ピッタリ



 名字名前には恋人がいる。同じ学年の、黒尾鉄朗という男の子だった。バレー部の主将、190pに近い身長、口を開けば親しみやすい雰囲気になって、周りを見ていて気遣い上手。こうやって、彼女がパッと思いつく言葉で彼の特徴を挙げるだけで、彼がどれだけ魅力的で周りからどんな目で見られているか分かるだろう。そんな魅力的な男の子が恋人だから、恋人としても完璧だった。傍から見れば、完璧だった。教師も、同学年も、殆んど二人の関係を知っていた。ケンカもしなさそうな、穏やかな恋人。それが二人への、周りからの印象だった。



 彼女はもうすぐ、自分の恋人ごっこが終わることを感じていた。いや、終わるのではない。終わらせるの、だ。自分で。

「名前」
「あ、お疲れ様」
「うん、ありがとう。名前勉強進んだ?」
「今日の目標は終わった」
「おー、お疲れ」

 部活がミーティングだけの日は、一緒に帰る。このふたりの、一緒に帰る理由の定番の一つだった。教室で彼女が勉強をしながら待っていて、黒尾が迎えに来てくれる。他に残っていたクラスメイトが、「相変わらず仲いいね〜」とのんびり声をかける。彼女は未だに反応に困って俯いてしまうが、問題はない。完璧な恋人が対応をしてくれるから。彼女の頭に優しく手を置いて、黒尾は愛想よく答える。

「俺たち永遠にラブラブなので」
「ラブラブって死語じゃない?」
「え、そうなの?」
「知らんけど」

 黒尾といると、よく周りをから声をかけられる。その度に、彼女は黒尾くんはやっぱり、すごい人なんだなぁと思ってしまうのだ。自分とは、違うなぁと。

「名前行くか」
「うん」
「名字さんばいばーい」
「ばいばーい」



「好きです」
「えっ」
「俺と、付き合ってください」
「……黒尾くん」

 彼女は大きなごみ袋をふたつもって、ふらふらと歩いていた。ゴミ捨て場まで、もう少し……、というところで、足止めを喰らう。彼女は慌てて、校舎の影に隠れた。な、なぜ、よりによって、ゴミ捨て場の前で、告白してるの。しかも、今のって、黒尾くん?一年生にしては背の高い男の子。そして、彼女のクラスメイトで、思いを寄せている相手だ。あー……しかも、相手って、相手って、先輩だった。中学の時、同じバド部の、先輩だった。

「黒尾くん、私のこと好きだったんだ」
「ハイ。個人的にかなりアピールしたつもりだったんですケド」
「あはは。確かに、私が当番のとき必ず一緒にやってくれたよね」
「……少しでも、先輩と一緒にいたかったから、で、あの」
「……ありがとう。すごい、気持ちはとっても嬉しい。
 でも、黒尾くんの気持ちには応えられない。私恋人いるから」
「……他校ですか?」
「うん、そう」
「……聞いてもらって、ありがとうございました。
 俺あとやっておくんで、先戻っててください」
「わかった。じゃあ、お願いします」

 あー……、黒尾くん、たしか美化委員だったっけ。先輩、もしかして、中学のときの人と続いてるのかな。やだなぁ、赤の他人なのに、全ての事情が分かるっているのが嫌だ。そして、まさかの流れ弾(?)で、自分も失恋するの、やだ。彼女が黒尾が去ってから、ごみを捨てに行こうとしゃがみ込もうとした瞬間、身体が傾いた。ゴミ袋を若干踏んでしまっていたらしく、姿勢を変えたせいで、思い切り転んだ。

「だれ?」

 しまった。もう、終わった。黒尾はごみ袋ともに、現れた女子生徒を怪しみながら、見つめる。そろり、と顔を上げた女子生徒はクラスメイトだった。そして、彼女は黒尾の顔を見ると、大きく目を見開いて、へにょり、と眉を下げた。

