『男は吸血鬼でした』

 夢子の自宅は杜王駅の近くにあって、3階建ての単身者用中古アパートになる。就職と同時に借りたので、居住歴は職歴と同じく今年で5年目だ。間取りは1LDKと狭いけれど、交通も便利で家賃も手頃、独り暮らしをするには十分快適な物件なので、仕事を終えた夢子の唯一の安らぎ空間となる。
 しかし、この日に限って夢子の部屋は全く安らげなかった。コンビニ弁当を八畳間のリビングのテーブルに広げて、缶ビール片手に食べている間も、夢子の前には派手な顔立ちをした男──ディオが終始こちらを凝視しているからだ。その上さらに2人がいるリビングは、照明の豆電球と電気スタンドしか点いていないため、尚更落ち着かないムードが漂っている。

 『昼間だけ部屋を貸す』という話で一段落した後、ようやく一息吐けると思った夢子は晩酌の準備を始めたが、ディオは室内に留まったまま立ち去る気配も見せなかった。本人曰く『19世紀のイギリス人』で、日本に来たのも初めてのようだから、時代も国も違う夢子の部屋は純粋に興味をそそられるものなのだろう。その証拠に、夢子を見つめるディオの視線は獲物を狙う野獣とは程遠く、まるで摩訶不思議な生物を観察しているような好奇心に満ちている。
 それしても、薄暗いリビングで1時間近くも見つめられた状態というのは、さすがに恥ずかしい。言動はおかしいけれど、その容姿は稀に見る美形なので、妖しく危険な展開を考えずにはいられない。

 ──やっぱりヤバい男なのかも。

 独り暮らしの女性が、初対面の素性の知れない男と──しかも『ジョジョという人物を追って19世紀から来た』とか意味不明な発言を繰り返す男を部屋に招き入れるなど、やはり無用心だったかもしれない。卑猥な犯行目的で侵入するには理由があまりにも馬鹿げているし、すぐムキになる子供染みた性格や、夢子を貴様呼ばわりするところから危害はないと判断したけれど、どんな性格であろうと相手は男だ。『細かい事を気にしない』、『困っている人を放って置けない』夢子の長所は短所でもあり、今になって少し後悔していた。
 あれこれ考えている間も、ディオは目の前の2人掛けソファに座ったまま、晩酌中の夢子に視線を注いでいる。夢子の部屋に居候する立場だというのに、悠然とソファに鎮座するディオの態度はまるで王様気取り。そんなディオに見下されてリビングの床に座って弁当を食べる夢子は、まるで餌付けされている奴隷の気分だった。
 気まずさに沈黙を保っていたが、この奇妙な状況に耐え兼ねて夢子はついに口を開いた。

 「…あのさ、何でまだ私の部屋にいるの? もしかしてお腹空いてるの?」
 「違う。まだ話も終わっていない内に、貴様が呑気に酒を飲み始めたから、仕方なく待ってやっているんだろ。俺だって暇じゃあないんだから、早くしろよなァ」
 「話ならついたじゃん。昼間だけ部屋を貸すって言ったよね? まだ夜だから必要ないでしょ」
 「そうじゃあない。こんな問題だらけの狭い部屋ではこの俺が満足出来んのだ」
 「…あんた、居候の分際で文句ばっかり言ってると追い出すわよ」
 「フン、貴様こそ口を慎むんだな。お前みたいな貧弱な女、やろうと思えばいつでもやれるんだぞ」

 傲慢な態度で下衆な事を口走ったので、夢子は持っていたビールをディオの顔面目掛けてぶっ掛けた。

 「き、貴様ァッ! よくもこの俺に酒を掛けたな!」
 「あんたが『ヤる』とか言うからでしょ! わかったわ、『時代が違う』とか『帰り方がわからない』とか言って女性の部屋に転がり込んでヤるのがあんたの手口なんでしょ! 変態セックス魔! やっぱり警察呼ぶわ!」
 「セッ…!? お、俺が言ったのは殺す意味の『殺る』だ! 妙な勘違いをするなマヌケッ!」

