シフォンケーキ

※デザートセットの番外編「アフタヌーンティー」の続きになっています。

 名字名前と宮治はのんびりと、少しずつ仲を深めていた。彼女のペースに合わせて、治はどれだけ自分の歩幅を小さくすることになっても辛抱強く、ちまちまと歩いていた。辛抱強く耐えていると、たまに彼女が思い切って歩幅を大きくして、治に歩み寄ってくる。その瞬間がたまらなく好きな治は日々自分の欲求を抑えて、彼女と一緒に過ごしていた。


 ある日、治は違和感を抱いていた。彼女の様子がおかしいのである。授業を受けている姿勢がやけに前かがみだったり、腕を組むような妙なポーズみたいな格好が多い。なんか前も見たことあるようなぁ……。あ。思い出した。名前で初めてヌいた日や。……まさか!

「!」

 彼女は久しぶりに背中にチクチクとした視線を感じて、振り返る。予想通りそこには治の姿があった。いつかのように治は可愛らしく頬を染めて視線を逸らす、なんてことはなく、「教室の外に来て」と視線の動きだけで伝えて見せた。いや、むしろ「ついてこいや」的な感じで顎を動かしたようにも見える。彼女は席を立って、のそのそと廊下へ向かった。

 先に廊下に出て先を歩いていた治について行けば、渡り廊下で立ち止まった。

「お、おさむくん?」
「名前」
「な、なに?」

 治くんなんか顔怖いんだけど。

「今日ノーブラやろ」
「!」

 ど、どうしてバレた。彼女は反射的に胸元を支えるように腕を組む。治はそのポーズを見て、納得した。彼女の変なポーズは不安定な胸を支えるためだったのだ。

「その変な格好めっちゃ目立つで」
「えっ」
「……名前ってなんでブラ忘れるん?」
「今日寝坊しちゃって」
「?
 寝坊したら、忘れるもんか?」
「うん、つける時間なくなっちゃうから」
「?」

 二人の会話がかみ合わない。治は疑問符を頭上に浮かべながら、彼女を見つめる。彼女はどうして治がそんな質問をしてくるのかが不思議だった。

「ブラって、いつもつけとるもんやろ?」
「え、人によると思うけど。私は寝るときつけない派だから、寝坊すると朝つけるの忘れちゃうんだよ」
「……」

 名前は寝るときブラをつけない派。治は予想もしなかった彼女の新たな情報に、変な方向に思考回路が動いてしまう。え、じゃあ、なに?名前と今まで寝る前電話しとったけど、あのときも名前ノーブラだったん?名前って、ほんま。彼女は急に天を仰ぎ始めた恋人が心配になった。まさか胸の形の維持のために、治は寝るときも下着をつけている彼女の方がいいんだろうか。

「……そういうもんなんや」
「そういうもんなんです」
「とりあえず、その変なポーズやめた方がええで。
 普通にしとった方が目立たんから」
「そ、そうなんだね。気を付ける」
「うん、気を付けて、ほんまに」



 そこから治のどきどき、ハラハラな一日が始まった。彼女が今下着をつけていない状態なんだと思うと、変な気分になるし、早く一日が終わって欲しい気持ちでいっぱいだ。誰かとぶつかりそうになったり、小走りしているときに危なげに揺れていたり、治はいつも以上に彼女から目が離せなくなっていた。

「……」

 名前がおらん。名前と仲のいい東条は席におるし。治は昼休みになって、いつも教室でお弁当を食べている彼女がいないことに気付いた。なんか、嫌な予感がする。

【名前どこにおんの?】
【お茶忘れたから買いに行ってる〜】
【一階の自販?】
【そう】
【俺行くからそこで待っとって】
【分かった('◇')ゞ】

 呑気な顔文字に治は呆れながら、急いで彼女の場所へと向かった。


 彼女はスマホをしまって、自動販売機の隣へ移動する。昼休みの購買近くの自動販売機は人通りが多いのだ。彼女は脇に抱えていたペットボトルを開けることにした。ペットボトルのキャップを開けようするが、開かない。治が来るまで待っていようか。一向に開く気配がないキャップに必死に力を込めながら、そんなことを考えていた。

「貸して」
「え」

 手の中にあったペットボトルがいきなり取られた。目の前に現れたネクタイに視線を上げて、彼女に緊張が走る。あっちの宮くん!あっちの宮くんこと、宮侑は簡単にペットボトルのキャップを開けると、彼女に手渡した。「はい」「あ、ありがとうございます……」彼女はまるで格上の相手から物を恵んで貰うような気持ちだった。やばい、このお茶めっちゃ丁寧に飲まないといけない気がする。