「……もしかして、聞いてた?」
「……」

 非常に気まずそうに、彼女の首が縦に動く。

「名字とりあえず立ったら?」
「あ、う、ん」
「なに、気使ってる?」
「……だって、黒尾くん泣いてるから」
「は、うそ」

 黒尾は自分の頬に触れると、たしかに冷たかった。彼女は制服についた砂をはたいて、ごみ袋をもって、ゴミ捨て場へと寄っていく。なるべく黒尾から目を逸らして、ごみ袋を置いておく。彼女は今どういう行動をすれば、正解なのか、誰かに教えて欲しい気持ちでいっぱいだった。失恋をして泣いている男の子の、慰め方なんて分からない。ちらり、と黒尾の様子を見ると、黒尾の目からポロポロと涙が零れ始めて、黒尾はしゃっくりを上げ始める。

「く、くろお、くん」
「やば、とまんねぇ」
「む、むね、かそうか?」

 黒尾も、彼女も気が動転していた。確かに先輩のことは好きだったけれど、気持ちに応えてもらえないことがショックで泣き出すほどとは思っていなかった。黒尾はバスケのようなディフェンスの、へんなポーズで、心配そうに見つめる彼女に内心笑いながら、黒尾は手を伸ばした。初めて触れる異性の、ぬくもりはとても温かかった。ひさびさ、だな。自分でも、コントロールできないスイッチが入ってしまうのは。彼女は先輩より背が小さくて、曲げた腰が痛くなりそうだった。頼りなさそうな肩に、黒尾は額を押し付けて、必死に溢れてくる涙に耐える。

 彼女は予想もしなかった展開に、驚きつつも、自分が言いだしっぺだから、と腹を括る。そして、拒否られたら、すぐに手を離そうと考えて、黒尾の背中に手を伸ばして、ゆっくりとなでた。



「悪い」
「い、いえ」

 彼女は自分から離れた黒尾の顔をあまり見ないように、そっと視線をつま先に向ける。黒尾はぐずぐずと鼻をすすって、ハンカチで目元を拭いていた。

「お、落ち着いた?」
「……うん」

 かなり沈んでいる黒尾の声に、彼女はつい言葉を重ねてしまった。つい、……つい、好きな人の力になりたいという気持ちが強すぎて。

「ま、また、しんどくなったら胸かそうか?え、えっと、その話とか、話聞くだけなら、私でも、できる、し!」

 黒尾は赤くなった目を隠さずに、彼女を見下ろした。彼女は読めない黒尾の目線に、口を閉じる。

「ご、ごめん、なんか、一人で騒いじゃって……」
「いや、なんでそこまでやってくれるのかなぁって、単純に思って」

 貴方が好きだからです。

 死んでも言えない。黒尾くん絶対気を使う。黒尾くんはとても優しい人、だから。

「黒尾くんが覚えてるか分からないけど。音駒受験するとき、私受験票落としちゃって……」
「あ!あのときの!」
「そ、そう。ずっとお礼言いたかったんだけど、タイミングつかめなくて……、本当に助かったから、その、お礼も兼ねて」
「名字お前いい奴っていうか、……お人好しっていうか」
「えへへ」
「変なツボとか買わないように気を付けろよ」
「えっ」

 こうして、奇妙な関係は始まった。どうしようもない寂しさに襲われたときの話し相手、人肌が恋しくなれば二人で身を寄せ合うように抱き合った。第三者から見れば、ふたりの関係は歪んでいたし、彼女自身も友達に言えば説教されるだろうなぁと誰にも、このことは言わなかった。言える関係でもないけれど。そして、あっという間に半年が過ぎた。



「名前」
「黒尾くんお疲れ様」
「おう。急に呼び出して悪いな」
「ううん、大丈夫」

 ふたりが待ち合わせに使っている公園は、丁度ふたりの家の中間にあった。土曜日の、夕方。黒尾は早めに部活が終わったらしい。一度シャワーを浴びて来たのか。髪はどこかしっとりと濡れていた。ベンチに先に座っていた黒尾にならって、彼女も黒尾の隣へ座る。こんな時間帯に親子連れはいなくて、中高生ぐらいの子たちがサッカーやバスケをしていた。彼女はその子たちを見つめながら、黒尾と彼女の間に空いている距離について考えていた。

