山口紀之良心物語
1.


「ごめんください」

 山口は自分の一つ年上で先輩の石垣に「うち、こぉへんか」と云われた。なのである休日の12時を回った頃、その家を訪れた。

 肩には中に特になんにも入っていないエナメルを提げて、茶菓子の一つでも持ってくれば良かったと後悔した。


 「ごめんください」

 さっきよりも少し大きく言った。ぱたぱたぱたぱた階段を下ってくる音がした。

 その音の主は玄関で適当な履き物に履きかえ、山口の目の前の戸をやっと開いた。

 「すまんなぁ、上がりぃ」いいえ、と云った山口は石垣の家の中に入った。



 ムワっと漂う古い木の匂い。 木造だ、古い。

 ぎぃぎし云う階段を上り、石垣の部屋に通された。


 その部屋では不思議と古木の匂いはしなかったが、代わりに使用前の線香の香りがした。



 「さぁてさて、」石垣が何処からか茶を持ってきたようだった。「お構い無く。」 「いや、ええんやで、それより、や。」石垣が話を続けた。


 「お前に頼みがあるんや」厭な空気が流れた。


 「お前のその、清らかな高校三年生をオレに使わせてくれへんか。」


 石垣の声の波がゆっくりと山口の耳まで届いた。

 凛としたその声は山口の心に馴染んで奥まで染み込んだ。


 「使わせるったって、どないしたらええのです。」その山口の言葉に石垣の顔はぱっと晴れて。

 「いやいやお前は、話がはやくて助かるなぁ。」

 まだ山口が頼みを承諾していないのに、それでも石垣が喜ぶ顔は人を惹き付ける魅力があった。



 山口は石垣を尊敬している。だから多少のことなら惜しまないと思っていた。



 「お前にな、"彼"のことを守ってもらおうと思ってな。守るというかトめるというか。」


 山口は茶をすすった。

  

 「"彼"ですか。」思い当たる人物は一人いた。いや、一人しかいないだろう。

 「お前も見とったやろ、彼の成長をオレもな、まだな、近くで見ていたいんや。」


 山口は茶菓子を摘まんだ。


 「オレは彼のこれからを守れるんやったら何を犠牲にしたってええんや。彼の進化の過程を支えたいんや。」石垣があんまりにも哀しい声でそう、云うので、

 ええですよ、と、オレの高校三年生をあげますよ、と云った。

 石垣は心底嬉しいという顔をして、山口の手をとった。


 ありがとう、ありがとうと石垣は繰り返していた。



そのまま段々辺りが暗くなってきたかと思うと山口の瞼が重く閉じた。



***



 気がつくと山口は椅子に座っていた。玉座みたいな形の、金属が組合わさってできたような椅子に。 そこは暗く、油の臭いがする機械的な部屋だった。

壁にはパイプ、部屋の角にあるモーターがゴウンゴウンと威勢の良い音をたてていた。 目の前には石垣がいる。

 「ここは何処ですか。」と尋ねた。当然のことだ。

 「ここは、オレの部屋、や。喧しいやろ、すまんなぁ。」石垣はスパナを片手にそう答えてくれた。

 「これから何をするんですか。」「まあまずは目を閉じてくれんか。話はそれからや。」山口は黙って目を閉じた。


  *


 「彼のことを考えてるとな、頭がぽうっとなるんやよ。」

 「ぽうっと」山口は聞き返した。

 「そうさ」得意気に石垣は答え、「そしたらだんだんあたたかな気持ちになって、いつの間に瞼を閉じとるんや。」

 「眠ってしまうのですか。」山口はまた聞き返した。

 「ちゃうちゃう、そンなんやないんや。眠りよりもっと安らかで神聖な…」


石垣は天井にあるばちばちばちと音を鳴らす喧しい蛍光灯を仰ぎ見云った。


 「そこはまるであたたかい海の中を漂っとる気分で、尚且つ寂しげでほの暗い海の”そこ”におる、そんな感じや。」

 「それはとっても、」山口が目をすこぅし開いて、「良いところなんでしょうね。」
すると石垣の手が山口の瞼に覆い被さった。


 「見たら、あかんよ。」

 はい、と小さく山口が返事を返すと何やら石垣は準備をはじめた。

 「さっき云っとった海の”そこ”やけどな」

  

 「あんまりええところやないんや。」


 山口は少し困ったような石垣のその声になんとなくの疑問をぶつけることができず、
それはただ、石垣の独り言となった。

 「ちょっとすまんな。」
石垣はじゃらじゃら鳴るおかしな物を山口の頭に取り付けた。
時々そのじゃらじゃらが石垣の手によりひっぱられたり、紐のような物が手に巻かれたりしたが、山口は一言も口を出さなかった。

 「お前も彼のために尽くすんやで。」はて、彼とはいったいぜんたいどなたであったか。

 「彼とは誰のことでしょうか。」石垣は少し間をおいて。

  

 「じきにわかる。」と強く云った。


 ばつん、と大きな音が山口の耳許で鳴った。
それでも山口は少しも驚くことはなく、ただただ流れに身を任せていた。

 「これからオレ、どこへ行ってまうんですか。」
山口は大きな音が鳴ってから一言も言葉を発していなかった石垣に尋ねた。

 「どこへって、なぁ、あすこや。まあ正確にはオレの方がどこかへ行ってまうんやけどな。」
山口は目を閉じていた。石垣は何やらぷつぷつと山口に聞こえないような声で呟いていたが、やがてそれは大きくなり、はっきりきこえるようになった。

  

 「オレはもうじきこの世界から消えなければならん、そうでないとこの世界は上手く廻ってくれないんや。
それはこの世界全体の死を意味するので、彼もしんでまうんや。」 礎。

 「この世界と彼の生のために、お前にオレのような良心になってもらわんといかん。
すまんなぁ、すまんなぁ。せやけど心配せんでええ。なあに、お前ならなれる。」


 ピッピッピーッと電子音が部屋に響いたかとおもうと同時に、
山口の体が座っている椅子ごとまばゆい光に包まれた。

  二人の目にはあたたかな灯火にみえようとも、

  それは確かに死を意味していた。




****




  目が、覚めた。石垣の部屋だ。線香の香りがする。

  「石垣さぁん。」
部屋の主がいない。 どこにもいない。 失礼を承知に部屋の窓を開けて叫んだ。

  「おぅい。」
いつの間にか焼けていた真っ赤な夕暮れの空は返事をしてくれなかった。


  目の前で飛蝗が跳ねた。その飛蝗は瞬く間に大きくなり、

  その背に石垣がとても満足そうに乗っていた。

  山口に笑顔を向けた石垣は、夕闇の向こう側に飛んでいった。

  遠くとおく、小さく、見えなくなっていった。


  山口はエナメルを肩にかけ、黙ってその家を後にした。


  それきり、石垣には会っていない。




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