先日に引き続き、この日も夢子は仕事中に襲って来る強烈な睡魔と闘っていた。今回は掃除ではなく、昨夜ディオに血を吸われたせいだ。
『少しだけ』と言ったけれど、超短期間で悉く条件を覆して来たディオが口約束を守るはずがなく、おかげで夢子は貧血状態になり、さらに噛まれた首の傷が疼いて眠れなかった。幸い絆創膏で隠れる程度の小さな傷だったが、皮膚にぽっかりと開いた2つの穴は歴とした負傷。さらに夢子が現在寝床にしているのは安眠に適さないリビング。こんな悪条件で満足な睡眠が取れるはずもない。
その一方で、居候であるはずのディオはふかふかのベッドがある寝室で眠っているから、腹立たしい事この上ない。今朝も食事にあり付けた満足感からなのか、出勤前にふと寝室を覗いて見ると呑気に熟睡していた。この間に窓を塞ぐふすまを外して、部屋ごと天日干しにしてやろうかと思ったけれど、あまりに無防備な寝姿で眠っていたのでやめた。傲慢で狡猾で演技上手な男だけれど、ようやく自分の居場所を確保して安心している──そんな安らかな寝姿だったからだ。
我ながら甘いと思うけれど、自ら救いの手を差し伸べた相手を途中でむざむざ見捨てる気にはなれない。犬や猫と同等に考えるのも何だけど、拾った以上は最後まで責任を取るのが義務だと思う。
しかしながら、わずか2日間でこうも問題が起これば疲労も溜まる。職場の後輩も夢子の異変に気付いて、就業時間に入るなり声を掛けて来た。
「夢子先輩、ここ最近調子が悪そうですね。何かあったんですか?」
「ちょっとしたトラブルがあってね…よく眠れないのよ」
「もしかして、まだ付き纏ってる例の元カレですか?」
「う〜ん…まぁそんなところかな」
「別れてもう1年ですよね? それって歴としたストーカーじゃあないですか。事件になる前に警察に相談した方がいいですよ?」
「そうね。心配してくれてありがとう」
夢子は後輩のアドバイスに笑顔で返したが、内心では『アイツにそんな度胸ないって』とぼやいた。
後輩が言う『付き纏っている元カレ』とは、夢子が以前ディオと間違えたタケシの事だ。当時は咄嗟の事で間違えてしまったけれど、ディオとは全く比較にならないほど冴えない風貌の男で、自他共に認めるヒモ男でもあった。そんなタケシに見切りを付けた夢子は1年前に別れを告げたが、それ以降も執拗に復縁を迫られていて、未だに解決していない。ディオの件ですっかり忘れていたけれど、これも夢子が抱えている問題だった。
しかし、今の夢子にとって付き纏うしか能のない元恋人よりも、ディオの方が問題だった。人間のタケシは万が一の事があっても警察でどうにかなるけれど、吸血鬼のディオは警察ではどうにもならない。あの怪力では大人が何人束になっても敵わないし、『吸血鬼に襲われた』と通報したところで夢子が不審者扱いされるだけである。ディオに関しては夢子が解決する他方法はないのだ。
とはいえ、夢子はディオの問題もそれほど深刻に捉えていなかった。厄介な性格をしているけれど、夢子に危害を与える様子はないし、何より見ていて飽きない。あの端整な容姿もあるけれど、どこか憎めない母性本能を擽るような言動も退屈しない理由の1つかもしれない。吸血鬼云々はさておき、1人の男性として見れば魅力的である。だからと言って『付き合いたい』とは全く思わないのだけれど。
この日も自宅に帰ると、ディオはリビングのソファで本を読んでいた。街が気に入らないのか、女性に悉く拒絶されたのがショックだったのかは知らないけれど、外に出た形跡がない事から1人で外出する気は全くないらしい。3日目で夢子の部屋での生活にすっかり適応していて、電気スタンドの灯りの中でソファに寝そべったまま小説に読み耽っている。
居候という立場を全く弁えず、これほどまでに横柄な態度で堂々と居座られると返って感心してしまう。質が悪い点ではディオも元恋人と大差ないけれど、性格の点ではディオの方が断然マシだった。過去を引き摺る女々しく粘着質な男よりも、どんな状況でも己の意志を貫く男に魅力を感じるのは、どんな女性も同じだと思う。
ただ、何度も言うけれど恋人にしたいとは全く思わない。関係が恋人でも友人でも、交流する上で七面倒な相手には変わりないからだ。尤もディオから見れば『人間は食料』だから、恋愛云々など考えた事もないだろうけれど。
ディオを横目にそんな事を考えながら、夢子は晩酌の準備のため台所に向かった。すると、ダイニングテーブルの上に身に覚えのない赤い紙袋が置いてあった。
「なぁに、この紙袋。もしかしてディオの私物?」
「違う。俺が夜起きた時には置いてあった」
ディオは姿勢も変えずに答えたが、嘘ではないと悟った。よく見ると、その紙袋がカメユーデパート内にあるワイン専門店のもので、袋の中にも包装紙に包まった箱が入っていたからだ。杜王町の地理も知らない無一文のディオが、カメユーで高級ワインの買い物をする訳がない。
──じゃあ、誰がワインを置いたの?
