アフタヌーン・ティー

 学校で人気者の男子と付き合うことになった。名字名前は少しどきどきしながら、付き合った翌日学校へ行ったが特に何も変わらなかった。よくよく考えたら、宮治という男子は積極的に女子生徒と絡むような男子ではないのだ。いや、自ら行く必要がないだけで、女子生徒との絡みがないとかではない。もちろん。そして、わざわざ自ら付き合っていることも宣言するタイプにも見えない。何も起こらずに放課後になってしまったことに、彼女は少しだけ寂しさを覚えながら教室を出た。

「名前」
「!」

 下駄箱のところで、呼び止められて振り返ると治がいた。

「治くん今から部活?」
「せや。名前は帰り?」
「うん」
「気を付けて帰るんやで」
「治くんも部活がんばって」
「おう」

 治は頷きながら、彼女の頭を撫でる。彼女は慣れない温もりに、肩を揺らして戸惑うことしか出来なかった。



 あ、あれが、彼氏ってヤツなのか〜!あま〜い!頭の中にはとっても古いネタが駆け巡ってしまうほど、彼女には刺激が強かった。なにあれぇ、治くん女の子に慣れすぎじゃない?まあ、でも、そうか、治くんだし。学校であれだけ知られて、親しまれていれば、女の子と絡む機会も多いだろう。彼女は治と自分の恋愛レベルの差に早々に納得して、駅までふらふらと向かう。

「名前」
「あ、治くん、こんばんは」
「こんばんは。
 名前って、いつも何時ぐらいに寝るん?」
「うーん、23時ぐらい」
「じゃあ、今から寝るまで電話しててもええ?」
「いいけど、治くんの寝る時間は大丈夫?」
「俺もそんくらいやから、大丈夫」
「そっか」

 なんというか、治は彼氏としてレベルが高かった。ふたりは同じクラスだが、グループが違うので教室だとあまり話さなかった。治はまめに連絡をくれたし、週に二、三回は必ず電話をくれた。土日のどちらかは少しだけ時間が空くと、会いに行っていいかという誘いもしてくれた。彼女は全て受け身になっている自分にこれでいいのだろうか、と頭を悩ませていた。治と会える時間は少しでも可愛いと思って貰えるように、なるべく頑張った。頑張ったところで、急に変われるわけではないが、何もしない方が精神の衛生上悪いのである。

 さきに駅に到着している治はただ彼女を待って、スマホを触っているだけなのに格好よかった。ほら、周りの女の子が二度見してるもん。

「治くんっ」
「おー走らんでええよ。名前すぐ転びそうやし」
「つ、つい治くん見かけたから」
「そんな可愛ええことを言う名前ちゃんはこうや」
「うわ」

 治は彼女の髪型を崩さないように、耳の後ろをこしょこしょとくすぐる。彼女はここで、やめてよ〜なんて照れながら言うスキルを持っていない為、治のされるがままにしかなれなかった。頬を赤くして、ぴくぴくと肩を揺らして耐える彼女の姿に、治はパッと手を離す。そして、彼女の頭のてっぺんからつま先まで見るようにして、ふにゃりと目尻を下げる。

「治くん?」
「今日の格好めっちゃええな」
「え、そ、そうかな?」
「うん、俺好き」

 うお、ストレート。彼女は自分の胸にもしHPが存在したら、一瞬でひんしになっている違いないと思った。この男はどこまで甘くて、やさしい。

「おさむくんも」
「?」
「治くんも、かっこいい」
「俺ジャージやけど」
「……治くんは制服でも、ジャージでもかっこいいじゃん」
「ほんま?」
「うん」

 そう。貴方は何もしなくても、かっこいい。そんな貴方の隣を歩くのは少しね、うそ、大分勇気がいるの。彼女の褒め言葉に、治は眠たげな目を少しだけ輝かせて彼女の顔を覗き込む。彼女は治の瞳に映っているのが自分だけ、ということに、どうしようもなく照れくさくなって、結局頷きつつも、目を逸らしてしまうのだ。 

「行こ」
「うん」

 治は彼女の手をとると、歩き出した。



「ここ入ったことなかった」
「ほんま?
 めっちゃ美味いんやで、ここ」
「治くんが言うなら、間違いないね」

 治が連れて来てくれたのは、近所にひっそりとあったラーメン屋だ。カウンターの席に二人で並んで、同じメニューを頼んだ。彼女は食べ切る自信がないなぁ、治の横顔を見上げる。

