オルシーニ・オデスカルキ城は、ローマ郊外にあるブラッチャーノ地方の湖畔に建つ古城である。
その歴史は古く、15世紀当時はオルシーニ家のものだったが、現在は売却され、貴族当主オデスカルキ家の居住地となっている。一部は一般公開されていて、美術館の他に映画の撮影所や会議場、また結婚式会場によく使われている事でも有名だ。
今回の交流パーティーもオデスカルキ城内で行なわれる事になっていたが、こんな歴史的建造物で、しかも人々の門出を祝福するような場所で、暗殺という背徳的行為を行なうのは、やはり気が咎めた。こうなると周囲を巻き込まないためにも、確実に標的だけを排除する必要がある。先日プロシュートに紹介された店で、パーティーの身支度をする間、オリガは城内の見取り図と偽造した招待状を眺めて、緊張に身体を震わせた。
あの後、リゾットから偽装した身分証と招待状を貰い、オリガ達3人は『ルイジを支持する若手モデル』に扮する事に決まった。オリガとプロシュートは某モデルの名を貰い、ペッシは2人のマネージャーと称してパーティーに潜入する事になったが、「何で俺だけ使用人?」とペッシから不満が出たのは言うまでもない。
潜入に必要な物は揃っても、地味な少女がたった1日でモデルに扮する事が出来るのか──その不安は、完成した自分の姿を見て吹き飛んだ。
「会心の出来だわ。これなら誰もあなたを『ダサい田舎娘』なんて言わないわよ」
と、スタイリストは散々失礼な事を言って自画自賛したが、オリガも同感した。
綺麗に巻き上げた髪に、背中が大きく開けたワインレッドのドレス。メイクも服装も派手過ぎず地味過ぎず、丁度良い具合に女らしさを引き立たせている。
全体的に上品に仕上がっていたが、とても16歳の容姿ではなかった。20歳と言っても十分通用する。『女は化ける』というのは、まさにこの事だと思った。
──何だかシンデレラになった気分。
ギャングになってすぐに、こんな夢のような体験が出来るとは正直思ってもみなかった。初めてのパーティーが暗殺任務≠ニいうのが悔やまれるところだけれど、一生に一度あるか否かの機会を与えられた事に歓喜した。
変わり果てた自分の姿に見惚れていると、鏡台に置いてあった携帯電話が鳴った。相手はプロシュートで、どうにか3コール目で電話に出たものの「遅せーぞ」と一喝されてしまった。
「やっと電話に出やがったな。準備は終わったのか?」
「あ、はい! たった今終わったところです」
「遅っせーな、もう12時だぞ。パーティーの開演が何時か知ってんか? これだから女ってのはよォ〜」
どうやらプロシュートは何度も電話を掛けていたらしい。
パーティー開演時間は午後15時半。ネアポリスからローマ・ブラッチャーノ地区までは車で約3時間半なので、ギリギリ間に合うかどうかである。準備に2時間も掛けたのはスタイリストなので、こちらに怒られても困るのだけれど、言い訳が通用する相手ではないので素直に謝っておいた。
「すみません、すぐそちらに向かいます。今どちらにいるんですか?」
「もう店の近くに車を止めてる。さっさと来い」
と、プロシュートは一方的に告げて電話を切られた。おかげで夢から現実に引き戻されてしまったけれど、この後に待ち受けている任務を考えれば、呑気に浮かれている場合ではなかった。失敗すれば、チームの仲間だけでなく組織からの信頼まで失ってしまうのだ。
スタイリストに事情を説明して、バッグなどの小物を受け取ると、「ありがとうございました」と一礼して店を出た。
車道には複数の車が止まっていたが、1台だけ黒塗りの高級車が止まっていて、フロントガラス越しにペッシの姿だけが見えた。独特で派手な髪型なので、どんな場所でも一際目を引く。
──会場で迷子になったら、あの頭を目印にしようかな。
そんな失礼な事を考えながら車の窓ガラスを叩くと、ペッシはこちらを二度見して「わっ」と声を上げた。
「な、何だ、オリガかよ。びっくりさせるなよ、誰かと思ったじゃあねーか…」
悪態を吐いたものの目が異常に泳いでいて、その反応を見たオリガは内心『してやったり』と拳を握った。顔が赤らんでいるのが気になるところだったが、ここまで驚いてくれると気分が良い。見ると、ペッシも燕尾服と蝶ネクタイに着替えていたが、あまりにも違和感のある礼装姿だったので、笑ってしまいそうになった。
オリガはちょっとした優越感に浸りながらも、パーティーの予行練習も兼ねて淑やかに返した。
