アンラッキー



 角名は朝が得意でも苦手でもなかった。ただ目付きのせいか、眠たそうとか、朝弱そうとかよく言われた。最初こそ、失礼だなと思っていたが、あまりにも言われるので慣れてしまった。そんな角名でも予想外なことが起これば、目を見開くことだってある。そう、例えば目の前を歩いていた女の子のスカートが捲れてしまった瞬間とか。

 いつも面倒だと思っている通学路には坂道があって、そこを上るときが一番面倒だった。少し先で、ひらひらと揺れるスカートは特に気にしていなかった。春はよく風がおこる季節だ。その日も、春一番なんじゃないかってぐらいの風がふいた。そして、思い切り目の前の女の子のスカートが捲れ上がって、見たくもないものを見てしまった。女の子はスカートよりも、先に髪を押さえていた。角名は見てしまった、と気まずい思いに苛まれながらも、目の前の女の子に突っ込んだ。守るべき場所はそこじゃねぇ。角名の心の声が届いたのか。やっと、彼女はスカートを押さえて、きょろきょろと周りを確認する。

「あ」
「え」

 角名の存在に気付いた彼女は、スカートを押さえたまま顔を真っ赤にすると、ぴゅうっと風のように走り去っていく。

「うわ、最悪」

 角名倫太郎。高校二年生、春の出来事だった。



 うわ、最悪。心の声がそのまま出そうになって、角名はスマホに視線を落としながら、眉を顰める。クラス替えで宮治と一緒になったことを確認して、自席に着くまでは良かった。隣の席には、既に一人の女子生徒が座っていた。女子生徒の知り合いが多い訳ではないが、横目でちらりと見て固まる。その視線に気付いた女子生徒が、角名の方を向いて、目を丸くする。朝の、パンツの子じゃん。

 角名も彼女も、社交的なタイプではなかった。互いにそっと視線を逸らして、気付かないフリをすることにした。



 一年生の頃とも違い、特に詳しく説明することもないので、二年生の初日はさくっと終わった。角名は治と一緒に部活に向かっていたが、途中でスマホを机の中に忘れたことに気付いた。「角名は依存症やからなぁ」「現代人はだいたい依存してるでしょ」治の茶々は適当に流して、角名は教室まで早歩きで向かう。めんどくさ。スタスタと歩いている途中で、女子トイレからひょっこりと見覚えのある後ろ姿が現れた。角名は今日一番に目を丸くして、自分の目元を片手で隠す。ホントにめんどくさい。当の本人は何にも気付かずに、とことこと呑気に歩いている。仕方なく、角名は口を開いた。

「名字さん」
「え」

 彼女は誰もいないと思っていた廊下に人がいたことにびっくりしたし、今朝仕方ながったとは言え下着を見られたクラスメイトに呼び止められたことにもびっくりした。後ろを振り向くと、クラスメイトは気まずそうに目元を隠している。

「スカート直した方がいいよ」
「え?
 ……あっ、なんで」

 多分、パンツにスカートが引っかかったか。リュックに巻き込まれたか。どっちかだと思う。角名は彼女の悲鳴にも似た言葉に、心の中で答える。彼女は慌ててスカートを引っ張って、急いで元通りに直す。

「す、すなくん、ありがとう。もう大丈夫」
「そう、なら良かった。
 じゃあ」
「う、うん、じゃあ」

 最悪。せっかく忘れかけてたのに……、あんなもろで見えたら、余計に、うわぁ。新学期早々、憂鬱なスタートに角名はため息をついた。



 角名は購買の帰りに、危なげな人物を見つけて眉を顰める。危なげな人物こと、角名に一日に二回も下着を晒すという経歴(?)があるクラスメイトの名字名前は急いでいた。特に大した理由もなかったが、急いでいた。先生の頼み事で提出物を職員室にまで運んだせいで、昼休みの時間が削られてしまったのだ。少しでも、友達とお喋りがしたいし、お腹もすいた。とっても個人的な事情で、急いでいた。そして、角名の嫌な予感は当たって、彼女は躓いてしまった。

 幸い、転ぶことはなかった。だが、後ろに被害者一名。ふわり、とプリーツスカートが上がって、角名の目に嫌でも入ってしまう。彼女は慌てて、スカートを押さえるが、遅い。時すでに遅し。何も守れていない。彼女は視線を感じて振り返る。そこには、気まずそうに視線を無理やり逸らしているクラスメイトが一人。

「あ」
「……」
「……」

 ふたりの間に、とても気まずい空気が流れる。先に動き出したのは彼女だった。彼女は今回も角名のことは気付かないフリをして、教室に戻ろうとした。それを角名が許さなかった。

「名字さんさ」
「え」

 そぉっと振り返ると、どこかうんざりしている角名がいた。

「なんか、履いたら?
 それかあんまり、廊下走らない方がいいよ」
「そ、そうだね?」
「うん」

 角名は言うだけ言うと、彼女を置いて先に教室へ帰っていった。彼女は時間差で、羞恥心に襲われる。同じ男の子に、何回もパンツ見られた!てか、男の子に気を使われた!色んな意味で恥ずかしい!



