『柱の男は親切でした』

 翌朝もラジオやテレビ番組では殺人鬼目撃のニュースが続いていたが、夢子は昨夜の出来事を警察に通報しなかった。吉良の『平穏な日常』とやらを壊して報復対象になりたくなかったし、ディオに利用された吉良に同情したところが少なからずあったからだ。
 事情はともかく、ディオと出会ったのが運の尽き≠ニなって生活が一変してしまった点は夢子と同じだし、手フェチの殺人鬼≠ニいう異常な性質を除けば気品ある男性なので、『ディオに気を許すな』という忠告も信じてみようと思った。夢子の言動にいちいち羞恥して、入浴が先延ばしになった事で不貞寝するような吸血鬼が、世界に影響を及ぼすほど恐ろしい存在とは全く思えなかったけれど、野心家で他人を利用する傾向にあるのは事実だから、警戒しておいて損はない。取引はしていても、夢子もディオに利用されているようなものだ。

 しかし、吉良への恐怖心を拭い去る事は出来ず、今現在も自分の手に性的関心を抱いていると思うと背筋がぞっとした。今回はすんなり撤退したけれど、吉良の夢子の手≠ノ対する関心は相当なものだったから、いずれまた夢子の前に姿を現すだろう。
 杜王町の平和を揺るがした殺人鬼に目を付けられては、さすがの夢子も楽天的思考で従来通りの生活を送る気にはなれなかった。いくら通い慣れた商店街でも、殺人鬼に襲われたばかりの夜道を1人呑気に歩けるほど図太い神経は持ち合わせていない。しかも、その現場は夢子の自宅アパートから徒歩10分の距離にあるのだ。
 相手がストーカーであれば、タクシーや同僚に同行して貰う方法もあるけれど、『触れた物を爆弾に変える』常軌を逸した能力を持った殺人鬼が相手では、返って巻き添えにしてしまうだけだ。その点、吸血鬼ならば吉良にも対抗出来るだろうし、巻き添えにしても何の罪悪感もない。問題は多いけれど、下手な男より頼もしい男なのは否めない。もし知人に関係を問われても『語学留学中の青年』と弁解すればどうにかなる。

 そこで夢子は、いつでもディオと連絡が取れるよう『有す川』までの地図と電話の使い方を記したマニュアルを作成した。昨夜、不貞寝する前に何やら恥らいを見せていたから、また『マ』の付く行為をしているかもしれない──夢子は警戒しながら出勤前に寝室を覗き込んだが、安らかな寝姿で熟睡していた。眠っている間は見るのも恥らう艶美な青年で、つい『このまま眺めていたい』と悪趣味な事を考えてしまう。

 ──性格の悪さが玉に瑕なのよね。

 以前は聞く耳も持たない俺様な態度だったけれど、ここ最近は夢子に好意的な──というよりも欲情的だけれど──態度を見せているから、協力する可能性は高いだろう。夢子は軽く咳払いをして、慣れない猫なで声でディオの身体を揺すった。

 「ねぇディオ、今日は大切なお願いがあるんだけど、聞いてくれないかしら?」
 「…お願いだとォ? 俺の話も聞かないくせに図々しいぞォ…」

 一度夢子の思惑を見抜いている事もあって、ディオは目も開けずに気だるそうな声を返しただけだった。夢子が無意識で取った言動には羞恥するのに、作った色仕掛けでは動揺もしないから何だが腹立たしい。

 「このお願いを聞いてくれたら、こないだのディオの要求も聞いてあげてもいいわよ」

 『要求を聞く』という台詞にディオは耳をピクリと動かして、気だるそうに上体を起こした。寝ぼけ眼を擦りながらも素直にノートを読むディオの仕草を見ると、『気を許すな』という吉良の警告を忘れてしまいそうになる。

 「…何だコイツは、へたくそな絵が描いてあるぞ」
 「へたくそで悪かったわね。ディオのために電話の使い方をわかり易く書いてやったのよ」
 「電話だと? 確か遠くの人間と会話が出来る通信機材だったな」
 「ディオ、電話が何か知ってるの?」
 「馬鹿にするなよ、俺の時代にも電話くらいあるぞ。この時代みたいに主流じゃあないが、どんな物かは知っている。ちなみに現代の『携帯電話』とかいうヤツも知っているぞ。お前が持っている小説で読んだからな」

