『真夜中の謀』

 丑の刻、魏の宮廷内にある書庫にはいつも決まって一つの灯りが漂う。棚の間を行き来する灯りが照らし出すのは、収納された無数の兵法書と端整な男の顔──司馬懿である。
 彼が深夜遅くまで書庫に閉じ籠り兵法書に噛り付くのは、もはや日課だった。魏軍には他にも才知ある者が数多くいるが、これほど熱心に書庫に通い詰める者は少ない。
 それは司馬懿が野心家であるが故で、その本心を知る者は一体どれほどいるだろうか。一見、書庫に籠る姿は努力家と取るだろう。もちろん彼にとってはその方が都合がよかった。内に秘める野心を偽り隠す仮面となるからだ。

 数ある書物から目に付いた数冊を手に取り卓上に広げると、手慣れた様子で竹簡に複写して行く。その途中、司馬懿はふと目の霞を感じて目頭を押さえた。連日の徹夜で体にも影響が出始めているようだ。昨日、一睡もせずに書庫で朝を迎えてしまったのが悪かったらしい。
 (…少し休むか)
 元々、体力に自信がある訳でもないし、策略を練るのに寝不足は大敵だ。
 椅子から重い腰を上げて、硬直した体を解すように軽く背伸びをした。その際、窓越しに見えた満月と静まり返った闇夜に、ようやく夜が大分深まっている事を知った。
 思えばここ数日、書庫に閉じ籠り切りで夜の月すら見る機会はなかった。闇夜に浮かび上がった満月は、張り詰めていた司馬懿の心を和らげた。
 (たまには月を眺めながら、詩を詠んでみるのもいいかもしれんな)
 などと考えながら、しばらく月を眺めていると視界に白い人影が過った。穏やかなひと時から一転し、司馬懿は息を呑んだ。
 草木も眠る丑三つ時、闇を過る白い影──。
 (ふっ、馬鹿らしい。相当疲れているな)
 脳裏を過った恐ろしい想像を司馬懿は自ら嘲笑った。途端に再び白い影が視界を過った。今度は窓のすぐ近くで、先ほどより大分近付いている。
 (ば、馬鹿な…)
 慌てて窓に顔を寄せた刹那、扉を叩く音が鳴った。
 司馬懿が長らく書庫にいる事は誰もが知っている事だが、真夜中に訪問して来た者はいない。ましてや白い影を目撃した今、この扉をすんなりと開けてやる気にはなれない。
 だがしかし、この司馬仲達が幽霊に恐怖するなどあってはならない。司馬懿は慎重に扉に歩み寄ると、いつもの毅然とした態度で訪問者に尋ねた。
 「このような時刻に何用だ」
 しばらく間を置いてから、訪問者はぽつりと答えた。
 「司馬懿殿、私です。王異でございます」
 名と声を聞いた瞬間、司馬懿は胸を撫で下ろした。だが、なぜ王異が訪ねて来たのか──そう考えると、また別の不安が過った。
 とりあえず扉を開けると、王異は盆を手に一人立っていた。月明かりに照らされたその姿は透き通るように白く美しい。白い影の正体は王異だったようだが、まさか幽霊と見間違えるとは我ながら失礼だと思った。
 「一体どうしたというのだ。真夜中に女が一人で来る所ではないぞ」
 「司馬懿殿が毎夜、書庫に籠っているとお聞きしたもので。差し出がましいですが、夜食をお持ち致しました」
 「そうか、それは助かる」
 王異は書庫に入るなり卓上に盆を置き、蒸籠の中身を小皿に取って手際よく並べ、用意した茶を入れると司馬懿に「どうぞ」と差し出した。
 言われるまま席に着いたのはいいが、やはり戸惑いは隠せなかった。なぜ“訪問者が彼女なのか”という疑問が拭えない。
 確かに王異の才は高く買っているが、どこか苦手意識があった。感情に乏しく、何を考えているのか司馬懿にも読めないからだ。ただ、家族を失い憎悪に囚われている事だけは、彼女から滲み出ている雰囲気で十分に知っている。それ故に近付き難いのかもしれない。