「遅くなってごめんなさい。プロシュートさんは?」
「兄貴なら後ろに乗ってるぜ」
そう言って、ペッシは視線を伏せたまま後部座席のロックを外した。ドアを開けるとプロシュートの仏頂面が待ち構えていたが、オリガを見るなり目を見開いて、全身を見渡して満足気に頷いた。
「ほぉ、思っていたより良い女になったじゃあねーか。その辺の下手なモデルよりいいぜ」
「ほほほ本当ですか?」
「俺が言ってんだから間違いねー。いいから早く乗りな、時間がねーんだ」
プロシュートは一転して素っ気なく命令したが、想定外の褒め言葉にオリガは動揺が隠せなかった。誤解を招きそうな台詞をさらりと言ってしまうのは如何なものかと思ったけれど、他の誰よりも嬉しい反応だった。粗暴なギャングでも、本質は『イタリア男』という事なのだろう。
パーティー当日にも関わらず、普段と同じ黒いヘリンボーン柄のスーツだったが、特別に着飾らなくてもモデルとして十分通用すると思った。
「プロシュート兄ィ、もう3時間ちょっとしかねーですぜ? 間に合わねーんじゃあねーですか?」
「間に合わせるんだよ。逆走しても構わねー、とにかく飛ばせ。もし遅れたらただじゃあおかねーからな」
と、プロシュートは運転席を足蹴りしてペッシを急かした。外見はモデル顔負けでも言動はギャングのままだったので、このままパーティーに行って上手く紛れ込めるのか、少し心配になった。
*
プロシュートが急かしたおかげで、車はパーティーの開演時間ぴったりに目的地に到着した。
実際に見るオデスカルキ城は、写真で見るよりも格段に美しかった。イタリアには赴きのある建造物が多いけれど、古城を囲む深緑の木々と、一面に広がる透明感のある青い湖面はまさに絶景であった。
そして、城の外壁近くにある駐車場には複数の高級車が停車し、正面門を抜けた入口には彩り鮮やかなドレスや黒いタキシードで着飾った紳士淑女達が集っていた。そこには有権者と思しき一般人──と言っても金持ちばかりだけれど──の他に、テレビや雑誌で見た事のあるモデルや俳優の姿も多くあった。
完璧に変装したつもりだったけれど、実際に本物を前にするとオーラが全く違う。また舞台が古城という事もあって、まるで映画の世界に飛び込んでしまったかのような浮世離れした光景で、オリガは圧倒されてしまった。
「あ、兄貴ィ…すげー人数ですぜ?」
「大した事ねークズの集まりだ。こんなところに長居するつもりはねー、さっさと終わらせるぞ」
プロシュートは役柄もそっちのけで辛辣な台詞を吐くと、オリガに対しても「ビビってんじゃあねーぞ」と一喝して、エスコートする振りをして背中を押しながら城内に歩いて行った。
偽装した招待状で難なく入城したものの、会場内には多くの招待客で賑わっていた。案内された2階の広間には豪勢な食事が並び、ワインを片手に談笑する貴婦人や、握手を交わす政治家と有権者の姿で溢れている。
部屋には煌びやかなフレスコ画や肖像画、中世の装飾品や鎧などが並んでいたが、己の権力と知名度をアピールする場でしかない彼等の目には、何一つ映っていないようだった。表向きは煌びやかな交流パーティーだけれど、実際には欲望が渦巻く犯罪者達の交渉現場だ。今もこの会場のどこかに、ルイジと麻薬の取引をする者が潜んでいる。
「うわ、金持ちばっかだ。これだけ人がいたら見失うんじゃあねーかな?」
「おめーら、迷子になるなよ。何かあったら2階の『巡回連絡壕』で落ち合うぞ」
冷静な2人の隣で、オリガは会場の空気に完全に呑まれていた。
──本当に私なんかに出来るのかな。
この日のために、自分なりに学んで来たつもりだったけれど、周囲の会話を聞き取る事も困難だった。そして、会場内の警備員の数もかなり多く、見える範囲でも10人以上はいる。この厳戒態勢の中で標的に近付き、自分の手で暗殺を遂行する──覚悟はしていたけれど、いざとなるとそのプレッシャーは計り知れなかった。
「ワインはいかがですか?」
不意に声を掛けられて、オリガは思わず「ひぇっ」と素っ頓狂な声を上げてしまった。見ると、ウェイターが怪訝な顔でワイングラスを差し出していて、オリガは慌ててグラスに手を伸ばしたが、横から伸びて来たプロシュートの手が、先にグラスを掠め取って行った。
「失礼、彼女はこういったパーティーは不慣れなんだ。ついでにワインも不慣れでな、彼女の分も俺が預かっておこう」