 『法律学ナンバーワンの成績を修めた』と自負するだけの事はあって、この数日で夢子が所有する小説から現代と日本の文化を学習したらしい。その割に法律を無視した行ないが目立つけれど、問うたところで『吸血鬼に人間の法律は関係ない』と返って来そうだ。

 「じゃあ話が早いわね。今夜ディオに電話するから、『有す川』まで迎えに来て欲しいのよ。昨日殺人鬼に襲われたから、1人で帰るのが怖くてさぁ。夜だけディオに護衛を頼みたいの」
 「なぜこのディオが女の護衛をしなくちゃあいけないんだよッ! 昨日の殺人鬼はマヌケなお前が勝手に襲われただけだろ。そもそも俺は掃除屋じゃあないんだぞ。ちょっと取引したからって図に乗るなよ」

 護衛と聞くなりディオはノートを投げ付けて来たが、これも予想通りの展開である。物欲でしか動かない吸血鬼への対処法はすでに習得済みだ。

 「もし頼みを聞いてくれたら、浴室のマニュアルと一緒にディオの着替えも用意してあげる。この部屋もディオが住み易いようにリフォームしてあげるわよ」
 「その条件はストーカーのカスを始末する取引の中に含まれているんだよ。殺人鬼は別件だから、新たに取引するのが筋だろ。助けて欲しいなら、もっと誠意を見せろよ」
 「…あんた、完全に私の足元見てるでしょ」
 「フン、それはお前も同じだろ」

 秀麗な容姿で悪巧みをするディオを目の当たりにすると、吉良の忠告の意味がよくわかる。しかし、元恋人のストーカー行為と吉良の変質的犯行から逃れるには、ディオに頼るしか方法はない。弱みを握られるのは気に入らなかったけれど、夢子は已む無く下手に出た。

 「じゃあ、どんな条件で取引すればいいの?」
 「…こないだの要求を聞くんだろ? だったら俺の相手をしろよ。血と一緒に身体も提供をしろ。それが殺人鬼を始末する条件だ」

 再び舞い戻って来たゲスな要求のおかげで、夢子の胸中にあった警戒心は一瞬で消え失せてしまった。

 「…血はともかく、何でそんなにセックスに拘るのよ。そんなに私とヤりたいの?」
 「べ、別に拘っている訳じゃあないぞッ! 目の前に女がいたら抱くのが普通だろ!」
 「…全然普通じゃあないんだけど…」

 どうやらこの吸血鬼は、プライドだけでなく三大欲の塊でもあるらしい。しかしながら、吉良の異常な性癖を見てしまったせいか、ディオの要求が健全に見えてしまうから不思議なものである。
 だからと言って相手をする気は毛頭ないけれど、吉良の魔手から逃れられたのは一応ディオのおかげなので、出来る範囲内で応えてやろうと思った。死の恐怖よりも一時の屈辱に堪える方が断然マシであるのは、もはや言うまでもない。

 「しょうがないなぁ…夜の相手は無理だけど、お礼のキスくらいならしてあげてもいいわよ」

 言ってみたものの、こんな野獣のような男がキス程度で納得するはずがない──と思えば、ディオはぴくりと片眉を吊り上げて興味を示した。

 「…本当にするんだろうな?」
 「ディオがきちんと私の電話に出て、お店まで迎えに来て、無事にアパートまで送ってくれたらね」
 「…フン、いいだろう。その代わり一度に付き1回だからな、忘れるなよ」

 まるで子供のお使いのような内容にも関わらず、ディオはほんの少し考えただけで同意して、満足気に床に就いた。

 ──キスなんかでいいの?

 いくら好意的になって来たと言っても、こうもすんなり受け入れられると気味が悪い。そもそも見返りに血と身体を求める強欲な男が、お礼のキスだけで満足するだろうか。もしかすると、夢子が考えている頬にする軽いキス≠ニ、ディオが考えているキス≠ヘ全くの別物なのかもしれない。そうでなくても、発情した男にキスなどをしては、火に油を注ぎ兼ねない危険な行為である。

 「ちょ、ちょっと待って! 言っておくけど、変な意味のキスじゃあないからね! それから何度も言うけど、追い払うだけでいいのよ。相手がストーカーでも殺人鬼でも、殺したら無効だからね!」

