この日、そば屋『有す川』はいつもより客足が鈍かった。サラリーマンやOLで混雑する昼時になっても店内には空席が目立ち、注文待ちに痺れを切らした客の罵声が飛ぶ事もない。おかげで慌しくホールを走り回る事もなかったが、あまり静か過ぎるのも考えものだと思った。静寂な時間が眠気を誘って度々欠伸となって現れる。
「暇よねぇ…」
「仕方ないですよ。物騒なニュースが流れたばかりだもの」
後輩の言う『物騒なニュース』というのは、杜王町の殺人鬼・吉良吉影と思しき男が商店街で目撃された、というものだった。目撃者は『有す川』の2軒先にあるコンビニ『オーソン』の店員で、吉良は午前0時頃にオーソンで買い物をした後、車で杜王駅方面に向かったらしい。
吉良は1ヶ月程前に初めて目撃されて以来、長らく姿を眩ませていたが、再び杜王町に姿を現したとなれば、いくら呑気な住人でも警戒する。物的証拠はないけれど、過去に失踪した40人近い住人が吉良の犠牲になったと言われているのだ。被害に遭わないよう無意味な外出を控えるのは当然の心理だろう。
あいにく夢子がこの事実を知ったのは、店内のテレビで流れていた正午の報道番組だった。後輩の話では、朝から何度もテレビで報道されていたらしいが、夢子は職場のテレビを見るまでそんなニュースがあった事すら知らなかった。その時間帯は突如欲情したディオ相手に悪戦していたし、今朝も残骸を片付けるのに翻弄していたため、テレビやラジオを見聞きしている時間がなかったのだ。
目撃現場が勤務先に近い事もあって、初めてニュースを見た時はぞっとしたが、今夢子が抱えている吸血鬼騒動に比べれば大した問題ではなかった。取引で命の危険はなくなったけれど、別の身の危険≠ェ生じた今、吸血鬼との同居ルールをどうするかで頭が一杯で、見た事もない殺人鬼に恐怖している場合ではなかった。
そもそもニュースを知ったところで仕事を休める訳でもないし、吉良が目撃されたのは1日前。今現在も商店街に潜伏しているはずがない──そう考えたのは夢子に限らず、他の住人も同様だった。『客足が鈍い』と言っても店内には必ず客の姿があるし、夜になっても来店して来る客が何人かいた。
見方によっては『無用心』とか『無神経』とも取れるけれど、恐怖に怯えているよりも普段と変わらない日常を送っていた方が人は安心するものだ。何があっても動じない杜王町民の精神は時として心強い。
「この様子だと、今日は早く帰れそうですね」
静かな店内を眺めて後輩は嬉しそうに言ったが、夢子は「そうね」と気のない返事をした。
嬉しい事には違いないが、仕事から解放されても自宅にはディオの世話を焼く現実が待ち受けているから、素直に喜べない。またゲスな事を言い出さないか、新たな問題が発生するのではないか──という不安はあったが、不快に思わないから心底不思議だった。ディオの容姿が良い事も許容出来る理由だけれど、世話を焼いている内に夢子の中で奇妙な感情が芽生え始めていた。『手の掛かる子供ほど可愛い』という母親と同じ感情が働いているのだろう。
──せっかくだから、帰りにディオの着替えでも買ってやろうかな。
昨日の今日でディオの身の回りの世話をするのも気が引けたが、何日も入浴や着替えをしていない状態で放置する訳にはいかない。時代のせいなのか、ディオが構わないだけなのか、はたまた吸血鬼と人間では代謝が違うのか──入浴を要求する事もなければ、特に気になる臭いも汚れもなかったけれど、容姿端麗な男を5日間も着の身着のままにしておくのは、何だか虐待している気分になる。
あいにくデパートに行く時間はないけれど、コンビニなら下着くらい買い揃える事は出来る。つい先日に殺人鬼が来店したにも関わらず、オーソンは平常通り営業していた。どんな状況でも24時間営業を貫く日本のコンビニほど便利で誇らしいものはない。
