『悪戯は程々に』

 外は麗かな小春日和だった。暖かな陽気に小鳥の囀り、緑の香りを乗せた風が窓から吹き込んで来る。乱世である事も忘れてしまう程、穏やかな昼下がりであった。
 そんな日和に、司馬昭は執務室で竹簡と向かい合っていた。この男にとって一番似つかわしくない場所での意外な姿に、知らぬ者が一見すれば誰もが目を疑うだろう。
 だが、その部屋の片隅には賈充の姿があった。司馬昭を監視するかのように椅子に腰を据え、書物に目を向けている。時折、その視線は司馬昭を鋭く睨め付けていた。
 そう、怠け者の代名詞とも言える男が、自ら進んで執務に励む訳がない。仕事を強制させられているのだ。その証拠に司馬昭の顔にやる気など微塵もなく、賈充の視線が離れると途端に姿勢が崩れた。
 長い溜め息をつきながら司馬昭は窓の外を眺めた。
 (何もこんな日にやらせなくてもいいんだよなぁ…)
 と、内心何度愚痴を溢したか知れない。いつもなら外で昼寝をしているところだが、この日に限って賈充に見つかってしまった。親友とはいえ、融通の利かない男であるため一度見つかると逃れる術はない。しかも仕事を抜け出した瞬間を目撃されたため、賈充の機嫌はすこぶる悪い。
 賈充が自分に期待している事は重々承知している。なるべくなら親友の期待に応えたいとは思うのだが──。
 (あー…めんどくせ)
 ついに限界を超え、筆を持つ手が離れた。
 「あー、もう無理だ。賈充、続きは明日にしてくれよ」
 「駄目だ、今日中に終わらせろ」
 間を置かずに刺々しい一言が返って来た。視線は書物に向けられたままだが、その表情は凍て付いている。小春日和とは縁遠い、真冬の雪の如き冷たさである。
 (相当怒ってるな…)
 怒らせた原因は自分だから仕方がないのだが、賈充は元々愛想のいい男ではないため、機嫌が悪くなると恐ろしい形相になる。だが、いくら機嫌がいい時であってもその変化は微々たるもので、冷笑するような微笑みしか見せない。
 無愛想な友の顔を見つめながら、ふと一つのの疑問が浮かんだ。
 (そういえば俺、賈充の笑顔って見た事ないよな…)
 賈充とは長い付き合いだが、腹を抱えて笑うとか冗談を言っておどける姿は一度も見た事がない。それが彼の性格だとわかっているが、反応がないのはやはり寂しい。ただ、もし彼がそんな事をしていたら返って不気味だ。
 色々と想像して、司馬昭は堪え切れずに笑いを溢した。途端に賈充の鋭い視線が突き刺さった。
 「子上…何がおかしい。お前は自分の置かれている立場がわかっているのか?」
 「悪かったよ、そう怒るなって。友達なんだから少しは大目に見てくれてもいいだろ?」
 「今まで何度大目に見て来たと思っている。未だにだらけているお前を見逃す程、俺は優しくはないぞ。一度本気を出してみろ。そうすれば少しは考えてやってもいい」
 上目遣いに睨め付けられ、司馬昭はそれ以上口答えできず筆を取った。今の状況では冷笑すら拝めない。仕事をしようにも、一旦気になり出すとそればかり考えてしまう。やる気のない仕事を前にしているから余計にだった。
 (一度、思い切り笑わせてみたいな…)
 もはや司馬昭の頭にはそれしかなかった。
 冷淡な親友を転げ回るくらい笑わせてやりたい。そんな姿を見てみたいという衝動に駆られた。
 あの賈充を笑わせるなど至難の業だ。今まで何をしても笑った試しなどないのだが、どうでもいい事に関しては仕事よりも意欲が湧く。
 とりあえず相手の機嫌を取るために、机に山積みにされた竹簡に手を伸ばした。ようやく真面目に仕事に就いた姿を見て、賈充は再び書物に視線を落とした。