 夢子は慌てて弁解したが、すでに深い眠りに就いてしまったディオの耳には届いていなかった。

 *

 この日も殺人鬼騒動のおかげで来店者が激減し、『有す川』は通常より1時間早めに閉店したが、店長から「時間が余った分、店内全ての清掃をする」という無茶振りが飛び出したため、結局業務を終えたのは午後10時過ぎだった。殺人鬼が出没した直後に残業をさせる店長の無神経さに従業員達は口々に不満を溢していたが、夢子は闇夜を前に1人怯えていた。仕事の不満よりも無事に帰れるのか>氛氓サれだけで頭が一杯だった。

 ──何で私だけこんな目に遭うのかしら。

 今、夢子の視界には見慣れた深夜の街並みと、その一角にぼんやりと浮かぶ小路への入口≠ェ映っていた。これも世界の異変のせいなのか、それとも甦った殺人鬼が現れた影響なのか──長らくなり≠潜めていた小路は、まるで不吉な存在を地獄へと誘うかのように、ぽっかりと口を開けている。
 あの世とこの世の境目と言われる『振り返ってはいけない小路』は、見えない人が大半なのだけれど、あいにく夢子には鮮明と見えてしまう。実際に立ち入った事はないけれど、小路から漂って来る異様な空気を肌に感じると、とても踏み込む気にはなれない。『ディオにキスするくらいなら1人で帰った方がマシ』と思っていたけれど、この暗澹とした風景を見てはそんなプライドも消えてなくなった。

 「…ディオ、お願いだから電話に出てよ」

 夢子は期待を込めて携帯電話を手に取ったが、不意にコート姿の男がこちらに歩いて来るのが見えて全身が硬直してしまった。トレンチコートにハットの男──『また吉良が現れた』と思ったが、よく見れば全くの別人だった。
 190cmはあると思しき体躯は明らかに日本人のものではなく、遠目から見ても目を引く形成の取れた容姿をしている。今時珍しいトラベラーハットの下に、黒い頭巾を纏う奇抜なファッションが若干気になったけれど、外国人観光客か何かだろうと判断した。
 その男性はまっすぐオーソンに入って行くと、店員とほんの少し会話をして店を出て来た。そして訝しげな顔で店内を睨むと、コンビニ脇の壁に寄り掛かって俯き加減に佇んだ。おそらく道か何かを尋ねて、店員に素っ気なく返されたのだろう。杜王町住人の『部外者に素っ気ない気質』は、殺人鬼・吉良の目撃証言のおかげで尚更拍車が掛かっているのだ。

 ──助けてあげたいけど、今はそれどころじゃあないのよね。

 1人佇む男が不憫に見えたが、夢子は構わず携帯に視線を戻した。すると、男性は思い立ったようにコンビニから歩き出して、あろう事かオーソンの脇にある小路へと曲がって行ってしまった。どうやらその外国人男性にも小路が見えてしまっている≠轤オい。土地勘のない人間にとってこれほど不運な事はなく、夢子は咄嗟に男性を呼び止めた。

 「あ…ちょっと待って! そっちの道はやめた方がいいですよ!」

 小路に入る手前で立ち止まったため、男性は運良く難を逃れたが、思わぬ制止の声に不機嫌極まりない顔で睨み返して来た。

 「女ァ…この私の行く手を阻むとは、どういう了見だ? ン?」

 振り返った男性の眼光は鋭利なもので、怒気を含んだ低音に肝が冷える思いがした。さらに不思議な事に、その男もディオと同じ赤い瞳をしており、夢子の胸中に嫌な予感が過ぎった。しかし、動揺している間にも男の眉間には深い皺が刻まれていき、夢子は恐々と理由を説明するしかなかった。

 「ご、ごめんなさい。でも、その小路はとても危険なんです。小路の中で後ろを振り向くと、あの世に連れて行かれてしまう所で…だ、だから呼び止めただけでして…」

 偽りのない事実を話しているのに、怪談紛いの内容のおかげで相手を冷やかしている気分になる。杜王町の住人はそこそこ信仰があるから信じる者は多いけれど、外部の人間からすれば単なる地元の怪談話でしかない。いつぞやのディオのように『オカルト好きのバカが作った話』と一蹴して当然の内容なのだ。
 案の定、男は一段と険しい顔をして訝しげに言葉を返して来た。

 「ほう、この街にはあの世に通じる霊道≠ェあるのか。私なりに下調べをしたつもりだったが、そのような話は初耳だな」
 「地元の人間でも、ごく一部の人にしか見えないんです。それに、この街の住人は外部から来た人には不親切だから、知っていても教えないかも…」
 「そういうお前も、この街の住人ではないのか? その話、信じる証拠はどこにある?」
 「それは…ありません。で、でも実際に小路に入って戻って来なかった人は何人もいます。この街の行方不明者が多いのは事実だし…」