「ラッキースケベ」
「急になんや」
「いや、現実にラッキースケベってありえへんって思って」
「ラッキースケベが頻繁に起きとったら、嫌やろ」

 宮侑の唐突な話題に特に驚きもしない二年メンバーは、適当に思ったことを返していく。侑は丁度読んでいた雑誌の漫画のラッキースケベがあったから、適当に話題にしただけらしい。角名は思っても、あんまり言葉にすることはない。練習着をロッカーから取り出しながら、角名の関心はラッキースケベだった。ラッキースケベって、相手によるんじゃないかな。正直、普段顔を合わすクラスメイトは気まずいだけで、ラッキーじゃない。それか、顔が見えないパターンなら、まだしも。いや、そもそも、俺あんまり興味ない人の、そういうところ見ても嬉しくないかも。

「角名はおっぱい揉めても、真顔でごめんって言いそう」
「治は角名をなんやと思ってんねん。
 角名は偶然おっぱい揉めたら、多分無駄に揉むで。気付かんフリして」
「……おっぱいおっぱいうるさいんだけど」
「だって、角名は巨乳好きやろ?」

 侑は雑誌を持ったまま、角名を見上げる。あったかいパンケーキに、アイス乗せたら美味しいでしょ?決まってるでしょ?並みに、当然のように他人の好みを捏造するのはやめてほしい。角名は眉を顰めたまま、首を横に振る。

「俺そんなこと言った覚えないんだけど」
「治が角名は巨乳好きって言うとったもん」
「ちゃう。侑が角名は巨乳好きって言うてたんやろ」
「はぁ?俺やないし。実際、角名巨乳好きやろ?」
「別に好きでも嫌いでもない」
「角名、まさか尻派か」
「……」

 しまった。面倒ごとに巻き込まれた。双子の好奇心いっぱいの視線に、角名はロッカーを閉める。そのまま体育館へ向かおうとして、後ろから四つの腕が伸びてきた。

「銀、この双子どうにかして」
「言うまで」
「逃がさへん」
「銀ー助けてーいじめられるー」
「ちょお待って」

 銀島は棒呼びでヘルプを求める角名のために、急いで着替えるはめになった。



 どうして、名字さんは廊下を走るんだろう。角名は目の前で特に誰が歩こうが、走ろうが、気にならないはずなのに、彼女が視界に入ると気になるようになってしまった。好意というより、心配的な意味で。名字さん俺が知らないだけで、割とパンツ見られてそうだな。本人ぼーっとしてるし。そう思っていたら、案の定彼女は躓いて、ふわり、とプリーツスカートが上がる。もうスカートではなく、スラックスを履いた方がいいのでは。

「……す、すなくん」
「……ごめん」

 別に俺悪くないけど。下手なことを言って、変に反応されるのも嫌だし。

「見えなかったよね?」

 初めて彼女から絡まれた上に、理解に苦しむ言葉をかけられ、角名は固まる。

「え?」
「ちゃんと角名くんに言われてから、スパッツ履くようにしたんだ」

 (*´σー`)エヘヘ

 顔文字だと、多分こんな感じ。角名は脱力してしまい、ため息をつく。想像よりも、ずっと彼女はアホの子かもし……いや、他人よりもずっと無防備らしい。

「そりゃあパンツ見えるよりはマシかもしんないけど、スパッツだって見えていいってもんじゃないでしょ」
「……!」
「名字さん盗撮とか気を付けた方がいいよ」
「え」
「だって、名字さんスカートの中にスマホ突っ込まれても、気付かなさそうじゃん」
「そ、そんなことないよ!」
「……本当に?とりあえず背後には気を付けてね。
 特にスカートで、後ろに男がいるときは走らないで」
「そんなゴルゴ13みたいなこと言われても」
「いや、名字さんが自分の痴態を晒しても構わないなら、俺は何も言わないけど」
「痴態!?
 変な言い方しないで!」