と、プロシュートは紳士的な態度で弁解すると、ウェイターは「失礼しました」と笑顔で一礼して離れて行った。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、途端に鋭い眼光と辛辣な台詞がオリガに降り注いだ。
「ボサっとしてんじゃあねー。いつでも仕込めるようにしとけ。全部おめーに掛かってんだぞ」
「す、すみません…いざとなると緊張しちゃって…」
ふと弱音を溢すと、プロシュートは急にオリガの両肩を掴んで例の体勢≠取って来た。この状況で、その対応は目立つのでは──と肝を冷やしたが、構わず顔を近付けて叱咤激励した。
「前にも言っただろ、もっと自分に自信を持て。そして成長しろ。ここで成長しねーと、お前は一生甘ったれたガキのままだ。上からの信頼も失うし、仲間にも馬鹿にされ続ける。そんな惨めな思いはしたくねーだろ」
プロシュートが言うように、これは仲間の信頼を得るためだけでなく、自分の実力を計る絶好の機会でもあった。初任務を突破出来なければギャングとして生きる資格はない──あのポルポの試験と同じだ。いや、ポルポのスタンドに比べれば、女好きのルイジなど大した脅威ではなかった。
「何度も弱音を言ってごめんなさい。私、成長してみせます」
「その意気だ、トコトンやりな」
プロシュートが鼓舞した直後、周囲を警戒していたペッシが2人の背中を小突いた。
「兄貴、出て来ましたぜ…!」
視線の先には、白い石造りの中庭が広がっていて、奥の階段から1人の男が若い女性を率いて降りて来るのが見えた。
その偽善に溢れた柔和な男の表情は、写真で何度も確認している。暗殺対象の政治家ルイジ・ポルギだ。彼は有権者達の拍手に笑顔で応えると、マイクを手にして一礼した。
「この度は、私のパーティーにご参加頂きありがとうございます。これほど多くの方に支えられていると思うと、胸が熱くなりました。皆様の信頼とご厚意に応えるべく、今後より一層精進していく所存です」
と、感謝を述べる一方で、その両脇には女性を寄り添わせていて、オリガには善意の欠片も感じられない光景に見えた。それでも会場からは、けたたましいほどの拍手が鳴り響き、3人は揃って眉を顰めた。
すると、ルイジは会場にいる有権者一人一人に声を掛け始めた。おかげで自ら標的に近付く手間は省けたものの、会話を用意する時間はわずかになってしまった。
次第に近付いて来るルイジを眺めながら、頭の中で対応を考えていたが、ふとルイジと目が合って背筋がぞっとした。こちらに見せた微笑みと視線が、女を品定めするような酷く汚らわしいものに見えたからだ。気のせいだと思いたかったけれど、ルイジは他の有権者と挨拶を交わしながらも、まるでオリガに照準を合わせたように視線が固定されている。
プロシュートはまんまと罠に掛かった標的を鼻で嘲笑って、すかさずオリガに耳打ちした。
「いいか、お前は『政治も経験もド素人の若手モデル』だ。肩書きがそれなら少しくらいトチっても相手は気にしねー。会話は俺がサポートしてやるから、殺り方はお前が最善だと思う方法で殺れ。相手は政治家の仮面を被ったクズだ、加減は要らねー」
そんな物騒なアドバイスをしているとも知らずに、手前の老人夫婦と挨拶をし終えたルイジは、まっすぐこちらに近付いて来ると、目の前で丁寧に一礼した。
「あなた方は初めてお目に掛かりますね。こんなお若い方々にまでご参加頂けるとは光栄です。見たところモデルさんでしょうか?」
ルイジは政治家と思えないほど低姿勢で握手を求めて来たが、オリガは一言「はい」と返すだけで精一杯だった。
こうして対峙してみると、政治家ルイジはオリガの養父と雰囲気がよく似ていた。人の良い柔和な笑顔と、穏やかな物腰。だが、それは悪事を隠すための仮面だ。表では社会に貢献する振りをして、裏では金のために多くの人を傷付けている──ふと憎悪の感情が湧き上がったが、プロシュートがすかさずオリガの前に立ち、代わりにルイジと握手を交わした。
「こちらこそ、ご招待頂き光栄です。あなたの功績はかねがね伺っております。祖国のために身を賭している著名な外交官殿のお誘いを断る事など、我々のような若輩者に出来るはずがありません」
散々『クズ』呼ばわりしていた辛辣な態度からは想像も付かないほど紳士的で、オリガとペッシは思わず顔を見合わせた。相手を持ち上げるお世辞も、先ほどまでの悪態のおかげで酷い厭味に聞えて来る。