 突き刺さる視線に堪り兼ねて、夢子は次第に声を潜めていった。杜王町の行方不明者吉良が原因でもあるし、非現実的な怪談話を立証するものにはならない。これでは益々相手の反感を買うだけ──と思えば、男は急に鼻を鳴らして警戒を解いた。

 「フッ、まぁよい…お前の度胸に免じて、ここは引き返すとしよう」
 「し、信じてくれるんですか?」
 「小路の気配を見るに、嘘とは思えんしな。仮に冷やかし目的だとしても、騙す相手にそこまで必死に説明する必要はなかろう? それも初対面の素性も知れぬ異国の男にな。命知らずな女だが、嫌いではない」

 男は一転して微笑み返して来たので、夢子は安堵しつつも鼓動の高鳴りを覚えた。怒気が消えた男の表情は玲瓏としていて、闇夜が作り出す陰影が妖艶さを引き立たせている。20代後半のように見えるが、その物腰は年長者を思わせる貫禄があり、どこか人間離れした風格を持っていた──いや、確実に人間ではないだろう。血を連想させる深紅の瞳が人間ではない事≠物語っている。

 ──困った変人が多いのも、異変のせいなのかしら?

 ディオ以上に赤い瞳が不気味ではあったが、男から悪意や殺気が感じられなかったため、夢子も少しばかり警戒を解いた。吸血鬼や殺人鬼を目の当たりにして、ちょっとした事では動じなくなっている自分が恐ろしく感じたけれど、困っている姿を見てしまっては黙って引き下がれなかった。

 「あの…さっきから何か困っているように見えるんですけど、どうかしたんですか?」
 「あぁ、仲間と連絡を取りたいのだが、公衆電話が見当たらなくてな。この街の住人に聞いてもろくな答えが返って来ぬ。人間め…大人しくしていれば付け上がりおって…」
 「それなら私の携帯電話を使っていいですよ。公衆電話は杜王駅まで行かないとありませんから」
 「ほう、それが『携帯電話』というものか。少しばかり借りるぞ」

 そう言って、男は夢子が差し出した携帯電話を物珍しげに眺めたが、受け取るなり慣れた様子でボタンを押して耳元に当てた。その反応と店員を『人間』と呼ぶところから、夢子はこの男もディオと同じ類≠ニ確信した。目の色だけでなく、服装もどことなく時代を感じさせる。

 ──もしかすると、この人もディオと同じ境遇なんじゃあないかしら?

 同族で同じ境遇となれば、あのディオを元の時代に連れ帰してくれるかもしれない──と思い立ったが、束の間考えて思い留まった。同族と言っても、あのディオが仲間に慕われるような男とは思えないし、この男もまた吉良同様に翻弄されている側の人間かもしれない。となれば、そのディオと同居している夢子もまた敵≠ノなってしまう。そもそも怪物と関わって良い展開が訪れるとは思えず、夢子は電話をする男の様子を静かに見守る事にした。

 「…私だ、カーズだ。日本の街に波紋戦士が来た形跡があった…うむ、そうだ…赤石もあるという事だ。ここで奴らを逃す訳にはいかぬ、一先ず合流するぞ。『オーソン』という店の前で待つ。ワムウにも伝えておけ」

 その会話の意味はわからなかったが、男の名が『カーズ』と言い、その悪辣とした声色から良からぬ話≠セという事だけは理解出来た。美しい容姿の裏側に危険な毒を潜めているのは、吸血鬼の特徴なのだろう。電話を貸した事で怪物の悪巧みに加担してしまったのでは──夢子は改めて己の親切心を呪った。
 すると、カーズと名乗った男は電話を切るなり再び表情を和らげて、夢子に電話を手渡した。

 「おかげで仲間と連絡を取る事が出来た。礼を言うぞ」
 「そ、それは良かったですね…じゃあ、私はこれで」

 夢子は笑顔を引き攣らせて踵を返したが、すぐさま背後から「待て」と呼び止められてしまった。恐る恐る振り返ると、男は怪訝そうに眉を顰めて疑問を投げ掛けて来た。

 「時に女、お前は何故このような時刻に1人でいるのだ? 霊道が出現するような夜道を女1人で歩く方がよほど危険だと思うのだが」
 「それは…ついさっき仕事を終えたばかりだからです。それで、今から知人に迎えに来て貰おうと思って電話をしていたんです」