 座ろうと思えば、人が一人座れそうな距離だった。きっと、今日でこの距離ともお別れだろうなぁ。黒尾の横顔は失恋したときとは違って、かなり生き生きしているように見える。失恋の傷が癒えてきた、ということだろう。彼女は自分の役目が終わることに、悲しい気持ちと寂しい気持ちが混ざって、どうしても視線が落ちてしまう。

「名前」
「はい」
「俺今日言いたいことがあって」
「うん」

 彼女は黒尾の言葉に、ゆっくりと顔を向ける。緊張しているような面持ちで、黒尾は彼女を見下ろしていた。ああ、黒尾くんは優しい人だから、そんな顔をするんだね。彼女はいっそのこと、自分の方から告げた方がいいのではないかと、口を開きかけて閉じる。力なく膝に置かれていた彼女の手のひらを、黒尾の大きな手が掴んできたからだ。彼女は黒尾の行動に驚いて、きょとん、と目を丸くする。

「今まで本当にありがとう。俺名前がいなかったら、今以上に酷かったと思う」
「そんなことないよ。
 たまたま、あの場面に遭遇しちゃっただけで……」

 黒尾くんは元々そんな弱い人じゃないよ。きっと先輩にフラれたときに、私がいなくても、大丈夫だった。遅かれ、早かれ、黒尾くんは乗り越えていたのだ。それを、私は自分のエゴで、黒尾くんに手を出してしまったのだから。

「いや、名前がそばに居てくれたから。想像よりも、しんどくなかった」
「……少しでも、黒尾くんに役に立てたなら嬉しい。
 でも、立ち直ったのは黒尾くん自身の力だよ」

 あくまで、私はひと時の受け皿に過ぎない。

「名前って本当に、お人好しって言うか、謙虚って言うか」
「本当のことだもん」

 黒尾は彼女の言葉に、少し呆れていた。彼女はこの歪な関係が始まったときから、自分に対して謙虚だった。黒尾はかなり自分が甘ったれているのに、一度も嫌な顔をせずに受け入れてくれる彼女の存在はとても魅力的で、怖かった。そして、同時に自分も同じように甘えて欲しいと思うようになった。こんな関係ではなくて、対等になりたい。

「頑固だよなぁ」
「事実なので」
「……まあ、そうしとくわ」
「うん」
「で、本題なんだけど」
「うん」
「正直今の俺らの関係って、褒められたもんじゃないと思うんですよ」
「……まあ、そうだねえ」
「だから、俺ちゃんとしたくて」
「……」

 彼女の手を掴む、黒尾の手に力が入る。彼女は黒尾の大きな手と、真剣にこちらを見つめる黒尾の目を交互に見て、首を傾げた。ちゃんと、とは?今の歪な関係を解消するのではないのか?ならば、この手はおかしくないか?

「俺と、付き合ってください」
「……」

 ちゃんとって、そういう意味か。なるほど。彼女は片思いの相手から、恋人になろうと言われているはずなのに、嬉しくなかった。いや、浅ましい本音を言うならば、黒尾との特別な関係が続くのは嬉しい。ただきっかけが、流れが、嬉しくなった。

「はい」
「ほ、本当に?いい?」
「うん」

 彼女は黒尾の手を両手で包むと、大きく頷いたのだった。



 自分にコンプレックスがあると気付いたのはいつからだっただろう。いつも好きなる人は、年上の人。芯が強そうとか、頼りになりそうとか、強そうとかではない。どちらかと言うと、穏やかで、受け止めてくれそうな人。髪は長めで、一つ結びが似合う人。部屋の掃除をしていて、本棚から落ちてきた一つの写真を見て、納得した。俺は異性に、母親を求めているのか。その事実が俺はどうしようもなく嫌だった。でも、惹かれるのはやっぱり包容力がありそうな年上の人だった。

「はぁ」
「どうしたの?」

 自分の部屋で、名前に抱き締められながら、ため息をつけば彼女は気にかけてくれる。名前には最初からかっこ悪いところしか見られてなくて、名前の前だと何も気にしなくて、楽だった。