当然ながら、プロシュートの素性を知らないルイジは「お上手ですな」と上機嫌に笑って、
「あなた方のような、世間に影響力のある方々に興味を持って頂けて嬉しいです。このパーティーで皆さんと親睦を深める事が出来れば幸いです」
と、終始笑顔で返した。その視線は相変わらずオリガに向けられていて、再び握手を求めて来たが、プロシュートの機転のおかげで抵抗なく受け入れる事が出来た。
「それにしても、これほど秀麗なモデルさんがおられるとは存じませんでした。ご両者共にお美しい…失礼ですが、お三方のご関係は?」
その質問に答えたのはプロシュートだった。
「ただの同僚です。俺もまだ経歴が浅いですし、彼女に関しては1カ月前に業界に入ったばかりの新人です。もう1人の男はただのマネージャーです。お気になさらずに」
適当な自己紹介にペッシは眉を顰めたが、ルイジは「そうですか」と大して気にも留めず軽く流した。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ルカと言います。以後、お見知りおきを」
そう言って、プロシュートは偽名を名乗ったので、オリガも続いて「メリッサです」と偽名を答えた。それに対してルイジは自身の名刺をそれぞれ手渡して、
「こうして出会ったのも何かの縁です。良ければ席をご一緒してもよろしいですか? 若い世代の方々が、政治にどのような関心を抱いているのか、ご意見を伺いたいんです。もちろんお三方とですよ」
と、自ら食事の席に誘って来た。『3人で』という事は、オリガが『女の武器』を使って単身で乗り込まなくても、暗殺を遂行する事が可能だという事だ。
──どうやら私の出番はなさそうね。
安堵したのも束の間、プロシュートの口から意外な台詞が飛び出した。
「とても光栄なのですが、まだ同業者への挨拶が終わっていませんので、我々は辞退させて頂きます」
絶好の機会を断る理由がわからず、ルイジも眉を顰めたが、プロシュートはすかさず「ですが」と言葉を付け足した。
「会食には、このメリッサが参加します。今はこの通り大人しいですが、今回のパーティーで一番張り切っていたのは彼女です。我々がいない方が心置きなく楽しめるでしょうし、会話も弾むでしょう。ただ、新人なので無礼を働くかもしれませんが、その辺はご容赦下さい」
──そんなサポートの仕方ってある!?
気がある振りをすれば接近しやすいが、下手をすれば相手を本気にさせる事態になり兼ねない。案の定、提案を聞いたルイジは表情を一転させて、愉快とばかりの笑い声を上げながら、
「どうやら噂以上に上下関係の厳しい業界のようですね。私もあなたの名誉を尊重したい。わかりました。ではしばらくの間、彼女をお借りしますよ」
と、快く承諾してしまった。最初からその気≠ナ近付いて来たのだから、当然の結果だった。
おかげで計画通りの展開になったけれど、一段とハードルを上がった気がする。オリガが不服を目で訴えると、プロシュートは酷く冷めた目で見下ろして来た。その瞳は『成長したければやり遂げてみせろ』と訴え掛けていた。
その一方で、プロシュートはルイジに玲瓏な笑みを浮かべて一礼し、
「ご理解頂き感謝します。次回の総選挙も我々にお任せ下さい」
とだけ告げて、オリガを1人残して中庭から立ち去って行った。プロシュートの冷徹な決断に、ペッシは酷く困惑した様子だったが、真意を察したオリガは毅然とした態度で2人を見送った。
──こうなったら、トコトンやってやるわ。
プロシュートは『甘いやり方では成長出来ない』と言いたいのだ。おそらくリゾットが初任務をオリガに一任させたのも、同じ考えがあったからだろう。2人は暗殺チームの中心的存在だから、裏でそういった談合があっても不思議ではない。
かなり手荒な方法だけれど、オリガはこれを『愛の鞭』だと受け取った。期待しているからこそ手厳しいのだ。
「メリッサさん…でしたね。せっかくですから、城内を散策しながら話しましょうか。特に『秘密の庭』は絶景でね、きっと気に入りますよ」
2人になった後も、ルイジは紳士的な態度を崩さなかったが、声色には欲望が滲み出ていた。どんなに繕っても悪党特有のオーラは隠せない。リゾットとプロシュートの期待を一身に受けたオリガに、もはや躊躇いはなかった。
[*prev] [next#]
[back]