 夢子は咄嗟に携帯電話を翳して、『迎えが来る』事を主張して見せた。呼び止めた理由は知らないけれど、これから人が来る≠ニなれば大抵の人間は空気を読んで立ち去る。しかし、このカーズという男は立ち去るどころか、むしろ強い関心を示した。

 「ほう…お前は『迎え』が欲しいのか。では、このカーズが引き受けてやろう」
 「なな、何でそうなるんですか!?」
 「女に助けられて恩も返さぬなど、男として格好が付かぬ。何か礼をするつもりでいたから丁度良い。家まで送ってやろうではないか」

 状況的に礼をされる流れ≠ノなっても不思議ではないけれど、『家まで送る』という恩返しは予想外だった。ディオといい、怪物には人間の常識など通用しないらしい。困惑する夢子に対し、カーズは一段と妖艶な笑みを浮かべていたが、怪物とわかった今では危険な誘惑に見えた。

 「お礼なんていりません! 当たり前の事をしただけですから! それに、あなたはお仲間と待ち合わせをしているんでしょ? 勝手に場所を離れたりしたら拙いと思いますけど…」
 「心配無用だ、合流まで1時間ある。それとも、お前はそれほど遠くの地に住んでいるのか?」
 「…いえ、歩いて10分くらいの距離です」
 「ならば遠慮するな。知人とやらにもまだ連絡をしていないのであろう? このカーズが『家まで送る』と言っているのだ、これほど幸運な事はないぞ」

 夢子を見据えるカーズの双眸はまるで蛇のように執拗で、まるで逃げ場を失った蛙になった気分だった。次に拒絶した瞬間、厚意を殺気に変えて来る気がする。

 ──お礼をしたいって言うくらいだから、悪い人じゃあないわよね。

 ディオに電話したところで本当に迎えに来るのか怪しいところだし、見返りのキスをすると思うと気が引ける。その点、カーズは夢子に助けられたお礼として家まで送ってくれるから、少なくとも見返りを要求される心配はない──かなり苦しい言い分だけれど、この状況では前向きに考えるしか方法がなかった。

 「じゃあ…お言葉に甘えて、家の近くまで送って貰っていいですか?」
 「フッ、よかろう。では、挨拶代わりにお前の名を聞いておこうか」
 「…夢子です」
 「夢子か…それで、お前の家はどの方角にある?」
 「あ、あちらです。杜王駅近くのアパートになります…」
 「フフ…夢子よ、そう怯えるな。何も取って食おうという訳ではないのだ。安心してこのカーズを頼るがいい」

 カーズは夢子を宥めるよう冗談めかしく言ったが、本当に人を取って食いそうな感じがするのは気のせいだろうか。警戒する夢子をよそにカーズは先導して歩き出したので、その背中に黙って着いて行くしかなかった。


 謎の男カーズと歩く深夜の商店街は安心とは程遠いものだった。小柄な日本人女性と偉丈夫な頭巾姿の外国人男性と2人きりで夜道を歩く奇妙な光景も然る事ながら、カーズが放つ雰囲気が何よりも夢子の動揺を煽った。仮にカーズが吸血鬼だとしても、ディオ以上に年季の入った危険な香りがする。これも大人の色気≠ニでも言うのだろうか。一緒にいると気が漫ろとして落ち着かず、夢子は終始無言のまま視線を泳がせていた。

 ──これならディオの方が良かったかな。

 年上男性と会話をすると、決まって訪れる気まずい沈黙。国籍も生態も違うとなれば共通の話題などあるはずもない。それはディオも同じなのだけれど、精神年齢が近いせいか、不思議と怪物らしさを感じさせない。これも生きている年数と、元々持ち合わせている性格の違いなのだろうか。
 そのディオは今頃、電話を待っているのか、それとも素知らぬ顔で読書をしているのか──あれこれ考えて気を紛わせていると、不意にカーズが沈黙を破った。