「今から気持ち悪いこと言っていい?」
「うん?」
「俺さ、母親みたいな人ばっか好きになるんだよね」
「……ははおや?」
「うん。甘やかしてくれるっていうか、何しても許されるっていうか、……たぶん、そういうの、求めてて」

 自分で言っていて、かなり気持ちが悪い。こっちに越してきたときには、母親はいなかった。特別寂しかったわけではないけれど、どうしても元々いた母親がいなくなったことが寂しかったとこは、正直ある。ぜってぇ、言わないけど。研磨が研磨ママに抱き締められてたり、甘やかされてるの見て、羨ましかった。父親も、祖父母も、俺のことをやさしく、愛してくれている。ワガママは言っちゃいけない。俺は十分恵まれているから。

「ふぅん」
「ふぅんって、結構勇気出して言ったんですケド」
「あ、そうなんだ」
「……」
「ええ、だって、割とあるんじゃないかな?
 要は恋人に甘えたいってことでしょ?」
「ま、まあ、そうなんだけど、……質?が何か違うの」
「そうなんだ。他人から歪んでる欲でも、その当人同士が良かったらいいんじゃないかな?」
「……当人同士」
「うん。黒尾くんが好きになった子も、甘えられるの大好きな子だったら問題ないのでは?
 黒尾くんとその相手の子が互いに納得して、問題なかったらいいと思うけどなぁ」

 あれ?もしかして、俺のコンプレックスって、大したことないのか?名前は俺の頭の上で何でもないように言って、「黒尾くんは難しいこと考えてすごいなぁ」なんて呟いていた。


 名前はお世辞にも頼りになりそう!という雰囲気も、見た目もしてなかったけれど、優しかった。やさしくて、あまくて、癖になりそうだ。名前のやさしさに甘えていたら、ダメになるだろうなぁと思った。俺は名前に惹かれてるけど、これは本当に好意なんだろうか。

「さすが黒尾くんありがとう」

 たった一言。名前にお礼を言われただけだ。名前の身長じゃ届かないから、俺が消しただけ。ただの黒板消しだ。嬉しそうに笑う名前が可愛かったし、「さすが」と頼りにされたような一言が嬉しかった。ずっと名前に甘えていた。その甘えからいつか卒業しないといけないとは思ってた。でも、俺は名前に頼りにされたいと思った。名前にとって、大切な人になりたい。俺、名前のために、色々したい。そう気持ちが芽生えたら、名前への気持ちを自覚することも早かった。

 緊張しながら想いを告げれば、彼女の同じ気持ちだと教えてくれた。幸せだった。



「名前」
「うん?」
「ちょっとこっち来て」

 恋人になってからの黒尾はそれはもう優しくて、かっこよくて、時々意地悪で、理想の恋人だった。時々よく分からない意地の張るところも可愛いくて、彼女は好きだった。歪な関係は形だけ正式なものになって、相変わらず関係は歪のままだった。彼女はいつか、この関係が本物になったらいいなぁと思いながら、黒尾の手を握っていた。少しずつ時間を共有して、黒尾くんの大切な人になりたい。けれど、現実はそんなに甘くなくて、彼女は困っていた。

 今日は黒尾の家で、のんびりとお部屋デートだった。ふたりで映画を見て、感想言い合う。そんな今までと一緒だと思っていたのに、ベッドに座る黒尾の横に誘導されて、彼女はかちこちに固まっていた。黒尾は怖がらせないように、ゆるく抱き締めながら顔を覗き込む。

「名前緊張してる?」
「う、うん」

 黒尾は自分の胸に凭れ掛かるようにして、顔を隠そうとしている彼女の頭を撫でて、心の中でため息をひとつ。このかわいい恋人は予想よりもずっと、恥ずかしがり屋で中々恋人として先に進めない。べつに、嫌じゃない。キスするのも、一苦労だったしな。ハグは平気なのに、うーん、俺には分からん。彼女はわりと何でも黒尾のワガママを受け入れてくれる。ただ、キス以上に進もうとすると、今までに見たことのない抵抗をみせるのだ。

