波紋 | ナノ




 夕陽が遠くの地平線へ沈んでいくのをじっと眺めながら、時計の針が動く音に耳をすませてみる。家の中はとても静かだ。まるでこの空間だけ世界から隔絶されてしまったかのように。
 陽毬は数時間前まで三号と一緒に庭に何かの種を植えたりして楽しそうに遊んでいたが、疲れてしまったのだろう、今は自室のベッドで眠りについている。人形のように愛らしいその姿を想像して僕は息を吐き出し、妹がまだ小さな心臓の動きを止めないでいてくれていることに今さらながら安堵しているのだ。あのわけのわからない帽子がいうピングドラムとやらは残念なことにまだ手に入れられていない。だから本当は一時たりとも気を緩めてなどいられないのに、陽毬が僕の隣で花のような笑顔を振りまいてくれる、たったそれだけで心の中が暖かいもので満たされていってしまう。
 妹は、僕の、僕たちのすべてだ。陽毬のために、その言葉を脳に焼きつけて毎日を生きていかなければならない。努力を惜しんではならない。失敗を恐れてはならない。しかしここのところ、そうやって気を張り詰めていたせいか、何だか疲労が溜まってきたような気もする。たまには休息も必要なのかもしれない。
 とは思いつつも台所に立ち、家族のために夕飯の支度をするあたり、すっかり主夫業が板についてしまった感じで何だか複雑な気持ちだ。家事は嫌いじゃないし、最近では陽毬もすすんで手伝うようになったから別にいいんだけど。問題は兄貴の方だ。学校ではあまり話さないし、登下校もバラバラだから何をしているかなんて知らないが、どうせ女の子とそこらをほっつき歩いているんだろう。帰りが遅い日はいつもそうだ。こっちは夕飯を用意してるんだから連絡くらいよこしてくれないと困るっていうのに。
 ぶつぶつとひとり、心の声を口に出しながら鍋にお湯を沸かしていたところで突然背後から肩を抱かれ、僕の心臓はひっ、と悲鳴を上げた。

「なに、俺の悪口? そういうのは本人がいないところで言えよな」
「びっ、びっくりした……! 帰ってきたんならただいまの一言くらい」
「言ったんだけど。お前、文句言うのに必死で気づかなかったんじゃねえの」

 にやにやと意地の悪い笑い方をしながら顔を近づけて自信たっぷりに言う兄貴の、こういうところが僕は苦手だ。そもそも僕らは双子だというのに容姿も性格もほとんど似たところがないし、理解が及ばない点だってそれはたくさんある。べたべたと構わず触ってくるのも、普段彼女にするような、そういう手つきだから、何というか。僕が弟だということをきちんと認識しているのかたまにわからなくなる。さっきより顔、近くなってるし。
 料理の邪魔だから向こうへ行けと軽く押しやると、たまには兄弟のスキンシップも必要だろと負けずに接近してくる。一体何がしたいんだよ。僕の顔に注がれた兄貴の視線に思わず頬が熱くなる。断じて意識しているわけじゃない。ただ、弟の僕が言うのも何だが、それなりに顔も整っていて、いちいち思わせぶりに熱を込めた言葉を吐く兄貴に、周囲の女の子が騒ぐのも無理はないような、そんな気がしてくるのだ。いや、だから僕は兄貴の彼女とは違うんだけど。
 やめろって、先ほどより強めに押し返そうとして、ぱくり、耳朶を甘噛みされたのに思わず背筋がぴんと張る。スキンシップのレベルなんてとっくに超えてるだろ、これ。もがこうとして、両腕でしっかりと身体を固められているのに今さら気づいた。何だよ、誰かと勘違いしてるのか。肌に歯が当たって、生暖かい舌がべろりと舐めて、思わず泣きそうになる。兄貴、力なく呼ぶ声も聞き入れてはもらえない。全身の力が抜けていく僕を見てコンロの火を片手で消し、そのまま掌を頬に添える。あ、何となく予感してぎゅっと目を瞑った。どうして。どうして僕は今、兄貴にキスなんてされてるのか、全然、まったく、理解できるはずもなかった。

「晶馬、」
「な、んだよ、なにすんだよ、バカ兄貴!」
「名前で呼べよ」
「はぁ……っ?」
「呼ばないとやめてやんねえから」

 一瞬解放された唇も再び塞がれて何も言えなくなる。名前呼べなんて、そんなこと言っといてキスとか、こいつはふざけてるのか。反論してやりたいのにもごもごと口を動かしても離してはくれないし、もう嫌だ。さすがに腹が立って無理矢理差し入れてきた舌に軽く歯を立てると、いてっ、呟いて距離をとった。ざまあみろ。ふんと勝ち誇ったように鼻で笑うも、ぜえぜえ肩で息をしているのだから何とも情けない。俺と同い年のくせに、こんな、大人みたいな。ずるいし悔しい。
 一発殴ってやろうかとも思ったがあまり騒いで陽毬を起こしてしまうわけにはいかないし、しかもこんな涙目で顔を紅潮させた姿など見られたくはなかったので、黙って睨みつけるだけにした。舌を噛まれた兄貴はといえば、それでもたいしたダメージを負ってはいないようで、俺にキスされて噛みついてきた女なんて今までいなかった、とか何とかどうでもいいことをぼやいている。その言い方だとまるで僕が女の子だと言われているみたいで腑に落ちない。あんなに白くて柔らかくてきらきらしてかわいいものと一緒にされてはあちらが可哀想だろう。というより僕はれっきとした男なんだからそんな扱い、願い下げだ。威嚇するような視線を向けていると、兄貴はにっと口角を上げ、さもおかしそうに笑う。バカにされているのだと思った。

「はは、猫みたいだな」
「っ……からかってんの?」
「いや。でも気をつけろよ。ぼーっとしてるといつか食われちまうかも」
「誰にだよ!」
「さあ」

 そうして何事もなかったかのように、腹減った、早く夕飯作ってくれよ、なんて言われたものだからもう呆れて何も言えなくなってしまう。王様にでもなったつもりか。偉そうに。こうなったら兄貴のおかずだけ減らしてやる。むしゃくしゃして再びコンロに火をつけた僕の後ろで、冠葉がどんな顔をしていたかなんて、知るよしもなかった。



(110719)





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