──吉良はオーソンで何を買ったのかな。
呑気な事を考えながら食器を片付けていると、1人の客が暖簾を潜って来た。暇を持て余していた店長は「いらっしゃい」と活気のある挨拶で出迎えたが、店内に入って来た男性の装いを見るなり怪訝な顔をした。
来店した男性客は、そば屋に似つかわしくない装いだった。高級ブランドと思しきコートを纏い、ハットを深々と被り、出入り口付近のテーブルに座っても脱ごうとしない。顔は見えないが、どこか気品のある落ち着いた物腰から30代くらいだろうか。
サラリーマンからヤクザまで老若男女問わず幅広い客層が訪れる店なので、大して珍しくもない光景なのだけれど、その男性客が街で見慣れない人間≠ナある事が店側にとって少々問題だった。
杜王町の住人には、郷土愛が強い他に外部の人間には不親切≠ニいう特徴がある。観光客に対しても『買いたけりゃ売ってやる』といった態度で、観光ガイドブックにまで紹介されるほどだ。
夢子も同じ住人だけれど、この点だけは一致しない。もし夢子が同じ特徴を持っていれば、『19世紀生まれのイギリス人で吸血鬼』という異端要素満載の侵入者ディオをすんなり受け入れたりしなかっただろう。以前、ディオが血を求めた女性に悉く拒絶されたのも、時代と文化の違い以外にこの特徴も原因の1つと言えた。
だからといって、『よそ者は帰れ』と客を追い返す訳にはいかない。無愛想な店長に代わって夢子は営業用スマイルを持ち出して、男性客が座るテーブルに向かった。
「ご注文はお決まりになりましたか?」
「天ぷら盛り合わせ御膳を1つ。口直しに善哉を頼むよ」
「御膳のお吸い物は3種類ありますが、いかが致しますか? ちなみに今日のお薦めは松茸のお吸い物になります。今朝取り寄せたばかりの国産松茸をふんだんに使った限定品ですよ」
「じゃあ、それを1つ頼む。親切にどうもありがとう」
怪しい装いに反して、男性の口調は明瞭かつ軽快で、てっきり口には出せない生業の人間≠ニ思い込んでいた夢子は拍子抜けしてしまった。さらにその男性客は、注文の御膳を運んだ際も「ありがとう」と礼を述べ、空いた食器を下げる際にも自ら皿を差し出して「悪いね」と一礼した。顔は依然隠したままだったが、『不審者扱い』した事が申し訳なくなるほど紳士的だった。
誤解したせめてもの償いとして、夢子は善哉にこっそり白玉を多めに追加して、男性客の元に差し出した。すると、男性客は容器を並べる夢子の手元を興味深く眺めて、急に「フー」と溜め息のような感銘の声を漏らした。
「ところで君は、とても美しい手をしているね。やはり接客の仕事をしていると、手元に気を使うのかい?」
「いいえ、特にそういう訳ではありませんけど…」
「そうなのか。じゃあ、手先の仕草も生まれ持ったものなのかな?」
そう言って、男は顎に手を宛がってまじまじと夢子の手を眺めて来た。男性から『美しい』と言われるのは嬉しいけれど、好奇心を露にされると白けてしまう。執拗に手ばかりを見つめるので、夢子は怪訝な顔をして手を下げると、男は我に返って視線を逸らした。
「あぁ、すまない。ちょっと気になっただけなんだ、忘れてくれ」
と、男性は自分の非礼を詫びて目の前の善哉に手を付けたが、小声で「今日はツイているな」と呟いた。それが店のサービスに向けた言葉なのか、夢子の手に向けた言葉なのかはわからなかったが、一転して『気味が悪い客』と思った。しかし、警戒する夢子を尻目に、男性客は善哉を綺麗に平らげると、会計後に「ごちそうさま」と礼を言い、最後まで紳士的な姿勢を崩さず店を出て行った。
──変わったお客だったわね。