「……あー、映画でも見るか」
「う、うん」

 もそもそと胸の中の彼女が動いて、ほっとするように息を吐いた。その姿を見て、黒尾はチクリと心が痛む。やっぱ、名前はまだしたくねぇんだよなぁ。

「名前」
「うん?」
「俺のこと、好き?」

 黒尾の唐突な質問に彼女は目を丸くして、頬を薄っすらと赤く染める。恥ずかしそうに視線を彷徨わせる彼女の頬に手を添えれば、彼女は黒尾の大きな手に甘えるように擦り寄った。

「好き、黒尾くんのこと、好き」

 彼女の言葉は色褪せたりなんかしない。いつも彼女は一世一代の告白みたいに、黒尾に気持ちを伝える。黒尾は彼女の気持ちに、ぐっと来て、そのまま彼女を引き寄せる。ふたりの、唇が重なって、そのまま彼女は黒尾に押し倒された。

「……や、だ」
「ご、ごめんっ」

 黒尾はぽつり、と呟かれた言葉に、慌てて身体を起こす。彼女は今にも泣きそうな顔で、黒尾を見上げていた。しまった!怖がらせた!黒尾は彼女をぎゅう、と抱き締めて、わしゃわしゃと彼女の頭を撫でる。彼女は黒尾の背中に掴まりながら、限界を感じていた。

「名前ごめん。怖がらせて、ごめん」
「ううん、私こそごめんね」
「名前の気持ちが準備できるまで、待つから」
「うん」

 違うの。セックスが嫌なんじゃなくて、怖いんじゃなくて、こんな関係で、身体を繋げたくないの。たださえ、この関係の歪さにどうしようもない虚しさがあるのに。身体だけ繋がってしまったら、余計に虚しくなって、耐えられなくなるよ。

 彼女は黒尾から求められるたびに、辛かった。そして、いつまでも誤魔化すわけにもいかなくて、そろそろ頃合いだな、と思っていた。



「久しぶりだな、ここ」
「そうだね」

 黒尾は彼女から呼び出しを受けたのは初めてだった。土曜日の、夕方。黒尾は部活帰りで、ジャージ姿だった。彼女は涼しそうなワンピースを着ていて、白い鎖骨がやけに眩しくて、黒尾はそっと視線を逸らす。ふたりは何も言う事もなく、ベンチに座る。座った二人の距離はもう空いていなかった。黒尾は彼女の手を握って、彼女の首筋にすり寄る。

「く、くろおくん」
「ん、ちょっとだけ」
「……疲れてる?」
「んー、少しだけ。で、どうした」
「……うん」

 ちゅ、と彼女の首に軽くキスをして、黒尾は姿勢を元に戻した。つい二人きりになると甘えたくなってしまう。彼女はさっきからこっちを見ない。今だって普段なら、もっと可愛らしく照れてくれるのに。黒尾はぎゅう、と強く彼女の手を握る。様子がおかしい。嫌な予感がした。

「……黒尾くんも分かってると思うんだけど」
「うん?」
「今の関係良くないと思う」
「……名前」
「別れよう?」
「……」

 彼女が顔を上げて、黒尾を見つめる。いつかの黒尾のように、彼女は涙を流していた。黒尾は彼女の言っていることも、どうして泣いているのかも理解出来なかった。ただ、本音だけ口から零れた。黒尾の手の中にある彼女の手が離れようとするが、黒尾は彼女の手を痛めてしまうことも気にすることができずに、思い切り力を込める。絶対離してなんかやらない。

「やだ」
「くろお、くん」
「名前俺のこと嫌いになった?俺が我慢できずに、名前に迫るから?」
「……ちがう、ちがうよ、私はずっと黒尾くんのことが好きだよ。でも、黒尾くんは違う」
「は?違うって、なにが」
「黒尾くんは私のこと、好きじゃない」 
「は?はあ?」