 一方的に彼女がぎゃあぎゃあ騒ぐが、角名も少しだけヒートアップして言い合いになってしまった。角名は自分が数少ない親切心をかき集めて対応しているのに、当の本人がこんなまさかアホの子だとは思わなかった。



「角名」
「なに」
「名字さんと仲ええんやな」
「なんで?」
「休み時間言い合いしとったんやん」
「いや、あれは言い合いというか、説得?というか……ねえ、治」
「うん?」
「名字さんって、あ……無防備なとこない?」
「ああ、あるなぁ。俺名字さんと中学一緒なんやけど、しょっちゅう躓いてはパンチラしとるイメージ」

 アイツ、やっぱり痴態晒しまくりじゃねぇか。

「角名?……角名?
 あかん、戻ってこうへん」



「あっつぅー」
「角名って夏になると溶けそうになっとるよな」
「夏キライ。もう早くプール入りたい」
「まあまあ。まだ授業始まっとらんし」

 春はすぐに終わって、夏になった。肌に突き刺さる日光に角名の機嫌も、体力も下がっていく。特に好きな季節があるわけでもないが、暑いも寒いも嫌いだった。チャイムが鳴って、準備体操を終えて、やっとプールの中へ入れた。泳ぐこと自体は好きでも、嫌いでもなかった。

「角名勝負しよ」
「えー」
「買った方がチューペット奢る」
「んーいいよ」

 クロールを泳ぎ終えて、ゴーグルをずらす。治は意外と、勝負事が好きだ。というより、勝負ごとに見せかけて、食べ物をゲットしているのかもしれない。ここでハンバーガーとか言われたら断っていたが、チューペットくらいなら、と角名は頷く。勝負に勝てば、チューペットが手に入るし、負けても、チューペットくらいなら、そんなに財布に響かない。後ろから騒がしい足音がして、肩を組まれる。

「その勝負俺もやる!銀も!」
「え、俺も?」
「ええやろ〜!」
「侑、あつい」
「嫌がられると余計にくっ付きたくなる〜」
「マジでやめろ。銀これ何とかして」
「こら、侑」
「角名って、なんで俺には助け求めへんの?」
「治は侑と一緒に悪ノリしてくるじゃん」
「……俺のことそんな風に思ってたんやな。ひどいわ」
「だ、か、ら、暑いからくっ付くなってば!銀〜!」
「治悪ノリしたら、あかん!角名嫌がってるやろ!」
「バレー部!遊んでないで並びなさい!」



 騒がしいプールを無事終えて、角名は階段を上っていた。プールの後に、移動教室とかえぐい。角名は目を丸くしていた。特に何が起きたわけでもないのだが、あのアホの子(角名が勝手に命名)の彼女がスカート押さえて、階段を上っているのだ。ちゃんと自分の気持ちが伝わったのか。なんか尾白さんみたいなこと思ってる、俺。柄じゃないけど。角名は他人にあまり進んで干渉するタイプではない。

「名字さん」
「ひ、……す、すなくん」
「……」

 振り返った彼女の顔がやけに赤い。スカートを押さえる手の力が強くなる。じりじり、と角名と距離を開けようと、何気なく隅による彼女の行動に角名は眉を顰める。まさか、な。いや、でも、アホの子だからありえるかもしれない。

「名字さん……履いてないの?」
「え?」
「スパッツ」
「そ、そうー、今日」
「じゃなくて、パンツも履いてないの?」
「……」

 な、なぜ、分かった。十分だ。十分証拠は揃っている。今日はプールがあった。目の前には、ノーパソなアホの子。導き出される答えは一つしかない。

「水着着て来て、パンツ忘れるとか。小学生かよ」
「うぐっ」

 彼女は何にも言えない、と口を噤んで、角名を睨み上げる。いや、角名に睨まれる義理などないのだが、今の彼女はいっぱいいっぱいで余裕などなかった。クラスメイトの男の子の前で、こんな心もとない格好だったら、流石の彼女も恥ずかしいし、気まずい。角名も角名で、ひとの親切な忠告を聞かない上に、それ以上にやらかしてくれるものだから、むくむくと意地悪な気持ちが湧いてくる。元来、角名は意地悪か優しいなら、意地悪の方なのである。

「……す、すなくん?な、なんか近くない?」
「そりゃあ、近付いてるから」
「な、なんで……?」

 狭い、階段の上。上がるか、下がるでもして、逃げればいいのに。彼女は眉を下げて、瞬きを繰り返す。今までバカにしながらも優しかったクラスメイトの、雰囲気が違う。ブラウス越しに感じる壁の冷たさも気付かないぐらい、彼女は焦っていた。どうしよう、角名くん怒ってる?壁に背中も、お尻も当たってしまうくらい、行き場をなくした彼女はスカートを押さえ直す。たぶん、今危ないのは後ろではない、前だ。それだけは辛うじて、判断できた。

 あれ、角名くんって、こんなに背高かったっけ?

