もう酸っぱさはいらない

 木葉秋紀はそわそわしていた。初めて彼女のお部屋に行くことになって、そわそわしていた。そして、授業を終えて、いつもよりぎちなく喋りながら帰って、彼女のお家へ到着した。彼女が制服から着替えるから、少しだけ待っていて言うので、木葉リビングのソファに座って彼女を待っていた。

「木葉くんお待たせ」

 小さな足音に顔を上げると、ラフなワンピースに着替えた彼女が少し照れくさそうに笑っている。

「かわいい」
「え」
「あ、……名字さんの私服初めて見たから」

 木葉が照れくさそうに笑うと、彼女はワンピースを掴みながら俯いてしまった。その仕草が彼女の照れ隠しだと知っている木葉は、彼女に近付いて、顔を覗き込む。そこには予想通り。真っ赤な顔が隠れていた。かわいい、と呟くように木葉は言って、彼女の頬に手を添える。

「このは、くん」
「やだ?」

 ふるふる、と彼女は小さく首を横に振る。そして、ふたりに唇が重なった。ずるいなぁ。木葉くんは普段はあんなに優しいのに、こんな甘い空気になるとすごいかっこいいんだもん。彼女は木葉のキスを受け止めながら、そぉっと薄目を開く。そしたら、同じように薄目を開けて、こちらを見ていた木葉と目が合って、つい木葉の肩を押してしまう。

「おわ」
「……あ、ご、ごめん。恥ずかしくて」
「んーん、いいよ」

 申し訳なさそうにする彼女を励ますように、木葉は彼女のことぎゅう、と抱き締める。あ、この格好なら、顔見えない。彼女も、少しだけ迷って、木葉に思い切り抱き着く。はあ。彼女の口から幸せなため息が零れる。まさか、木葉くんとこんなことが出来る日が来るなんて。今でも、ときどき幸せな夢を見てるだけなんじゃないかって、思っちゃう。

「名字さん?」
「あ、えっと、私の部屋いこ?」
「うん」



 彼女の部屋は想像よりも、シンプルだった。学習机と、本棚と、あと、なんか雑貨。彼女は木葉の手を引いて、ベッドに座らせる。

「もし漫画とか気になるのあったら、見てて。飲み物取ってくるね」
「え、ありがとう!」

 木葉の言葉に、彼女はにこーとリラックスしたように笑って、部屋から出て行った。逆に、木葉はちょこん、とベッドに座って固まってしまう。俺ナチュラルにベッドに座らされたけど、え?なんか意味ある?いや、名字さんのことだから、ないだろうけど。たぶん、友達と遊びに来たときに、座る子が多いとか、そんなんだからだろう。知らないけど。正直、めちゃくちゃ名字さんの部屋は気になるけど。あんま人の部屋詮索するのも失礼だよなぁ。というか、変なことして名字さんに嫌われるのも嫌だし。うーん、と木葉は頭を捻って、彼女の言葉通り、本棚を少しだけ見せてもらうことにした。

 名字さん意外に少年系も読んだりするのか……。あ、この少女漫画家にもある奴。木葉が本棚の前にしゃがんで、漫画の背表紙を見つめていると、小さな足音が聞こえてきた。

「木葉くんって、甘いもの平気かな」
「あ、好き!ありがとう」
「良かった。読みたい漫画とかあった?」
「あ、これ気になる。参りました、せんぱい?ってやつ」
「あ、それ!すっごいキュンキュンするから、おすすめだよ!」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

 彼女はローテーブルに紅茶とケーキを置きながら、にこにこと好きな漫画について語る。木葉は彼女の隣に座って、その漫画を鞄に入れながら、読むのが楽しみだと目を細めた。学校で会う彼女より、目の前の彼女はのびのびとしていて、とても可愛かった。すっごいキュンキュンするっていう、名字さんに俺もすっごいキュンキュンしてしまう。そんなことを考えながら、木葉は紅茶にミルクをいれる。彼女がもってきたケーキはショートケーキで、彼女の親が偶然買ってきたものが余ったものらしい。

「そうなんだ。俺が頂いちゃってもいいの?」
「うん、大丈夫。うちの家甘いもの嫌いじゃないけど、そういっぱい食べる方じゃないから」

 彼女は気にしないで、と笑いながら、ショートケーキにフォークを差し込んだ。まさか木葉が家に遊びに来てくれるから、わざわざ用意したケーキなんて言えない。きっと木葉くん気を遣うだろうし。それに、私にとっては大イベントだけど、元カノいた木葉くんからしたら普通のことだし。それに……。彼女は勝手に下がりそうな口角の気配を察知して、無理やりケーキを口に押し込む。ケーキのやさしい甘さは一時的でも、彼女の気を紛らわせてくれる。

「分かる。甘いものって美味しいけど、量たくさんあると胸やけしちゃうよな」
「だよね」

 胸元辺りに手で押えて、大袈裟にいっぱいいっぱいの表情をする木葉に彼女はくすくすと笑う。良かった。木葉くん何とも思ってないみたい。



 彼女と木葉は目を合わせて、へらりと笑い合う。ふたりともそわそわしていた。ケーキも食べ終わったし、ティーカップの底は丸見えで、ふたりとも手持ち無沙汰だった。ふたりの間には少しだけ距離があった。その間に不自然に置かれた互いの手がじりじりと近付いてることに、互いに気付いていなかった。彼女はさっきまで和やかなだった部屋の雰囲気が少しだけ違うものに変わって、密かに頬を赤くした。ど、どうしよう。友達には雰囲気で!なんとか!なる!って言われたけど、全然タイミング分かんない。