「名前どないしたん?」
「治くん、あの」

 耳を貸してください、と彼女が治の二の腕辺りを引っ張る。

「ここ量多めだよね?ハーフサイズとかできるかな」
「あー……、ええよ。残り俺が食べる」
「ほ、ほんと?ごめんね」
「んーん」

 せっかく美味しいお店を紹介してくれたのに申し訳ない。治くん優しいから何も言わないだけで、気を悪くしてたらどうしよう。てか、あんまり食べない女って、印象良くないよね。というか、治くんの彼女なら、いっぱい食べる女の子の方がいいんじゃ?私別にダイエットしているわけでもなく、本当にあんまり量食べれなくて、いっぱい食べるとお腹痛くなっちゃうんだけど。……いや、むしろ、小食ぶりやがって、って思われてる……?いやいや、治くんに限ってそれはないよね。どうしよう、いっぱい食べれるように、食トレ?とかした方がいいかな。

 治は横でひたすら割り箸を見つめている、彼女の横顔をじーっと見つめる。考え込んでいる彼女は気付くはずもなく、治は眉を上げる。

 あかん。イマイチ名前が何を考えとるか分からん。正直付き合うって言っても、俺が押し切ったようなもんやし。身体目当てなんかな?って不安にならんように、俺なりに頑張っとるんやけど。上手く伝わっとるか分からへん。にしても、髪上げてるのかわええな。名前耳弱いんかな……、さっきの顔めっちゃえろかったし、帰りにもう一回触ってもええかな。治は彼女のことを見つめ過ぎて、思考回路が欲望にまみれて行くことに気付かなかった。

「いいにおい」
「美味そうやろ?」
「うん、いただきます」
「いただきます」

 彼女は目の前のラーメンに思わずにっこりと、笑う。えへへ、美味しそう。髪まとめてきて、正解だったなぁ。スープを一口飲んで、あ、これ、好きな味だ、と彼女はもう一口、と口に入れる。ちょっと、あつい。ふぅふぅしながら、食べようと口を開けようとして、ふと視線を感じた。

「……おさむくん?」
「あ、何でもない」
「そう?」
「うん。はよ食べんと冷めるで」
「そ、そうだね」

 治は自分の意思の弱さに、驚いていた。あかん、名前とキスしたい。なんなら、最後までしたい。いやいや、名前の反応を見れば、分かるやろ。名前はあんまり慣れてへんみたいやし、がっついて怖がられたら、全部パーになる。たださえ、告白?のときも、がっついてしまったのに。治は頭を軽く横にふって、目の前のラーメンに集中した。



「美味しかった〜」
「名前予想より食べとったな」
「うん、私も意外と食べれたなって思った」

 治と彼女は手を繋ぎながら、駅まで向かう。明日は日曜日。彼女は特に予定がない。治は午後から部活だった。そして、彼女の両親は法事で家を空けていた。彼女は緊張していた。どうする?自分から、誘ってみる?変な意味じゃなくて、ふたりきりになりたくて、まあ、久々に治に抱き締めて欲しいなぁというくらいの下心はあった。

「お、さむくん」
「んー?」

 治は急に足を止めた彼女につられて、足を止める。下を見ると、顔を真っ赤にした彼女が見上げていた。

「明日部活午後からって言ってたよね」
「そうやけど?」
「……よ、良かったら、私の家寄ってく?」
「……」

 や、やらかした?彼女は治の読めない表情に、だんだん泣きそうになる。

「え、ええの?」
「う、ん、治くんが嫌じゃなかったら」

 治は彼女の肩を掴んで、確認をとる。彼女は治の勢いに驚きながらも、頷く。いやいや、嫌なわけない。治はぶんぶん、と首を横に振る。



「ベッドの上でも、どこでも座ってて。私飲み物取ってくる」
「おかまいなく〜」

 治は部屋を出て行く彼女の後姿を見送って、勝手に……、勝手に治の身体が彼女のベッドへ向かう。そして、ぱたりと倒れる。

「あかん……、名前の匂いする」

 部活の後、美味しいご飯も食べて、正直もうこのまま寝てしまいたい。そんな欲求に従っただけなのに、別の欲求が目覚めそうになる。ふかふかのベッドは気持ちがいいし、彼女の匂いもして、気分が良かった。治はベッドに顔を埋めて、息を吐いた。なんやろ、名前の匂いって安心する。あと、興奮も。

「治くん、紅茶って飲めるか……何してるの!」
「あ」
「あ、じゃなくて……もしかして、疲れてる?」

 治は戻ってきた彼女の言葉に、しまったと身体を起こしかける。彼女は紅茶をローテーブルに置くと、ベッドに倒れ込む治に駆け寄った。

「……うん、ちょっと」
「ごめんね。疲れてるところ引き留めて」
「そこまで疲れてへんけど、目の前にベッドあったからつい」
「ちょっと寝る?少ししたらおこ」

 治は彼女の腕を引いて、自分の腕の中へ閉じ込める。自分の腕の中の、ぬくもりに治は息を吸って、吐く。ごめんな、と内心謝りつつ、治は彼女の髪を結んでいるゴムに手をかける。しゅるり、と呆気なく髪はぱらぱらと広がって、治は彼女の髪に顔を埋めて、思い切り息を吸う。彼女はあまりに治が自然に自分に触れてくるものだから、抵抗する余裕もなかった。ただ自分の匂いをかかれて、冷静でいられるわけないわけで、彼女は治の胸板を押して離れようとするが、びくともしない。

