夢子が勤める飲食店は、杜王町商店街の一角にある『有す川』というそば屋になる。自宅アパートから徒歩10分と近いので通勤は非常に楽なのだけれど、従業員が店長を含めてわずか5人と少なく、毎日多忙なところが玉に瑕だ。店舗こそ古くて小さいが、そこそこ繁盛している店なので、食事時となればOLやサラリーマンでごった返す。店長にしてみれば嬉しい悲鳴だろうけれど、対応に追われる従業員にしてみればただの悲鳴にしかならない。
今日も店内は戦場のような状況だったが、夢子は仕事中にも関わらず欠伸を連発していた。接客という仕事柄、人前で怠惰な姿を見せる訳にはいかないのだけれど、残業で疲れた身体に鞭打つようなトラブルが発生し、睡眠時間もたったの3時間では疲労も抜けない。
「ふぁ〜…眠い」
つい声に出して大欠伸をすると、後輩のバイト学生が「先輩が欠伸してる〜」と笑いながら指摘して来た。途端に店長の鋭い視線が突き刺さったので、夢子は慌ててお盆で口元を隠して後輩を睨み付けてやった。
こうなった原因は言うまでもなく、夢子の部屋に突然居候する事になった『19世紀のロンドンから来た吸血鬼』を名乗るディオという男のせいだ。実にぶっ飛んだ素性だけれど、夢子が見た限り紛れもない事実である。これも行き場のないディオに同情してしまった夢子が招いた事態だから、今さら嘆いたところで仕方がないのだけれど、これまでの出来事を思い返すと憤りを感じずにはいられない。
騒音と壁を壊した件で早朝から大家に怒られた夢子は、その後、休む間もなく部屋の掃除と片付けに追われる事になった。寝室は窓を塞ぐ時にディオが壊した壁の残骸が散かっていたし、リビングは押入れのふすまが外されて雑然とし、ディオが土足で上がり込んだおかげで足跡だらけだったのだ。さらに『リビングの窓を塞げ』とディオから命令されていたため、掃除だけでなくリフォームまで施す必要があった。
至急を要していたので、一先ずリビングの窓には段ボールを貼り付けて、ガムテープで頑丈に塞いだ。おかげでハリボテだらけでみっともない部屋になったが、細かい事を考えている暇はなかった。簡単に掃除機を掛けて散乱した寝室を整頓し、ようやくシャワーで一息吐いた頃には出勤時間になっていた。
夢子が必死に動き回っている間も、ディオは勝手に占領した夢子の寝室で呑気に眠っていた。居候という立場を全く弁えていない傲慢な男にムカッ腹が立ったけれど、枕を抱えて寝息を立てるディオの寝姿が遊び疲れた子供のように安らかで、夢子は怒る気も失せてしまった。何かと癪に障る非常識な男だけれど、子供染みた言動と整った容姿のせいか、不満はあっても心からは憎めない。好き放題されているのに、ほんの些細な事で許してしまう自分もまた問題だと思った。
──部屋を貸すのは昼間だけだし、いいか。
あれこれ考えたところで解決する問題でもなかったので、夢子は楽観的に考える事にした。楽観的に考えないとやっていられなかった。
この日も、夢子が自宅アパートに帰ったのは午後11時過ぎだったが、楽観的に考えたおかげで少し気分が楽だった。吸血鬼が活動するには最適な時間帯だから、部屋には誰もいない──と思っていたのに、帰宅してみればリビングにはディオの姿があった。
2人掛けソファに両脚を投げ出した状態で横たわり、勝手に本棚から持ち出した本を読みながら、まるで自分の部屋のように寛いでいた。しかも、部屋には照明と電気スタンドまで点いている。どうやら昨夜、夢子がやっているのを見て学習したらしい。
「あんた…何でまだ私の部屋にいるのよ。確か『昼間だけ』って言ったよね?」
「そのつもりだったが、この街は夜になっても明るくて落ち着かん。道路を走る『じどうしゃ』とかいうヤツもうるさいしな。だから、人間共が寝静まるまで本を読む事にしたのだ」
憤然とする夢子を尻目に、ディオは悪びれる様子もなく事情を説明した。確かに窓に貼った段ボールは半分剥がされていて、床にも点々と足跡が付いていたので一度は外出したようだけれど、そういう問題ではない。『昼間だけ』という条件を破った事が問題なのだ。
とはいえ、19世紀の人間──もとい吸血鬼から見れば現代のネオン街は物珍しい光景だろうし、よくよく考えてみれば、ディオはつい先日日本に来て迷子になった身だから、夜間に1人外出したところで行く当てがあるはずがない。つまり『昼間だけ部屋を借りる』という条件は、最初から守れない条件だったという事だ。そもそも行き場がない≠ゥら部屋に居候をする事になったのだから当然の結果である。ディオは『街灯と騒音が気に入らないから戻って来た』と弁解したけれど、夢子は『行き場がないから戻って来た』と解釈した。
