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いつもこの手を引いてくれるあっちゃんの手は大きくて、
「英斗」と呼ぶあっちゃんの顔はいつも笑顔で、
だから知らなかった。
君のそんな顔が、姿が、
こんなにも小さく、苦しく見えるなんて。
たとえば、そう
俺とあっちゃんは同じ団地に住んでいる。
俺が6歳の頃、あっちゃんは俺の住んでいる隣の部屋に引っ越してきた。
くせ毛なのかふわふわ跳ねていた栗色の髪の毛が、とても眩しく見えたのを覚えている。
仲良くなるのに時間はかからなかった。隣同士だし、歳も2つしか離れてないし。
最初は俺が親分気取りで先導していたけど、やっぱり年上の性なのか、いつのまにか俺があっちゃんの後ろをひっついて歩くようになっていた。
「あっちゃん」と呼ぶと、にこっと笑って振り向くその顔が堪らなく好きで、何でもないのにしょっちゅう後ろからあっちゃんの名前を呼んだ。
「英斗」
にこっと笑う、あっちゃん。
俺が中学校に入学してからも、あっちゃんとの関係は変わらなかった。
小学校の時も金魚のフンのように後ろを追いかけていたけど、中学に入学してからも当然のように一緒にいた。
あっちゃんと同じ部活に入ったし、同じ委員会にも入った。
いい加減迷惑かもしれないとかちょっとは思ったけど、あっちゃんは「そんな事ないよ」としか言わないから、その言葉に甘えてあっちゃんの後ろを俺の定位置にした。
いつだって優しい、俺の兄貴分。
兄貴のいない俺は、弟のいないあっちゃんは、多分お互いに兄弟ってこんな感じなんだろうなって思ってるんだと思う。
小さい頃からずっと一緒に居たから、もう兄弟って言ってもいいと思う。それくらい。
「英斗、入るよー。」
「え?わっ、ちょっと待っ」
「…何してんの。」
いきなりだったから慌てて前を隠そうとして思いっきりこけた。
出しっぱなしのシャワーが頭を叩いて煩わしい。
ぶつけた額をさすりながら体勢を元に戻す。
「な、なんでお風呂に「久しぶりじゃーん。」
そう言うとあっちゃんは椅子に腰かけて、俺の背中に洗剤を染み込ませたスポンジを当てた。
こしょこしょと優しく背中を擦るそれは、久しぶりでなんだかくすぐったい。
あっちゃんとお風呂なんて久しぶりだ。
中学に入学してからもお互いの家に泊まる事はしょっちゅうだったけど、お風呂は流石に別々に入るようになっていた。
「英斗も大分おっきくなったなぁ。」
「あっちゃんが成長してないんだよ。」
昔はあっちゃんを見上げていたのに、今では身長がほとんど変わらなくなった。
あっちゃんがとりわけ小さいって訳ではなく、かと言って俺がでかいと言う訳でもなく。
微妙な身長に2人して収まってしまっていた。
今でもあっちゃんは俺の中で兄貴分だけど、身長だけはもう譲らない。俺の方が今はあっちゃんよりでかいもんね。……5ミリだけだけど。
「あ、でもやっぱここはまだお子様かぁ。」
あっちゃんは後ろから俺の股間を覗き込んだ。
「うわぁっ!?み、見んなっ!」
「なんだよ今更減るもんじゃなし。」
「だだだ、駄目っ!」
恥ずかしすぎる。
確かに昔は何も感じずに2人で風呂入ってたけど、それはまだ小さかったからで、今はちょっと……大分恥ずかしい。
でもそんな事思っているのは俺だけらしく、あっちゃんは隠す気も無く股を開いて座っていた。
あ、あっちゃん…俺のよりちょっとおっきい…。それにほわほわ毛も生えていた。
俺も2年経ったらあれくらいにはなってるだろうかとつるつるで小さい自分のナニをまじまじと見つめる。それが可笑しかったのか、あっちゃんはくすくす笑っていた。
「わ、笑うなっ!」
「っぷ、くく、ごめん。でも、ははっ!」
「あっちゃんのばか!」
さっさと背中を流して湯に浸かると、あっちゃんもそそくさと体を流して湯船の中に入ってきた。
「英斗ー。」
「なに。」
「…ん、いや、なんでもない。」
「へんなの。」
昔はあんなに広く感じた湯船が、今はなんだか窮屈だった。
あぐらをかいたあっちゃんの膝が俺の太股に当たって、そこだけお湯の温度よりも熱く感じた。
「狭いね。」
「成長したんだよ。」
「ごくらくー」とか言いながらあっちゃんは気持ち良さそうに目を閉じている。
久しぶりのあっちゃんとのお風呂。恥ずかしいけど、悪くない。なんだか昔に戻ったようで、楽しかった。