そう考えて、急に背筋がぞっとした。もちろん夢子がワインを購入した覚えはないし、他人から祝い事をされる日でもない。そもそも玄関には鍵が掛かっているから外部からは入れない。唯一、部屋を出入り出来るのはディオだけだが、外出に使っているのは窓だし、玄関に至っては施錠の仕方も教えていないから、使ったとしても鍵は開けっ放しになる。しかし、この日も窓には段ボールが貼られたままで、帰宅時も玄関の鍵は掛かっていた。
──もしかして。
簡単な推理の結果、脳裏に1つの可能性が過ぎって夢子は慌しく箱の包装紙を破いた。中の木箱には高級ワインと『夢子へ』と書かれたメッセージカードが入っていた。それだけで犯人が誰なのか>氛泱イ子にはわかった。元恋人の『タケシ』だ。そのワインは夢子が好きな銘柄で、よく思い出してみればこの日は2人の交際記念日だった。
過去に手紙を送り付けて来た事は何度かあったけれど、部屋に侵入してプレゼントを置いて行く≠ニいう過激な行動はした事がない。度胸のない男と侮っていたけれど、1年の長期間で痺れを切らしたのか、ついに犯罪行為にまで手を出して来た。噂をすれば何とやらで、元恋人が本当のストーカーになった事実を目の当たりにして、一気に血の気が引いた。
恐怖も極限に達すると悲鳴も出ないらしい。夢子は顔面蒼白のままそっと木箱の蓋を閉じて、ディオに尋ねた。
「ねぇ…ディオは今日、1日中部屋にいたのよね? 誰か部屋に入って来なかった?」
「知らんな。何せ1時間前に起きたばかりだからな」
「じゃあ、人が入って来た事に気付かなかったの?」
「知らんな」
──この役立たず。
夜まで呑気に眠っていた上に、侵入者にも気付かないという体たらく振りに、つい内心毒吐いてしまったが、事情を知らないディオを責めても仕方がない。
部屋に上がり込んだのなら、窓が全部塞がった室内の異様な光景も目にしているだろう。疑問に思って室内を見て回り、ディオが寝室で寝ている所を見ていても不思議ではない。
しかし、考え方によっては『その方が良い』とも言えた。男と同居しているとわかれば潔く手を引くかもしれない。今回もプレゼントだけを置いて諦めたかもしれない──と期待をしたが、甘かった。
おもむろにメッセージカードを見た瞬間、夢子に戦慄が走った。『祝・交際記念!byタケシ』という印字の上に『2人まとめて殺してやる』というペン文字が殴り書きされていた。どうやらディオの存在は、余計に元恋人の怒りを買っただけのようだ。
──どうして私ばっかりこんな目に。
生意気な居候の次は、イカれた元恋人──次々と降り掛かる問題に、夢子はふと気が遠くなってプレゼントの木箱を床に落してしまった。ボトルが派手な音を立てて割れると、今まで目も向けなかったディオがようやく顔を上げた。
「おい、さっきから騒々しいぞッ!」
いつもなら『居候がイバるな』と思うところだけれど、この時ばかりは傲慢なディオの存在がとてつもなく心強いものに見えた。
──そうよ、私にはこの吸血鬼がいるじゃん!