「飲まへんの?」
「え、の、のみます」

 彼女はお礼を言っても立ち去らない侑に何故と思いながら、お茶を一口飲んだ。全然潤わない。むしろ苦しい。ごくり、と飲み込むことすら緊張する。

「名字さんやっけ?」
「そ、そうですけど」
「治と付き合っとるの?」

 え、ええ、なに。いきなり、なに。彼女は小さく頷きながら、そっと侑と距離を空ける。そしたら、侑は何を思ったのか彼女の真似をするように、彼女の隣へ並ぶ。謎の順番である。

 自動販売機 彼女(._.) 宮侑 

 彼女は侑の遠慮のない物言いが苦手だった。治くんも遠慮ない所あるけど、私には優しいからなぁ。だから、平気?なのかな?彼女は早く治が来てくれないだろうか、と階段を横目で見るが、まだ誰も降りてくる気配がない。

「ふぅん」
「……」

 なぜ。宮侑は何故私に絡んでくるんだ。治くんの恋人が気になるのか。宮くんたちの恋愛事情は分からないけれども、一々突っ込んでくるのもどうなんだろうか。

「名字さんが告白したん?」
「い、いえ」
「治から?珍しい」
「……」

 治くんは告白されることの方が多いらしい。たしに、私もそのイメージの方が合ってる。ただそれに対して、私はどうコメントすればいいんだろう。そ、そうなんですね?とか。彼女がどう返せばいいか悩んでいると、大きな足音が聞こえてきた。階段に視線を向けると、治が駆け下りてくる姿が見えた。治は彼女の姿が見えてほっとしたのも束の間で、その隣に侑を見つけて、眉を顰める。

「名前」

 彼女は治に名前を呼ばれて、やっと生きた心地が戻ってきた。嬉しくて思わず駆け寄ろうとして、視界がブレた。どうやら自分の足に、足を引っ掛けてしまったらしい。侑は目の前で転びそうになる彼女を持ち前の反射神経で、支えて見せた。

「!」
「?」
「!!!」

 彼女は転ばずには済んだが、なにか違和感があると不安定な体勢のまま首を傾げる。侑は自分の手のひらにある、むにゅり、としたやけに柔らかい感触の正体が分からなかった。あれ、ここ、腰やないんか?彼女の体勢を元に戻そうとするが、なんかイメージと違う。侑が思っているよりも、彼女はずっと小柄だった。

「名字さん大丈夫か?」
「うん、ありがとうございます……」
「?」
「?」

 彼女がきちんと自分の足で立って、侑の手が離れて行く。その瞬間、ふたりの顔が真っ赤になる。

「す、すまん!」
「う、ううん!私の方こそごめんね!」

 侑がやけに柔らかい正体が胸だと分かって、ものすごく気恥ずかしかった。自分でも顔が赤いのが分かる。侑は口元を手で隠して、彼女から視線を逸らす。彼女は自分の胸に残る、大きな手の感触にドキドキと心臓を早くしていた。下着をしていなかったからか、生々しい感触だった。

 そして、治は全て見て、しまっていた。

 静かな足音。ふつふつと迫ってくる怒りの空気。侑と彼女はやっと治の存在を思い出して、顔を青くする。

 やばい。治くんに怒られる。たださえ付き合う前から、色々と怒られていたのに……!

 しもうた。よりによって、治の前で、治の恋人の胸触ってまうとかやばいやろ。いくら事故とはいえ。俺やったらキレるもん。

「侑、よくも」
「……(これは黙って殴られた方が早く終わる気がする)」

 彼女は目の前の光景に絶句した。リアルの殴り合いとか、生まれてこの方見たことなどないのだ。治は侑の胸ぐらを掴んで、怒りで震えている。彼女は周りを見渡すが生徒たちは殆んどお昼を買い終わって、人はいなかった。

「お、おさむくん!宮くんは助けてくれたんだよ!」
「あぁ?」 

 意を決して、彼女は治の裾を掴んで、止めに入ってみるが、治が怖かった。「あぁ?」と180pを超える大男に凄まれたら、誰だって怖い。こちらを見下ろす治の目は見たこともないくらい、怒りに染まっており、彼女は口から心臓が出そうになった。そして、どこか悲しそうに自分を見る治に、ちくちくと心が痛くなる。

「殴ってスッキリするなら、殴れや」
「!」
「名字さんはそんなこと望まへんと思うけどな」

 宮くん!それは間違ってはないけど、今そんな言い方したら火に油注いでるもんじゃん!

「……って」
「はぁ?なに?」
「俺だってまだ名前のおっぱい触ったことあらへんのに、なんで侑が先やねん!」
「エ」
「はぁ?」

 まさかの治の言葉に、彼女は目を丸くして、侑はイラッと目を細める。

「知らんわ……まあ、先越したことは謝るわ。でも、あれは事故やで?まあ?フラストレーションたまっとる治クンには辛いかもしれへんけど?
 あくまで事故やから?気にせんでええと思うわ。それに嫉妬は醜いで?」

 だから!どうして!宮くんは治くんを怒らせるようなことを!