「名前」
「治くんちょっと」
「あかん」
「え」
「たってもうた」
「……エッ」

 治のまさかの言葉に、彼女は固まってしまう。彼女は自分のことを魅力的な女の子です!と自負できるほど、自信はない。ただ目の前の男は、貴方でぬいてから変なんです、と告白してきたのである。あまりにも、治が優しくて甘いから忘れそうになるが、そうだ。そう、そう、治くんって、ふつうに、私のこと、そういう目で見てるんだよね。ばかー!私の、ばかー!そんな男の子を部屋に呼んだ後の、展開くらい分かるじゃん。いや、嫌なとかじゃ、ない、ないよ?治くんのことは好き、好きだけど、そういうことするのはまだ早いって言うか、もうちょっと、今の距離を楽しみたいというか!

 あかんわ。名前の匂いあかんわ。なんか甘いんやけど、たぶん、名前独特の匂いもそれに混ざった感じが、腰にくる。

「あの、……」
「名前」
「は、はい」
「キスしたいんやけど」
「えっ」

 彼女は治の胸板に掴まって、首を横に振る。最後までは無理でも、キスくらいはと虫のいいコトを考えていた治はショックを受ける。甘えるように彼女の耳の裏を指先でいじって、そのまま輪郭をなぞった。彼女はくすぐったい刺激に耐えながら、治の胸板に顔を押し付ける。やだやだ。

「え、あかんの?」
「……き、きすだけで、おわる?」
「おわる」
「……」

 本当だな?その言葉?

 下から見上げる彼女の目はそう言っている。

「ほんま」
「あ」

 抵抗なんて、最初から形だけで、治に唇を奪われたら抗う術もなくて。治は彼女が逃げない様に後頭部を押さえて、ちゅ、ちゅ、と何度も唇を重ねる。本当は舌を突っ込んでやりたいが、さすがにそれは可哀想だと思ったのだ。

「ん、んうっ」
「……名前?」

 彼女が眉を顰めて、何かを喋ろうとするので、治は少しだけ口を離す。至近距離の治の破壊力になれないなぁ、と彼女はやっぱり視線を逸らしてしまう。

「ちょっと、今日は」
「うん?」
「もう、キスは」
「するの、いやなん?」
「……いや、とかじゃなくて、えっと」
「……」
「いっぱいです」
「いっぱいですって、そんなお腹いっぱいみたいに言われても」
「だ、だって、そうなんだもん、仕方ないんですよぉ」

 彼女の口調が崩れて、治は少しだけ目を見開いた。気になって、彼女の顔を見ようとするが、彼女はずるずる〜と下に逃げて、治の胸に顔を押し付ける。

「なんでも、摂取量には適量があると思うんですよ」
「キスに適量もクソもないやろ?」
「あるんです、個人差あるんです」

 彼女のナゾな口調に、まだ満腹でない治は彼女の耳に指を伸ばす。長い指先が器用に、彼女の耳の裏をくすぐる。彼女は治のジャージをぎゅう、と皺になるまで握って、治からの刺激に耐える。

「おさむくん、これやだッ」
「名前がちゅーさしてくれへんから」
「だ、だって、もう、今日はいっぱい、だから」
「……せめて、名前の顔ぐらい見せてほしいわ」

 その言葉に、彼女の肩がぴくっと揺れて、そろりと治を見上げる。困ったように眉を下げて、可哀想なほど頬を赤くしている彼女の顔を見て、反省した。本当にいっぱいいっぱいだと、顔をに書いてある。

「名前がかわええから、つい欲張ってしもうた。ごめんな」
「う、ううん、また、しよう?」
「うん。今度はもっといっぱいしてもええ?」
「ぜ、善処します」 

 彼女はぎくり、と肩を大きく揺らしながら、頷いた。名前は自分の感情、全部肩だけで表せそうやなぁ。

「名前」
「?」

 彼女は静かな声で治に呼ばれて、ちゃんと顔を上げる。治は彼女の腰に触れて、ぐいっと自分と同じ目線になるように彼女を上へと引き上げる。彼女は上布団がぐしゃぐしゃになる気配を察知しながら、されるがままだった。治と彼女はまるで小さい子のように向き合って、じっと見つめ合う。治くんのこと、見上げないって変な感じ。近いなぁ、恥ずかしい。彼女は視線をそっと逸らすと、頬にチクチクと視線が突き刺さった。