内心ぼやいたものの、接客業をしていると色んな客に出会うため、大して気にも留めなかった。むしろ『美しい』と褒められた事が嬉しくて、夢子は自分の手を眺めながら思わずにやけてしまった。
*
その後も客足が増える事もなく、そば屋『有す川』は午後9時に閉店した。
いつもなら閉店後も処理し切れなかった後片付けや仕込み作業に追われるが、1日の注文量が少なかったおかげで残業もなく、午後10時前に上がる事が出来た。これほど平穏無事に仕事を終える事自体が珍しいので、不謹慎だけれど『殺人鬼様様』だと思った。早く帰ったところで夢子の部屋には厄介な吸血鬼が待っているけれど、今日はどんな小説を夢中になって読んでいるのか、想像すると少し楽しみでもあった。
「お疲れ様でした」と意気揚々と帰宅の途に着く同僚達に続いて、夢子も喜色満面に職場を出た──が、外に出た途端に表情が凍り付いた。数時間前に夢子が接客したコート姿の男性客が、夢子を見るなり手を上げて一礼して来たのだ。偶然居合わせて、他の通行人に挨拶をしたのだと思いたかったけれど、視線を逸らさずまっすぐ近付いて来たので、『夢子を待ち伏せしていた』と悟った。
──ヤバい客だったみたい。
あいにく助けを呼ぶにも、コンビニ以外閉店してしまった商店街に人影はほとんどなかった。ここで下手に叫んで逃げ出したりすれば、相手を刺激し兼ねない──夢子は平静を装ってお辞儀で返した。
「あの…何か御用でしょうか?」
「あぁ、私に親切にしてくれた『美しい手』を持つ君に、今一度礼を言いたくてね」
そう言って、男はおもむろに被っていた帽子に手を掛けた。ようやく帽子の下から覗いた男の素顔を見た夢子は、その相手が『ヤバい』では済まない人物だと知った。数ヶ月前に杜王町を震撼させた殺人鬼・吉良吉影と全く同じ人相で、それが他人の空似≠ナはない事を男自身が証明した。
「もう気付いていると思うが、私は吉良吉影。今、世間を騒がせている例の殺人鬼だよ。悪いが、君の名前を教えて貰えないか?」
吉良は正体を明かしても尚、品のある微笑みを絶やさなかったが、その様子が返って恐怖を増徴させた。まさか目撃証言があった翌日、ニュースで取り立たされている真っ只中に、再び吉良が姿を現すとは思いもしなかった──いや、だからこそ同じ場所に潜伏していたのかもしれない。『あれほど騒ぎになったから、もう来ないだろう』という心理を逆に利用したのだ。殺人鬼を『他人事』と軽んじた罰だと後悔した。
今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られたが、殺人鬼を目の前にして夢子の身体は微動だにしなかった。恐怖に沈黙していると、吉良の表情に苛立ちが垣間見えたので、素直に質問に答えるしかなかった。
「…夢子です。藍田夢子と言います」
「ん〜〜夢子か…手だけでなく名前も美しいのだな、とても気に入ったよ。リスクを犯して来た甲斐があった。やはり今日はツイているな」
名前を聞くなり吉良は納得したように何度も頷いた。質問の意図がいまいちわからなかったが、過去に40人以上殺害したとされる凶悪な殺人鬼が待ち伏せしていた目的は、もはや『殺人』しかない。接客した際、夢子は殺人の標的にされたのだ。
──私って本当にツイてない。
吸血鬼ディオと元恋人のストーカーに続き、今度は殺人鬼に狙われる──これも夢子の親切心と楽天的な性格が招いた悲劇だろう。死を覚悟すると思考回路も冷静になるらしく、夢子は殺人鬼に向かって静かに尋ねた。
「あのぅ…私はやっぱり殺されるんでしょうか?」
「そうだな…確かに殺しはするが、完全に殺す訳ではないよ。君の美しい手≠ヘこの世に残るからね」
「私の手…ですか?」
