その天使はだれよりも美しいとさえ思った。
背を流れるのは月を切り取ったような銀の髪。
ほかのどの天使でさえ持ちえない、白く大きな二対の翼。
たおやかな姿態と優しく甘い声音。
神を讃えるその姿はどの天使からも熱いまなざしを集めていた。
俺がそんな彼に出会ったのは天帝ゼウスを讃えるとある宴の前日だった。
寝ることもできず、少し気を紛らわそうと近くの森にある泉へと向かっていった。
「笛の音…?」
風にのって聞こえてきたかすかな笛の音。
それはどうやら向かっている泉から聞こえてくるらしかった。
先客がいるらしいとわかり行くべきか悩んだものの、とりあえず足をそちらに向ける。
「誰です」
泉に近寄ればまだ姿も見えていないというのに鋭い声が飛んできた。
凛、とした声だった。
「何も答えないのですか」
「…すまない」
繁みから姿を出せば、ほとりにたつ一人の天使の姿があった。
背を流れる月の光を反射する銀の髪、白い衣はゼウスのそばに仕えるものの証。
「……あなたは、麒麟のユダ…?」
「そういうお前は…ユウラか」
美しい天使だった。
肩から力を抜いた彼はユダに微笑みかける。
自分のことを知っているのか、と問いかける前に、あの儀式の場に彼もいたことを思い出す。
ゼウスの影のように付き従い、静かな水面のごとくその気配を感じさせない。
「…こうして直接言葉を交わすのははじめてですね。六聖獣の長と出会えて私は幸運かもしれません」
「俺もだ。噂よりも格段に美しい天使を見つめられるとは」
目を丸くしてユダの言葉を聞いていた彼はやがてこらえきれないというように笑いだした。
あのゼウスのそばにいるときには表情というものを一切浮かべないままの状態であるのに、今ユダの目の前にいる彼はとても表情が豊かだった。
「驚きましたか。ゼウス様のそばにいる神官がこのようなところにいて」
「…あぁ。神殿から出ないものとばかり」
「抜け道があるのですよ」
くすくすといたずらに笑う彼は神官たちの前に立っているときのような清楚な顔を見せない。
ユダはわずかに高鳴る胸を抑えた。
「息が詰まってしまいます…自分で選んだ道なのに、時折すべてを捨てたくなる。できるはずもないのに」
しばらく泉のほとりで会話を続けていた二人だが、ふとユウラはそんなことをつぶやいた。
風がユウラの髪を揺らして銀色の髪が流れていく。
月を見上げ、ユウラは苦笑した。
「何もかも捨ててしまえたら、楽だったのに」
「ユウラは……何か、手に入れたいものでもあったのか」
「…そうですね。ありましたよ。ただ一つのものが。でも、それはもう手に入らないから」
ぽつりと告げた彼の横顔は悲しげなものだった。
他愛ない話を続けていたが、やがてユウラは立ち上がる。
ユダを見ては微笑みを浮かべた。
「ユダ、今宵お会いできてよかった。あなたを今一度見れましたから、後悔はありません」
「え…?」
いったい何のことかとユダは問いかける前にユウラは翼を広げた。
月の光を反射し、翼自体が輝いているかのような印象を受ける。
「……次に会うときはこんな風に話ができなかったでしょうから…ありがとう、ユダ」
微笑みを浮かべてユウラはそう言い残した。
ユダが再び口を開く前に一陣の風とともにユウラの姿は上空へ浮かんでいた。
ユダはしばらく空を見上げていたが、やがて立ち上がり自分も踵を返して家へと戻っていった。
懐かしさと胸に感じる優しい痛みを抱えたまま。
そののち、ユウラは六聖獣の前に敵として立ちはだかることになる。
しかしそれはまた別の話。
艶めく天使
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