 彼女の心の悲鳴は侑には届かない。先日の別件の双子の乱闘で、侑は治に思い切り鼻をやられ、しばらく周りから、からかわれていたのだ。そのことを執念深く覚えている侑は、そのときの仕返しとばかりに治を煽る。彼女は目の前で、双子の乱闘が勃発してしまう!とパニックになっていた。

「お、治くん!」
「名前は後や」

 な、なにが後なんですか。私も、まさかな、殴られるの?彼女は治の言葉に怯えながら、今にも侑に目掛けて動き出しそうな治の右手を掴む。ぐっと固いを拳を握っているが、無理やり開いて見せた。治はちょこちょこと右手をいじられ、彼女相手にはなんとか怒りを抑えていたが、爆発しそうだった。

「名前邪魔せん……」

 治の脳内が怒り一色だったのに、一瞬で吹っ飛んでいった。自分の右手に触れているものは何だ?あたたかく、やわらかい。生々しいほど、それは治の指のままに沈んで、形を変えていた。そして、右手越しに、うるさく激しい鼓動が聞こえてくる。右手を辿って、視線を上げれば、顔を真っ赤にして泣きそうな彼女がいた。

「治くんここで喧嘩したら、もう二度と触っちゃだめから」
「……」

 彼女は自分のセリフが死ぬほど恥ずかしかった。でも、確かに効果はあったらしい。治は呆気なく侑を解放して、顔を真っ赤にすると、彼女を見つめたまま動かなくなってしまった。

「治くん?」
「……」
「もう、怒ってない?落ち着いた?」
「うん」

 彼女の言葉に、治は小さく頷いた。侑はその横で、完全に蚊帳の外やないか、と目を遠くしそうになっていた。

「と、とりあえず、教室戻ろう?宮くんも、ありがとう」
「あ、ええよええよ。気を付けてな」

 侑はこれ以上巻き込まれたくないと、早々に退散を決める。いつまでもここに居るわけにはいかない。あと、この手をいつまでも胸に押し付けてたら、ただの痴女である。けど、外せない。彼女はさっきから自分の胸から治の手を離そうとするのだが、頑なにこの手が離れない。

「お、治くん」
「うん」
「治くんっ!」
「えっ、な、なに」

 治はやっと正気に戻ったらしい。

「あの手離して、欲しい」
「あ、ああ、すまん」

 治は言われた通り、彼女の胸から手を離そうとするが離れない。いや、離したくない。

「……あの、治くん」
「名前ちょっと寄り道しよ?」
「え?」

 彼女はこてん、と可愛らしく治におねだりをされて、自分の胸を掴んで離さない手の存在を一瞬忘れてしまった。


 

「お、さむく、んぅ」
「んー」

 治は彼女を空き教室に押し込むと、そのまま壁に彼女を押し付けて、唇を塞ぐ。彼女は治を押そうとするが、治の熱い舌が彼女の自由を奪ってしまう。ぐ〜と治に押されて、そのまま彼女はずるずると足から力が抜けて、座り込んでしまう。治は彼女が座り込んでもお構いなしで、ずっと心に溜まっていた気持ちをぶつけるように、彼女の口内を味わう。

「ふっ、……まって、くるしい」
「ん、名前っ」
「わっ」

 口が解放されたと思ったら、首筋にキスをされて彼女は思わず固まってしまう。治は今までおあずけだった分、我慢していた欲求が爆発してしまった。治の手が彼女を拘束するように動きながら、制服の中に入ってくる。え、ええ、まさか、こんなところで?私初めてを……。彼女はありえない発想して、すぐに否定したが、相手は治だ。

「ここじゃ、やだ」
「名前」

 治は彼女の拒絶の言葉で、手を止めて、さぁーと血の気が引く。自分の下で、彼女が乱れた姿で半泣きになっている。慌てて外したボタンを留めて、スカートの中にブラウスをしまう。

「ご、ごめん……なんか、色々と爆発してもうた」
「う、ううん、私も心配かけてごめんね」

 彼女は身体を起こして、治に抱き着く。治は彼女の方から抱き着いてきてくれたことに安心して、彼女を思い切り抱き締め返した。

「名前」
「うん?」
「続き、ここじゃなかったら、ええの?」
「……うん。ふたりきりになれるとこなら、いいよ」
「!」

 治は予想外の彼女の答えに、今日一番に目を見開いた。治の歩幅が大きくなる日も近いのかもしれない。
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