 夢子の指摘にディオは物騒な弁解したが、その声色はやけに上擦っていた。「クソッ」と悪態を吐きながら酒を拭う仕草もぎこちない。薄暗い室内でも顔色が赤く変わっているのが見て取れて、夢子の発言に羞恥しているのは明らかだった。

 ──性格悪いくせに、初心なのね。

 まるで性教育を受け始めたばかりの少年のように恥らうディオの様子に、夢子は怒りも忘れてしまった。この程度で戸惑うような男なら、身の危険を警戒するだけ徒労かもしれない。『殺す』という物騒な台詞も、喧嘩腰になった悪ガキが勢いで発する戯言程度のものだろう。膨れっ面で顔を拭くディオの姿がツボに嵌って、夢子は笑いを堪えながら布巾を投げ渡した。

 「で、私にどうして欲しいのよ? 言っておくけど、部屋は別々よ」
 「そんな事はわかってる! 俺が言いたいのは、この部屋の窓があまりにも無防備だという事だ。これでは昼間、部屋にいても太陽の光が入るじゃあないか」
 「その方がいいじゃん。日当たりの良さがこの部屋の利点よ」
 「このディオにとっては致命的なんだ。太陽の光を浴びると死んでしまうからな」
 「そんな大げさな。お化けや吸血鬼でもあるまいに」
 「ほう、よく俺が吸血鬼だとわかったな。ただの非常識な女じゃあなかったようだな」
 「…マジで?」

 夢子が冗談で言ったつもりの『吸血鬼』を本気で認めて来たので、思わず目が点になってしまった。
 『19世紀のイギリス人』の次は『吸血鬼』──この男、本格的に頭がおかしい。おそらく世界各地の異変に乗じて自ら吸血鬼と名乗り、その役柄に完全に成り切っているのだろう。それにしては演技が細かい。蛍光灯には微弱な紫外線が含まれていると聞いた事があるけれど、夢子相手にそこまで演じる必要はない気がする。

 ──本気でヤバい男だったのね。

 しかし、精神異常者を下手に刺激するのは危険だと判断した夢子は、なるべく平静を装って疑問を尋ねた。

 「…つまりディオは『19世紀のイギリス人で吸血鬼』って事?」
 「そういう事だ」
 「…生まれた時から吸血鬼なの?」
 「違う。途中で人間をやめたのだ」
 「…という事は、他の吸血鬼に噛まれたって事?」
 「それも違う。古代人が作った石仮面を被って俺の意思で吸血鬼になったのだ。今となっては『柱の男』とかいうヤツが食料量産目的で作った仮面だったが、そんな事はどうでもいい。人間を超越した今、俺は世界を支配する事が出来るからな」

 ディオは終始丁寧に質問に答えたが、あまりにも馬鹿げた内容を真剣に語る様は夢子の理性を崩壊させた。必死に堪えていた笑いが極限に達して、夢子はついに吹き出した。

 「あんた、本当に自分が『吸血鬼』だと思ってるの? しかも『世界を支配する』って…一体、何が原因でそんな残念な思考回路になったのよ、ウケる〜!」
 「貴様ァ…おちょくるのもいい加減にしろよ! 俺は本気で言ってるんだぞ!」

 腹を抱えて笑い転げる夢子に、ディオは顔面真っ赤にして怒鳴り立てたが、ムキになる姿が益々夢子の笑いのツボを突いた。

 「そんなぶっ飛んだ話を本気で話すから馬鹿だって言ってんの。子供ならまだしも大人が吸血鬼って! せめて髪をオールバックにして黒マントでも着ておきなさいよ〜!」
 「貴様ァッ! 女の分際でいい気になるなよッ、KUAA! そこまで言うなら貴様に見せてやるッ!」

 激昂したディオは、奇怪な掛け声と共に夢子に向けて両手を伸ばして来た。異様な気配を察した夢子は一瞬で我に返って、咄嗟に近くのバッグを盾に身構えたが、ディオが向かった先はテーブル上のコンビニ弁当だった。ディオの指先が触れた途端、夢子の『牛タン味噌漬け弁当』はパックごと真っ白になって固まった。

