぜ! オリガは連絡壕に行ったんだ!」
ペッシが指差した先には水滴の跡があり、階段へと続いていた。冷静さを失っているのか、それとも命令に忠実なだけなのか、何が何でも巡回連絡壕に向かうつもりでいるらしい。
「本当に世話の焼けるガキだな! 俺は肉体派じゃあねーんだぜッ!」
能力を全開にして城内を歩き回るのは、駆足で登山しているくらい身体に堪える。それでもプロシュートは大きく舌打ちをして階段を駆け上がり、連絡壕へと躍り出た。
照り付けた西日で一瞬目が眩んだが、50メートルほど先の通路に1人佇むオリガの姿を捉えた。同時にオリガもこちらに気付き、
「プロシュートさん! ペッシさん!」
と、嬉しそうに手を振りながら駆け寄って来た。あまりに緊張感のない態度に「てめー」と悪態を吐いたが、よく見れば今にも泣き出しそうな顔だったので、怒る気も失せてしまった。
その時、反対側の階段からボディガードの男が現れた。グレイトフル・デッドの射程距離内に入っているため老衰していたが、余力はまだ残っているようで、壁に寄り掛かりながらもオリガに向けて拳銃を構えた。
だが、背後で死角になっているオリガは、男の存在に全く気付いていない。
「危ねぇ伏せろ!」
プロシュートは咄嗟に叫んだが、怒声は却ってオリガの脚を止めてしまった。その間にも男はオリガに照準を合わせ、今にも引き金を引かんとしている。
枯れ枝のような指で無理に引き金を引けば、確実に骨が折れるだろう。それでも男に躊躇いはない。これもボディガードの覚悟なのか──もはや老化だけで制止させるのは不可能だった。
「ペッシ! おめーの『ビーチ・ボーイ』でオリガを釣り上げろッ!」
掛け声と同時に、ペッシは釣竿のようなスタンドを掌から出現させたが、竿を大きく振り上げた直後、乾いた銃声が数回鳴った。ビーチ・ボーイの釣り針は一直線にオリガに向かって行ったが、一手早く放たれた時速1200キロの銃弾の速度には到底敵わない。
「駄目だ兄貴ィ…! 間に合わねーッ!」
「チッ…!」
ペッシが叫び、プロシュートが駆け出した刹那、オリガが立っていた通路の床が急に音を立てて崩壊した。
「なに…!?」
幸い銃弾は外壁に当たったが、オリガはプロシュートの目の前で床下の穴に落ちて行った。咄嗟に手を伸ばしたが、あと数センチのところで及ばなかった。
数メートルの高さから石畳の床に落ちれば無事では済まない。愕然とした表情で落下していくオリガの姿を前に、血の気が引いていった。
「クソッ…!」
その時、空を舞っていた釣り針が突如軌道を変えてオリガの肩を貫いた。ペッシが機転を効かせて、釣り糸の軌道を操ったのだ。釣り針が引っ掛かった事でオリガの身体は空中で停止し、おかげで落下は阻止された。
「でかしたぞ、ペッシ! 気が利いたな!」
「褒めるのは後でいいから早く引き上げてくれよォ〜、これ以上支えていられねぇ…!」
ペッシは釣り糸と両腕を震わせて、通路の手摺りにしがみ付いていた。40キロ台の少女でも落下の速度を足せば相当な重量だ。オリガも衝撃で気を失ったらしく、身体が操り人形のように揺れていた。
2人掛かりで穴から引き上げて、ペッシのスタンドを解除したが、オリガは目を覚ます様子はなかった。標的を暗殺し、警備隊から逃げ回り、挙句には崩落した通路から転落しかけたのだ。意識を取り戻すまで時間が掛かるだろう。ともあれ致命的な外傷はなかったので、プロシュートは胸を撫で下ろした。
「それにしても、何で通路が崩れたんだ? さっき俺達が来た時には何ともなかったはずなのに…」
ペッシは不思議そうに崩落した穴を眺めていた。穴は直径3メートルほどあり、真下のフロアまで抜けている。古い建造物ではあるが、石造りの要塞がこうも脆く崩れ去る事などあるのだろうか。それも、オリガが立っていた箇所だけだ。
──気になるところだが、呑気に調べてる場合じゃあねーな。
城外に視線を向けると、騒ぎを聞き付けた警察隊が城門まで押し寄せていた。城を完全包囲するのも時間の問題だ。しかし、あの包囲網を突破する方法はすでに用意してある。誰にも悟られない確実な方法≠セ。
「まだもう一仕事残ってるぜ。ペッシ、おめーも覚悟しとけよ」
プロシュートはオリガを背中に抱えると、連絡壕を後にした。
*
城門前では、通報を受けた警察隊と救急隊が集結していたが、城内に立ち込める煙を前に立ち往生していた。一歩でも城内に入り込めば忽ち老衰してしまうため、突入したくても出来ない事態に陥っていたのだ。警察はテロだと断定したが、不可解な状況にただ首を傾げるしかなかった。
そんな狂気に満ちた城内から、3人の人影が現れた。警察隊は警戒して制止を呼び掛けたが、その3人も80歳以上の老人に変わり果てていたので、会場の生存者と判断して保護した。
2人は男性で、もう1人は女性だった。女性は気を失っているようで、男性の背中に抱えていたが、老体には堪えるようで全身が震えていた。
「大丈夫ですか? この中で何が起こっているんです?」
隊員が身体を支えながら声を掛けると、女性を背負っていた男性は「えぇ?」と一度聞き直して、しわがれた声で答えた。
「いやぁ〜、それがよくわからないんだよォ〜。急に身体がだるくなっちまってなァ〜、妻と使用人を連れて外に出るだけで精一杯だったんだよォ…」
会話するのも辛そうだったので、隊員もそれ以上は聞かず、保護した3人を救護班の元に連れて行った。
救護隊員は3人に毛布を掛けると、男性が「温かい物が飲みたい」と言ったので、外の救護車両から紅茶とコーヒーを運んだ。しかし、再びテントに戻った時には、3人の姿は忽然と消えていた。
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