「え?木葉とイチャイチャしたい?」
「そんなストレートに言わないでください……。ちょっといい雰囲気になりたい、だけで」

 ごにょごにょと濁す彼女に友達は眉を上げる。友達以上恋人未満の相手なら、まだしも。なぜ結ばれた相手に遠慮しているのか。

「二人きりになれば、なんとかなる」
「ええ」
「なるったらなる!」
「ほ、ほんと……?」
「なる!」

 やや強引な友達の謎理論を実行してみたが、これがいい雰囲気なのか彼女にはよく分からなかった。確かに、最初はいい雰囲気だったけど、自分でぶち壊しちゃったし。きっと木葉くん優しいから、あんな分かりやすく拒否したら、もう一回を望むのは厳しいかも。

「名字さん」
「は、はい」
「……めっちゃダサイこと言っていい?」

 彼女がそろりと木葉の方を向くと、やけに頬を赤くした木葉の姿があった。木葉は照れくさそうにさらさらの髪をぐしゃり、と片手で掴んでいた。彼女と目が合うと、木葉の目尻が少し赤くなる。木葉の瞳の熱が移るように、彼女は自分の首辺りがやけに熱かった。そして、自分の指先にちょん、と木葉の指先が触れていた。
 
「あ」
「手繋ぎたい、んですけど……いいですか?」
「い、イイデスヨ?」

 木葉につられて、変な口調になってしまった。しかも、若干上から目線だった。どんな彼女だよ、と恥ずかしさでいっぱいいっぱいの彼女は脳内でセルフツッコミを入れてしまう。彼女の言葉に、木葉はほっとしたように口元を緩めると、優しく彼女の手を握った。力加減を確かめるように触れられて、そして、ぎゅう、と握られる。

「痛くない?」
「だいじょうぶ」
「そっか」

 あれ?なんか距離近くない?彼女が手に気を取られている間に、木葉との距離が近くなっていた。彼女の前髪に、木葉の前髪が触れる。手を握ってない方の手で、木葉は彼女の頬を撫でた。木葉と彼女の視線が絡まる。ああ、確かに、これはいい雰囲気だ。木葉の唇が近づいてくる。木葉で視界がいっぱいになっている、はずだった。彼女の視界の端に、カーテンが映る。そして、思い出したくもないのに、脳内に忘れたい映像が再生される。自分じゃない女の子とキスをする、木葉の姿。

 彼女は咄嗟にふい、と顔をそ向けてしまった。まさか拒否されると思っていなかった木葉は、じくりと胸を痛めながら、彼女の顔を覗き込む。

「……」
「ご、ごめん。やだった?」
「違うの。私もださいこと言っていい?」

 彼女は頭を横に振って、木葉の肩に頭を押し付ける。

「うん?」
「私この部屋でキスできない」
「え」
「……先輩とキスしてた木葉くん思い出しちゃうから」
「あ」

 彼女の言葉を思い出される中学のときの甘酸っぱい思い出、そして黒歴史。初恋人とのキスを、クラスメイトに目撃されるという黒歴史。木葉は彼女を抱き締めながら、後ろにある窓に視線を向ける。カーテンがしっかりと閉められていた。彼女だって、分かってる。頭の中では、分かっている。とっくにあの、出来事は過去のことで、今木葉が見てくれている女の子は自分だけ、ということを。でも、心が言うことを聞かない。どうしても、どろりとした黒い感情が胸の中に居座って、うまく切り替えられなかった。

「ごめん。めんどくさいこと言って」
「んーん。なんで?めっちゃ嬉しいんだけど」
「え」

 彼女は少し苦しいくらいに木葉に抱き締められて、顔を上げる。そこには顔を赤くしながらも、楽しそうに目を細める木葉がいた。うわ、うわ……!彼女の顔がぶわぁと赤くなる。レアな木葉くんだ。ときどきバレーの試合中や男子との会話で見る、意地悪な木葉だった。基本的に木葉はやさしいので、特に彼女には優しい一面しか見せないので、彼女にとっては本当に意地を悪そうにしている木葉はレアだった。

「俺のこと好きだから、ヤキモチ妬いてるってことじゃん?」
「そ、そうだけど……、過去に嫉妬されても迷惑じゃない?」
「んー名字さんが嫉妬してる対象が過去なだけど、現在進行形で俺のこと好きだから、名字さんの感情?気持ち?は今の気持ちでしょ?」
「!」
「かわいい彼女の機嫌とるのも、彼氏の役目だし?」
「あ……」
「全然面倒じゃない。敢えて言うなら」

 木葉の薄い唇が彼女の耳元で囁く。

「俺は名字さんとここでキスできない方が、嫌だ」
「なっ」
「過去に嫉妬してもいい。でも、ちゃんと目の前の、今の、俺も見てほしい」
「……」

 木葉の欲のない、いじらしい言葉に、彼女の胸がきゅん、と締め付けられる。

 彼女が木葉を呼ぼうと小さく口を開いた。近づいてくる薄い唇は意地悪く笑っていた。彼女は木葉から与えられる熱に満たされながら、目を瞑った。今の木葉を離さないように、しっかりと木葉の背中に掴みながら。

 知らなかったなぁ。木葉くんがこんなに色っぽくて、意地悪なんて。相変わらずやさしくは、あるんだけど。

 木葉は彼女の頭を撫でながら、気付かれないようにそっと薄目を開く。彼女は眉を寄せて、少し苦しそうにしながら、木葉に応えていた。誰も見てないから、木葉はすっと目を細める。まさか嫉妬されて喜ぶ自分がいるなんて、思いもしなかった。本当に他人から向けられるマイナスな感情は得意ではないから、遠慮したい。でも、名字さんなら、いいって思っちゃうんだよなぁ。

 人知れず木葉の性癖(?)を歪めることになったと知らない彼女は木葉の手がワンピースの中に侵入されて、どきまぎしてしまうのだった。

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