 「ちょっと、私のお弁当に何したのよ! まだ半分も食べてないのにッ!」
 「フン、この俺は自分の肉体を自由に操る事が出来る。俺はその弁当の水分を気化させて、瞬時に『凍らせた』のだ」

 と、ディオは自慢げに弁当に起きた現象を説明したが、未だに信じられなかった夢子は試しに弁当を指で突いてみた。確かに弁当はカチコチに凍っていて、まるでドライアイスのように白い冷気まで放っている。
 定価950円の贅沢弁当が台無しになった事よりも、ディオの人間技とは思えない能力を目の当たりにして、夢子は愕然した。こんなものを見せられては、ディオの発言が全て事実だと認めざるを得ない。

 「…じゃあ、ディオは本物の吸血鬼なの?」
 「フン、ようやく理解したか。他にも目から体液を光線のように飛ばす事も出来るぞ。せっかく確保した部屋が壊れるから、ここではやらんが」
 「…って事は、19世紀のロンドンから来たっていう話も本当?」
 「最初からそう言ってるだろうが。今頃信じたのか、マヌケめ」

 この瞬間、夢子はディオの不可解な言動の意味を全て理解し、同時に血の気が引いた。何でもありの世界≠ノなっていると言っても、フィクション映画や小説などに登場する架空の怪物『吸血鬼』がこの世に実在していたなど夢にも思わない。しかも夢子は、その吸血鬼に部屋を貸す約束をしてしまった。精神異常者より吸血鬼の方が遥かに危険なのは言うまでもない。吸血鬼はその名の通り『血を吸う鬼』であり、通報したところで警察が敵う相手ではないのだ。

 ──こういう場合、どうすればいいのかしら。

 夢子は束の間考えて、子供の頃に見た映画『ドラキュラ』のシーンを思い浮かべた。実に馬鹿げているけれど、この現実離れした状況を打開するには映画の知識に頼るしかない。『触れたものを凍らせる能力』は意外だったけれど、吸血鬼と言うからには弱点も共通しているはずだと考えた。

 ──そうだ、蛍光灯!

 ふと夢子の脳裏に蛍光灯に動揺したディオの姿を浮かんで、咄嗟に照明の蛍光灯を点けた。だがしかし、ディオは一瞬眩しそうに眉を顰めただけで、「なんてこたぁない」と言った様子で鼻を鳴らした。

 「そんな! さっきは効いたのに!」
 「フン、さっきはほんのちょっと驚いただけだ。こんな貧弱な光が通用すると思っていたのか? ちょっぴり熱いくらいで、どうって事ないんだよ」
 「じゃあ、にんにくとか十字架は?」
 「このディオにそんな小細工は通用しないぞ。無駄な悪あがきはよせよなァ」

 性悪さが滲み出たディオの表情はまさに『殺ると言ったら殺る顔』で、夢子はこの先待ち受ける自分の悲運を悟って絶望した。太陽しか弱点がない吸血鬼相手に、杜王町に住むごく普通の社会人(25歳女)が敵うはずがない。世界が天変地異だと言っても、どこからともなく正義の味方がやって来て吸血鬼を撃退してくれる、といった陳腐なヒーロー映画のような展開が起こるはずもない。
 夢子はこの時ほど『人助けをせずにはいられない性分』を恨んだ事はなかった。しかしながら、この容姿で『帰る場所がない』と迫られれば、どんな女性でも同情して部屋を貸すと思う。意図的なのか無意識なのかはわからないけれど、それほどディオの容姿と言動のギャップは反則だった。

 ──でもまぁ、容姿が良いだけ救いかな。

 観念した夢子は、自らディオの前に静座した。

 「言っておくけど、私の血は不味いからね。生活も不規則だし」
 「…また妙な勘違いをしているな。俺がいつお前の血を貰うと言ったんだよ。さっきから自意識過剰だぞ」

 容赦なく噛み付いて来るかと思えば白けた様子で窘められ、おかげで死ぬ覚悟で取った身体を捧げる行為≠ヘ礼儀正しい風俗嬢のようになってしまった。夢子は赤面しながら静々と元の席に戻って弁解した。