 「ところで、お前はいつもこんな時間まで仕事をしているのか? 『日本人は仕事好き』と聞いた事があるが、まさか女の身でも多忙とはな」
 「いいえ…別に仕事が好きな訳じゃあありません。日本では夜遅くまで仕事をするのが当たり前なんです。仕事をしないと満足な生活も出来ないし」
 「ほう、日本もそれほど裕福な国ではないのだな。それで、お前の職業は何だ? 深夜帰りという事は、娼婦か何かか?」
 「違います! ごく普通のそば屋の店員です!」
 「フフフ、そうムキになるな、冗談だ。娼婦というのは擦れた女がするものだ。お前のような楚々とした女の仕事ではない…違うか?」

 『娼婦』の台詞に夢子は声を荒らげてしまったが、カーズは薄く微笑んで見せた。『楚々とした女』──生まれてこの方言われた事のない褒詞に、夢子は思わず頬を染めてしまった。

 「…そんな事、初めて言われました。『粗暴な尻軽女』とは言われた事があるけど…」
 「そんな事を言う輩がいるのか。どうせチンケな男の妬みだろう、気にする必要はない。これでも私は人を見る目はあってな、このカーズが認めたのだから自信を持つといい」

 そう言うと、カーズは再び口を閉ざした。これが『お礼』と称したお世辞だとしても、夢子は零れる笑みを抑え切れなかった。相手が殺人鬼だろうと怪物だろうと容姿を褒められて嬉しいのは同じだし、その上顔が良くて紳士的≠ニなれば女心も靡く。

 ──思っていたより全然良い人じゃん。

 夢子はこれまで抱いていた疑念をあっさり忘れて、カーズの後に着いて行った。
 その後も両者は沈黙を貫いたが、カーズは態度を豹変させる事はなかった。そして10分後、夢子は無事に自宅アパートに到着した。

 「ありがとうございました。おかげで助かりました」
 「礼には及ばぬ。つまらぬ恩返しだ」
 「もし良ければ今度私のお店に来て下さい。お安くしておきますよ」
 「悪いが、私も多忙の身でな。仲間と共に長年の目的を果たさねばならんのだ。まぁ、同じ日本にいれば会う事もあるだろう。その時にまた世話になるとしよう。では、さらばだ」

 カーズは終始淡々と述べると、コートの裾を翻して闇夜の中に消えて行った。
 素性は結局わからず仕舞いだったけれど、生意気な吸血鬼との同居生活で荒んだ心に潤いを与えてくれたカーズに、夢子は深い好意を抱いた。もしディオと同じ吸血鬼であっても、血を捧げるのならカーズの方が良い、とさえ思った。

 「カーズさん、格好良かったなぁ…連絡先を教えて貰えば良かった」

 恍惚とした気分で自宅のドアを開けると、これまでの場景をぶち壊すかのようにディオの仏頂面が視界に飛び込んで来た。

 「きっさまァ…! この俺に『電話に出ろ』と命令しておいてほったらかしにするとは、どういうつもりだ!」

 ディオは夢子を見るなり罵声を浴びせて来たが、その身体はきっちりと電話の方を向いて座っていた。何だかんだ文句を言いながら、夢子からの電話を待っていたらしい。キスの報酬を待ち侘びていたディオがちょっぴり可愛く見えて、夢子は笑いながら弁解した。

 「ごめんごめん、急に予定が変わっちゃって。実は帰り道の途中で電話を探してる外人さんと会ってね。その人に電話を貸したら、わざわざ家まで送ってくれたのよ」
 「…男に狙われてビクビクしているくせに、見知らぬ男に着いて行くとは警戒心がなさ過ぎるぞ、尻軽め」
 「うるさいわね。でもその人、ディオとは全く正反対の大人で知的な紳士だったから問題ないわよ。ディオよりも数倍格好良かったしね」

 と、夢子が厭味たっぷりに言い返すと、ディオは一段と険しい顔で睨み付けて来た。

 「紳士だとォ…まさかジョジョのヤツじゃあないだろうな?」
 「違うよ、カーズって人」
 「なッ…カーズだと!? ど、どこも食われていないだろうなッ!?」

 『カーズ』の名を聞いたディオは激しく狼狽すると、有無を言わせず夢子の腕を掴んで引き寄せて来た。逞しい胸元に抱き寄せられた夢子は思わず鼓動を高鳴らせたが、ディオの手が忙しなく身体を撫で回して来ると忽ち激昂した。