「そう…君の手≠セよ。手だけ≠ニなって私の所に来れば、清い心のまま過ごせるんだ。とても素晴らしい事だと思わないかい?」
吉良は『手』という言葉をやけに強調しながら、夢子の手に向かって一段と妖しく微笑んで見せた。どうやら吉良吉影は『手』に対して異常な性癖があるらしい。所謂『手フェチ』というヤツだ。しかも、吉良は女性の手を見て性的興奮を得るだけでなく、手だけを持ち帰って私物化する≠ニいう最も悪質なフェチシズムの持ち主のようだ。
「…私の手以外はどうなるんでしょうか?」
「証拠を残す訳にはいかないんでね。悪いが、手以外は吹っ飛ばして¥チさせて貰うよ」
「…ふ、吹っ飛ばすって…どうやって…?」
「実は、私には触れたものを爆弾に変える%チ別な能力があってね。これは生き返る前から持っている能力で、おかげで犯行の証拠を残さずに済むんだ。信じられない話だろうけれど、信じて貰わなくて構わないよ。これから君は手だけを残して消えてしまうんだからね」
確かに信じられない話だったけれど、吸血鬼の存在や甦った殺人鬼の事を考えれば、『人を爆弾に変える』という不思議な能力も十分あり得ると思った。証拠が跡形もなく消し飛んでしまえば、警察も住人も犯罪が起こった事にさえ気付かない。その意外な能力の存在は、吉良が長年警察の目を逃れ続けた謎を解き明かした。
現実離れした能力と異常な性癖から、吉良が凶悪な殺人鬼と言われる本当の意味を理解したが、死を直前にした状態では返って恐怖が増しただけだった。口を噤んだ夢子に対して吉良は、
「そう怖がらなくていい、一瞬だよ。何の苦しみもなく一瞬で終わりにしてあげるから、安心したまえ。君にはとても親切にして貰ったからね、手だけになっても大切にしてあげるよ」
と、穏やかな口調で宥めて来たが、どんな形であれ殺される事には違いないのだから、安心出来るはずがなかった。吉良にとっては『完全な死』ではなくても、夢子は手だけを残してこの世から去ってしまうのだ。しかも、残った手は吉良に弄ばれる──つまり夢子は死しても吉良に陵辱される訳だ。これほど惨忍かつ屈辱的な殺人は他にないだろう。
ディオが吸血鬼だと知った時よりも、殺人鬼の吉良と対峙している恐怖心の方が圧倒的に上回っていた。吸血鬼よりも殺人鬼の方が現実味があるためだろう。それに、吉良の放つ気配は異様で『有無を言わさない』雰囲気を醸し出していた。穏やかな言動に反して全く隙がない。
吉良の手がゆっくりと伸びて来ると、冷静だった思考回路は一瞬で崩壊した。直立不動だった両脚がガクガクと震え出して、夢子は迫り来る死の恐怖から咄嗟に叫んだ。
「た、助けて…ディオ…!」
自分でもなぜその名を出したのか不思議だったけれど、『藁にも縋る思い』がそうさせたのかもしれない。もちろん叫んだところで、あの傲慢な吸血鬼がスーパーヒーローのように駆け付けてくれるはずがない。
何の意味もない虚しい抵抗──と思えば、吉良は『ディオ』の名を聞くなり、ぴたりと手を止めた。
「…君は今『ディオ』と言ったのか?」
「は、はい…確かにそう言いましたけど…?」
「なぜこの状況で、その名を呼んだのだね?」
「ええと…それは…今一緒に住んでいる男だから…かも…?」
「何ぃ〜…あの男と『一緒に住んでいる』だと…!?」
質問の意味もわからずに答えると、吉良は動揺の色を浮かべて、夢子から一歩身を引いた。
まさか衝動的に発した『ディオ』の名が、吉良の殺人意欲を消沈させるとは思わなかった──いや、そんな事よりも吉良がディオを知っている事が意外だった。20世紀日本の殺人鬼と、19世紀イギリスの吸血鬼──全く接点がない。
疑問だらけの状況に困惑したけれど、『なぜか』と問うほどの心の余裕はなかった。そして、強い疑問を抱いたのは吉良も同じようで、「いや、そんなはずはない」と1人呟いて、再び夢子に問うて来た。