吸血鬼らしさがない故につい忘れそうになるけれど、元恋人が敵視した同居人ディオは吸血鬼だ。人間のストーカーに比べれば、吸血鬼の存在の方がよほど恐怖すべき存在で、そんな怪物と同居している事を考えれば、今さらストーカー如きに恐怖する必要はどこにもない。
この瞬間、夢子に妙案が閃いた。ここで警察に相談しても、返ってストーカーの怒りを買う事になり兼ねないし、24時間365日警察に護衛して貰うのは不可能だ。その点、ディオは1日中夢子の部屋にいるし、帰る方法とやらも皆目見当も付かないから、当分居候の身となるのは確実。そして何より夢子がいなければ住む部屋も食事もない状態だ。つまり夢子は、ディオの弱味に漬け込んでストーカー対策に利用してやろうと考えた。
「ねぇディオ、ちょっと相談があるんだけど」
「フン、相談だと? 女のお前なんぞの話を聞いて俺に何か得でもあるのか?」
夢子は思い立つなりディオに言い寄ったが、仏頂面で一蹴された。さすが自らを『帝王』と名乗る吸血鬼だけあって、人間の相談には耳を貸さない。しかし、これも想定の範囲内で夢子は構わず話を続けた。
「まぁいいから聞いてよ。実はね、今日部屋に侵入した男なんだけど、私とディオを殺そうと企んでるみたいなの」
「…この俺を殺すだと?」
ディオは途端に眉間に深い皺を寄せて夢子を睨み付けて来た。プライドの高い吸血鬼が、自分の暗殺を企てる人間がいると知って黙っているはずがない。案の定、まんまと話に食い付いて来たディオに、夢子は内心ほくそ笑みながら、証拠のメッセージカードと一緒に元恋人の写真を差し出した。
「誰だ、この『タケシ』とかいうヤツは。ジョジョの回し者か?」
「ジョジョって人とは全く関係ないけど、頭のイカれた男よ。ディオが私の部屋にいたのを見て逆上したみたい」
「なぜ逆上する? コイツには何の関係もないだろう」
「それがさぁ、そのタケシって男、私に一方的な恋心を抱いてるみたいなの。部屋にいたディオを私の恋人だと勘違いしたのね、きっと。あぁでも、寝室にいたから一線を越えた関係だと思われたかも。首にも跡が残ってるし…ヤダ…これじゃあ言い逃れ出来ないじゃん…」
「ふ、ふざけるなッ! なぜ俺がお前の恋人なんだッ! 血を吸っただけで他には何もしていないぞ!」
夢子が肩を抱いて恥らう仕草をすると、思った通りディオは忽ち頬を赤らめてムキになって来た。したたかな女を演じるのは性に合わないけれど、先日嘘泣きで騙したディオが相手なら罪悪感もない。
「まぁ、どんな形であれ同居してるんだから誤解されても仕方ないんだけど、どっちにしてもお互いに迷惑な話でしょ? 私も片想いで殺されるのは御免だし、ディオも私の恋人と誤解されるなんて迷惑じゃない。だから、二度と妙な勘違いをしないようにこの男を懲らしめて欲しいの。お互いに面倒な相手なのは同じでしょ?」
夢子は恥も外聞も捨てて、ディオの隣に座ってさらに猫なで声で言い寄った。すると、ディオは手元の写真とメッセージカードを眺めたまま静止して、急に口角を吊り上げて不敵に笑い出した。
「…さては、この俺を色仕掛けで言い包めてコイツを始末させようって腹だな? その手には乗らんぞ」
「な、何でわかったの?」
「フン、この俺が女如きに騙されるとでも思ったのか、マヌケがァ。色ボケ女の目論見ほどわかり易いものはないんだよ。特にお前は娼婦みたいな女だからなァ、どうせ毎日男を弄んで金をふんだくってるクチだろ。自業自得じゃあないか」
「憶測だけで勝手に決め付けないでよね! それに誰が色ボケだッ! 私は善良なそば屋の店員で、娼婦なんかじゃあないわよッ!」
「どっちにしろ俺の知った事じゃあないな。1人で勝手に殺されろ」
芝居上手な男に芝居の謀を用いたのがそもそもの間違いだった。元々男を手駒にする趣味はないのだから、慣れない色目で媚びたところでボロが出るのは当然の成り行きである。下手な一芝居を打ったおかげで『色ボケ娼婦』というあらぬ汚名を着る事になってしまったけれど、この高慢で狡猾な演技派吸血鬼を言い包める方法はまだ残っている。
ディオは手持ちの写真とカードを放り捨ててそっぽを向いてしまったが、夢子も正攻法に打って出るべく、対抗するようにそっぽを向いた。
「言っておくけど、もし私が殺されたらディオはこの部屋に住めなくなるわよ? 家賃払えないでしょ」
「それで脅しているつもりか? 代わりの部屋を探すだけだ」
「じゃあ、食事はどうするのよ。また他の女の人にでも頼む?」
「フ、フン…どこかにまともな女の1人くらいいるだろ。探せばいいだけだ」
「杜王町の地理も知らないのに? 無事に探し出せるといいけどね」