──端から1日中、居候する気でいたわね。
腹立ち紛れにディオを睨み付けたが、ふとディオが読んでいる小説が『アルジャーノンに花束を』である事に気付いた。日本語を流暢に話せるだけでなく、漢字も難なく読めるらしい。夢子が所有する数ある小説の中から、なぜその感動作を選んだのか知らないけれど、あまりに熱心に読んでいるものだから、夢子は怒る気力を失った。
──何だか、ちょっと可愛いじゃんか。
ソファに寝そべって黙々と本を読む姿は、よくある読書好きの青年だった。吸血鬼と言えば貴族紳士のような服装と黒マントが定番だけれど、ディオの服装は悪い王子≠フような雰囲気で、威厳があるかと言われればない。むしろサスペンダーのおかげで年齢よりも子供っぽく見えたが、生意気な言動にはよく似合っていると思った。
「おい、お前…確か夢子とか言ったな。お前の生き血を俺によこせ」
微笑ましい姿の反面、ディオの口から唐突に出たのは物騒な台詞で、夢子は思わず「はぁ?」と怪訝な声を上げた。ようやく顔を上げたディオの表情は悪辣としていて、どんな格好であってもやはり凶悪な吸血鬼だと痛感した。
「何だよ、文句でもあるのか?」
「あるに決まってるでしょ! つい昨日『人間のまま生かす』って言ったばっかりじゃん!」
「そのつもりだったが、今日になって気分が変わった」
「…さっきから気分が変わってばっかりじゃない。どんだけ自分本位なのよ…」
「仕方ないだろ、何しろ長い間食事をしていないから渇き≠ェ酷くてな。昨日『気化冷凍法』を使ったせいで余計に体力を消耗したんだ。なぁに、殺しも下僕にもしないから安心しろ、ほんのちょっと血を貰うだけだ。それならいいだろ?」
と、ディオは横柄な態度から一転して穏やかな口調で懇願して来た。今さら媚びたところでディオの本性はわずか1日足らずで十分理解しているため、夢子から見れば笑止千万、怒りを通り越して呆れる光景である。
すると、ディオはわざわざソファから床に座り直して目線の高さまで合わせて来たので、夢子は一歩後退りして白い目を向けた。
「そういう問題じゃあないんだけど。『血を貰う』って簡単に言ってくれるけど、それって身体に傷付ける訳でしょ? 血を吸われる側は痛いし、大怪我するし、貧血にもなるじゃあない。大体、ディオは若い女性の方がいいんじゃあなかったの? 年増は嫌だって言ってたじゃん」
「…あれは言葉の綾≠ニいうヤツだ。それに俺は年増と言った覚えはないぞ」
「同じようなもんでしょうが。そもそも今まで散々見下しておいて、急にご機嫌取ろうとしても無駄よ。ディオに血をあげるなんて死んでも嫌」
「なぜだッ! 昨日はお前の方から迫って来ただろ! このディオに身を委ねようとしたじゃあないか!」
「変な言い方しないでよ! あれは『吸血鬼』って言葉に動揺しただけで、ディオに身を委ねようとした訳じゃあないわよ! 勘違いしないでよね!」
「フン、それでも一度はこのディオの糧になる覚悟をしたんだろ? つまりお前は自分で運命を選択した訳だ。今さらあがいても無駄だぞ、夢子…潔くこのディオに生き血を捧げるんだなァ!」
業を煮やしたディオは忽ち本性を露にして、凶悪な顔付きで夢子に押し迫って来た。壁を破壊するほどの怪力で押し倒されれば抵抗するのは不可能、それどころか床ごと身体を粉砕されてしまう──夢子は内心恐怖したが、反して身体は反射的にディオの顔を殴っていた。
無意識に出る防衛本能というものは、自分の能力以上の事をしてくれるから実に素晴らしい能力だと思う。夢子が繰り出したビンタは見事に相手の頬に命中し、スパーンという痛快な音が鳴った。思わぬ反撃を受けたディオは、その並外れた身体能力を発揮する間もなく「うげッ」と情けない悲鳴を上げて仰け反った。
「きっさまァッ! よくも俺の顔を殴ったなッ!」
「当たり前でしょ! いきなり女性を押し倒すとか最低! ちょっと顔が良いからって思い上がるのもいい加減にしろッ! この変態吸血鬼!」
「こ、この俺が変態だとォ…!? よ、よくも…よくも俺に向かって…! この汚らしいアホがァーッ!」
凄まじい剣幕で怒声を上げたので、夢子は次の襲撃に備えて身構えた──が、次の瞬間、ディオの頬から一筋の涙が流れ落ちた。さらにその場に顔を伏せて蹲ると、肩を震わせながら鼻まで啜り出した。
──殴られて泣くとか嘘でしょ!?