「……俺欲張りやなぁ」
「きゅ、急にどうしたの」
「俺名前のこと好き」
「……」

 唐突な治の愛の言葉に彼女は衝撃を受けながら、視線を逸らしながら、「私も好きだよ」とだんだんと小さくなっていく声で応える。最後ら辺はごにょごにょし過ぎて、聞こえたかどうかも正直怪しい。治はそんな彼女の頭を撫でながら、そのまま瞼へ唇を近づける。反射的に、彼女は目を瞑って、治の唇を受け入れた。

 彼女のことが好きだ。好きだから、彼女の気持ちを大切にしたい。好きだから、彼女の心にも、身体にももっと近づきたい。同じように見えて、相反する欲求がいつも治を葛藤させる。分かっている。彼女よりも、自分の気持ちが大きくて、重いのだと。彼女は今の距離に満足しているし、治が求めれば応えようとしてくれる。そこに不満はないはずなのに、彼女のペースを大事にしようと思うのに、彼女を目の前にすると、全てが無になるのだ。自分の欲求が大きくなって、ストレートにぶつけたくなる。

「なんでやろ。名前の前やと、我慢できへん」
「な、なにがですか?」
「名前とき」
「ま、まって、な、んとなく、わかった」

 彼女は治の口をおさえて、告白のときに言われた治の言葉を思い出す。

「名前が聞いた癖に」
「ご、ごめん。でも、言葉にされるのはちょっと……」

 むう、と不満気にする治に彼女は少しだけ罪悪感を抱いて、自分から治にキスをした。それは小鳥のついばみのようで、感じる熱は一瞬だけだった。

「……」
「……」

 治は自分の唇に指先で触れて、呆然として彼女を見つめる。今起こった出来事が理解できなかったらしい。

「お、おさむ、くん?」
「……え、な、なに?」
「や、やだった、かな」

 彼女は少しだけ不安に瞳を揺らして、反応がない治を見つめる。治はつい視線を逸らしてしまう。治は初めての、感覚に戸惑っていた。心臓がきゅーっとなって、苦しい。苦しいけど、嬉しい。嬉しいけど、苦しい。そして、腹の底がぽかぽかと温かくなってきた。胸やけではないけれど、いっぱいになる、感じがする。名前からキスしてくれたの、初めてや。そのことに気付いて、治は自分の本当の気持ちが分かった。ああ、俺は名前と気持ちの差があること、それが嫌だったし、寂しかった。だから、いっぱい名前に触れて、そのいやな隙間を埋めようとしたんや。でも、埋めようとすればするほど、名前との気持ちの差が余計に感じで、……悪循環や。

「なった」
「治くん?」
「いっぱいになったわ」
「……え」
「これかぁ、確かにいっぱいやなぁ」
「わ、わかる?心臓がね、苦しくて、嫌じゃないんだけど、これ以上いっぱいになったら、どうなっちゃうんだろうってなる、感じ!」
「うん」

 そんな治の気持ちも知らない彼女は自分の感情が共有できることが嬉しいのか。興奮した様子で、治に問いかける。治は大人しく頷きながら、これ以上いっぱいになった先は、セックスに決まっとるやろと言いそうになって、口を閉じる。それではただの本能丸出しの最低野郎である。

「治くん」
「うん?」
「その、き、キスとか、そういうの以外で私にできることって、あるかなぁ?」
「……いきなり、どうしたん」
「え、えっと、……わたし、治くんと付き合ってから、いつも治くんに任せっきりで。それで、いいのかなって、思ってて」
「……もしかして、今日それで誘ってくれたん?」
「う、ん。でも、治くんにぎゅって、して欲しいっていう、下心は、ありました」

 彼女の言葉に、治の心臓は見事に射貫かれ、治は彼女の要望通りぎゅう、と彼女を抱き締めた。少し苦しいくらいの、力に彼女の胸はきゅん、となりながら、欲しかった温もりをもっと感じたくて、彼女も治の背中に腕を回した。

「名前も俺のこと、考えてくれてたんや」
「か、考えるよ!」
「いつも俺から目を逸らすもん」
「そ、それは……治くんの、好きな子が、私ってことが、なんか」
「イヤ?」
「違うよ!……嬉しいけど、恥ずかしくて」
「恥ずかしいだけ?」
「うん……もうちょっと、時間ください」
「そうやなぁ。今日は名前からお家に誘ってくれたり、キスもしてくれたもんなぁ」
「……言葉にしないでください」

 恥ずかしくて、照れくさくて、自分の腕の中で小さくなる彼女には治はもう一度、ぎゅうと抱き締める。たまには、このくらいでいいか。腹八分目も、大切だ。そんなことを思いながら、治は満腹のような、かわいい彼女の姿を見て別腹が欲しくなりそうな、自分の気持ちの揺らぎを感じていた。
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