「馬鹿にするなよ。これでも俺は人間だった頃、名門ヒュー・ハドソン大学の法律学でナンバー1の成績を取った男だぞ。街の地図さえ手に入ればどうって事ないんだよ。もう貴様の指図は受けんぞ」
と、ディオは妙な自慢話をしながら杜王町の地図帳を見せ付けて来た。夢子の留守中に部屋中を物色していたのだろう、それは押入れの奥に仕舞い込んで忘れていた地図だった。ディオは地図を手に勝ち誇っていたけれど、まだ切り札を持っていた夢子は軽く鼻で笑った。
「これも言っておくけど、杜王町には『振り返ってはいけない小路』っていう地図には載っていない危険な場所があるの。そこに迷い込むと問答無用であの世に連れて行かれるんだって。ロンドンに帰る前にあの世に行かなきゃいいけど」
「フン、そんな脅しが通用するか。どうせオカルト好きの馬鹿共が作った噂だろ」
「噂でも脅しでもないわよ、本気で言ってるの。これでもディオの事を心配してるのよ」
『振り返ってはいけない小路』は杜王町でもごく一部の住人しか知らないけれど、夢子はこの小路が出没する近所に勤務しているため、誰よりも熟知している。もちろん単なる噂でも脅しでもなく、冗談抜きで恐ろしいスポットで、実際にこの小路に入って戻って来なかった住人は沢山いる。地元住人でさえその有様なのだから、地理を知らないディオが知らずに踏み込んで餌食になる可能性は十分ある。
真顔で諭す夢子の様子から『噂を事実』と確信したらしく、ディオは鋭い牙を剥き出しにして歯噛みした。
「UURRRYYY…! じゃあこの俺にどうしろと言うんだッ!」
「協力しろって言ってんのよ! 部屋を貸してやって血もあげたんだから、それくらいやりなさいよね!」
「なぜこのディオが人間の女なんぞにへーこらしなければならんのだッ! 俺は人間の頂点に立つ帝王なんだぞ!」
「その人間の女の部屋に勝手に転がり込んで住み着いたのは、どこのどいつよ。その時点で帝王のプライドなんて捨てなさいよね」
鋭く突っ込むと、ディオは恨めしそうに睨み付けて来た。人間を恫喝する悪相も、夢子の正論の前では駄々を捏ねる子供の膨れっ面と同格である。プライドと利益の狭間で葛藤しているのか、ディオはしばらく唸り声を上げていたが、最終的に舌打ちを鳴らして承諾した。
「…いいだろう、今回だけはお前に協力してやる。この『タケシ』とかいうヤツも、俺の暗殺を目論んだ身の程知らずには違いないからなァ。女の尻を追い掛けるしか能のない貧弱なカスの分際で、よくもこのディオにこんな舐めた口が利けたものだ。受けて立ってやる」
「本当? あんたも意外と話がわかるじゃあないの」
「その代わり、この件が片付いたら報酬としてお前の生き血を貰うぞ」
「…何であんたが見返りを求めるのよ。私に恩返しする立場でしょうが」
「こんな狭い部屋とほんのちょっとの生き血だけで恩着せがましいんだよ。このディオが協力してやると言ってるんだから、相応の報酬を貰うのは当然だろ。大体、お前だって俺がいないと困るんじゃあないのか? 他に頼る当てがないから、こんな話を持ち出したんだろ?」
あろう事か、ディオは夢子の取り引きを逆手に取って来た。夢子がストーカーと化した元恋人を手っ取り早く諦めさせるには、警察よりもディオに頼った方が都合が良い。ディオも他を当たるより夢子の部屋に留まった方が都合が良い──つまり『お互い様だ』とでも言いたいのだろう。実に腹立たしいけれど、『持ちつ持たれつの関係』なのは紛れもない事実だから、反論する言葉が見つからない。
「…わかった、無事に解決したら生き血をあげる。でも血をあげるのは全部解決した後≠セからね」
と、夢子は念を押したが、ディオは「フン」と鼻を鳴らしただけで明言しなかった。
悉く約束を破って来たディオの事だから、きっとまた覆すに違いない。とはいえ、この取り引きで夢子の身の安全は確定したようなものだから、一先ずこれで良しとした。お互いに弱みを握られる形にはなったけれど、通常では絶対に人間側には靡かない吸血鬼を味方に出来たのだから、これほど心強いものはない。
──私も結構やるじゃん。
夢子は我ながら『策士だ』とほくそ笑んだが、直後に放ったディオの発言で一気に表情が引き攣った。
「それで、コイツを見つけ出して惨殺処刑にすればいいのか? それとも屍死人の餌にすればいいのか? どうして欲しいか言え」
「…ただ追い返してくれるだけでいいんだってば…」
味方にしたまではいいけれど、性悪な吸血鬼を上手く手懐けるのは骨が折れそうだと思った。
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