てっきり怒り狂って野獣の如く襲い掛かるものと思っていたから、泣き出す≠ニいう意外過ぎる展開に夢子は困惑した。外見も性格も貧相な男ならともかく、長身で筋肉質で、涙とは縁遠い傲慢な性格をした美青年に泣かれると対応に困るし、自分がとてつもなく悪い事をした気分になる。しかも、この男は人間を食料にする吸血鬼だ。血を求めて女性に殴られ号泣する吸血鬼など、どんなB級映画でも小説でも聞いた事がない。
「ちょ、ちょっと…何も泣かなくてもいいでしょ? 大の男がみっともないわよ」
「うるさいッ! さっきからどいつもこいつも俺を拒絶しやがって…ッ!」
「…『どいつもこいつも』って?」
その時、夢子の脳裏に1つの憶測が過ぎった。ディオが途中で外出を止めたのは、食料目当てに近付いた女性に悉く断られたのではないか。そしてその結果、已む無く夢子に迫ったのではないか──と。おそらく『気分が変わった』というのも、自分の失態を隠すための言い訳だろう。あくまで夢子の憶測だけれど、恐ろしいくらい辻褄が合う。
「ねぇ、ディオ…もしかして他の女性にも同じ方法で迫ったの?」
「…同じじゃあない、もうちょっと優しく紳士的に誘ったぞ。それなのに『変態』と罵られたのだ」
なぜ他の女性には優しくして、恩人であるはずの夢子にはふてぶてしい態度で命令したのか──理不尽な差別化に腹立たしさを感じたけれど、小さく身体を丸めてすすり泣く背中に詰問する気になれず、静かに尋ねた。
「で、どんな風に誘ったのよ?」
「夜道を歩いていた女に『今のままの姿で永遠を楽しみたいなら、このディオに身を捧げてみないか?』と言ったのだ。それなのに、こんな風に思い切り殴られた」
「…そりゃ殴るでしょ。だってそれ、ただ女とヤりたい変質者の台詞だもの」
「俺は変態じゃあないぞ! 人間を食料とし、世界を支配する『帝王』なんだッ! 大体、吸血鬼が人間の生き血を啜るのは当然だろうが!」
「だって、私以外の女性はディオが吸血鬼だなんて知らないもの。証拠だって何もない訳だし…言ったところで信じないと思うけど」
「俺がいたロンドンでは、人間共は俺に恐怖して自ら服従したぞ。なぜ日本の女には通用しないのだ?」
「それは…時代と文化の違いってヤツじゃあないの?」
19世紀ロンドンには、まだ信仰が根強く残っていただろうから、吸血鬼の存在も人々に認識され易かったかもしれない。しかし、ここはあいにく20世紀末の日本だ。科学技術が著しく発展し、信仰も薄れてしまっている現代人にとって『吸血鬼』は架空の怪物でしかない。吸血鬼と名乗って通用するのはハロウィンの仮装パーティーくらいなもので、深夜の街で「永遠の命が欲しければ身体を捧げろ」と言ったところで、宗教絡みの変質者と見なされるのがオチだ。悲しいかな、時代も文化も信仰も全く異なる現代の日本では、吸血鬼の脅威はまるで通用しないのだ。
しかしながら、100年のジェネレーションギャップは吸血鬼としての威厳と自信を喪失させたらしい。
「…俺はこのちっぽけな日本の街で、食料にあり付けないまま干乾びる運命なのか…。これならジョジョのヤツに負けた方がマシだ…」
と、顔を伏せたままさめざめと泣くディオを見ている内に、夢子は次第に可哀相になって来た。過去に人間を服従させて来た吸血鬼にしてみれば、これほど屈辱的な事はない。女性を誘っては拒絶される様子を想像すると益々不憫になって来た。
「…しょうがないわね。ほんのちょっとでいいなら血をあげてもいいわよ?」
「本当か?」
ディオは弾かれたように顔を上げたが、その赤い瞳にはすでに1粒の涙も残っていなかった。夢子が許可を出したと同時に素早く涙を退かせたようで、今ではすっかり不敵な笑みを浮かべた悪相に戻っていた。肉体を自由に操れると言っていたから、涙腺を操るくらい朝飯前なのだろう。
──コイツ、プロの舞台俳優か。
同情を誘う狡猾な手口に腹が立ったが、これも杜王町にディオを留めてしまった夢子の責任だ。何も知らない女性が被害に遭うよりは、夢子1人が犠牲になった方が世のため人のため。それに泣き真似をしてまで夢子に縋ろうとするディオがちょっぴり可愛く映って、『まぁいいか』と許してしまった。
「言っておくけど、本当にちょっとだけだからね。間違って下僕にするとかやめてよね」