 日も傾き、空も茜色に染まった頃──。
 「よし、終わったぜ賈充!俺にしては会心の出来!」
 司馬昭は筆を机に叩き付け、拳を突き上げて声を上げた。
 よくやった、という言葉を期待したが、見ると賈充は椅子に座ったまま深く頭を垂れたまま動かない。様子見に近くに歩み寄ると、賈充は脚を組んで本を手にしたまま熟睡していた。
 (おいおい、人に仕事させておいて寝てるのかよ)
 とはいえ、賈充が日々親友のために体を酷使している事は知っている。他人にも自分自身にも厳しいのが、賈公閭という男なのだ。
 本来ならばこのまま寝かせて置こうと思うのだが、笑いで破顔させたい願望が消えた訳ではない。むしろ、眠っている姿を見て一層悪戯心に火が付いた。
 仕事も終わり、たまには息抜きにおどけてみても構わないだろうと、自分の中で勝手な判断を下した。
 近くにあった未使用の筆を持ち、眠っている賈充に近付けた。
 (これだけ油断してりゃあ、素が出るだろ)
 司馬昭は込み上げる笑いを押し殺しながら、筆先を賈充の耳に突っ込んだ。驚いて飛び上がるか、くすぐったがって叫ぶか笑うか、反応はどちらかしかない。どうであっても面白い光景には変わりない。
 しかし、いくらくすぐってても一向に起きる気配はなく、反応すらなかった。
 (嘘だろ!?一体どういう神経してんだよ、俺だったら絶対叫んで起きるぜ)
 よほど深い眠りに入っているのか、筆先で顔や首を撫でようが、柄先で脇腹を突こうが全く動かない。真っ白な顔で深い眠りに就く賈充の姿は、失礼だが死んでいるようにも見えた。
 予想通りの反応がなかった事に、次第に苛立って来た。
 (賈充…寝てる時まで無反応かよ。これじゃあ全然つまんねーなぁ…)
 このまま終わっては、嫌な仕事を終わらせた意味がない。何かないかと辺りを見回し、ふと机にあった硯に目が留まった。

 *

 「おい、賈充。いい加減に起きろよ」
 大きく体を揺さ振られ、ようやく賈充は顔を上げた。
 「…いつの間にか寝ていたのか、すまん」
 「いいって事よ、疲れてたんだろ。仕事、もう終わったぜ」
 司馬昭は満面の笑みを浮かべながら、机上の竹簡の山を指差した。
 「ふっ…やればできるではないか。最初からやっていれば誰も文句など言わんというのに」
 「そりゃあ、俺だって本気を出せばできるぜ。ただ、本当に必要な時のために力を備蓄してあるってだけだ」
 終始笑顔で答えたが、その笑みはどこか不自然だった。だが、司馬昭のにやけ顔は元々だと、賈充は特に気にせず椅子から腰を上げた。
 「じゃあ、仕事も終わった事だし、俺は部屋に戻るわ」
 そう言って司馬昭は逃げるように執務室を後にした。
 「…片付けくらいしていけ」
 賈充は舌打ちをして散らかった部屋を片付け始めた。その直後、執務室の扉が開き、王元姫が顔を出した。
 「賈充殿、子上殿は?」
 「子上ならば、今しがた部屋に戻ったぞ」
 振り返った賈充の顔を見た元姫は、その場で固まった。
 「どうかしたのか」
 「賈充殿…いつもより目の周りが黒い気がするのだけれど。あと、鼻の先も」
 見てみる?と、元姫は手鏡を差し出した。妙な事を言い出すものだと、怪訝な顔をしながら賈充は鏡を覗き込んだ。しばらく沈黙した後、地の底から響くようなくぐもった低い声が漏れた。
 「子上…ふざけた真似を…腹いせのつもりか」
 手鏡を突き返すと、賈充はそのまま執務室を出て行った。元姫は司馬昭の悪ふざけに呆れると同時に、悪戯に激怒する賈充に同情した。
 「あの人も大変ね…でも、あのまま出て行ってよかったのかしら」

 その夜、元姫が自室に戻ると、部屋の片隅に司馬昭が座っていた。
 「ちょっと子上殿、勝手に部屋に入らないでくれる?」
 「悪い、説教は後で聞くから匿ってくれ。賈充に追い掛け回されて困ってるんだよ」
 息を切らしているところを見ると、今まで逃げ回っていたのだろう。元姫は溜め息混じりに返した。
 「顔に落書きされたら誰だって怒るわよ」
 「何だよ知ってたのか?いやぁ、賈充を笑わせようと寝てる間に色々やったんだけど全然反応なくてさぁ、ちょっと頭に来てついやっちゃったんだよ。まさかあんなに怒るとは思わなかったぜ〜。でも、なかなか愛嬌があって傑作だったろ?賈充の奴、しばらくあの顔で宮廷内を走り回ってたんだぜ」
 聞いてもいない事を散々話した上に、反省するどころか床を叩いて笑い転げる司馬昭の姿に、元姫は呆れて返す言葉もなかった。
 この後、司馬昭は賈充から無言の圧力を掛けられ、ようやく事態を把握し謝罪したが時すでに遅く、しばらく笑えない状況に置かれるのであった。

※あとがき
どんな落書きかはご想像にお任せします。
小学生の男子が習字の授業によくやるレベルの悪戯だけど、昭ならやると思う。

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