「下らない質問だと思うだろうけれど、正直に答えてくれ。君の言う『ディオ』という男は…19世紀生まれの吸血鬼を名乗る男の事かね?」
「そ、そうですけど…」
「傲慢な性格と顔付きをした?」
「…はい」
「『世界を支配する帝王』とか大それた事を言っている?」
「…全くその通りです」
吉良が言うディオの特徴があまりにも的を射ていて、答えている内に次第に可笑しくなって来た。ディオの常識外れな性格は、誰の目から見ても同じように映るらしい。
「…では、君はディオの女なのか?」
「ち、違います! 同じ部屋に住んでいるだけで、アレとは何でもありません!」
『ディオの女』と言われて思わず声を上げて反論してしまったが、動揺した吉良の耳には届いていなかった。
「何という事だ…! ヤツの関係者に出会ってしまうとは…今日は厄日だな…」
と、額に手を当てて大げさに悲観すると、壁に凭れてその場に座り込んでしまった。意気消沈した吉良の姿は、狂気に満ちた殺人鬼ではなく、災難に巻き込まれた悲劇のサラリーマンに変わっていた。どういった経緯で関わったのかは知らないけれど、吉良もディオに振り回されたクチに違いない──そう思うと恐怖心も薄れて、夢子は恐る恐る1つの疑問を投げ掛けた。
「あの…き、吉良さんはディオの事を知っているんですか?」
「あぁ、よく知っているよ。何せ私は、あの吸血鬼の能力で生き返ったのだからね」
「じゃあ…ディオの下僕にされたって事ですか?」
「下僕という訳ではないよ。生き返りはしたが、人間のままだからね。それに、知っていると言っても生き返らせて貰っただけ≠セから、直接的な関係は何もないんだ」
「でも、生き返らせて貰ったのなら、恩人みたいなものじゃあないですか。どうしてそんなに怯えるんですか?」
夢子の問いに、吉良は『心外だ』とばかりに眉を顰めて否定した。
「恩人だって? とんでもない、あの男は自分の目的のためだけに私をこの世に呼び戻したんだ。確かに私もディオと同じ仇≠持っているが、今はもう復讐するつもりはない。あの連中と関わるとろくな事がないからね。しかし、元の平穏な日常に戻るにも、殺人鬼だと知られてしまったこの世界では、とても静かに暮らせない…これなら死んでいた方がマシだったよ」
殺人鬼が『静かに暮らしたい』と望む心情は解せなかったが、ディオに振り回される苦悩は痛いほど理解出来た。事情は大分違うけれど、ディオのおかげで平穏な日常が壊されたのは同じであり、とても他人事とは思えなかった。
夢子は命を狙われていた事などすっかり忘れて、吉良が落としたハットを拾い上げて差し出した。すると、吉良もかつての殺害対象に「ありがとう」と丁寧な礼を返して、さらに言葉を続けた。
「夢子君…だったね。どういう事情であの吸血鬼と暮らしているかは知らないが、ヤツを信用しない方がいい。ディオは目的のためなら何だってするし、私の能力よりも数段恐ろしい能力を持っている。今起こっている異変もヤツが原因なんだ。見た目が良いからといって気を許すと痛い目を見るよ。これは忠告だ」
そう言って、吉良はゆっくりと腰を上げて背を向けた。どうやら狙った獲物がディオの関係者だった≠ニいう事が、吉良にとってよほどショックだったらしい。たった一言『ディオ』と叫んだだけで、杜王町を震撼させた殺人鬼があっさり身を引いたので、夢子は呆気に取られて、思わず吉良を呼び止めてしまった。
「あ、あの…私の手はもういいんですか?」
「君はディオの関係者なんだろう? 興味はあるが、下手に手を出したらタダじゃあ済まないだろう。これ以上、平穏な日常を壊されるのは御免だからね」