「なんで、だろうね」
「あ、ちょ、あの、……」

 とん、と角名の膝が、スカート越しの太ももをつつく。そんなに力はない。痛くもない。ちゃんと閉じているはずなのに、びく、と足が震える。その隙に、角名の膝が足を割って、入ってきた。そのままスカートがずり上がってしまう。彼女は力が入らない手で、懸命にスカートを押さえるが、スカートはずりずり、上がってしまう。晒される白い太ももに、角名の目が細くなる。

「や、やだ。すなくん、やめて」
「……」

 もう、限界だ。彼女の口から泣きそうな声がもれる。しわくちゃになるスカートを押さえながら、表情の読めない角名を見上げる。

「……階段上った女子トイレ前で、待ってて」
「え」
「これに懲りたら、ちゃんと気を付けなね」
「……え?」

 角名はそう言うと、呆気なく彼女から離れる。そして、念を押すように「ちゃんと待っててね」と言って、階段を降りて行った。

「もしかして、からかわれた……?」



 角名は早歩きで、自分のロッカーへ向かう。角名の頭の中には、真っ赤な顔で自分を見上げる彼女の表情でいっぱいだった。あー……、だから、言ったじゃん。気を付けなきゃ、だめだよって、名字さん。俺みたいな悪いヤツが近付いてくるから、良くない。え、まじで、名字さんのこと心配になってきた。あの子、後ろから車に連れ込まれたりしそう。チョロいと思われて、変な男にヤリ捨てされたり。それに、名字さん妙にエロいしな。……え?名字さんがえろい?まあ、さっきの名字さんは確かに、ちょっとだけ色っぽかったかもしれないけど。

「や、だ、やめてくださ、い」
「お嬢ちゃんが誘ってきたんやろ?」
「ちが、やあ」
「こないにパンツ、ちらちら見せて」
「やめ、てっ、たすけて、すなくんっ」

 角名の脳内に、過激な映像が流れる。そして、すぐにその妄想かき消す。なんだよ、今の関西弁のオッサンは。あと、なんで名字さんは俺に助け求めてんの。……いや、でも、名字さんのことだから、本当に、危ないことに巻き込まれるかもしれない。あー、めんどくさ。



「名字さん」
「これは?」
「部活で使ってるヤツ。ギリギリスカートから見えないんじゃないかな。
 まあ、ないよりはマシだと思う。嫌だったら、いいけど」
「いやいや、助かります。ありがとうございます!は、はいてくる!」
「うん」

 ぶんぶん、と首を横に振って、女子トイレに駆け込んでいく彼女の姿を見ながら思う。名字さんプール終わりは髪上げてるんだ。ふぅん。太もも柔らかかったなぁ。水着姿どんなだったけ。……興味なかったから、特に見てないや。そこまで考えて、角名は我に返る。は?俺名字さんのこと、どんな目で見てんの。ただのクラスメイトでしょ。

「角名くん」
「……大丈夫そう?」
「うん、スカート長くしたら見えなかった」

 女子トイレから戻ってきた彼女のスカートは確かに、いつもより長い気がする。ノーパンではなくなったからか、彼女の雰囲気がいつも通りに戻っていた。角名はちょっと変な気分だった。普段自分が履いている練習着をクラスメイトの女子が履いている。しかも、直に。うわあ……、俺きもい。角名の葛藤に気付かない彼女は、眉を下げて、角名を見上げる。

「角名くん今日はありがとう。本当にこれから色々気を付けようと、思いました」
「……うん、そうして」
「なんかお礼したいんだけど、角名くん好きな食べ物とかある?」
「……お礼って、食べもの限定?」
「う、ううん?私ができる範囲なら、なんでも」
「……」

 ほら〜、そういうこと言う。名字さん今これから色々気を付けるって言ったばっかじゃん。

「じゃあ」
「うん?」
「俺の心の平和のために、俺の彼女になってくんない?」
「角名くんの心の平和のため?うん、いいよー……え?」
「じゃあ、今日からよろしくね。名前」
「え?」
「じゃあ、俺先行くね」
「え?ちょっと、角名くん!待って!」
「名前廊下走らないで」
「は、はい、……じゃなくてっ!」

 このあと、正式にちゃんと角名が彼女に告白するまで、あと三時間。
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