 これも交流を図るよい機会だと思い、司馬懿は差し出された食事を口にした。
 「うむ、なかなか美味いではないか」
 お世辞ではなく、本心から出た言葉だった。当たり前のように戦場にいるからすっかり忘れていたが、家族がいた身だから料理が上手いのも当然だ。手際よく料理を盛る姿にも彼女が妻であった頃の面影が見え、王異の別の一面を見た気がした。
 「お褒めに預かり光栄です」
 しかし王異は感情のない淡々とした口調で返した。相変わらず無表情で、司馬懿は柄にもなく褒めた自分が恥ずかしくなった。少しでも頬を赤らめ喜ぶだろうと思った自分が馬鹿らしい。
 (くっ…相変わらず読めん奴だな)
 これならまだ策略に頭を悩ませる方がマシだと思った。女の扱い方自体が不得手だというのに、よりによって王異相手ではどうする事もできない。自分は女に饒舌な郭嘉とは違うのだ。
 しばらく沈黙した後、司馬懿は会話に困って王異に疑問を投げ掛けた。
 「し、しかしなぜここに来たのだ。気遣いはありがたいのだが…」
 「日々、軍のために精進する司馬懿殿の姿を見て、私に何かできる事はないかと思いまして、日頃のお礼に。やはりご迷惑だったでしょうか?」
 終始、王異は無表情で答えた。
 彼女なりの心遣いに感謝する一方で、蝋燭の灯りに照らされた王異の白く虚ろな表情と据わった目に、司馬懿は思わずたじろいだ。真夜中にこの姿を間近で見ると、どうしても“別の者”に見えてしまう。
 「め、迷惑ではない。気持ちは嬉しく思うが…その、急だったもので気になってな。お前は普段から遅くまで起きているのか?」
 威圧されて返した言葉が裏返るという醜態を晒したが、もはや恥じている余裕などなかった。
 「はい、特に月が出ている日は毎夜眺めております。月を見ると、亡くした家族と過ごした日々を思い返してしまうもので…」
 そう言われては返す言葉もない。どんよりと重い空気が漂い、司馬懿は軽く咳払いをして話を切り替えた。
 「だが、女が夜分遅くに外を徘徊しているなど関心できんな。妙な噂が立つだろう」
 そう言いながら、ふと真っ白な顔の女性が虚ろな顔で外を歩く姿を想像した。失礼だと思いつつ、誰が見ても勘違いする光景である。
 すると、今まで表情一つ変えなかった王異が、突然はっとした顔をして俯いた。
 「申し訳ありません、私とした事が配慮に欠けておりました。女が深夜に殿方の元に顔を出すなど、奥方に何と言えばいいか…」
 「いや…そういうつもりで言った訳ではないのだが…」
 「万一の事を考えると、私はここにいるべきではありませんね。このような恨みに縛られた女といては、司馬懿殿にもご迷惑が掛かるでしょう」
 「またお前はそういう事を…少しは考えを改めよ」
 その間に王異はすでに扉の前で一礼し、書庫を出て行った。
 司馬懿は緊張から解き放たれたように長い溜め息をついた。やはり王異と打ち解けるのは至難の業だ。しかし、この一件で彼女がただの復讐鬼と化している訳ではないと知り、司馬懿は内心安堵した。
 (……とはいえ、疲れた。もう寝るか…)
 簡単に書庫内を片付けて自室に戻ったが、思わぬ体験をしたためか、結局一睡もできずに朝を迎えた。
 この日以来、深夜の書庫に灯りを見る事はなくなったという。

※あとがき
王異=ホラー…という訳では断じてありません。
本当は心優しい女性だと信じてます。ただ、あの司馬懿でも王異の本心を読むのは難しいはず。

[*prev] [next#]
[back]