ここにいてよ | ナノ




 彼の背中は広い。身長も肩幅もたいして変わらないはずなのに、なぜだか一回り大きく見えてしまうのは俺自身がまだ未熟だからなのかもしれない。同じプロとはいえ、俺と持田さんではあまりにもおかれている立場が違うし、背負う覚悟だって。
 監督に期待されているのにこんなことを言えるはずもなくて小さく溜息をつくと、軽く額を小突かれる。変な顔してる、そう言っておかしそうに笑う持田さんにまた俺はどうしたらいいかわからなくなる。
 どうしていつも前を向いていられるんだろうとか、自信をなくしたりしないんだろうかとか、いろいろ考えてやっぱり聞けなくて押し黙る。悩みのひとつやふたつあってもおかしくないはずなのに、なぜだか彼にはそんなものも吹き飛ばしてしまえるほどの力があるような気がした。

「どしたの、元気ないじゃん」

 うじうじと項垂れていると腕を強く引かれ、すっぽりとその胸の中におさめられる。持田さんの少し低い体温が心地よくて、ほう、息を吐き出した。強引で、乱暴で、わがままで、俺のいうことなんて何ひとつ聞き入れてくれない人だけれど、本当はいつも心配して気遣ってくれるやさしい人なんだって、わかっている。だからこそ俺なんかが傍にいていいのか、ときどき妙に不安になって、心が押し潰されそうになって。
 シャツの裾を皺ができるほど強く握りしめ、縋りついてもまだ。途端にゆるゆると力が抜けていく。俺は、きっとだめだ。迷惑ばかりかけて、何も与えることなんてできない。持田さんは俺の支えになってくれているけれど、俺じゃあ持田さんの支えになんてなれない。それがつらくて、怖くて、目頭が熱くなって、ぱっと手を離した。

「逃げないでよ」
「あ、う、いや、です」
「俺に逆らうんだ? 椿のくせに。悪い子」

 震える掌をそっと包まれて少し安堵する。それでも視線が合わせられなくて俯いてがちがちと歯を鳴らしているだけの俺に心底呆れたような、そんな息を吐き出して、ほらやっぱりだめだ、涙腺が緩むのを頭のどこかで感じながら、指先に唇で触れられたのに反射的に顔を上げた。そこから熱が広がって全身を蝕んでいく。気づけば目の前に持田さんの顔があって、呼吸をする間もなく熱を帯びたそれが触れて。

「逃げられるなんて思うなよ」
「……っ」
「必要か必要じゃないかは俺が決める。王様の命令は絶対。わかった?」

 首を縦に振らないと殺すとでも言わんばかりのぎらつく瞳に必死で頷き、最初から俺に選択肢などなかったのだとそこでようやく気づいた。本当に俺はだめな犬だ。主人から尻尾を巻いて逃げようだなんて考えるだけ無駄なことだったのだから。



(110530)





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