 「どこ触ってんのよッ! あんた本当に最低ね! この変態! ゲス吸血鬼!」
 「うるさい黙れッ! 夢子があんなヤツと一緒に帰って来るからだろ! お前はこのディオのものだろうがッ!」
 「一体いつあんたのものになったのよ! 大体、カーズさんと一緒に帰って来たから何だって言うのよ! ディオには関係ないでしょ!」
 「関係あるから言ってるんだろ! カーズは吸血鬼を食料にする『柱の男』とかいう古代人で、俺はヤツが作った石仮面で人間をやめたんだ。ヤツはほんのちょっと触れただけで人間を丸ごと体内に吸収出来るんだぞ。そんな男にのこのこ着いて行くなマヌケッ!」

 ディオは暴言に怯むどころか厳しい顔付きで叱責して来たので、夢子は呆気に取られてしまった。
 人間離れした容姿と気配から『怪物だろう』とは思っていたが、吸血鬼の創造主≠セったらしい。カーズと対峙した時の『本当に人を食いそうな気配』は間違っていなかったのだ。なぜそんな怪物が杜王町にいるのか──その理由はディオや吉良と同じだろう。
 しかしながら、夢子に見せたカーズの態度に敵意は微塵もなく、むしろ好意的だったように思える。吸血鬼にとって驚異的存在であっても、それが人間の女・夢子にも当てはまるとは限らない。ディオなりに心配しているのだろうけれど、身体を抱き寄せて離さないこの状態では説得力も何もあったものではなく、夢子は軽蔑の眼差しを向けて反論した。

 「でも、そんなに恐ろしい人には見えなかったよ? だって『恩返し』って名目で家まで送ってくれたんだもの。食料にするつもりなら、そんな回りくどい事しないでしょ? 考え過ぎじゃあないの?」
 「そんなもの、夢子に近付くための口実に決まってるだろ。言っておくが、カーズは柱の男の中で最もゲスなヤツなんだぞ。何でも女の脚をウィンウィン弄ぶのが趣味らしい。そんな事をするヤツが紳士な訳ないだろ」
 「何なの、その『ウィンウィン』って…カーズさんって脚フェチなの?」
 「俺が知るか。まぁ、どっちにしろお前は終わりだな。俺を呼ばなかった夢子が悪いんだぞ」

 そう言って、ディオはぶっきら棒に突き放したが、夢子にはどこか拗ねているように見えた。
 石仮面を作ったカーズは吸血鬼の主≠セ。また、人間を食料にする吸血鬼を食料にするところから、食物連鎖の図で例えると全ての生物の頂点に立つ存在≠ニも言える。『世界の帝王』を名乗るディオにしてみれば、これほど都合の悪い存在は他にいないだろう。そんな相手にようやく確保した食料の夢子を横取りされては、益々『帝王』としてのプライドが傷付く事になる。

 ──つまり、ディオはカーズさんに嫉妬してるんだ。

 カーズと帰宅した時の反応といい、称賛した時の反論といい、その可能性は高い。大の男が、しかもプライドの高い吸血鬼が『嫉妬した』と思うと可笑しくて、夢子は失笑を溢した。

 「おい、何が可笑しいんだよ!」
 「別にぃ〜。まぁ、ディオがそんなに言うなら今度から気を付けるわ。ディオも創造主≠ェ相手じゃあ分が悪いでしょうしね? 呼んだところで、カーズさんの餌になるだけだもの」
 「馬鹿にするなよ、このディオが大人しく餌になると思うか? 確かに最初に聞いた時はほんのちょっと驚いたが、生態さえわかればどうって事ないんだよ。吸収される前に俺の気化冷凍法で凍らせて、ぶっ殺してやるッ!」

 と、ディオはいつになく物騒な険相で言い放ったが、冷静さに欠いたその発言は帝王というより血の気の多い不良少年だった。大人で紳士的で生物界の頂点でもあるカーズを見た後では、ディオの言動全てが一段と子供染みて見えてしまう。

 「心強い発言だけど、カーズさんも忙しいみたいだから、次会う機会はもうないと思うよ?」
 「フン、そんな機会あって堪るか。これに懲りたら明日から俺を呼べよ。今度、契約違反をしたら無理矢理にでも言う事聞かせてやるからな」
 「あ、ごめん、明日は休みだから迎えは必要ないわ」
 「貴様…ッ! もういい、好きにしろッ!」

 用がないとわかるなり、ディオはソファで本を読み始めたが、まるでご褒美が先延ばしにされて不貞腐れた子供のようだった。いちいちムキになる様子から、カーズへの嫉妬心が確信に変わったが、そんなディオを夢子は『可愛いヤツ』と思うのだった。

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