その言葉を最後に、吉良は足早に夢子の前から立ち去った。
命が助かったのは喜ばしいけれど、『なぜディオに恐怖するのか』──不思議で堪らなかった。確かにディオは吸血鬼だから、食料にされる側の人間からすれば脅威的存在だ。しかし、超人的な身体能力はともかく、夢子から見ればディオは傲慢で我儘でゲスな吸血鬼という印象しかない。
あれでも男と女で態度を変えているのか、はたまた『他人の空似』なのか──とも考えたけれど、あの類稀な外見と性格の持ち主は全国どこを探しても他にいないだろう。もちろん、あの状況で吉良が嘘を言う必要はどこにもない。
首を傾げながら自宅アパートに戻ると、渦中のディオが高慢な態度で夢子を待ち構えていた。
「おい、夢子。さっさとバスタブの使い方を教えろよ。いつまで経っても入浴出来ないじゃあないか」
ディオは相変わらずリビングのソファで本を読んでいて、夢子の苦労など素知らぬ顔で命令して来た。
この態度を見ると『吉良が恐怖する吸血鬼と同一人物なのか』と疑ってしまう。吉良の知るディオは、己の世界支配のために人間を利用し、各地に異変を齎す冷酷非道な吸血鬼。しかし、夢子が知るディオは、杜王町で迷子になった行き場のないマヌケな吸血鬼。一体どちらが本当のディオなのか──まじまじと眺めていると、ディオは急に忙しなく視線を泳がせて、
「お、教えろと言ってもアレだぞ! 口頭で教えろという意味だからなッ!」
と、赤面しながら必死に弁解した。世界支配を目論む冷酷非道な吸血鬼が、たった1人の女相手にゲスな想像をして羞恥するだろうか──夢子は益々疑問を感じたが、とりあえず質問を投げ掛けた。
「それよりあんた、吉良吉影っていう日本の殺人鬼を生き返らせた覚えはある? ついさっき遭遇して殺されそうになったんだけど、ディオの名前を聞いたら逃げて行ったのよね」
「初めて日本に来たと言っているのに、そんなヤツ知る訳がないだろ。『切り裂きジャック』なら下僕にした覚えはあるが」
「切り裂きジャックって、歴史上最凶って言われた殺人鬼の事? あれってディオが関与してたの?」
「俺はジャックの犯行には関与していないぞ。ただ下僕にするのに最適だったから、血を吸って屍生人にしてやっただけだ。とうの昔にジョジョのヤツに始末されたが、元々大したヤツじゃあなかったから、別にどうでもいいけどな」
と、ディオは歴史的未解決事件との関連と真相をいとも簡単に明らかにしたが、吉良との関係性は否定した。とはいえ、過去に凶悪な殺人鬼を利用した事があるのなら、吉良を利用する可能性は十分にあるだろう。ディオが『世界支配』という危険な野望を抱いているのは、紛れもない事実なのだ。
しかし、今のディオにとって世界支配や殺人鬼よりも風呂の方が重大な問題のようで、早々と話題をすり替えた。
「そんな事より、さっさとマニュアルとやらを作れよ。お前がルールを決めると言ったんだから、最後まで責任持ってやれよなァ」
「悪いけど、今日は吉良のせいでそれどころじゃあなくなったの。あと2日待って」
「な、何だと!? 俺はもう1週間近くもこのままの格好なんだぞ! 人間の殺人鬼より俺を優先しろッ!」
人の気も知らずに駄々を捏ね出したので、夢子はディオに鼻を近付けて「まだ臭ってないから大丈夫」と、まるで賞味期限切れ間近の食品を扱うように軽くあしらった。その言動にディオは耳まで赤らめて口を噤んだので、再び良からぬ想像をし始めたと察したが、すっかり大人しくなったので一先ず良しとした。
次から次へと起こる災難──これもディオが齎した異変が原因なのだろうか。未だ半信半疑だったけれど、『美しい手』と言ってくれた吉良の忠告を心に留めておく事にした。
[*prev] [next#]
[back]