 「だ、だって、吸血鬼って女の生き血を吸うんでしょ? 私の事も食料にするつもりだったんじゃあないの?」
 「フン、俺が欲しいのは若い女の血≠セ。それにお前はこの『もりおうちょう』とかいう街を把握するのに使えそうだからな。人間のまま生かしておいてやる」
 「…そりゃどうも…」

 『夢子は若い女の内に入らない』という理由は腹立たしかったけれど、食料にされる心配がないと知って一先ず安堵した。しかし、その一方で『詰めが甘い』とも思った。
 杜王町を案内させるつもりなら夢子を下僕にしても構わない訳だし、ましてや食料にも値しない女となれば、生かしたまま同じ部屋に住まわせる必要はどこにもない。人間を遥かに凌駕する吸血鬼にとって、弱点である太陽を凌げる場所さえ確保してしまえば、他の問題は自分の力でどうにでもなるのだ。少なくとも夢子がディオの立場なら、そうする。

 「そんな事より、このディオのためにさっさと部屋の窓を塞げよなァ。夜明けまでにどうにかしないと、ただじゃあおかないぞ」

 あれこれ考えている間に、ディオは益々不遜な態度で命令して来た。『吸血鬼』と聞いて恐怖してしまったけれど、ディオは夢子が想像していた吸血鬼像とはまるで違っていた。元人間の吸血鬼≠セからなのか、ただの我儘青年にしか見えない。夢子は無害な吸血鬼に安堵すると同時に、妙な親しみを感じた。出来の悪い年下の後輩の面倒を見る感覚と近いものがあった。

 「わかったわよ、窓を塞げばいいんでしょ。でも、今は道具がないから明日でいいよね?」
 「駄目だ。朝になったら俺の居場所がなくなるじゃあないか。道具ならそこの板を使えばいいだろ」

 そう言って、ディオはリビングにある押入れのふすまを指差した。部屋の窓を塞ぐには十分な大きさだったが、押入れの中身が丸見えになるし、窓にふすまが貼り付いている状態もインテリア的にどうかと思う。とはいえ、激昂されて氷漬けにされても困るので、夢子は言われるままふすまを外した。
 ふすまというのは案外重いもので、特に夜遅くまで仕事をしていた夢子の腕には重く圧し掛かる。『なぜ居候のために自分が苦労しないといけないのか』という不満も相俟って、ふすまを2枚外したところで力尽きた。

 「もう無理。大体、女の私にこんな力仕事出来る訳ないじゃん。ただでさえ仕事で疲れてるのに」
 「チッ…世話の焼けるヤツめ」

 ディオが不快感を露にソファから立ち上がったので、夢子は思わず身構えた。しかし、ディオは「貸せよ」と夢子からふすまを奪い取って、自ら寝室の窓に貼り付けた。さらに部屋干し用の物干し竿を鉛筆のように叩き折り、ふすまの四隅に突き刺して強引に壁に固定していく。大きな破壊音を立てながら部屋が改築される様を、夢子はただ呆然と眺めるしかなかった。止めたくてもこの怪力では敵わない。

 「これで寝室の窓は塞がったぞ。リビングの方はお前がどうにかしろよなァ」

 寝室の窓を塞ぎ終えると、ディオは勝手に夢子のベッドに横たわって、そのままの格好で寝てしまった。
 勝手に部屋を改築した上に、夢子の寝室を占領するという横暴振り。これほど傲慢な吸血鬼と生活すると思うと先が思い遣られたが、夢子は途中で考えるのをやめた。これもディオを招き入れてしまった自分の失態だし、今さら考えたところでどうにもならないと思ったからだ。それに夢子は一刻も早く休みたかった。こうしている間にも時計は午前3時を回っていて、これ以上夜更かしをすれば仕事に支障が出てしまう。

 「…もう寝よう」

 とうに眠りに落ちたディオを横目で睨み付けながらも、夢子は朝日が入らないように寝室のドアを閉めた。そして、リビングに予備の布団を敷いて寝た。

 『朝になれば全て元通りになっているかもしれない』と期待したけれど、現実はそんなに甘くなかった。翌朝、夢子は近隣住人の苦情を受けて押し掛けた大家のチャイムで叩き起こされ、壁を壊した事をしこたま怒られた。

[*prev] [next#]
[back]