「ね、あっちゃん。」
「ん?」
「今日、一緒に寝ようよ。」
「へ?なんだ、まだ1人で寝るの恐いの?」
「なっ!んな訳ないだろ!別にいいし!じゃあいいし!」
「分かった分かった一緒に寝るから。」
「マジで!?」
その日は昔みたいにあっちゃんに抱きついて寝た。
もう腕を回せば体をすっぽり収める事も出来るし、あっちゃんの体を大きくて逞しいとは思わなかった。
だけどそれでもあっちゃんはあっちゃんで、俺は安心する匂いに顔をうずめながらあっちゃんに頭を撫でられて眠りに落ちた。
***
「え?」
目の前のあっちゃんは、泣いていた。
「英斗、俺、引っ越しするんだ。」
突然。
本当に突然だった。
その日は金曜日で、って言っても夏休みの真っ最中だったから平日とか休日の感覚なんて麻痺してたんだけど、とにかく金曜で。
久しぶりに俺の家に泊まりに来たあっちゃんは、もう寝よっかと部屋の電気を消した時にその言葉を口にした。
聞き間違いかと思った。だけどあっちゃんはもう一度はっきりとその言葉を口にして、それから俺に抱きついてきた。
あぐらをかいていた俺の上に抱きつくような格好になったあっちゃん。
いつも俺が甘えてばかりだったから、いきなりこういう事になってどうすればいいのか分からない。
でもそんな事よりも何よりも、
『引越しするんだ。』
その言葉が俺の頭を殴った。
「あっちゃん…?」
そろりと背中に手を回すと、俺の肩を掴んでいたあっちゃんの手にきゅっと力が込められた。
肩は小刻みに震えていて、なんだか凄く…凄く、弱々しかった。
「引っ越し、しちゃうんだ。」
「…うん。」
「俺、引っ越しなんて…したくない…!」
あっちゃんの口から出た引っ越し先はあまりにも遠い場所で。
電車を何本か乗り継げば行けるとかそんな距離じゃなくて、言ってみればそこに行くなら旅行になっちゃうってくらい遠い所で。
引越したら、多分二度と会えないのだと、分かった。
「い、いつ…?」
「…中学卒業したら。」
「こ、高校は?」
「…向こうの高校。」
「戻って、こないの?」
あっちゃんは俺の事を強く抱きしめた。
「やだっ!おれ、いやだぁ…。」
その声は鼻声になっていて、首元の、あっちゃんの顔がうずめられているあたりがじわりと濡れた気がした。
「英斗と離れたくないよ…。」
「…俺も、やだよ…。」
あっちゃんの言葉を聞いて、急にじわりと涙が出る。
いきなり引っ越しなんて事を言われて追いついていなかった頭が、その言葉でようやく現実を理解した。
子供みたいに、まるで昔の俺みたいに抱きついて泣くあっちゃん。
俺も一緒にわんわん泣いて、2人してギュッと抱き合っていた。
あっちゃん、あっちゃん。
俺の大事な兄貴分。
小さい頃からずっと一緒で、ずっと俺の事を守ってくれると思ってた。
そんな事無いと分かり始めたのは小6の時で、その頃には俺とあっちゃんの身長はほとんど変わらなかった。
いつまでも守られる訳じゃない。いつかはあっちゃんと同じように、カッコいい兄貴分になるんだ。
それはまさしく成長すると言う事で、肉体的にも精神的にも、あっちゃんと同じようになっていくと言う事だった。
小さい頃からずっと一緒で、死ぬまでずっと一緒に居られると思ってた。
そんな事無いと分かったのは今まさにこの瞬間で、もうすでに俺はあっちゃんの身長を追い越していた。
いつまでも一緒に居れる訳じゃない。いつかは別れる時が来て、記憶の片隅の住人となる。
それはまさしく成長すると言う事で、色んな人と出会い、別れる。その最初の1人があっちゃんだったというだけだ。
あっちゃんの嗚咽が耳に響く。
あんなにカッコよく、輝いて見えたあっちゃんの背中は、今は俺の手の中で、暗闇の中とても小さく見えた。
成長する、と言う事が、
大切な人と別れる、と言う事ならば、
俺は成長なんてしたくない。
子供のままでいい。
「英斗ぉ…。」
いつまでも頼れると思っていた人が、憧れていたその人が手の届く場所に来てしまう事。
大切な人が、本当に大切な人が目の前からいなくなってしまう事。
それが成長だと言うのなら、
俺はそんなもの、要らない。
-END-
だからずっと一緒に居させて。
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