 なんだよ、それ。名前は俺のことなんだと思ってんの。なに、俺がずっと今まで名前と過ごしてきた間、名前は俺のこと、そう思ってたことか?は?意味がわからない。

「じゃあ、なんで俺たち恋人なんだよ」
「黒尾くんがちゃんとするって言ったから」
「……まって、頭が追い付かない」

 彼女は予想と違った黒尾の反応に、戸惑っていた。

「え、なに?俺と名前は形だけの、恋人だったってこと?
 名前は俺のこと好きなんだよね?」
「す、好きだよ、ずっと黒尾くんだけが好きだよ」
「だったら、問題なくね?」
「問題、あるよ。黒尾くんは私のこと好きじゃない、から」
「だから、なんでそうなるの。好きじゃなきゃ、名前と恋人になんかならねぇって」
「……じゃあ、なんで一回も好きって言ってくれないの。なんで、いつも私ばっかり言ってるの?黒尾くん、ずるいよ」
「……」

 そう、だっけ……?黒尾は彼女の言葉に、口を閉じて、記憶を巡らせて、顔を青くした。ああ、そうだ。確かに、俺は今まで一回も名前に気持ちを伝えたことがなかった。態度で、雰囲気で、伝わるだろうって、甘えていたんだ。名前なら俺のこと分かってくれるだろうって、甘えている癖に。俺は名前の態度で不安になると、すぐに名前の気持ちを、言葉を求めていた。恥ずかしい。俺名前のこと大切にしたいって、頼って欲しいって思ってたのに。結局恋人になっても、名前に甘えっぱなしで、嫌な思いさせて、傷付けて、何してんだ。

「好き」
「……」
「名前のことが好きだよ。ここで、名前との関係をちゃんとしたいって言ったときから、ずっと名前のことが好き」
「嘘だ。黒尾くんは優しいから」
「はぁ?優しくねぇよ。好きじゃなきゃ、付き合ってくれなんて言わない」
「じゃあ、私が黒尾くんのこと好きだから失恋につけ込んだって言っても、本当に私のこと好き?」
「……え」
「私は受験のときに助けてもらった頃から、ずっと好きなの」
「……え、俺超想われてじゃん」
 
 彼女はやっぱり戸惑ってしまった。なんか、予想と違う。彼女の中の黒尾は優しくて思慮深くて……

「わ、私ずるいんだよ」
「だったら、俺も好きって言わずに名前と付き合ってるずるい男だよ」
「……」

 もう抵抗できる言葉がない。本当に?黒尾くんは本当に?私のこと、好きって思ってくれてるの?だから、あんなに優しくしてくれたの?

「じゃ、じゃあ」
「うん?」
「私のこと好きなら、好きなとこ十個言ってみて」
「……楽勝」

 黒尾はニヤリと意地悪く笑う。その顔は、彼女の大好きな顔の一つだった。

「コンビニとかで貰った袋絶対三角におるとこ。あと、笑うとできるえくぼがかわいい。落とした物拾おうとして、もう一個落とすとこ。んーと、一口付けてからいただきます、してるの忘れてることに気付いて、ちゃんとし直すとこ、とレシートちゃんと受け取ってるところ。猫舌のとこ、ハンカチとティッシュ絶対持ち歩いてるところ、好きなものは最後に食べるとこー。あと何個だっけ?あ、もう二個か。あ、あれ!めっちゃ可愛いなって思ってる、ほら、なんだっけ、あ、霊柩車が通ったら、親指を隠すとこ!で、ラストは」
「も、もう、いいです」

 彼女が黒尾の腕を掴んで、真っ赤な顔で首を横に振る。もうやめてくれ、恥ずかしい。恥ずかし過ぎる。彼女の反応に、黒尾は相変わらず意地悪く笑っている。

「ラスト、照れると絶対俺にくっついてくるとこ。ちょーかわいいから、好き」
「なっ」

 黒尾に言う通りに動いてしまった自分が恥ずかしい。彼女が逃げようと身を引こうとしても、黒尾の腕の方が早かった。

「俺の想いは通じましたか。お嬢さん」
「……つ、通じました」
「だから、別れるなんて絶対言うなよ。頼むから」
「くろお、くん」

 自分を抱き締める黒尾の腕が震えていることに気付いて、黒尾の背中に力いっぱい掴まって、何度も大きく頷いた。
- ナノ -