「俺はそんなヘマはしないぞ。お前なんぞ下僕にしても何の利益もないしな。手加減してやるから、さっさと俺の前に座れよ」
素っ気なく命令された夢子は渋々とディオの前に正座したが、その端整な容姿と真正面から対峙して、不覚にも鼓動が高鳴ってしまった。
彫刻のように整った顔立ちと体躯も然る事ながら、その肌は色白で木目細かく、黄金色の髪も柔らかな金糸のような美しさである。内面は我儘なガキ大将のような性格だけれど、この顔が夢子の首に迫って来ると思うと、恥らいを感じずにはいられない。
「…あ、あのさぁ、やっぱり首から血を吸うって絵面的にヤバくない? 何だかエロいし…」
「…妙な想像ばかりするなよなァ。俺は噛み付くつもりはないぞ」
「じゃあ、どうやって血を吸うのよ?」
「俺は指先から吸血する事も出来るのだ。この方が手っ取り早く済むからな」
そう言って、目の前に突き出されたディオの指は男性特有の逞しいもので、鋭い爪まで生えていた。こんなものが夢子のか細い首に突き刺されば、吸血される前に首を持って行かれる。
「それ、絶対にダメージ大きいでしょ。もう少し負担の軽い方法ってないの?」
「…なら、牙で噛み付いてやってもいいぞ。吸血の時間は掛かるが、指を突き刺すより傷口は小さいからな」
「えー…その間、首にキスした状態になるんでしょ? エッチな事しない?」
「す、するかッ! ごちゃごちゃ文句ばかり言ってないで、どっちにするのかさっさと決めろ! このディオが殺さずにいるだけありがたいと思えッ!」
「わかったわよ。それじゃあ、負担の小さい牙でお願い」
これも1世紀のジェネレーションギャップのせいなのだろうか、軽い冗談にもすぐに顔を赤らめてムキになる。ディオの恥らう態度を見るに、間違っても淫らな事はしないと確信した夢子は安心して自ら首筋を晒した。恥らいはあったけれど、死ぬか、恥を忍ぶか──どちらを選ぶかと言われれば、真っ先に恥を忍ぶ方を選ぶ。
「フン…じゃあ、目を閉じていろ。見たくないだろ」
と、ディオは気遣うような命令をすると、夢子の肩を掴んで首筋に勢い良く牙を突き立てた。肌からぶつりという嫌な音と共に激痛が走り、夢子は堪らずディオの身体に縋り付いたが、痛みはその一瞬だけだった。夢子の肌に生温かい唇が触れると、途端にじりじりとした熱と甘美な感覚が全身を走った。全身を流れる血潮と意識が全て首筋に集中していく。
初めて味わう吸血の感覚は、肌に吸い付く唇の感触も相俟って酷く淫らなもので、夢子は思わず嬌声を漏らしてしまった。
「ひゃあっ…! ひっ…あっ…あぁんッ…!」
「…おい、変な声出すなよ…落ち着かないだろッ…!」
不意に囁いたディオの声色は明らかに動揺していたが、その吐息混じりの声のおかげで尚更淫靡な場景になり、夢子は羞恥心から全身を紅潮させた。おそらく傍から見ても前戯≠ノしか見えないだろう。
つい先日、家に転がり込んで来た男と自分は一体何をやっているのか──これでは人の事を『変態』呼ばわり出来ない。自分が置かれている破廉恥な状況に堪え切れなくなった夢子は、ディオの身体を突き放した。
「何すんのよ変態! こんなの聞いてないわよ!」
「変態は貴様だろうが! 俺は普通に血を吸っただけだぞ! なのに、卑猥な声で喘ぎやがって…娼婦か貴様…ッ!」
怒声混じりに反論したディオの顔は耳まで赤くなっていた。それがまるで『夢子が強引に誘惑した』と主張しているように見えて、益々恥ずかしくなった。
「とにかく、もう絶対に協力しないからね!」
「俺の方から願い下げだッ、マヌケがァ!」
ディオは不貞腐れた子供のような仏頂面をして、けたたましい音を立てて寝室のドアを閉めた。羞恥のあまりディオを批難してしまったけれど、男女間に起こった問題の全てが男性にあるとは言えない。特に今回の件は軽はずみに同意してしまった夢子にも非がある。
「…やっぱり良い方法を考えないと駄目か…」
同居人が吸血鬼では『どうにかなるだろう』では済まない問題もある。状況によっては楽観的に考え過ぎるもの良くないと、夢子は痛感した。
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